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2011/10/07

社会のサードギアぐらいにいるのかなと思う

10/7

若い友人のY君が、スティーブ・ジョブズがなくなったことに関して、
「時代を作った方が表舞台を去り、バトンを受け取っている自分たちの世代の出番だと感じることが増えてきました。」
と書いている。

分かるなあと思う。

私は自分が30歳ぐらいになったときにこれを感じた。誰かが死んだということではなく、自分が社会を動かしていくギヤのセカンドギアのポジションになったんだなと感じた。こんなことがあった。

CMに使われている音楽が、自分の好みの曲や、これは結構マニアな人でないと知らない曲だぞという曲になっていったのを感じたのだ。CMに使われる曲は、分析してみると面白い。売ろうとする対象に応じた曲になっている。有名なのは、車のCMの曲だ。クラウン(最近はクラウンのCMは、流れていないが。クラウンの購入層はTVを見ないということらしい)とカローラ2では、違っていたわけである。で、違っていて良いのだが、違っているその曲が使われていることに驚きを感じるようになったのが、30歳の頃だ。

なんでだろうと思った。最初は、もう音楽の順列組み合わせがなくなったので、最近流行った曲を使うようになったのかなあと思った。しかし、考え直した。そうなのである。その曲を選ぶ決定権を持つ人間が、私と同じ世代になったのだと考えるようになった。そしてそれは正しいようであった。

もう一つ。私にとっては全国教室ディベート連盟(NADE)である。いや、これが設立される前の、教室ディベート研究会である。当時も教育業界には今のような閉塞感があった。だが、この研究会の設立に参加することになり、第一回の研究会でモデルディベートを担当する等、いきなり最先頭集団にいるようになってしまった。

あの時は、なんというか
(ああ、明治維新ってのはこんな風な感じだったのかもしれないな)
と思えたのだ。
(俺たちが、突っ走れば良いんだ。俺たちが突っ走ることが、日本の教育に風穴をあけることになるかもしれない)
と思えたのだ。
それが、30歳の頃だ。

いま、改めてなんとなく考えてみると、社会のサードギアぐらいにいるのかなと思う。私はバトンを受け取るという感覚もあるが、実はラグビーの方が感覚としてはしっくりくる。

先達から受け取った楕円のボールを抱えて前に進む。自分のできるギリギリのところまで前に進んで、その後、そのボールは後ろから走ってくる若者に託す。後ろに投げる。教師の仕事はこのラグビーそのものだと思っているのだが、人が生きていくということもまさにこれなんだろうなあと、最近強く思う。

勿論、もう少し前に進もうと思う。いや、まだまだ前に進もうと思う。
私が先達から受け取ったそのボールをもう少し前に運ぼうと思う。

ただ、その時が来たら後ろから走ってくる若い仲間に、パスをしたいと思う。スティーブ・ジョブズのとんでもない前進と、とんでもない価値のボールは無理だが、私にしかできない前進と私にしか作り出せない価値のボールもあるはず。そこに進もう。

Y君の文章に触発されて。

『武器としての決断思考』(星海社)を読み終える

10/7

瀧本哲史さんの『武器としての決断思考』(星海社)を読み終える。直ぐに、来年度のディベートの授業の副読本として使うことに決定。本書はディベート甲子園を目指す中学生から、大学生まで幅広く読まれるべき本であろう。ディベート思考に基づいて決断へのプロセスを論じている。

しかし、本当は中学生の特別活動のテキストとして読ませたい、と思ったのである。特別活動とは、学校行事のことと思われるが、実はその中身は結構多岐なのである。その一つに「進路指導」というものがある。学習指導要領には「学業生活の充実,将来の生き方と進路の適切な選択に関すること。」とある。

間違えてはいけない。進学指導ではない、進路指導である。本文には、さらに「主体的な進路の選択と将来設計など」とある。私は、国語科でディベートの指導をしながら、常にここのことを意識していた。卒業後の進路選択の際、自分で仕事や学校を比較して決断させたいと思ったのだ。

『大事なことを決めるときは、資料を集め、じっくり考え、一人で決めることだぞ』と中学生に話していた。じっくり考えの、考え方をディベートで身につけさせようとしていたのだ。本書は、ディベート思考を通して決断とは何かを具体的に好書である。私なら中学校2年生の課題図書にするなあ。

義務教育段階で、どうやって生きていくのか、その為にどう考えていけば良いのかということを教わることもなく社会に放り出され、(え?)と思ったら、「自己責任です」と結果だけ背負わされる。そんな社会になってしまっている。学習者としても、指導者としてもそんなんじゃあ駄目だと思う方には『武器としての決断思考』(星海社)をお勧めしたい。

2011/10/06

Stay hungry、Stay foolish.

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10/6

書道をやっている私が、こうしてMacを友にすることなんて教師になった頃には考えもしなかった。教師になった時、20人の職員室でワープロを使えた人は私ともう一人。Rupoの世界であった。

当時清書マシーンと思われていたワープロ。
「池田さんは、字が書けるのになんでワープロを使うの?」
文章を書くための道具とは思われていなかったのだ。

PC98にするかMacにするか。最初のコンピュータを選ぶ時は相当考えた。PC98を使っている人の話を聞いて頭の中がPC98だらけになり、そしてMacを使っている義父に話を聞いて頭の中はMacだらけになり。これを繰り返して、最終的には仕事でありとあらゆるコンピュータを触ってきた義父が、その中で選んだMacにしたのが始まり。

私のMacはカラークラッシック2、カラクラ2から始まった。

今はMacBookAir。持ち運んでいるのも忘れてしまうぐらいの軽さだ。私は実は家と職員室とカラクラ2を持ち歩いていたのだ。分かる人には分かるが、小さなテレビを持ち歩くのと変わらないぐらいのことをしていた。だって、それはそれは魅力的なものだったからだ。

Macはコンピュータではなく、電子文房具だと思っていた。Macでは、思考の自転車という言い方をしていた。自転車は、その人の運動能力を4倍に高めてくれるというのだ。Macはその人の思考力を4倍に高めてくれるというのだ。実に分かりやすいたとえだと思ったものだ。

あれから、カラクラ2、PowerBook150、PowerBookcs,
1400c,ibook,MacBook Pro15,iMac21,iMac27,MacBookAir2、MacBookAir3と手にし続けてきた。iPodもシャッフルを手にしてから、iPod touch2、iPod touch3、さらにAppleTV,iPad2、iPhone4と。

改めて書き出してみると、凄いな。
なんかここだけ書くと単なる物欲君のように見えるが、購入の際は新しい機種が出た時に、現行機種が一気に安くなるそのタイミングで買っているものばかりなのだ。新品でその時の一番いいのを手に入れたのは、大学に移ってからMacBook Proからだ。

原稿と写真と音楽。ネットとメール。私の使い道はほとんどそれだけ。だけど、Macのお陰で本当に気持ちよく毎日を送ることができている。世界の幸せに大きな貢献をしているのがMacというのを多くの人が認めるだろう。

そのMacを作ったジョブズが亡くなられた。早すぎる。
だが、その精神はしばらくは受け継がれて行くだろう。
そうでなけば、世界中のMacファンは悲しむ。

Macだけでなく、こんなすばらしいスピーチをも我々に残してくれた彼に、心から感謝の気持ちをあらわしたいと思う。

Stay hungry、Stay foolish.

http://video.google.com/videoplay?docid=9132783120748987670

ありがとう。


2011/10/05

学級担任論ではこのことから授業をスタートしている

10/5

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今日の学級担任論では、春休みにする教員の仕事の説明から入る。小学校六年生を担当した先生が、四月から新五年生を担当するとして、春休みにどんな仕事をしているのかを考えさせて、解説する。

春休みは、ご案内の通り教員にとって一年間で一番忙しい時間である。今まで担当していた学年のまとめがあり、次に担当する学年の準備がある。これを一週間でしなければならない。

自分のクラスだけならまあまだいいが、学年のこと、学校のことをやっていくわけで、相当大変になる。今までの纏めは、ここをやっていかないと次の学年でクラスを分けるときに困る。また、一年間の方針を立てるということをやっていかなければ、四月からがスタートしない。

学生たちは、私が配った資料に愕然とする。
毎年、学級担任論で見られる光景である。

私の時代には、一年目の先生が学年主任なんて考えられない。
ところが、単級の学校だとこれがあるわけだ。
さらに、二年目から体育主任とかもあって、運動会の実施計画などを書かなければならない立場になることも、今はある。

目隠しをされて、走らされるのだ。
何をして良いのか分からない、どっちに向かって走っていいか分からないのに、走らされるのだ。一年目は、100走を目隠しをされて、毎日全力疾走させられている感覚だろう。

教師の仕事の特殊性は、ここにある。
一年目から一人で仕事を任される所にある。
私の時代は、まあ、若さだけで乗り切れたと思う。なぜなら、社会がこんなに混迷していないし、事務仕事量がこんなになかったからだ。しかし、いまはもう限界だろう。

社会から評価を受けている企業は、新人の研修に時間をかける傾向にあると思う。国家公務員のあるキャリアは、学部卒だと3年、院卒でも2年マンツーマンで指導を受けるとか。国内の世界的企業である家電メーカーは新卒一年目は研修だけだとか。しかし、教師は一年目から一人なのだ。

私個人は、一人であれこれやれたのが良かったと思っている。自分で考えることができたからだ。しかし、そんな私でもいまの時代に一人でやれと投げ出されたら、大変だろうなあと正直思う。一年目の先生、学級担任を取り巻く環境が、時代が大きく変わっている。

授業ができていないから子どもたちが荒れる。
確かにそれはあるだろう。
しかし、学級は生活集団と学習集団から成り立っている。もう少し言えば、生活集団の上に学習集団があるわけだ。

この生活集団を成立させなければ、学習集団は成立しない。
嘗ては、
「先生の言うことを良く聞いて、賢くなってきなさい」
と送り出してくれる親御さんに支えられて学校はあった。
しかし、いまはそんな家は少ないだろう。先生が、自ら先生の「偉さ」を証明し、子どもを児童の位置において、自分を先生と認めさせる過程が必要になってきている。

野中信行先生もよくおっしゃるが、実は授業はそんなに簡単にうまくはならない。勿論、最初からうまい先生もいるが、実際はなかなかうまくならない。3年、5年、10年と修行をしてうまくなって行くことが多い。この10年もの修行が許されるのは、学級が生活集団として成立しているときである。

私は学級が崩壊して先生を退職するという先生の話は聞いたことがあるが、授業がうまく行かなくて退職するという先生の話はあまりきかない。授業がうまく行かなというのは、実は学級が崩壊していることが多い。

学級をどう作って行くか。校務分掌をどう進めて行くか。その二つが、四月に一年目の先生の両肩にドシンとのしかかる。学級担任論ではこのことから授業をスタートしている。

2011/10/04

クローン人間の問題は、今ひとたび倫理の問題に焦点を当てる

10/4

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ノーベル賞が齎されるかと思いきや、残念であった。IPS細胞はもの凄いインパクトがあると思うのだが、今回は受賞することができなかった。光よりも速いスピードのニュートリノの存在や、アインシュタインのλ係数は本当だったとか、
(もうこれ以上そんなにびっくりするような発見はないんじゃないかなあ)
と思っていた20世紀の末だったが、なんのなんのビックリする発見が続く。

学生たちにこのノーベル賞のISP細胞の話をした。この細胞の衝撃は、クローン人間の誕生につながる可能性があるということである。
『で、クローン人間は賛成? 反対?』
と聞くと、賛成は1割にも満たない。

『では、クローン牛は?』
と聞くとこれは、5割ぐらいが賛成。
『では、なんで牛は良くて、人間は駄目?』
「いやあ、人の誕生は加工されるのはどうも」
『では、不妊治療はどうなる? いま、日本の夫婦の10組に1組は不妊に悩んでいて治療を受ける人もいるんだけど、これは? 君たちの可能性もあるし、君たちが出会う子どもたちの可能性もあるな』
「うーん.....」

『ちなみに、大学生で耳にピアスをしてもいいと思う諸君は?』
これは9割以上が賛成。
『では、こんなのは?』
と未来の話をする。
『「お母さん、一分間に1000字書ける右腕がコンビニで500円で売っているんだけど買っていいでしょ。テストのときに楽なんだもん」とあなたの中学生の娘に言われたらそれを許す?』
これは全員が反対。

『なんでなの?』
「どうも生理的に駄目です」
『そうでしょ。実は私は君たちが耳にピアスをするのをその生理的に駄目な感覚で見ているのだよ。ただ、これは時代の違いではないかと思う。だから、良い悪いではなく、時代や社会の許容範囲の問題だと思うのだ。ピアスぐらいという感覚は君たちは持っている。だが、右腕ぐらいという感覚はない訳だ。ピアスが駄目という人たちの感覚はわかったかね?』

ここで考えてみたかったことは、技術と倫理の問題である。
IPS細胞のおかげで、クローニン人間は技術的に可能な領域に入った。
今までは技術的に不可能であったので、クローン人間は賛成、反対?という議論も机上のものであった。しかし、技術的にできるようになった。

そうなると、倫理の問題である。
倫理は、技術的に可能になったことがらをやっていいのかわるいのか考えることと言うことができるかもしれない。人類が原子力手に入れたとき、これを使っていいのか悪いのかの議論があり、人類は使うことを選択した。

倫理、倫理観というのは、その人間の育つ環境によってかなり違う。だから、あるところでは駄目でも、あるところでは問題ないということがあり、さらに開発競争によって得られるメリットを考えると、やめることはなかったということであろう。これはクローン人間に関しても同じことが言えるだろう。

クローン人間の問題は、今ひとたび倫理の問題に焦点を当てる。
こういうことを一つ一つ丁寧に考えさせたい。
唯一絶対の正解を求める訳ではない。

自分の頭で考えること。
これをさせたい。


青の時代

ブログの写真は、青がベースのものが続いているのを発見。青の時代だ。

2011/10/03

教職総合演習の授業が面白い

10/2

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教職総合演習の授業が面白い。総合的な学習の時間と同じような展開で行っている。学生たちは、何となく教育に関するであろうと思った内容で自分たちで調べたいテーマを選ぶ。そのテーマについての問題、背景、解決への道筋を説明して行く。発表するのだ。

そして、必ず実習コーナーを取り入れることを指示している。例えば、食育をテーマにするのであれば、それに関する実習である。今までは、「どの清涼飲料水が一番多く砂糖が入っているか? 飲み比べ」「アレルゲンの大豆の無い醤油で作ったみたらし団子づくり」などである。

これは「ためしてガッテン」の番組の構成を参考に作らせている。私が番組づくりに関わるようになってさらに思うのだが、テレビ業界にはまだ天才が集まっている。特に、構成作家さんたちの仕事は凄いと思う。プロデューサーが方向を示し、ディレクターが現場の判断をするのだが、その土台となる脚本を作る。

私は内容に関わることが多いのだが、好き放題、思いついたアイディアをがんがん出して行くと、一つの構成された番組になって行くのを見ると本当に驚愕する。長寿番組は、この構成がしっかりしているものが多い。心地よい緊張と刺激が解決に修練されるように作られている。

だから、授業を作るときには『人気番組の構成を参考にせよ』と言っている。今回、学生たちが取り上げるテーマは、最近の子どもの名前、子どもの病気、食育など。どのテーマも面白そうだが、最近の子どもの名前というのは面白いなあと思う。私も興味がある。

学生たちは、最近の子どもの名前について参考図書を集めて勉強を始めている。その様子を聞いていてアドヴァウスをする。『そもそも、名前って何?』「え?」『あなたが持っている名前はいくつあるの?』「え?」『この現象は日本だけなの?』「え?」。

学生たちは資料を集めると、その資料中だけで議論を展開したくなる。だから、私の仕事はそもそも論と、外側の視点を与えること。勿論それを採択するかどうかは彼らの自由。だけど、広く視点をとり、深く見ることの両方を「考える」ために与えたい。発表が、楽しみ楽しみ。

今月の明日の教室は、藤川大祐先生だった

10/1

今月の明日の教室は、藤川大祐先生だった。
彼とはもう、20年ぐらい前からの付き合いになる。私がディベートを学ぼと思って出かけていった研究会で出会ったのが最初。それからあっという間の20年である。この間、藤川さんは教育、授業作りの最先端にいた。勿論、いまでもいる。
今回は、この30年間の授業のトレンドを語ってもらい、さらにいま実践されている授業作りについて、これからの授業について、あれこれ話してもらった。

私も教育学者の端くれなので、知っていることは知っているのだが、こんな風に整理して話してもらえるのは、実にありがたいことだと思った。藤川さんの凄いところは、きちんとわかりやすく伝えるだけでなく、その後にその情報をどーんと公開してしまうところにもある。

当日の資料がそのまま彼のブログにあるのだ。
すごいなあと思う。

懇親会は当初の予定を超えて大人数になった。
そして、懇親会はいままでに経験したことのない「事件」が起きたりもして、なかなか凄かったf(^^;。

翌日は東京の明日の教室だというのに、終電まで藤川さんを引きずり回してしまった。
いやあ、いい時間だった。若い教師の皆さんが、この研究会で出会い、20年後に再びこうして出会えるような関係を作ってくれたら嬉しいなあと思う、一日だった。

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