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2012/05/31

入試の問題で正解を得るのとは、問題も正解も解法も違うのです

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(浜大津の花火 by GR4)

二回生ゼミが終了。この授業では、子どもが書いた詩を、テキスト論的な読解方法で読み進めることをしている。小学校の低学年の書いた詩。10行前後の詩をレポーターを決めて読み込ませている。これが面白いのである。

90分の授業のうち、私が10分位事務連絡や今週起きた教育関係の事件、ニュースについてなどあれこれ話した後、残りの時間を学生の発表者たちに任せる。当初一作品、一グループ40分程度の持ち時間で、90分の授業の中で二つの詩を扱う予定でいた。

ところが実際にやってみると、一つの作品で私の時間あとの70〜80分をまるまる使って議論をすることになっている。学生たちは、最初40分の発表なんて出来るのかと思っていたのだが、いざやってみると40分ではとても時間が足りなくなる。発表者も驚いている。

私はいいなあと思っている。私がファシリテートするのではなく、学生たちが自分たちで発表をして授業を回す。まだ二回生なので模擬授業も何もやっていないが、せめて同学年の仲間たちでの発表は自分たちで舞わせるように育てたい。そして、それが二回生ゼミだと考えている。

一つの詩の解釈を通して、子どもの姿を読み取る。書かれている事を根拠に、書かれていない部分を推察する。その子どもがどんな子どもかは分からない。だから、作家論的には読解できない。精々、小学校1、2年生が書いたという情報位のことである。私にも分からない。学生と同じ地平で読解する。

これが心地よい。ま、多少のハンデはつけなければならないから、私は事前にその詩を読み込んで行く事はしていない。今日やるところはどこだっけ?あたりは確認するが、事前にじっくりと読み込んで自分の解釈を作ってから授業に挑むということは、この授業ではしていない。それもまた面白い。

文字として書かれている情報の多さと少なさを実感しながら読み進めて行く学生たちである。関西の、子どもの書いた詩なので、方言や口語が随所に出てくる。関西と言っても滋賀、京都、大阪、奈良、兵庫では読み取り方が違う。それを確認しながら、子どもが何を伝えたかったのかを読み取る。

脱線も面白い。今日は男子学生の髪型の話になった。私がとある髪型について『これはどうなの? あれって格好いいの?』と聞いたら「あれはアウトです。中2病です」と言っていた。『じゃあ、なんで止めないの? 周りは止めさせないの?』なんて話をしながらあれこれ。

私のあれは変だという感性は間違っていなかったも嬉しかったが、こんな風にあれこれ話すのもゼミの楽しい時間である。で、授業が終わってからある学生が質問に来た。自分が○か×かどちらかの意見を選んで下さいと指示されると、いつも選べない。なぜなのかという相談であった。

『それは、考えていないか、考えすぎているかのどちらかではないかなあ。でもあなたの場合は、後者だと思うよ』と話した。『○か×かで選べと指示が出たとき、あなたは10対0になるように考えているでしょ』「はい」『そこは違うのですよ』「?」

『現実問題として、10対0ということは殆どあり得ない事でしょう。6対4とか、5.5対4.5とかでどちらかを選ぶわけです。ただどちらかを選べと言われると、外側から見ると10対0に見えるだけです』「...」

『どちらかを選ばなければならないときには、より可能性のあるものを選ぶわけであって、一方的に正しいと思われるものを選ぶのではないのですよ。どちらにもそれぞれ相応の理由や可能性がある。しかし、選ばなければならないときに選ぶとすればどちらなのかということです』

『選ばなくてもいいのであれば、そのままにしておけば良いかもしれません。しかし、ここでは立場を決めて議論をするという授業のスタイルを選んで行われているわけです。そのスタイルでいくならば、より可能性のあるものを選ぶことをやってみましょう。選ぶと言うのは実は大変なことですよね』

まじめな学生だと思う。自分がなぜ一歩を踏み出せないのかを見つめているのだから。そんな学生だから丁寧に対応したつもりだ。さらに『入試では、◯と×で答えが決まるように出題をしています。そして、みなさんはそういう決め方で物事が決められるように訓練されています。それが入試です。だけど、人生は違う』

『人生は数限りに無い可能性、グレーのグラディエーションの中にあります。どれが、どちらがより良いのかをじっくりと考えて、取りあえずはこっちが正しいだろうと決めて一歩を進みだす。これが正解なわけです。入試の問題で正解を得るのとは、問題も正解も解法も違うのです』

『さらに言えば、入試は分からない事が分かる、解けない問題が解ける事がゴールです。しかし、学問や人生ってのはなかなか大変で、分からない事が分かったら、その先に新しい分からないものが出現するというように出来ています。分かるというのは分からないことが見えるという形で提示されます』

『分かりましたか(^^)?』「はい」。この学生は分かったようだ。少し肩の力が抜けたようであった。ああ、良かった。やはり、授業と言うのは実にいいなあ。来週も楽しみ。

2012/05/30

「人間も蛹になれればいいのに」

5/30

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我が家の揚羽蝶の幼虫が蛹になった。羽化がとても楽しみだ。で、蛹を見るといつも思い出す呟きがある。もう、10年以上も前のことだ。

中学校の教員をしていたとき、「大人とは何か?」という授業をしていた。その時、中学三年生のある女子生徒が「人間も蛹になれればいいのに」と呟いたのだ。

虫なんか嫌いと思っている女子生徒が多い中で、その生徒は父親の指導もあって自然の中で動植物と遊ぶことを覚えている生徒だったので、
(へー、虫になりたいのかねえ)
と思ったのだが、後から聞いてみたらそうではなかった。

人間は、子どもと大人の境目がはっりしない。そのはっきりしないなかで、中学生は大人であったり、子どもであったりすることを求められる。だから、この授業でその境目は何なのかを考えさせるのだが、その時にこの呟きが出たのだ。

彼女に言わせれば、人間も蛹に変態することができれば、
(ああ、この人は、いま子どもから大人に変わろうとしている瞬間なんだな)
とはっきりと理解してもらえるというのである。成る程である。

中学生を指導する教師である私は、それから蛹という言葉は鍵の言葉になったのでありました。

最初の会合が東京であった

5/30

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昨日は新しい仕事を引き受けて、最初の会合が東京であった。

毎年思うことがある。
(来年こそは仕事を減らそう)
と。
大学の仕事、就中授業。そして、学内行政に論文。これだけで結構な仕事になっている。私を必要として下さる方がいてくれることはとても有り難いこと、嬉しいこと。だけど、大学の仕事、就中授業を最優先したいと思っている。だが、結果としては確実に仕事は増えている。

今回の仕事はまだ公表していいのかどうか分からないので、公表はしないが、今まで引き受けて来た仕事の中では三本指に入るぐらい大きな仕事になると思われる。言ってしまえば、日本の未来や人類の未来に関係する仕事である。教育の仕事はどんな仕事でも、この二つを担っていると思うが、今回のは教室で授業をするのとはまた別の形で、これに関わることになる。気合いを入れ直して、お引き受けすることにした。

東京駅までは京都駅から、最短で2時間17分で到着する。
だから、京都からだと日帰りの出張も当然できる。で、昨日はそれであった。

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京都駅についたら、とんでもない空模様。新幹線のホームから伊勢丹の上の空を見ると、稲妻が光っている。
(あ、部屋の窓を開けて来てしまったかも)
と思うが、ま、もう仕方がない。

豪雨に見舞われて新幹線が止まらないことを願いつつ、飛び乗る。
名古屋辺りでは青空が見えたので、富士山を期待したが、富士山のころにはまた別の雷雨が出ていた。

まったく。スタートだというのに、なかなか凄い天気だ。

会合は、3時間弱で無事に終了。

私をメンバーに入れて下さるような会合である。初対面の方ばかりではあったが、私の役割は新たな風を入れることだろうと自覚して、その場の人間関係や、今までの流れ等は考慮に入れず思ったことを素直に申し上げた。さすがに、あまりにも細かい所まで言うのは遠慮したが、実際はかなり細かい所まで申し上げたやも知れない。

チームのメンバーは、同じ目的を持っていながら、違う環境、条件にいる人が集まっている方が面白い。
ミッションコンプリートの時に、出来上がったものの懐の深さが違うと私は常々感じている。
私のような異端児がいることの意味はそこにあると思う。他にはないのではないかと思う。
時間いっぱい、申し上げた。

その後、東京駅に慌てて戻る。
新幹線の時間までにあと1時間ある。
ま、本当は予約をネットでし直して、1時間早く帰ることも出来たのだが、折角なので新丸ビルに向かう。最近は京都でも瓶のものは安く手に入るようになった「フランチスカーナー ヘフェ  ヴァイスビア  ゴールド」だが、この生はなかなか飲めない。そこで新しい仕事を始めた記念に、「フランチスカーナー のドゥンケルを飲むことした。高いんだけど、お祝いだ。うまーい。

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で、さらに東京駅の地下でよなよなエールと、雨後の月を手に入れ、おつまみも手に入れて、1時間後に新幹線に飛び乗りました。

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東京から京都へのお供は、上弦の月。
車窓からよく見える。ずっと京都までお供してくれた。
本を読み、今日を振り返り、よなよなエールと、雨後の月、上弦の月である。
無事23:00前には自宅に到着でした。

引き受けた以上は、良い成果を出したいと思う。
この件に関して、月に一度ぐらいずつ日帰り出張が続くと思うが、
倒れないようにやりましょう。

2012/05/28

明日の教室に、高久啓吾先生にお越し頂いた

5/28

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(フラフープに謝っているのでも、祈っているのでもありません。ヘリウムフープというアクティビティです)

明日の教室に、高久啓吾先生にお越し頂いた。私が初めて高久先生のプロジェクトアドベンチャーの講座を受けたのはもう15年も前になろうか。

その講座は、一言で言って衝撃であった。
その頃の私はファシリテーションという言葉も知らず、プロジェクトアドベンチャー(PA)は、単なるレクだろうと思っていた。ところがそれはそうではなく、チームビルディングのための有効なプログラムであった。

1)体験学習
2)フルバルリュー コントラクト
3)チャレンジ バイ チョイス

これがPAの考え方である。簡単に言えば、「思い切りやる。でもやれるかどうかは、自分で選択することができる」である。とっても大事な事だと思う。人にはいろいろな事情がある。その事情は他の人には知られたくない事もある。だから、一生懸命やろうということはみんなで約束しつつ、無理なときはその無理と言うことを仲間で受け入れようということだ。

レク、つまりリクリエーション。再びクリエートするがレクである。人間関係を再びクリエートするわけである。PAはチームを育てる「レク」と言っていいだろう。

今回の講座では、高久先生は小声で簡単な説明をし、アクティビティに入ったら、そのあとは殆ど笑顔で見守るだけであった。

これがなかなかできない。
つい、茶々を入れたり、結論に近いヒントを言ってみたくなりするものだ。だが、高久先生は微笑みながら見守っていた。

どうしても出来そうも無いグループには、制限時間を提示してそこまで頑張らせるというい事をしていた。それでいいという。なぜならば、PAは、結果だけではないからである。そこに至ろうとする過程にも学びがあるからだと言うのだ。

出来たら成功。
出来なかったら失敗。

こんなように二項対立で物事を考えてはいない。その間にあるいくつもの段階それぞれに価値を見いだそうとしつつ、チャレンジする人を認め、チームが育つのを見守る。

活動に対する明確な指示。
達成すべきゴールの提示。
そして、
見守り。

参加された方は、その眼差しの安心感と優しさを受け止めながら、アクティビティに没頭し、仲間ができる瞬間の快楽を手に入れたのではないかと思う。

そして、
(はやく、クラスでやりたい)
と思った事であろう。

高久先生のポケットには1000種類位のアクティビティがあるという。今回やったのは10程度。まだまだ教えて頂きたい事は沢山ある。また、お越し頂きたい(^^)。

盆栽作りと恩送り

5/28

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教科教育法(国語)では、導入で吹野安先生の話をしてしまった。國學院大学で漢文でお世話なった恩師の一人だ。この先生の話をすると、つい長くなってしまう。今日の授業の進行を考えると、吹野先生の話はしないのが正解。しかし、しないわけにはいかない。

エピソードの多い先生で、私も一回生のときは「理不尽」な授業の展開に頭に来て授業に出なくなったり、喧嘩をしたりと散々迷惑をかけたが、今となっては本当に感謝するばかりの先生である。だから話をしないわけにはいかなかった。『吹野先生は、余分な枝を払ってくれた』。私はそう感じている。

人間は成長するものだ。だが、どの方向に育つのかが問題である。良くわからないが、盆栽の松は、50年後の成長のために、今必要な枝と不必要な枝を見分けてハサミを入れて育てるという。私には当然見分ける事が出来ない。しかし、盆栽作りの名人はそこに敢然とハサミを入れる。

吹野先生がして下さった事は、そんなことだったのだなあと、学校教育現場に立ってからつくづく思うようになった。私のだらしなさや、いい加減なところにハサミを入れて、幹の部分を強くし、一見とんでもなく見える枝にはハサミを入れず、これを個性としての場して下さったのだなと思う。

盆栽の作り方は分からないが、恐らくそういう面は教育も同じなのだろうと思う。今、成長のど真ん中にいる子ども、学生たちは、自分たちの成長の方向は良くわからない。思春期にある子どもたちは、正しいと思っても大人がやれと言えば、敢えて違う事をやる。その中で無駄な「枝」を切り取り幹を残す。

これが教育の仕事なのだろうなあと思う。子どもたちは、人間は基本的には勝手に成長する。その伸びようとする働きを邪魔せず、間違った方向に伸びる部分を矯める、芽摘みするということだ。矯められ、芽摘みされる方は猛反発する。成長を否定されるわけだから。

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だが、教師は、大人は、親は10年後、20年後の世界からこれを見る。だから、抵抗されても何でも断固として行う。その痛みは実は矯められ、芽摘みされる方よりも激しい。判断がが間違っていたらどうしよう。子どもたちに嫌われるのは嫌だ。それは分かる。しかし、それを仕事としてするのが教師なのだ。

私たちが厳しく指導して下さった先生方を懐かしく有り難く思い出すのは、その先生の痛みを大人になったときに実感できるからだ。先生の方が辛かったのだ。そして、その辛さに先生が耐えて下さったから、今の自分があるのだと思えるからだと思う。そして、今の自分の指導の生温さを恥じるのだ。

教師は、恩師に恩返しは出来なくとも、教え子に「恩送り」をすることができる。受けた恩、ご指導は自分の教え子たちに送る事が出来る。悪い指導は篩にかけて取り除き、良いものを少しだけ良くして、次世代に送る事が出来る。それを仕事に出来る仕事だ。さ、ご飯を食べたら、あと少し授業の準備をしよう。

2012/05/25

卒業生が研究室にやって来た

5/25

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今日はたまたまなのだが、今年中高の教職課程を終えて教員になった卒業生が研究室にやって来た。入ってくるなりあれこれ述べる。
『だから、言ったろ。現場は大変なんだって』
と言う。大変なレベルはいろいろとある。a.生徒。b.職員室。c.管理職。d.保護者。e.その他。

このうちのどれが一番楽かと言えば、a.生徒である。そして、一番大変なのは、a~dが全部というものである。教師が実践を重ねて行く上で一番無ければならないのは、その教科に関する知識であろう。生徒が
(この先生には敵わない)
と思うような知識が必要。そして、それに基づいた指導力が必要だろう。

これがあれば、授業での生徒とのあれこれはかなり減じる事が出来る。ただ、それがあったとしても、b~dは上手く行かない事も珍しくない。いや、寧ろ生徒とは上手く行っているのに、b~dは上手く行かないということもある。

何が問題なのか。それを分析してプランを立てる事は大事。だが、私は若い先生にはそんなことよりも、信念を前面に出して授業を作る事を大事にしてほしいと思う。教師は公立私立を問わず、公教育をしているのだ。教育サービスではなく、公共サービスをしているのだ。

誰か特定の生徒の為だけにやる授業をしているのではない。それは家庭教師が担う部分である。公共サービスは、社会の最大多数の幸せの為に行われる営みだと思っている。簡単に言えば、この授業を受けている生徒たちが力を付ける授業であるかどうかである。

力をつけた後、自分を伸ばすようなるのが半分。残りの半分は社会を良くする事が出来るようになる事。これが大事。そして、これは教育基本法の第一条に書かれている事だ。で、ここに焦点を当てて授業をする限り、教師は挑戦が許されると考えている。

授業はやりたい事と、やった事、出来た事の差が多い。それは、子ども、教師、教育環境などの不確定要素が多いからである。だから、出来るはずと思っていても、ダメな事もある。だが、このクラスの子どもたちをなんとかしたいというその一点で授業をしていれば、それは生徒に届く。

リーダーは孤独である。教師は大人で生徒は子どもである。場合によってはとんでもなく大変になる。教師は学級ではリーダーであり、大人であるから。だがその事実から逃げてはいけない。
「いいから、やれ」
これをどのように伝えるか、そしてそれをやりきらせるか。
これが大事だという事を言う為に3時間かかったとさ。ふう。

で、別の学校に就職した卒業生からも連絡があった。
研究室にやって来たのだそうだが、そのときは私がいなかったので手紙が置かれていた。
メールを出しても返信がなかったので、電話番号を調べて夜に電話した。

思ったよりも声に元気があって一安心。
話を聞いてみると、生徒とぶつかり合っていてへこたれそうになっていた。
電話で短時間での聞き取りなので、そのクラスの状況は良くは分からないが
大体イメージできたところであれこれ話す。

やっていることは基本的には間違っていない。
あとは、どうやってクラスを立て直すか。そのきっかけ、糸口を伝えた。
『大丈夫。私の厳しい授業を受けて来たのだから、大丈夫』
と応援。

こういう日もある。


2012/05/24

三色以内にすることがポイント

5/24

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四回生ゼミでは、採用試験の面接のための模擬面接をやっている。学生達に請われてやり続けている。一人5分程度の面接をして、その後30分程度あれこれ指導する。『人間は、急に悪くなれても、急には良くなれないと一回生の頃から言って来たことが分かるか?』と言うと、よく分かるという。

面接練習では、ゼミの担当教員の面接であるにも緊張しまくっている。なんで緊張するかと言えば、失敗したら困ると思っているから。なんで失敗するかと言えば、いつものこととは違うことをしようとするからである。簡単に言えば、自分をいつもの自分よりも良い自分に見せようとするからである。

子どもたちが失敗するのと同じ理由。子どもたちは一度怒られて指導されたことをまた失敗することが多い。これは、やる気が無くて失敗する場合と、やる気があって失敗する場合がある。後者の場合は、
(今度こそは失敗しないぞ)
と気合いを入れて、自分の持っている力以上のことをしようとして、失敗する。
こういう失敗は叱るよりも、チャレンジを認めるしか無いだろう(^^)。

で、だから、緊張しないためにはいつもの自分で行くようにするしかない。 いつもの自分が良い自分になっているようにする。つまり、日頃から自分を磨くことをして、レベルを上げておくしか無いのだ。そんなのは、ドラクエをやっていれば当たり前のようにわかることである。経験値を上げて、HPを上げておいた者だけが、強いモンスターと戦えるのである。勝てるのである。だが、ドラクエでは分かっても実生活になるとなかなか出来ないものだ。

なもんで、せめて服装ぐらいはきちんとせよと、私のゼミでは三回生からスーツを着て受けさせている。スーツに着慣れているようにしている。だが、これがいまだにきちんと着れない学生がいる。ネクタイの締め方、シャツの着方、ズボンの履き方。全体的におかしくて、もっさりしている。

これらを一つ一つ説明した。まあ、こんなことをしても人間の本質には関係ないことだが、細かい所にその人は現れるのでね。服装は清潔感と若々しさがあるものが一番。そして、折り目がきちんとしているものがいい。アイロンの掛かったワイシャツにズボン。磨いた靴。体にあったサイズの服であることも大事。ネクタイはせめてセミウインザーノットにする。

ネクタイは、レジメンタルタイが良いと思う。レジメンタルタイは、右下がり、左下がりがあるが、まあこれはどちらでもいい。大事なのは、色使いである。三色以内にすることがポイント。それ以上だとごちゃごちゃ感が出る。若くて清潔ですっきりでカチットしている感を出すためにこれらは大事。

いや、もちろん他のやり方もあるでしょう。それはそれでやればいいと思う。そして、私の感性が古いと思われるかもしれない。でもね、採用試験であなたを採用する人は、その「古い」人たちなのですよ。ワイシャツの首にボタンが二つもあるなんてのは、理解できない人たちなのですよ。

「服装ぐらいなんでもない。私には魅力がある。自信がある」。そうかもしれなない。しかし、魅力があるのであればそれに磨きをかければ良いのだと思う。また、採用試験であるのであれば、わざわざくしゃくしゃの服を着ていく必要も無いので、そういうような服を着ているのは、無頓着というよりは心配りができないと私なら判断する。

さらに、教師オーラを持っていない若者は、ありとあらゆるものを使って教師オーラを発することが出来るようにすべきだと思う。服、着こなし、歩き方、声、板書、立ち方、座り方。そういうものを総動員して面接を受けるべきであろう。私はそう考えている。 そういうところまで気を使っている先生は、授業や生徒の指導も細部まで気を使っていると感じている。



2012/05/22

一ヶ月に一日位こういう日があってもいいかな

5/22

本日は、週末の九州出張の疲れを癒すオフの日にした。
昨日の授業で指示した学生たちの掲示板の課題にコメントをして、さらにその後に研究や原稿をやろうと思ったのだが、この先も暫く休みが無い事が分かっているので、体の方を優先した。

食べたいなあと思っていたものを作る事にした。ノルマである。
通常はアマトリチャーナというのだろうが、我が家ではお気に入りの店のメニューに従って、ノルマである。

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ペペロンチーノを作るガーリックオイルで夏野菜を炒め、トマトの水煮を入れて煮込み、未水分を飛ばし、塩、胡椒、バルサミコ酢で味を整えて、粉チーズをかけてオリーブオイルを掛けて食べる。今日は自家製スイートバジルと手作りのベーコンも添えた。

私はホゲーッとするオフも好きだが、こうして何かをあれこれやるオフも好きである。そのときの気分でどちらかになる。娘(4)は辛いのがダメなので、大人用には取り分けて唐辛子を入れたオイルで絡めてうまうまにする。

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パスタで食べる。
かなりリフレッシュする。

午睡をして、
(やっぱり少しは仕事をしようかな)
と思ったのだが、ベランダの花たちが呼ぶような気がした。
見てみるとやや手入れが必要な感じ。

植えたばかりと思っていたトマトから、脇芽が出ていたので欠いたりしていたら、
(これはやらねばなるまい)
と思い始めて、ベランダの大掃除を始める事になってしまった。

やる気というのは、側坐核にスイッチが入ると言う事だと言われている。
視床下部の置くにあるこの場所は、やり始めないとスイッチが入らない。つまり、5分掃除をすると、
(よし、もっとやってやるか)
となる。だから、勉強も最初の5分が大事なのだ。5分やれればあとは続くのだ。

でまあ、続いてしまってベランダを奇麗にしてしまった。
はあ、気持ちが良い。

その後、閉園までに30分あったので、ガーデンに向かった。
今週末がローズフェスタだ。

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平日の閉園間際はもう誰もいない。
薔薇たちだけが、スパイシーな香りを放って美しくしていた。

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あまりにも美しかったので、余韻に浸りながら湖岸を散歩。
一ヶ月に一日位こういう日があってもいいかなと。

* 写真は全てクリックで拡大できます。

2012/05/21

発問の仕方、議論の展開のさせかたをレクチャーする

5/21

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(琵琶湖の金環日食。え、どこが? 湖面ぎりぎりに。カメラのレンズの反射の日食です)

本日の三回生ゼミは、『教育問題はなぜまちがって語られるのか?』(広田照幸 日本図書センター)からの発表。この本は教育問題を考えようとする高校生向きの本。シリーズの最初の本である。今回は、メディアリテラシー、統計データ等について触れていた。

社会に出てくる統計データの見方については『「社会調査」のウソ』が名著として名高いが、本書も相当面白い。発表の学生達には、本の中から結論に関わる部分を書き抜き、その根拠に該当するであろう所を書き抜き、その後生まれる疑問について纏めてくることを、ハンドアウトの大きな課題としている。

疑問を元にゼミの中で議論を行うのだが、その時の発問の仕方が良く理解できていない。だから、議論が深まりにくい。多くの学生は、オープンエンドの質問だけで終わらせてしまうのだ。議論が展開しない。そこで発問の仕方、議論の展開のさせかたをレクチャーする。オープンエンドの質問とは「なにかありますか?」「なんでしょうか?」「どうでしょうか?」のような質問の仕方。なんとでも答えられる。

なんとでも答えられるということは、何を答えても答えさえすれば良いということにもなり、答えなくても良いということにもなる。「なにかありますか?」と聞いているわけだから、(なにもなければ答えなくてもいいんでしょ)と子どもたちは直感的に思う。そこで発言が無くなる。

そんな時は、直ぐにクローズエンドの問いに変える必要がある。例えば「~という考え方がありますが、これは賛成ですか、反対ですか?」とする。

そう発問しておいて、ノートに「賛成なら◯。反対なら×を書いて下さい」とする。野口芳宏先生の十八番の指示だ。こうすると、どちらか態度を決めなければならず、その後、「では、自分の書いたものに手を挙げて下さい」となって、挙手が出来る。意見を言いやすくなる。

または、同じ立場のメンバーで集まって意見の交換をして強固な根拠を生み出し、反対側と意見をぶつけ合うことをしやすくする。さらにこうすると「私は△です」と中間の意見も出てくる。そしたらその意見も聞くのだ。このクローズの質問は、教師がしっかりとした答えを持つ必要がある。因に、意見を聞く時は、少数意見から聞く。この順番も大事だ。

一見ほとんどが、◯に思えるような選択肢を出しておいて、実際は×のような設定ができれば中級者。上級者は、◯×が半々になるように出す。さらに、選択肢を四つ程度出しておいて、その中から選ばせて議論を構築するという展開の仕方もある。こういう手法を知らなすぎるので説明。

ではあるが、本文の読み込みの中で気になった部分に関して調べて来て、それを資料として授業の後半で配布する等のやり方はなかなかであった。今日の授業では、この発問の設定の仕方から入って、メディアリテラシーについて軽くだが触れることができた。

『情報は、流れているのではなくて、流している。隠れているのではなく、隠しているということである。情報を流している人、隠している人は、何を意図して流しているのか、隠しているのか。ここを理解することがメディアリテラシーなのだね』

『それじゃあ、これを小学生の授業として作るには?』
と、ここからさらに展開もした。教えたい内容、教えるべき内容つまり教育内容は見つかっても、それをどう教材化し、どういう授業構成にして説明、指示、発問にしていくかが問題。これが出来ないと授業は作れない。大学生相手に作れなければ、小学生相手になんて作れるわけが無い。その練習でもあるのだ。

『本の中の主張、根拠の提示の後は、自分のエピソードを加えて語れ。例えば~で語れ』
とも指導。本の内容をただ要約して伝えているだけの発表では意味が無い。
例えば〜で例を語り、自分のエピソードを添えて語る。そうすることで、文章に書かれている内容が他人事ではなくなる。聞いている人にとって身近なものになる。一人称で語る練習にもなる。

その他、今ゼミで研究開発に取り組んでいるものも含めて濃密な90分でありました。来週も楽しみ。

2012/05/17

決定打は出ない。こう言うとき、どうしたら良いのであろうか

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(オーロラが出たかのような琵琶湖の空)

二回生ゼミは、小学生の書いた作品(詩)を読解する。レポーター2人がよく調べ考えてと、かなり丁寧に準備をして来たので、持ち時間の40分を大幅にオーバーして70分ぐらい発表と議論が行われた。最後の10分で私がコメントして簡単な整理となった。最初の発表がこのレベルにあるのはなかなかいいな。

作品を読んで感じた違和感を丁寧に拾う。違和感は言語化できないから違和感なのである。レポーターは自分の違和感をレポーターグループのメンバーに伝え、それをメンバーの中で言語化して行くと言うことを繰り返す。そして、その違和感を言語化し、問いに作り上げその答えまたは仮説を考えて発表に臨む。その考えを提出するために発表の構成、発問、展開を考えて発表に臨む。

今回の読解で引っかかった言葉は、「やっぱり」ということば。この言葉は論理的な接続をするように見えていて、感情の度合いが高い。また意味が4種類あるので、どの意味で子どもが使っているのかを考える必要があった。4種類から一つにするには、文脈の理解が必要になる。

発表者の展開を引き受けて私が議論を構築した。当初、二つの読みの可能性があることを指摘し、どちらかを◯×で決めさせて議論を展開するということを私は考えた。ところが学生の方からもう一つの可能性もあると声が出た。こういうのが面白い。こういうのがあるゼミは面白い。

私は、その可能性はあると考えていたのだが、議論をシンプルにしようと二つにしておいたのだ。しかし、学生が三つ目を出すというのであれば、議論が深まる。子どもの書いた詩をテキストにして、何が読み取れるか。それぞれのグループに分かれて主張の根拠の部分を作品内に捜させた。そして、相手の意見を批判しながら、自説が正しい事を主張していく議論の時間を生み出した。

三つの立場の根拠は、それぞれ出てくるには出てくるのだが、決定打は出てこない。
『私は作品から主張の根拠を捜せと指示を出した。ところが、決定打は出ない。こう言うとき、どうしたら良いのであろうか?』
と発問をした。学生達は考え込んだ。

答えは実は極めてシンプルである。三つの可能性があるとして、そのままにしておくのである。決定打が出ない以上、決めつけることは出来ない。可能性を残し、その可能性を観点にして子どもの様子を見るのである。

子どもの作品は子どもの作品として鑑賞することが大事。これはテキスト論的な読み方。しかし、子どもの事実、文脈の中で読むことも大事。これは作家論的な読み方と言っていいだろう。
(ははあ、あの子の言いたかったことはこれだったのね)
と後から分かることがある。それで良いと私は考えている。決めつけてしまって間違えるより遥かに良い。

『子どもの作品は、その作品のテキストの中にあることからだけで、読み解かなければならない。テキストの中に決定打が無い時は、決めつけるのは危険である。可能性を確認することが大事。可能性というとカッコいいが、要は宙ぶらりんということである。そして、宙ぶらりんは居心地が悪い』

『居心地が悪いから、安定したところに落ち着けたくなる。実は、これが君たちが先生たちに対して不信感持つ要因として結構大きなもの占める決めつけの中身なのである。宙ぶらりんの居心地の悪さに耐えつつ、さらに子どもの事実と文脈で子どもの作品を読んで行けるようにならねばならない』

『決められないものは、無理矢理決めてはならない。そして、決められるものをしっかりと決めるべきである』

来週の子どもの詩の作品の読解も、非常に楽しみである。

教職生活の全体を通じた教員の資質能力の総合的な向上方策について(審議のまとめ)

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教職生活の全体を通じた教員の資質能力の総合的な向上方策について(審議のまとめ)

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo11/sonota/1321079.htm

中教審から出ましたねえ。
これをベースにさらに揉まれるでしょうが、大きな変更は無いかと思われます。

教員免許が普通、一般、専門の三つになる。
大学院での免許取得が柱になる。
学級経営等の力をつけることを求めている。
大学と教育現場が連携して育てることを求めている。

などが上げられるでしょうか。

手前味噌ですが、本学(京都橘大学)の児童教育学科は、ここに示されていることを6年前からやって来ていると思いました。アカデミックと現場。本学は、「臨床の知」を建学の精神の一つにしているので、積極的に取り入れて来たというわけです。

とはいえ、全てが全て出来ているわけではなく、根本的に対応を考えなければならないことも出てきそうです。

また、新しい課題を解決する挑戦が始まります。

2012/05/14

(あ、こいつに相談してもダメだ)

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(蓬莱山山頂から、琵琶湖大橋、比叡山方面を眺める)

人間ってのは、自分に都合の悪いこと、恥ずかしいことは隠そうとする。特に、子どもはそうだ。喧嘩で殴られて顔に痣を作っておきなら
「キャッチボールで失敗しました」
なんて嘘をつく。だが
「そうか。へたくそだな。いいか、キャッチボールというのはだな、体の真ん中で...」
とやってもダメ。

子どもたちは、自分で何があったかを隠しておきながら
(あ、こいつに相談してもダメだ)
と思う。
(私に起った事実が何なのかを見抜けない教師に、相談はできない)
と一瞬にして思うのだ。小学校低学年までなら、すぐに先生に言ってくる。分かりやすい。しかし、思春期ではありえない。

だから、教師は子どものバーバルと、ノンバーバルの間に立ち上がる、違和感、揺れ、光、陰をさっと見抜く必要がある。
(ん、なんか変だな)
と気がつく必要がある。これだけでも相当大変なことである。だが、指導力のある教師は、これができる。だから、子どもたちから信頼される。

子どもたちは都合の悪いことを「隠す」。教師は、その隠された都合の悪い何かに指導すべきことが存在することを理解している。そして、「隠し」ていることは、かくれんぼの遊びと同じで、探し出してほしい、見つけ出してほしいという子どものメッセージだと言うことも理解しなければならない。

(ま~ったく面倒くさいなあ)
と思う(^^)。しかし、子どもの傍にいるということはこういうことに繰り返しつき合うことであって、何回もだまされることなんだとも思う。その中で
「あの先生は分かっている」
「あの先生は、だませない」
という思いが子どもに育って行くのを待つ。

子どもを指導するってことは、そういうことから始まるのだろう。

2012/05/11

『日本一社員がしあわせな会社のヘンな”きまり”』読了

5/11

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『日本一社員がしあわせな会社のヘンな”きまり”』読了。

経営は工夫が大事だが、この本ではそれが良くわかる。学級経営でも参考になることが多い。物づくりの会社だけあって、授業づくりの参考になる部分も多い。お薦め。

2012/05/10

サッカーのディフェンスの仕事は、防御ではない

5/10

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(研究室からの夕景)

四回生ゼミでは、この後の採用試験に向けての話もする。大事なことは、うまく行かなかった時ほど早く相談するということだ。うまく行ったときは、あとは流れに乗ってやれば良い。うまく行かなかったとき、早めに新しいスタートを切らなければならない。

その時に、不合格が恥ずかしいとか、申し訳ないとかで連絡してこないのは、次のチャンスを失うことにもなる。サッカーのディフェンスの仕事は、防御ではない。防御した後、攻撃 のための最初のパスを出すまでがディフェンスの仕事なのだ。失敗は、次の一歩を踏み出すまでが失敗なのだ。

人事というのは、本当に不思議なことがたくさんある。実力が無いと採用されないが、実力があったところで採用されないこともある。また、時にはあの程度の実力なのになんで合格 なの?ということもある。

さらに、合格したら幸せかというと合格したために不幸になるということもある。あの試験に受かっていなかったら、もっと良かったのにとか、あそこで落ちたから今の私があるとかというのは別に珍しいことではない。

そこから何を学ぶか。そこから何を始めるかである。結果は常に過去になる。大事なのは、今なのだ。受かって奢ること無く、落ちて腐ること無くである。

つまり、あなたの人生には正解はなく、あなたの人生を正解にするしかないのである。

500000アクセスありがとうございます。

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いやあ、凄いですねえ。50万アクセスですか。
ありがとうございます。
いつから始めたのか、記憶がないのですが、まあ、私らしくて良い。

これからもよろしくお願いいたします。


2012/05/08

明日の教室 5月26日(土) プロジェクトアドベンチャー 高久啓吾先生

明日の教室5月は、5月26(土)に高久啓吾先生にお越し頂く事になりました。

高久先生は、日本にいち早くプロジェクトアドベンチャー(P.A.)を普及させた先生です。プロジェクトアドベンチャーとは、様々なアクティビティを通じて、信頼関係づくりを行うプログラムです。チームビルディングにも活用できます。

学級は、群れから集団へと高めていくことを目指します。係活動、行事、授業などさまざなことを通して高めて行きます。その中の一つのプログラムとして、このプロジェクトアドベンチャーはとても意味のある、価値のあるものです。

学級作りの一つの考え方を手に入れてみませんか。

お申し込みはこちらから。

http://kokucheese.com/event/index/36974/

あと500で、50万アクセスです

5/8

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いやあ、なんか凄いなあ。
今週中にはなりますね。
ヒットした方、足跡を残して下さいね。

2012年 「明日の教室」研究会の予定

2012年 「明日の教室」研究会の予定

教育研究会「明日の教室」関連のご案内をブログのトップに置くことにします。

                   ◆

2012年12月22日(土)  京都本校  佐藤正寿先生 社会科とICT

http://kokucheese.com/event/index/64010/

2013年1月12日(土)  京都本校  岩下 修先生

2013年3月 2日(土) 京都本校  野中信行先生 【野中先生の春の講座は、これが最後になります】

 

2013年3月 9日(土) 京都本校  野中信行先生 【野中先生の春の講座は、これが最後になります】

                   ◆

明日の教室の書籍1〜5と、DVD1~27が発売されました。

書籍は、http://www.gyosei.co.jp/home/books/book_detail.html?gc=3100501-01-000/
DVDは、http://sogogakushu.gr.jp/asunokyoshitsu/dvd_1.htm

からお求めください。

虫愛でる姫君(堤中納言物語)

5/8

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(チューリップの花びらを捕まえろ!)

念願の夢であった虫取り網と虫かごを手に入れた娘(4)。早速捕まえに行くと言う。

実は去年の秋になって急に虫取り網を欲しいと言い出したのだが、店を捜してもシーズンオフと言う事で見つからなかった。

『もう、虫さんがいないから捕まえる網が売っていないんだね。また来年夏が来たら買いにこようね』
と話していたのだが、それを覚えていて欲しいと言うのだ。約束は守らなければならない。買いに行った。そして、捕まえに出掛けたのだ。

琵琶湖の周りを歩きながら、捜す。
ま、捜せたところで捕まえる事は難しいだろう。さらに、捕まえたところで掴む事ができるかもあやしい。

近くのガーデンはいろいろな花が咲き乱れている。芝生の上にチューリップの花びらが落ちていたので
『あれを捕まえてご覧。練習だ』
と言うと、ダアアアアアアアアアと走って行って、エイ!と捕まえる。見事に外れる。

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(ありゃ、失敗)

これを繰り返していたら何となく形になった。

それで機嫌を良くした娘は、芝生の上を走り回る。そして、捕まえようとする。
「捕まえた!」
と言うのでまさかと思ってみてみたら、ちいさなてんとう虫。
虫かごから出てしまう位小さなてんとう虫。
しかし、娘に取っては最初に捕まえた虫で、本当に嬉しいようだ。
まるで、虫愛でる姫君(堤中納言物語)である。

虫かごから出てくるてんとう虫が飛んで行かないように、虫かごごと虫取り網で覆い網を縛って大事に家に持って帰るという。飼うと言う。うーむ。

『てんとう虫さんが何を食べるか知っている?』
「草とか水」
『うーん、そういうてんとう虫さんもいるけど、小さな虫を食べるんだよ。捕まえられる?』
「大丈夫」
『どうやって?』
「うーん」
『このまま持って却って虫かごに入れたままだったら、てんとう虫さん死んでしまうよ』
「.......」
『お母さんに見せてから、逃がして上げたら?』
「.......」
『どう?』
「お水は上げても良い?」
『いいよ』

ということで、家にもって帰った。

「お水お水!」
というので、ペットボトルの蓋に水を入れてお皿に載せさせた。
さて、どうしよう。

結局は、ベランダの花木の根元に水を置き、そこにてんとう虫を放した。
「お水、飲んでくれるかなあ?」
『そうだね。夜になると飲むんじゃないかな?』
「そうか」
娘は、その後夕ご飯の後にも見に行った。
「いた?」
『うーん、草の下に隠れてしまってもう寝ているんじゃないかな?』
「そうか」
『でも、ありがとうっていっていると思うよ』
「(^^)」

娘のファンタージーと現実との区別がどこにあるのか、私にはよくわからないが、虫かごに半年こだわり、捕まえた虫に愛情を注ぐ姿があるだけで、半日つき合って良かったなあと思うのでありました。

2012/05/06

ああ、貰わなくて良かった

5/6

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買い物があって出掛ける。アンケートに答えたらバルーンアートをその場で作ってくれて、プレゼントという商法があり、多くの子どもたちがアンケート結果を持って嬉しそうに長蛇の列を作って待っていた。

ま、ね、答えるのは簡単だけど、子どもを出汁に使ってというのはなあ。娘⑷は、相当欲しがっていたが、我慢させる。機嫌が悪くなって泣き出す。が、我慢、我慢。我慢を覚えさせなければ。

で、バルーンアートを我慢させて、バルーンを購入。
親として我慢させ切れていないのが情けないがf(^^;。

家に帰ってから、膨らませてたら嬉々として作り出す。
「うさぎさん!」
と娘(4)。
『え? どうやって知ったの?』
どうやら店で作っているところを見て、自分で考えたようだ。
あそこではウサギは作っていなかったから。
びっくり。驚き。
その後も、犬、鯉のぼり、チョウチョと次から次へと作る。

ああ、貰わなくて良かった(^^)。


2012/05/04

なんだかGWのようだ

5/4

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GW。こんなになにもしないGWも珍しい。
何もしないと言うのは、研究も、仕事も、勉強もしないGWということである。

中学校の教師になると言う事は、GWはないということである。
クラブ活動の指導がどんと入る。
その合間に研究会に参加するということになる。

私は人ごみが好きではないので、GWに出掛けて行くと言う気持ちにならないので
まあ、いいかと言う感じであった。

いや、もう少し言えば、意図的に何もしないようにしている。
娘(4)と遊ぶようにしている。
あと10年経てば、娘は中学でクラブ活動をしているか、仲間とあれこれ楽しんでいるだろう。ここ数年である。こんな風にして遊べるのは。

我がままで、負けず嫌いで、説明好きで、人に指示を出したがる娘。
ああ、私の子どもだなあと思う。

昨日は、甲賀の忍者村に連れて行った。
ま、フィールドアスレチックの日本版と言えば分かりやすいかもしれない。忍者服に着替えて野山を走り回る。

雨上がりと言う事もあり、山はドロドロでずるずる滑る。
大人もあちこちで滑っていた。
そんな中を娘は水を得た魚のように走り回る。
手裏剣を投げる。

私も手裏剣を投げ、一緒に動き回る。
壁を掴みながら横歩きをしたり、ターザンロープで谷を下る。
ま、私の場合はダイエットであるが。
日頃の走り回りの成果をここで発揮しているような娘であった。

今日は、近くの室内幼児遊具施設にも連れて行く。
柱に足場を打ち込んだ遊具に飛びつく。
少し前に来たときには、全く歯が立たなかったものだったのだが、
今回は、あっという間にクリアしてしまった。
成長しているのだ。

途中で、子どもと親が肌のふれあいを楽しむお遊戯Timeがあった。
以前から楽しくやって、エビカニックスなどを楽しんでいたのだが、
今回はなんか様子が変である。

私が座って足を伸ばし、その上に娘を乗せてあれこれスキンシップの遊びをするのだが、今回は乗ってこない。周りの子どもたちをじっと見ているだけでやろうとしない。
『やろうよ?』
と言うと
「いやや。見ている」
と言う。それでもやろうよと声をかけると、
「恥ずかしい」
と言う。

ああ、娘は成長しているのだ。

帰りの車で
『お父さんは、もうあそこが卒業なのかと思うと、悲しいような嬉しいような気持ちだな』
と娘に話しかけた。娘は、0.5秒の間隔で、
「どっちやねん!」
と突っ込んで来た。
をを、関西の子どもに育っている。

でもね、どっちもなんだよ(^^)。

でもって、夕方には琵琶湖湖畔に行く。
自転車に乗りたい娘に付き合うことに。私は勿論ジョギング。一緒に自転車なら楽なのだが、それはまだできない。3キロほどつき合う。

途中からこぬか雨。
振ったりやんだり。
こういうときは、空を見上げる回数が増える。
虹だ。
琵琶湖は虹の名所でもある。

をを、見えた。
娘と幸せな時間を過ごした上に、こんな虹までも見られるとは。

なんだかGWのようだ。

2012/05/02

こういう2時間は大事にしたい

5/2

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今日は、会議がいつもの4つではなく2つで、早く帰れるので早く帰ろうと思って準備をしていたら、学生が来研。

「先生、お時間よろしいでしょうか?」
と。
『ま、座れ』
と座らせて話を聞く。すると、
「私は、教師に向いているでしょうか?」
と質問してくる。私は即座に
『そんなもんわからん』
と答える。

それから彼の悩みを聞くだけ聞いて、あれこれ話す。
結論は、過去は変わらないし、未来も分からん。いま、やれることをきちんとやる。自分の力を出して、少しだけ無理してやるべきことをやるに辿りつく。

『自分を無理に変えようとしても、もう無理である。20歳を超えたら、変わらない。性格という馬を、理性という乗り手でどう乗りこなして行くかだ』

『無理をして合わせつづけていると、体がおかしくなる。無理をしなければならない時に無理ができなくなる』

『ただし、自分が周りに合わせられないから、この自分で行こうと腹を括ったら、一人になることを恐れてはならない。一人になることもある。でも、それは仕方が無いことだと思わなければならない。周りにあわせる辛さと、一人になる辛さのどちらが辛いのかを考えて、判断せよ』

『君が教師に向いているかどうか、そんなもんわからん。ただ、私は恩師にこう言われた。「学校がお前のような教師ばかりだったら、学校は困るだろうが、お前のような教師が一人もいない学校は、生徒はつまらないだろうなあ」とな。そういうことではないか』

「お時間かけてしまってすみませんでした。ありがとうございました。楽になりました」
『大儀である。楽になった分、勉強に励め』

こういう2時間は大事にしたい。

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