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2012/05/28

盆栽作りと恩送り

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教科教育法(国語)では、導入で吹野安先生の話をしてしまった。國學院大学で漢文でお世話なった恩師の一人だ。この先生の話をすると、つい長くなってしまう。今日の授業の進行を考えると、吹野先生の話はしないのが正解。しかし、しないわけにはいかない。

エピソードの多い先生で、私も一回生のときは「理不尽」な授業の展開に頭に来て授業に出なくなったり、喧嘩をしたりと散々迷惑をかけたが、今となっては本当に感謝するばかりの先生である。だから話をしないわけにはいかなかった。『吹野先生は、余分な枝を払ってくれた』。私はそう感じている。

人間は成長するものだ。だが、どの方向に育つのかが問題である。良くわからないが、盆栽の松は、50年後の成長のために、今必要な枝と不必要な枝を見分けてハサミを入れて育てるという。私には当然見分ける事が出来ない。しかし、盆栽作りの名人はそこに敢然とハサミを入れる。

吹野先生がして下さった事は、そんなことだったのだなあと、学校教育現場に立ってからつくづく思うようになった。私のだらしなさや、いい加減なところにハサミを入れて、幹の部分を強くし、一見とんでもなく見える枝にはハサミを入れず、これを個性としての場して下さったのだなと思う。

盆栽の作り方は分からないが、恐らくそういう面は教育も同じなのだろうと思う。今、成長のど真ん中にいる子ども、学生たちは、自分たちの成長の方向は良くわからない。思春期にある子どもたちは、正しいと思っても大人がやれと言えば、敢えて違う事をやる。その中で無駄な「枝」を切り取り幹を残す。

これが教育の仕事なのだろうなあと思う。子どもたちは、人間は基本的には勝手に成長する。その伸びようとする働きを邪魔せず、間違った方向に伸びる部分を矯める、芽摘みするということだ。矯められ、芽摘みされる方は猛反発する。成長を否定されるわけだから。

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だが、教師は、大人は、親は10年後、20年後の世界からこれを見る。だから、抵抗されても何でも断固として行う。その痛みは実は矯められ、芽摘みされる方よりも激しい。判断がが間違っていたらどうしよう。子どもたちに嫌われるのは嫌だ。それは分かる。しかし、それを仕事としてするのが教師なのだ。

私たちが厳しく指導して下さった先生方を懐かしく有り難く思い出すのは、その先生の痛みを大人になったときに実感できるからだ。先生の方が辛かったのだ。そして、その辛さに先生が耐えて下さったから、今の自分があるのだと思えるからだと思う。そして、今の自分の指導の生温さを恥じるのだ。

教師は、恩師に恩返しは出来なくとも、教え子に「恩送り」をすることができる。受けた恩、ご指導は自分の教え子たちに送る事が出来る。悪い指導は篩にかけて取り除き、良いものを少しだけ良くして、次世代に送る事が出来る。それを仕事に出来る仕事だ。さ、ご飯を食べたら、あと少し授業の準備をしよう。

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