これが「仏の顔も三度まで」の指導ではないか
「仏の顔も三度まで」
教育に関わると、この言葉はその実践の中で時々顔をもたげる。
(あ、いかんいかん。ここは怒ってはいかん。仏の顔も三度までだ。一回位で怒っては駄目だ)
のように思う。
しかし、これは違うのではないかと思うのである。
◆
私たちは子どもが一回悪さをしたとき、この諺の教えに従って我慢し、二回目も我慢し、三回目も我慢し、四回目で叱るというように考える。
叱る側は
(三回も我慢したんだからいいだろ)
と思って、四回目を強く叱る。
が、叱られる側から見るとどう見えるだろうか?
悪さをした子どもは
(う、やばい、叱られる)
と思っている。ところが、叱る側が三度までと我慢しているので叱られない。すると、
(ん? オッケーなのこれ?)
と思い、二回目、三回目と同じ悪さをする。そして、運命の四回目に叱り飛ばされるのである。
で、
(え、なんで? いままで許されていたじゃん。なんで急に怒るの?)
となるのである。
◆
私は、「仏の顔は、一回目から」を唱えている。
一回目に、駄目だと言えば良いのだ。それで子どもも分かる。
何も大きな声で怒鳴る必要も無い。駄目だと言えば良い。
いや、場合によっては
一回目は、これが駄目な事だと知っているか?と確認する。
二回目は、これが駄目な事だと教える。
三回目は、これが駄目な事だと教えたなと確認する。
そして、四回目に叱る。
これが「仏の顔も三度まで」の指導ではないかと思うのである。
« 2012年度 ディベート甲子園論題発表 | トップページ | 『大人の流儀』(伊集院静 講談社) »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント