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2011/06/10

ところが、このことがニュースになっていない

東京が高濃度の汚染地区になって来たことが確定して来たようだ。特に東部が危険とのことだ。

http://mykeita.blog59.fc2.com/blog-entry-1447.html

http://biotoushi.seesaa.net/article/201249007.html

ところが、このことがニュースになっていない。
私は、義父からこのことを知らされてネットで検索したら上記のブログを発見した。
AKBなんか報道するよりも、こちらだろ。

関西に住んでいる私がこんなことを書くのは、どこかで憚れる思いもあるのだが、後になってそうだったんだということになるのもまずい。判断はブログを読む皆さんにお任せするとして、情報はあげることにする。

一方、郡山の小学校ではこんなことまでしている。

http://www2.schoolweb.ne.jp/swas/index.phpid=0710015&frame=weblog&type=1&column_id=314087&category_id=8761

その結果が

http://www2.schoolweb.ne.jp/weblog/data/0710015/e/a/667258.pdf

である。
子どもたちを守る為に、先生たちはここまでしている。いや、させられている。先生たちは、子どもたちに学力を付けるのが仕事である。大人に育てるのが仕事である。

それぞれの人がそれぞれの場所で必死にやるしかないとは思うのだが、ここまでとも思うのだ。

頑張れ、橘小学校。

2011/06/09

今まで常識と思っていたことが

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運動では、うさぎ跳びが否定されてどのぐらいになるだろうか。練習中に水を飲んではいけないというのが否定されてどのぐらいになるだろうか。私が子どもの頃は、うさぎ跳びや水を飲まないで運動というのは「常識」であった。しかし、いまこんな授業やクラブをやる先生はいない。

運動系はきちんと計測して体のデータを取って、科学的に効率よく体を動かすことを追求してきていると思える。だから、こうして常識だったこともあっさりと覆るのだろう。では、通常の授業ではどうだろうか?

私がいま教育で疑っていることは記録に関してのことである。二つある。一つは、ノートに関してである。通常、高校まではノートは教科ごとに分けて取るようにという指導を受けるだろう。その理由は、教科ごとに分けてノートを取った方が頭の中で整理されやすいということである。

私もこのように指導してきた。教科ごとにノートを分けること。その方が良く理解できると。しかし、本当なのだろうか? つまり、一冊のノートに時系列で何でも書くのと、教科ごとに分けて書くので本当に学習に違いがあるのだろうか?分けた方がいいのだろうか?

実を言うと大学の一回生には、「ノートは一冊にする。なんでもそこに書く」ということを勧めている。時系列で何でも書いてある方が、頭には入りやすいし、記憶を呼び出しやすいと思うのである。ではなんで、学校は教科ごとだったのか? 

この理由は二つ考えられる。a.ノート点検のため。b.一冊だと、その一冊をなくしたら全教科の記録が無くなるから。a.一冊だと、ノート点検をしているときに他の授業で使えなくなる。だからだ。つまり、先生のためということになる。b.これは私にはよく分かる。なくすと困る。

大学生になれば、ノート提出もなくなる。あっても、コピーを出せばよい。なくす人も少なくなるだろう。そうであれば、ノートは一冊の方がかなり良い。ところが、このことが分からないで高校生までの惰性で行く学生が多い。いや社会人でも多い。

おそらくiCloudなどが普及すると、タブレット一つにだーっと書くだけ書き続けることが普通になるのかもしれない。その過渡期ではあるが、ノートは一冊というのが、いまの常識としていいのではないかと思うのである。

今ひとつ疑っていることは、教室の板書である。綺麗に構造化された板書は見ていて気持ちがよい。そして、それは子どもたちの頭の中に綺麗に収まって行くと思われている。子どもたちも、その綺麗な黒板を綺麗にノートに書き写すことで「満足」している。

私はこの綺麗に構造化された黒板に、罠が潜んでいると考えている。綺麗に構造化された黒板。構造化するのは誰か? そうである。教師である。教師は教材を理解し、授業のために構造化する。その通りである。だが、ちょっと待て。これで子どもたちに力はついているのか?

教師の仕事が子どもたちに力を育てることだとすれば、構造化された黒板を綺麗に書き写すことを指導しても、力はつかないのではないかと思うのである。教師はプレーンに話し、それを子どもたちが自らの力で構造化した「板書」に仕上げて行くこと(実際はノートに)が、大事だろう。

それをする中で、子どもたちは構造化するということを学習して行く。綺麗に書き写すだけでは、その構造化するための力は育たない、育ちにくいのではないかと思うのだ。授業を使って教師が力をつけてどうする。子どもに力をつけなければならない。

社会の変化、環境の変化に伴って、子どもに付けようとする力も変わる部分がある。そうだとすれば、教育も変わって行く。今まで常識と思っていたことが、常識ではなくなって行くこともあるだろう。それを見極めて指導を考えたいと思うのである。

2011/06/07

週末東京に行っていた

6/7

週末東京に行っていた。

震災以降初めて行った。去年から関わっている番組の制作打ち合わせが日曜日にあるので、土曜日から行ったのだ。久し振りに髪を切ってさっぱり。実家に立ち寄ろうと思ったら、
「1時間ぐらいのためにくることないよ。忙しいんだろ。気持ちだけでいいよ」
と親。18:30に都内に行かなければならないことになっていたので確かに忙しかったのだが、顔を出さないのもなあと思って電話をしたのだが、そういう返事であった。ま、来月は一泊するのでそのときに話をしましょうか。

土曜日の夜は、一人の予定だったのでどこで食事をしようかと思っていた。そんな所、20年前のオフロードバイク仲間のMLで久しぶりに会わないか?という話題になっていたので、
「土曜日東京に行きます」
と書いたら、これが早速7人も集まったのであった。

私がお忍びで使う店にご案内し、久闊を叙したのであった。20年前に毎週のように野山を駆け巡り、キャンプを楽しんだ仲間は、それぞれそれなりに年を取ったのだが、一瞬にしてあの頃に戻るのであった。

美味しい食事、仲間との語らい。
良い時間だったなあ。

日曜日は、いつもよりも短くて9時間の会議であった。三ヶ月に一回ぐらい、あれこれあれこれ企画に関わってアイディアを出し、煮詰め、方針を立てる。知的体力を要求される会議だ。だが、この会議で出たあれこれが、実際の番組になることの喜びは、なかなかのもの。

あの会議のあの一言が、こういう感じで表現されるのかと実に面白いである。

会議後、会議参加者とスタッフと一緒に食事。
突き出しがバーニャカウダーというなかなかいい感じのお店。
お腹いっぱい食べました。

その後、ホテルに戻って私の人生を変えるかもしれない大きな話について、あれこれアドヴァイスをもらう。そうか、そうか。うーむ、そうか。挑戦しよう。

翌日は9時台の新幹線で、一路京都に向かう。3限は13:00からスタート。東京から京都へ新幹線通勤をするなんてことが俺の人生に用意されていたなんて、実に人生は面白いものである。

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