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(キャンパスの裏山の空 iPhone4にて)
本日の授業は、四回生のゼミと二回生のゼミ。四回生ゼミは個人面接練習のラスト。最初に私がなぜ教師になったのかについて語った。なぜ教師になったのかの最終的な答えは、試験に受かったからである。これがないとどうあがいても小中高の先生にはなれない。
師はなりたいと思ってなる仕事である。だから、なぜあなたは教師になりたいのですか?という面接の問いは必ずといっていいほど聞かれる。面接では、あなたはどんな人間ですか?ということをあれこれ形を変えて聞いてくる。だが、これも、「何をして来た人?」「何が出来る人?」の二つに絞れる。
「なぜ教師になりたいのですか?」と聞かれるのは分かっているのに、それがしっかりと答えられない者がいる。先ずダメなのが、「なぜ?」と理由を聞いているのに、きっかけを話す者がいる。「両親が教師だったので」これは、きっかけである。「なぜ結婚したの?」「友人の結婚式で隣だったから」
これが理由だったら、結婚式のたびに隣の人と結婚しなければならない。これは理由ではなく、きっかけである。そのきっかけからなんで結婚に至ったのか。なんで教師を選ぼうと思ったのかである。答えは、公に言えるものと言えないものがある。
言えるものの中で採用試験の答えとして相応しいものを選んで、構成して答えを準備する。このことを繰り返して私は指導している。仮に「~だからです」と答えられたとする。すると試験官は「具体的には?」と聞くだろう。そうしたら、それを具体的に述べられるようにする。これは当然のこと。
ところがこれがなかなか難しい。それは、自分が何者なのかを見つめていないからだと私は考えている。いや、自分探しをせよということを言っているわけではない。自分がしてきたことをプラスの面からもマイナスの面からもきちんと見直すべきだと思うのである。そこが足りないと、答えが浮つく。
「よし、この人に私たちの町の子どもたちを任せよう」と採用担当者に思わせる何かを話さなければ、伝わらない。話は、熱意、内容、技術の三つが大事だとズーニーさんは言っているが、まずは内容をきちんと話す本人が理解していなければならない。
それも無いのに、熱意だけでは、暑苦しいしだけだし、技術だけでは、小手先過ぎる。あなたが採用担当者になって考えてみれば分かる。「この人を積極的に取る理由は、◯◯である」の◯◯の部分をあなたが伝えなければならないのだ。しっかりとサーブを打たなければならないのだ。
私が学生たちに話した、私の公にできる部分は『教師になるということ』に書いた事。出来ない部分は、ゼミで語るときにだけ伝えること。ま、大した事ではないが、あまりネットに書いてもねということである。その両方が自分にあることを理解して、その上で、どうプレゼンするかを考えたと話した。
採用試験まであと一ヶ月を切った。四回生ゼミはこれで一ヶ月間を空ける。採用試験後に集中して行って卒論指導となる。面接指導のあと『体に気をつけて無理せよ』と伝えた。ここで無理しないでどこで無理する。だが、体に気をつけて。しっかり。期待してる。
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で、二回生ゼミも面白くなっている。子どもの詩をテキスト論的な読解で読み進めている。発表者が事前に読み込んで来て、90分の授業のうち60分以上を使いながらあれこれ議論をするのである。子どもの詩の中にある違和感を感じ取り、それを言語化し、問いに高めてゼミで発表するのだ。
最初に発表したグループのレベルがかなり良かったので、後から発表するグループによいプレッシャーがかかり毎回面白い展開になっている。ただ、当たり前だがまだ模擬授業もしたことのない二回生である。授業の運び方、回し方が稚拙である。稚拙と言うか知らないのである。
そこで、今日の授業では、私が授業の展開の仕方を途中で「注釈」のような形で解説を加えながら行ってみた。例えば、「この「ふん」という子どもの発言はどんな意味を持っていますか?」と発表者が指示を出したときのことである。これはいわゆるオープンエンドの発問である。
活発な議論がすでにあるクラスであれば、これだけでも十分に行く事が多いが、発言が無かった場合はどうするのかという見通しがない。見通しが無いから、直ぐに先生が答えを言ってしまう。自分で問いを発していて、自分で答える独り言のような授業になる。
そうならないためには、その発問のゴールをきちんと見極めて(というかそもそも発問は答えが分かっているとき、説明ではなく問い変えるものが発問だから、答えを掴んでいないとダメなのだが)、子どもがどこで躓くかを考えて、そこにヒントを出せるようにスモールステップにしておく必要がある。
具体的には、答えの選択肢を与えて選ばせるとか、◯か×かで立場を決めさせて発言するとかのクローズの質問に置き換えて行くなどである。また、子どもからの発言があったときに、それをどう評価するのか。評価の観点を決めておくことで評価がぶれなくなるなどの具体例を示しながら、注釈を加えた。
『はい、ここで注釈終了。続けてどうぞ』と彼らのファシリテーションの流れは崩さないように、それでいてもうちょいと深いところに気付く事が出来るように注釈を加える。この方法は野球の解説とも違うし、副音声とも違うし、なんだろうなあと思いながらやっていた。
まだ二回生なので、授業のやりかたについては勉強が不十分である。だから、彼らが懸命に考えて来たその流れをバッサリと切る事はしない。私はどうもこの辺りが中学校の教員が抜けなくて、教えていない事に関して学生が出来ない場合、バッサリとはせずまずは教えなければならないと思ってしまうのだ。相手が大学生なのだから、自分で勉強しているのだからそれを前提にして、違う時はバッサリやってもいいのかもしれないが、どうもここいらあたりが甘いf(^^;。
学生の感想を読んでみないと分からないが、もし注釈を入れるのが邪魔だったらこの方法を採るのは止めるつもりだが、今日の授業の感触ではそれなりに良かったのではないかと思っている。「ライブ解説」? いややはり「注釈授業」とでも名付けようかねえ。ま、先ず学生に聞いてみよう。
もしこれがいいと言うようであれば、模擬授業をしたことのない学生たちが、ゼミで発表する形式の授業の進め方として、一つの型になるかもしれないなと思う今日の三限でありました。
で、数名のレポートを読んだ限りでは、この注釈型の授業展開はいいという評価だった。授業を受ける側としても、授業をするがわとしてもいいとの事であった。最後にまとめて言われるより、その場で言ってもらった方が分かりやすいし、その後の展開を自分たちで選べるのでいいとのこと。
考えてみれば、ディベートの指導のときにはこれをしていたわけである。試合を途中で止めて、その議論の展開を確認したりもしていたわけだ。それと同じ部分があるかもしれない。今日の私のチャレンジは、成功したかもしれない。来週以降もこの方法で進めてみよう。