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2011/12/09

『奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち』を読み終える

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『奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち 伝説の灘高国語教師 橋本武の流儀』(伊藤氏高著 小学館)を読み終える。

すごい。
良い。
私は間違っていなかった。
このやろうやってやるぞ。

読後の感想である。

灘中学で『銀の匙』一冊を、三年間かけて読むという実践を30年間続けた先生の記録。
そして、その教え子達の記録である。

国語の教師に、広く読まれるべき本である。
国語の教師なら、橋本先生の国語の授業観を身に浴びるべきだ。

未読の方は、是非年末年始に読まれることをお勧めする。
授業がしたくてうずうずすることになるはずだ。

私はこの本を読みながら、授業の準備をもう一度やり直したくなってやってしまったり、
研究のアイディアがどわああああと浮かんで来たりで、もうとても幸せであった。

本当に、良かった。

2011/12/08

「神を降ろす」方法

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本日の卒論ゼミは、卒論提出の一週間前である。来週の今日のゼミは卒論を仕上げての振り返りの時間になる。5/6の学生が規定の2万字前後をクリアしているので、後はブラッシュアップをすれば良い所まで来た。1/6の学生は書くしか無い。まあ来年もあるが、後一週間で書くのが良い。

四回生が発表の資料の準備をする間に、三回生にあれこれ話した。「神を降ろす」方法である。良く「あ、文章の神様が降りてきた」のような言い方をするが、降りるのではなく、降ろす方法である。そんな方法はあるのか?と思うかもしれないが、私はあると考えている。百発百中ではなく、降ろす精度を高める方法である。

あなたが神様になったとしよう。(さて、今日はどこに降りようかな?)と思ったとしよう。あなたならどこに降りるだろうか? 私が神様だったら降りやすい所に降りる。具体的には、二つの場所を規準にする。a 高い所 b 広い所だ。

足をうっかり降ろしたら降りてしまうには、足の下が高いところにあることが大事。また、どこに行っても降りられるには広い場所が大事。ということは、高い興味知識と、広い興味知識を持っていることが、降りてきてもらう側の人間には必要になるということである。

また、アイディアが湧くという言い方がある。どこから湧くのか? 名著『ワープロ作文技術』(岩波新書)の著者の木村泉先生は、地底湖にいるお魚が表面に浮かんでくることをメタファとしてこれを見事に説明している。地底湖にいるお魚に針と連想の糸とをつけてしまうのだという。

とてもよく分かる。浮かんできたお魚がまた地底湖に沈んでしまう前に、メモを取りそこに針と糸をつけてしまうというのだ。(ああ、これはとても良いアイディアだから絶対に忘れないな)と思ってそのアイディアが消えてしまう経験を、多くの人がしていることだろう。それを回避するのだ。

ワープロで、テキストでだーっと書くことを勧められているのがこの本。しかし、今はもっと便利なものがある。マンダラートやマッピングやアウトラインプロセサーである。自分の好みに応じて、そのアイディアを思いつきのスピードでデジタルで記録することができる。

私は車で通勤しているので、車を運転しているときに思いつくことも多い。これは困る。メモが出来ないからだ。路肩に停めてメモすることもあるが、この路肩に停める時間が勿体ない。そこで、iPhoneのハンズフリーを使って、音声認識メールソフトに話しかけてしまうようにしている。こうすると、大学の駐車場に到着したときに、その音声がテキスト化されたものを私宛にメールすれば、研究室に到着したときにはそれが届いているという案配である。

神が降り、魚が浮かんでくるの、古来、馬上枕上厠上(ばじょう、ちんじょう、しじょう)の三上だと言われる。リラックスしてアルファ波が出ている時だとも言われている。つまりホゲーッと緩んでいる時である。そのときに、降りてきやすいように、浮かんできやすいようにする。そして、それをさっと掬い取って形にする方法を常備しておく。それが大事なんだと一年後の卒論に向かう三回生に話したのでした。

実は、これは今朝の私のあれこれを元に話したこと。
朝、風呂に入りながら本を読んでいたら、
(うわわわわああああああ!)
というぐらいに論文アイディアが降ったり、湧いたりした。そこで、読んでいる本にアイデアのキーワードをだーっと書き出した。本は、テキストのあるメモ帳である。

そして、風呂から上がって一気にTreeというアウトラインプロセッサに書き出した。論文の構成が二つ思いついたので、その二つに従って書き出した。書き出して時間を見ると、大学に行く時間。今日は実に京都大学名誉教授の森先生のお言葉が頭の中を駆け巡った。

「本日、頭脳明晰につき休講」

そんなことは、今の大学ではあり得ないと思うが、実に気持ちはこれだった。冷静になって考えようとしてもわき出してくるあれこれのアイディアをTreeに書いて、その一方で
(このアイディアはもう発見されてしまっているアイディアだろうか)
と思い、キーワードと思われる言葉でグーグルでチェックもする。どうやらそれに関する実践も、論文もなさそうなことを確認。

そして、関係するであろう論文や書籍をだーっっと検索。
必要な書籍は注文。
そのテンションで、卒論指導であった。

んでもって、教務の仕事をして、娘の子守りをしてとしながら体制を整えた。
ま、取りあえず最低限の手配はしたので、あとは書きまくることになる。
こういう瞬間はとても幸せなのではあるが、身体には悪い(^^)。

あとは、時間と精度の勝負だな。


指導をするということの根本は何なのかを理解すること

12/7

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本日の学級担任論は、掃除指導から教室美化についてあれこれ話す。掃除指導は、掃除を通して教室を綺麗にすることも大事な目的だが、掃除の活動を考えさせ、実際にやらせるなかで学級を育てることも大事な目的であることを話す。具体的には『掃除サボリの教育学』(家本芳郎著)のゴミ箱問題で。

家本先生の本書で、私は掃除指導のあれこれを学び実践してきた。だが、間違えてはいけないのは、やり方だけを学ぶことではない。その指導の根っこのところを身につけることだ。家本先生は、学級に問題があると先ず自分で実際に確認してみる。そして、問題の所在を子ども達としっかりと共有する。

例えば、ゴミ箱の中にあるゴミを捨てない、または他のクラスのゴミ箱に捨ててしまうという問題が発生した場合である。通常であれば、「こら、そんなことするな」で終わりにするだろう。しかし、先生はそうじゃない。実際にゴミ箱を持って学校の中のゴミ捨て場に捨てに行くのだ。

そうすることで、子ども達がこのゴミ捨ての仕事をさぼる理由を発見する。ゴミ箱が重いのだ。そこからあれこれ工夫する。これは実に面白い。これは読んでもらうのが一番である。大人の側からすると、サボるな!である。しかし、子どもの側に立ってみると、重たいのが大変だというのはよく分かる。

この子どもの側からこの事実を見たらどういうように見えるのか、という視点を持つことが極めて大事だと私は考えている。勿論、子どもの側から見て(これは我侭だな)とか(話にならない)ということもある。だが、先ずはどう見えるのかと見てみることが大事だと思うのだ。

私は、中学校の教師の頃にこの本を読んでそれを学んだ。指導というのは点ではなく、線なのだということも学んだ。一点を指導してもダメで、問題は流れの中に生まれるということをだ。ゴミ箱問題を読むとよく分かる。私はこのことから教室の美化の実践どう工夫したのかを話した。

学生たちは、結果だけを理解しようとする。これは、点だ。S.ジョブズのスタンフォードのスピーチであった点を繋ぐだ。この話にあるように、点を繋ぐことは大事だ。http://t.co/i9hwvgqL しかし、点を繋ぐことは難しい。だから、エピソードで説明していくことも大事。

エピソードで説明する時、点が線に結ばれて行くことが理解できる。ジョブズのように語れたかどうかは別にして、意図はそこにある。学生諸君が、現場に出たときに家本先生と私がやった指導のレベルから始めれば良い。それが学習した人のいい所だ。だが、大事なのはそこだけではない。

指導をするということの根本は何なのかを理解することである。今日のテーマは掃除指導と教室美化だったが、その事を通して、担任がクラスを指導することの根っこの部分を理解させたいというのが今日の授業のテーマだったのだ。そのことを話しておしまいにした。来週は「忘れ物」指導である。


2011/12/05

正しい奢られ方

12/5

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マンダラートの開発者の今泉浩晃先生とフェイスブックで話をした。今泉先生には、マンダラートを「イメージの花火」として私が改良開発したことを快く許して下さっている。そのご縁で友だちになっていただいている。

先生は、お金の事を書かれていた。
お金については、私も気になることがある。それは、いま教育ではお金は、稼ぐことの話ばかりしているように思えるのだ。

日本は、お金事をあれこれ言うのは、みっともないことであり、子どもの前でする話ではないという文化があったはずなのに。今はそれはどこかに行ってしまっている。現金を手渡す時は袋に入れて渡すというのは、流石にまだ残っているが、人前で何が幾らだという話をすることに躊躇うことは随分無くなったように思う。寧ろ、それが幾らなのかを語らないと話が通じないようになっている感すらある。

で、まあ、時代の流れで仕方が無いというのであれば、どうせお金の話をするのであれば、もう少しバリエーション豊かにすればいいと思うのである。お金=稼ぐだけでは、良い大人になれない。お金の扱い方は、大人になるために大事な学習課題だと思うのだ。

使う、貯める、借りる、おごる、おごられる、貸す、投資、投機・・・個人に関わることだけでも学ぶことは沢山ある。

私は、大人になるってどういうことなのか、ということを教師になってからずっと考えている。そしてその授業を子ども達にやってきた。どうやら私たち子どもは大人にならざるを得ない。それならば、つまらない大人にはなりたくない。カッチョエー大人になりたい。では、つまらない大人とカッチョ良い大人の違いは何なのか?ということを授業でやって来た。その時のキーワードの一つがお金だったのだ。

なんというか、カッチョエー大人は綺麗に奢り、綺麗に奢られるというイメージがあった。山口瞳さんの『酒呑みの自己弁護』『新入社員諸君!』、遠藤周作さんの『我が青春に悔いあり』『狐狸庵閑話』などを読みながら、あれこれ考えていた。単に稼ぐとは違うなと考えていた。

ということで、私がたどり着いた正しい奢られ方は以下の通りである。

1)会計をする場所は見ない。
2)軽くお礼を言って、奢ってくれる人よりも、先に店を出る。
3)店を出てきたら、間髪を入れず大声でお礼を言う。
4)「まあ、まあ」とか言われたら、「またお願いします!」と間髪を入れずに言う。
5)翌日会ったら「昨日はごちそうさまでした」と言う。

こういうことを中学生に教えて良いのかどうか分かりませんが、教えていましたf(^^;。
こういうのって人生生きて行くための基礎だと思うのです。義務教育はその基礎を固めるとき。まあ、教科書には載らないし、道徳の教材にもなりませんが、今でも大事だと思っています。

お金を、使う、貯める、貸す、借りる、おごる、おごられる、投資、投機・・・。カッチョエー大人になるための、結構大きな学習課題だと思う。

2011/12/04

風呂に持っていって、一回湯船に浸すのだ

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(琵琶湖に上がった冬の花火)

読みたい本が溜まりすぎて困っているというか、嬉しいというか。一日に一冊レベルで読んでだとしても、相当溜まっている。本は、買う。私は基本的にはそうだ。借りる本では、書き込みが出来ない。本とは、テキストの書いてあるノートだという定義をかなり昔に読んだことがある。とても良くわかる。

私が中学生の頃は、赤と青の二色の鉛筆を持って読んでいた。賛成の所に赤の線。反対や疑問があるところには青の線を引きながら読んでいた。そして、青の線が多い本に価値があるというのを、確かムツゴロウさんか遠藤周作さんの本で読んでその通りにやっていた。

この二色の線を引くことが出来るようになると、著者と対話が出来るようになる。疑問や反論。さらには、この文章の先の論の展開の予測等を本の回りに書き込み始める。そうすると、これが実に楽しくなる。

トイレでも風呂でも枕元でも読む。それぞれに違う本を用意してあったり、時には一冊をずっと読み続けたり。この楽しみを知らないで人生を送るなんて、実に勿体ないなあと思い生徒達にも随分話してきた。本の世界に引きづりこんできた。

私が風呂で読むというと、「本は濡れないのですか?」と質問を受ける。『え、濡れますよ』と答えると、「いいんですか?」と聞かれる。私は『え、駄目なんですか?』と答えることになる。図書館の本でなければいいでしょ。

私は中学生の頃から、ムツゴロウさんの文庫本にハマっていた。『ムツゴロウの青春期』から始まってずっと読んだ。当時文庫本は半年に一冊のペースで出ていた。買うと一気に読みたいのだが、読んでしまうのは勿体ない。でも読みたい。どうしよう。そこで考えた。

風呂に持っていって、一回湯船に浸すのだ。そうすると、急いで捲ろうとしてもくっついてしまっていてなかなか捲れない。そーっと、「剥がし」ながら読んでいた。何回も湯船に浸して読んでいた。書き込みは鉛筆。濡れていても書ける。

親に呆れられたが、私はこの方法がベストだと思っていた。勿論、今でも。そうやってじっくりと読んでいた。風呂から出てゆっくり読めばいいように思うが、それは風呂読書を知らない人の言葉。あのそーっと捲るのがいいのだ。

だから、風呂で本を読む。濡れてシワシワになるというのは、私にとっては何も問題がない。寧ろ、買ったままでそのまま投げ捨てられている本よりも、全然大事に扱われている本だと思う。本は読まれてなんぼ。読み方はいろいろ、で良い。


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