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2012/06/29

授業を作る時の大前提

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(今年初の収穫)

二回生のゼミも面白い。いま、子どもの書いた詩を読解することをしている。
ゼミであるからして、私が説明をするのではなく、小グループに分かれた学生たちが、自分たちで授業を作る。そして、他のゼミ生たちに授業をする。

まだ教科教育法を習う前の二回生なので、授業の進め方はほぼ素人である。
また、考え方によっては今まで自分たちが習って来た授業方法でやっているということも言える。

昨日で全てのグループの授業が終わったのだが、彼の授業の特徴として言えることが一つある。それは彼らが、子どもは自分が発問すれば正解を言ってくれるという前提で作っていると言うことだ。

この場合の子どもと言うのは、大学生のことであるが、大学生であっても正解を言えないような発問をすることが良くあった。そしてその場合、なんとなく誤摩化して前に進もうとしてしまうのである。だが、これではダメだ。

授業を作る時の大前提は、子どもの「わからない」という答えからスタートすることだ。(この発問には、子どもがこう応えるだろう)
から作るから、失敗する。授業は、分からないから分かったへと進むように構成する。子どもの分からないは、授業の宝なのだ。分からないが分かったになる授業を作るのだ。

子どもへの発問で、子どもが「分かる」を前提にして授業を作ると、

1)たまたま分かった子どもからスタートする。
2)たまたま知っていた子どもからスタートする。
3)先生が独り言で答えを言うからスタートする。

この3つの授業の流れになる。こうして実に面白くない授業が始まるわけだ。

ただし、この子どもの「分からない」から作る授業は、作る側にとってはかなり大変なものとなる。分からないに答えられる力量が必要だからだ。

だが、プロであろうとするならば、この方法で作れるようになっておくことは、極めて大事なことなのだと私は考えている。

2012/06/27

判断、評価というのは、いろいろなレベルがある

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昨日、消費税に関する決議が国会で行われた。
今日のディベートの授業では、そのことに触れながら始めた。

『消費税率を上げることは良いと思う人は、パー。悪いと思う人はグー。さ、手を挙げてみよ。セーの』

で手を挙げさせた。パーが1/7程度いて、残りはグーであった。

判断、評価というのは、いろいろなレベルがある。
私が読んだ本の中で、そうかもしれないなあと思ったのは、次のようなものである。

 好きか嫌いかは、個人が決める。
 良いか悪いかは、社会が決める。
 正しいか間違っているかは、歴史が決める。

というものである。

今回の消費税率を上げようとする国会の審議は、個人で言えば明らかに嫌いの人が殆どであろう。勿論中にはアメリカの大富豪のように、「金持ちの税率を上げよ」と言うような人もいるが、それは例外中の例外だ。通常は、個人レベルでは税率が上がるのは「嫌」であろう。

で は、この判断は良い判断か悪い判断か。どちらであろうか。社会の判断というのは、世論であったり、パブリックコメントであったり、世論調査であったり、デ モであったりというところに出てくるであろう。増税について、良いのか悪いのかの議論として出てくる。今回の流れは、悪いという判断が多いように思える。

そして、正しいか間違っているかである。
上記の説が正しいとすれば、この判断が正しいか間違っているかを決定するには、あと100年程度は必要になってくるということになる。その時は、いまこの日本にいる人たちは、基本的にはいない。だから、正しかったのか間違っていたのかの結果を見ることができない。

(ははーん、そうか。じゃあ、結果が分からないんだったら、何をしても良いじゃん)

ということを言いたいのではない。
ディ ベートの授業では、肯定側と否定側に分かれて議論を行う。その際、肯定側に立つのも、否定側に立つのも自分の好みで選ぶのではない。機械的に選ぶことにな る。ジャッジも、自分の好みで判断するのではない。目の前で行われた議論を元に判断を下すことになる。つまり、ディベートは「好み」で議論が行われること は無い。

では、何を比べているのか。それは、プラン導入後の世界が、良いのか悪いのかを肯定側と否定側で比べ合っいるのである、その結果 をジャッジに届けてジャッジが判定を下すのである。ディベートは相手をやっつけるのではなく、ジャッジを説得するコミュニケーションゲームなのである。好 き嫌いを越えて、良し悪しを議論するのである。

そう、正しさを議論しているのではないのである。
ディベートによくある間違いに、勝ったら正しいのかというのがある。
勝ったのは議論が強かったからであって、正しかったからではない。私が学生達と戦えば、肯定側でも否定側でも勝ってしまう。それは正しいからではなくて強いからだ。

【日本は、~をすべきである。是か非か】という論題で問われているのは、日本にとってこの政策を実行することは、良いのか悪いのかである。プラン導入後に、良い世界が見えるのか、悪くなってしまうのかを問うているのである。

そして少しは、正しいか間違っているかという領域に踏み込んで議論の質を高めるように出来たら良いなと思っている。

今生きている私たちが届く部分は、良いか悪いかの部分であるとすれば、その良いが本当に良いのか、悪いが本当に悪いのかをじっくりと考えて、判断し、選択できる力を身につけて行く必要があるのだ。

そして、それはやがて、歴史の中で「正しい」という評価が下されることに繋がるのだと考えている。

教師は母港ではない。教師はあくまでも寄港地だと私は考えている

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ディベートの授業。今日は、2001年に行われたディベート甲子園中学校決勝のビデオを見せながら、フローシートを書く小テストを行った。この試合は、私の教え子が決勝まで言った時のもので、【日本は環境税を導入するべきである】という論題のものである。学生たちは小学校1年生だったとか。昔だ(^^)。

教師の喜びは成長する子どもの傍にいられることだと私は思っている。声変わりもしていない中学校1年の男子が、卒業する時にはうっすらと髭を生やして挨拶に来る。この貴重な成長の三年間を一緒の場所で一緒の時間を過ごすことが出来る。これはなんとも素晴らしいことだ。

この時のメンバーの一人から先日結婚式の招待を受けた。私は卒業してからはあまり私の方から積極的に卒業生に関わることはない。あれこれあって心配しているものについては別だが、基本的にはそのままにしてある。教師は母港ではない。教師はあくまでも寄港地だと私は考えている。

彼らは自分の人生という旅にとって親、家族という母港を持つ。教師は彼らの寄港地でしかないと考えている。旅立って行ったものを見送るのが役目だ。卒業してから母校に帰ってくる生徒には『もうこっちから呼ぶまで帰ってこなくて良い。新しい場所で居場所を作れ』と言ったこともある。

新しい場所に居場所を作れない者は、昔に戻りたくなる。戻れば先生にちやほやされるし、後輩にでかい顔が出来るからだ。しかし、それはその卒業生を成長させない。新しい場所で頑張らせなければダメだと私は考えている。だから、戻ってくるななのである。君も私も新しい出会いの中でやるのだ。

が、こうして10年ぶりというのは、やはり嬉しい。卒業してもこうして成長の傍にいられるというのは嬉しいものだ。ま、勿論これは教師の方が勝手に思っているだけだが。教師は、おそらく一生生徒への「片思い」のままなのだと思う。あしてやりたい、こうすれば良かったと思い続けるのだ。

私たち教師は、児童生徒への伴走者であり、伴奏者であり、絆創膏であるというのも、私の基本的な考え方である。学校にいる時は学校で、学校を離れたら勝手にそう思っている。寄港地である私たちは、追いかけることはしない。しかし、寄港地はいつでも受け入れる用意をしておくものだ。

ディベート甲子園に挑んだこの彼らとの時間は、大会後の夏休みの二週間をかけてこうして纏めた。http://homepage.mac.com/ikedaosamu/debate/01kiroku.html 10年後に書けと言われても絶対に書けない文章だと、その時に思ったので必死に書いた。教師は彼らの努力の結果を後世に伝える仕事があると思ったのだ。

まさか、その文章が10年後に大学で学生達の教育に使われることになろうとは、当たり前だがその時はこれっぽっちも思っていなかったが(^^)。人生には何があるか分からない。だが、有り難いことに私は生徒達のお陰で、結果として幸せな時間を過ごしている。彼らに恩返しするためにもっと良い授業を、だな。

2012/06/26

なかなか難しいなと思っているのは教材である

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学生たちに授業をするとき、なかなか難しいなと思っているのは教材である。
私が開発して来た教材を元に大学の授業をする。イメージの花火、書き込み回覧作文、たほいや、対義語でポンなどなどである。

学生たちは、その開発された教材の凄さを実感し
「これは先生になったときに使いたい!」
と言うのである。

意味が無いと言われるより、私の気分は良いのであるが、単純に良いとも言い切れない。というのは、私が学生たちに身につけさせたいのは教材の使い方ではなく、なぜこの教材を池田が生み出さざるを得なかったのかという部分だからである。

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教材は、教育内容を教える為の材料である。教育内容と学習者と指導者の関係の中で生まれてくるものである。だから、私が開発した教材は、汎用性はあると思われるものの、それでもそれが絶対と言うことではない。

私が学生たちに学ばせたいのは、なぜこの教材を生み出さざるを得ないと考えたかであり、それをどうやって開発して来たかということだ。彼ら彼女らは、学校教育現場に出たときに、自分の指導する子どもたちに出会う。そのときに、その子どもたちの抱えている問題を、教師の指導の課題と捉えて教材を開発して行くことになる。そこでどうやってやっていくのかを考えて行くその根っこの部分を育てたいと考えている。

教育には、間違いはあっても、正解は一つだけということはない。
色々な角度から挑戦をして課題を解決して行く。
私が学生たちに紹介している私が開発した教材も、授業では90分で教えるが、開発までに10年、15年と掛かっているものなんてざらにある。授業で示しているのは、その課題を解決する為の、取り合えずの最終形態であって、かなりバージョンアップしているものである。

そのことに気がつく学生は
「先生が長い間掛けて開発したものをこうして簡単に手に入れられるなんて、実に凄いことです」
と感想を述べる。
ま、それはそれでいい。授業で教えてもらうと言うことはそういうことだ。エッセンスをドーンと受け取れば良い。

だが、繰り返すが社会に出れば、このようにエッセンスをドーンを与えてくれる研修や勉強会というのは殆ど無くなるし、あってもあまり意味を持たなくなる。なぜならば、日々の実践の場がテキストになるからだ。目の前にある出来事に課題を発見して、それを解決して行くことになる。だから、「教材」を手に入れたということだけを喜ぶ学生ではまずい。

今回、書き込み回覧作文を教えた。
実際に体験作文を書き、買い込み回覧作文のやり方を教え、体験させた。学生たちの評価は高い。だが、この書き込み回覧作文に至までの所が上手く教え切れていないと感じたので、私のHPに嘗て書いた文章を読ませた。

http://homepage.mac.com/ikedaosamu/kokugo/sakubunn/kakikomikairann-sakubunn.htm

このことで、少し教材を開発して行くこととはと言う部分は届いたようだ。

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15回の講義形式の授業ではこの辺りまでかなあと思っている。
しかし、ゼミであればそれよりももっと深く入れる。
現在三回生ゼミでは、この「教材開発」の部分に関わって半年間かけてある挑戦をしている。

小学生の使う「教材」について、従来の教材のあり方とは違うもので、子どもたちが学習したいと思うであろうものをいくつかのグループに分かれて作成している。

昨日のゼミでは三回目の検討会が行われ、β版というか作成の方向がほぼ確定した。彼らは今年度の後期に教育実習に行く。そこで自分たちのゼミで開発した「教材」を実際に子どもたちに投げかけてくる予定である。

昨日のゼミでは、その一部をフィールドワークに行っている小学生に少しやらせてみた所、小学校の5、6年生は大興奮して
「やるやる!」
となったという報告を得た。

これは三回生ゼミの学生たちに大きな力を与えてくれた。

子どもたちの喜ぶ顔が見たい。
そして、子どもたちが力を付ける力になりたい。
そのための、実力をつけたい。

学生たちはそう思っている。
それは実に正しいことだと思う。

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私が教材を開発するのではなく、学生たちが一つの考え方に基づいて開発して行く。これをゼミで検討し合い、私がアドヴァイスし、クオリティを高めて行く。ゼミでの開発、研究室での開発。実に面白い。いい感じだ。

2012/06/23

小さな蛍から大きな幸せを貰った

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朝、暴言があった。

出掛ける前ではあったが娘(4)を厳しく叱った。
本気で叱った。
出掛ける時間が迫っているが、そんなことよりも事の重大さを知らせることの方が大事だ。本気で叱った。叱ると言うより、怒るの方が正しいかもしれない。感情をドーンと入れて叱った。

娘が参加するイベントに行く前のことであった。
もう、行かなくても良いというぐらいの勢いで叱った。
「ごめんなさい!」
と何回も泣きながら謝ったが、そんなに簡単には許せるものではなかった。
暫くは口もきかなかった。

が、本気で謝っているので、
『これからはしないな?』
「はい!」
ということで、許した。

イベントを終え、昼ご飯を食べに向かった。
7/14、15に一泊二日で行う「明日の教室 7月」の下見をかねて雄琴のオーパルに向かう。
ここのレストランのランチはなかなかお値打ち。
1000円でスープ、サラダ、メイン、デザート、コーヒー(お替わりあり)である。
ゆっくりと食べる。

その後、プールとジャグジーを下見して、ゆっくりと過ごす。
7/14、15に行う「明日の教室 7月」では、ここのプールとジャグジー(最初にある写真)に入れます。
勿論、カヌーかドラゴンボートも予定しています。
お申し込みはこちら。

http://kokucheese.com/event/index/42590/

一度家に帰って、夜再び出動。
蛍を見に行った。
今シーズン一度見に行ったのだが、まだ早かったのでちょっとだけ飛んでいた。
そこでもう一度挑戦と言うことなのだ。

車の中で突然娘が
「お父さん」
という。
『ん? どうした?』
「お父さん、朝、我がまま言ってごめんなさい」
と。
『ん、ああ、あれね。そうか分かったんだな。お父さんはとても嬉しいよ』

我がままと言うよりは、暴言なのだが、そんなことはどうでもいい。
自分がしてしまったことをもう一度振り返って、ごめんなさいが言えた娘。
これ以上素晴らしいことがあるか。
感動のあまり、車の運転が一瞬危なかった。

蛍。
良かった。
4歳の娘に見せてあげられて。

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「ほ、ほ、ほーたるこい♪」
と一緒に歌える。
小さな蛍から大きな幸せを貰った。

実に盛りだくさんの一日であった。

2012/06/20

忍者発見!

京都市内を走っていたら
「あ、忍者や!」
と娘(4)。

(そんな馬鹿なことがあるか)
と思いながら娘のいう方向を見たら、
確かに忍者がいました。
しかも自転車に乗っていました。

京都を観光している外国人が見たら確実に忍者だと思うでしょう(^^)。
私は心の中で
(赤影参上!)
と叫んでいました。

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今年もディベートの熱いシーズンが始まりました  ディベート甲子園 近畿・北陸地区予選初日終了

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日曜日は、全国教室ディベート連盟の近畿北陸地区大会の初日であった。高校の参加校が増えたことから、高校は二日間に亘って開催し、その初日のうちに全国大会出場校、6校を決めることになった。

3グループに分けて、総当たり戦で戦い、各グループの上位二校が全国大会出場を決めると言う仕組みで行った。一日に四試合行う。私はその四試合でジャッジを行った。嘗てディベート部の顧問をしたことのある私は、選手の気持ちや顧問の気持ちが良く分かる。痛いほど分かる。だから、冷静に公正にジャッジをしたいと心掛けた。必死にフローシートに議論を書き込んで、判断した。

結果は出る。
はじめて大きな大会で試合をした学校もあれば、他の地方に出掛けて行って練習試合を重ねて来た学校もある。それはそれで、結果として全国大会出場を決めた学校もあれば、わずかな差で逃がした学校もでたわけである。

そんな中で閉会式での挨拶を事務局から求められて、考えて行った。
思い出しながらそのスピーチを記録しておく。

『35年前、私はここの場所にいました。実は中学校の修学旅行のホテルが、この洛南高校のすぐ隣の、洛南会館だったんです。(洛南高校生、なぜか爆笑(^^))35年を経てまさかこういう縁で足を運ぶことになるとは、当たり前ですがそのときには全く思いも寄りませんでした。

ディベートの大会で開会式での挨拶の言葉を言うときには、私は選手諸君に頑張れという意味の言葉を言うようにしています。「兎に角、全部を出し切って頑張れ。結果は結果。だが、頑張れ」と言うことを言うようにしています。で、閉会式では何を言うかと言うと、感謝せよということです。

今日は何の日か分かりますか? 父の日です。(「ああ」「えー」の声あり)。エーではありません(^^)。全お父さんを代表して、それは悲しいといういことを伝えます。ではありますが、ま、さすがに全国大会を掛けた当日に「お父さん、父の日ありがとう」という思い等浮かんでこないでしょう。ですが、お父さんは君たちの今日の戦いを深い所で心配しているはずです。応援しているはずです。結果の如何に関わらず、ありがとうのことばを是非家に帰ったら伝えて下さい。

あなた方がこうしてディベートに没入できるのは、会場を提供して下さった洛南高校の◯◯先生をはじめ、あなたの家族、チームのメンバー、サポートメンバー、顧問の先生、それから大会を運営してくれているスタッフ、ジャッジなどなど多くの人がいてくれるからです。私はあなたが、感謝できる人であることに、人に育っていることを期待しています。

特にお父さんには、道ばたに咲いている花の一輪でも持って帰ってあげて下さい。お父さんは嬉しいです。全お父さんを代表してお願いします(^^)。

さて、試合の内容についても少し触れましょう。今シーズンのディベートは、中学校が救急車の有料化、高校が死刑制度廃止とどちらも、意図せずではありますが、命がテーマになっています。ディベート甲子園に参加する中高生が半年間命に付いて、あーでもない、こーでもないと議論を重ねて行く価値は、2012年を迎えたこの日本にとって大きな意味を持つものだと考えています。じっくりと考えて議論を重ねて欲しいものです。

その中で、今回肯定側からも否定側からも「凶悪犯罪」という言葉が出てくることがありました。肯定側からは拡大自殺にともなう凶悪犯罪ということで。否定側からは犯罪抑止力がなくなることによる凶悪犯罪ということで。同じ「凶悪犯罪」という言葉を使っていますが、私にはその内容が同じには聞こえてきませんでした。つまり、そこに含まれているというか、述べようとしている内容が違っていたのです。ここでは詳しくは述べませんが、同じ言葉でありながら、サイドが違うと違う側面から捉えて話していることがあるということをヒントに、もう一度言葉を考えてみてみましょう。

ディベートでは、結果が出ます。
全国大会出場を逃した皆さん。あなた方の気持ちは良くわかります。私もその経験がチームの顧問としてあります。辛いのは良くわかります。良くこの最後の閉会式まで頑張って残ってくれていると思います。
(もう、いいから早く帰ろう)
という思いでいるのが当然だと思います。それにも関わらず残っている諸君は、それだけで先ず立派です。

そんな諸君は、もうこれでディベート甲子園2012年に終わりを告げるのでしょうか。確かにそれもあるでしょう。しかし、君たちの先輩、そう敗退して行った先輩たちの中にはこんなことをしている先輩もいました。それは、自分の地域の甲子園に出場を決めた高校のサポートに回るということです。自分たちの使っていた資料を提供し、さらに新しい資料の発掘等をし、地区の学校の戦いの為にサポートに回ると言うことをしてきた先輩たちがいます。

それを見ていて、本当にすごい高校生がいるなと私は思いました。
私は諸君にこれをしろということを行っているわけではありません。ただ、そういうことをしていた先輩たちがいて、(ああ、そうか)という思いがあるのであれば、是非、サポートをするという選択肢を選んで下さい。

また、こんなこともあります。
あなた方の立論、反駁に使っている証拠資料の著者に自分たちの立論を、または、それをもとにした小論文を送ると言うことです。もし私の書いた本、論文の一部が高校生のディベートの大会の資料で使われていて、そしてそれをもとにした論文が私の所に届けられたら、私は非常に喜ぶと思います。この死刑制度にかかわる著者も同じだと思います。
「先生の御陰で学ぶことが出来ました。不十分かもしれませんがお読みください」
とあれば、私は丁寧に読んで返事をするでしょう。
勿論、これは返事をもらうことが目的ではなく、感謝の気持ちを伝える為に行う、そして自分の学びを振り返る為に行うということです。

今はブログでも簡単に世界に発信できるわけですから、先生に送る一方でブログで公開してしまうと言うのもありだと私は考えています。

勝つと負けるでは、この段階では天地の差があります。しかし、人生は長い。負けてもここに至るまでの積み重ねをしている諸君は大丈夫です。35年前にここに来ることが想像できなかった私が自信を持って言います。人生は、色々あります。無駄なことはありません。この大会に真剣に挑んだことは、やがて、35年かかるかもしれませんがf(^^;、あなたに何かの力を与えてくれるはずです。

さて、全国大会に出場を決めた皆さん。7/1に順位決定戦があります。そこまでに一層クオリティを高めたものに仕上げて来て下さい。「凶悪犯罪」の所でも話しましたが、自分の使っている言葉をもう一度確認してみて下さい。深い所に届く議論を構築して下さい。期待しています。

最後に。私たちディベート甲子園の主催者たちは、参加するみなさんが、ディベートを通して仲間を作り、人間的な成長をしていくことを望んでいます。本日は一日ご苦労様でした。

思い出しながら、補足しながら挨拶を書いてみました。
今年もディベートの熱いシーズンが始まりました。


京都橘大学児童教育学科 「里帰りの会」

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京都橘大学の児童教育学科では、卒業しても同窓が集まれる場所を用意している。「里帰りの会」というものだ。

卒業して三ヶ月。取りあえずは職場に慣れた辺りで、大学に一度帰っておいでと言う時間だ。教師、保育士の一年目は通常の社会人よりも大変だという認識がある。一般の仕事も大変だが、教師、保育士は特殊なのである。

例えば車を売る会社であれば、先輩について一緒に車の売り方を学ぶ。お客との対応の仕方やローンの組み方、書類の書き方等々を。逆に言えば、4/1に採用されて最初から一人で車を売るなんてことはあり得ない。

しかし、そのあり得ないことを教員はするのだ。たとえば小学校教員の場合、最初から一人でクラスを持つ。そして、学級経営と授業と校務分掌を行う。中学校教員の場合はこれにクラブ指導も入る。これを一人でやるのだ。

一年目は目隠しをされたまま100走を全力で毎日走らされている感じである。何をしたらいいのか、どこに向かったらいいのか分からないまま兎に角走らされている感じである。一人で。だから、一度帰っておいで、仲間に会って愚痴を言えば良い。先生たちに会って活を入れてもらえば良いということである。

土曜日に行われたこの会は、一期生、二期生、四回生と教員で100名を越えて集まった。
(をい、そんなに辛いのか?)
とも思ったが、それもあるがやはり仲間の顔を見たいと言うことが多いようで一安心。

卒業生には、大学時代に学んだことが、いまどのように役立っているか、または足りなかったか等の話を聞き、四回生に今やっておくことはなにかを語ってもらった。先輩が後輩たちを大切にすると言うことは大事なことだと思う。先輩風を吹かすのではなくて、力のある先輩が後輩の為に役に立つという意味で大切にするということだ。

大学は、卒業してからの方が関わりが深くなるという思いを私は持っている。
恩師に会える回数は当たり前だが少なくなる。
しかし、恩師に問う回数は格段に増えると思っている。
(先生なら、このときどうおっしゃるかなあ)
と。
一回一回メールで聞くわけにも行かない。
ずっとその問いを暖め、自分なりの実践を行い、そして年に一回会えるかどうかのときにその問い続けて質を高めたものを直接伺っていた。

この会は里帰りの会であって、その年の三月に卒業した学生たちが中心。今年で言えば二期生だ。そんなに重たい問題を抱えているものは、参加者にはいなかったようだ。だが、一期生は抱え始めているし、ここに来ることの出来なかった卒業生には抱えている者もいるだろう。

児童教育学科は、卒業しても諸君の味方である。
来年も実施だ。
日程を調整して戻っていらっしゃい。

2012/06/18

作文指導について

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(父の日にと娘が選んでくれた花)

本日の教科教育法の授業は、作文指導について。80人ほどの受講生に聞くが、小学校で作文の書き方の指導を受けた事のある学生は2人であった。いや、そんなはずは無いだろうと思うだろう。しかし、そうなのである。「書き始めはひとマスあけて書いて」と習ったというかもしれない。しかし、違う。

それは、原稿用紙の使い方であって、文章の書き方ではない。アイディアの出し方、書き始め、構成の仕方、タイトルの付け方などのレッスンを受けたことのある学生は2人だったということである。私たちは多くの場合、「はい、作文です。書きましょう」とだけ言われて作文を書かされて来た。

これは「今日の体育は、水泳です。はい、泳げ」「調理実習はカレーです。作れ」と言われているようなものである。しかし、こんな授業をする先生は体育にも家庭科にもいない。しかし、作文はしている。これで子どもたちが文章を書けるようになるのであろうか。

確かに、書ける子どもは、いる。しかし、それは教師が指導したのではなく違う所書き方をその子どもが身につけて来ているだけである。教師は、書けない子どもを書けるようにしなければならない。「書け」「好きなように書け」「思ったように書け」では書けるようにはならない。

その後、授業は子どもが書けない時の三大原因を示し、それぞれについて解決方法を提示した。ただし、学生達に注意したことがある。『私のこの解決方法を全てと思うのではない。私は、私と子どもと職員室の仲間達とのかかわり合いの中で、この解決方法を手に入れた。諸君はここを理解せよ』

『解決方法という答えを手に入れることだけに執着してはダメだ。そこに至るプロセスを見なさい。問題を課題に変えて、どうやって取り組んで行ったかを理解しなさい。君たちが出会う子どもたちが抱えている問題は様々だ。その子どもに適した指導方法を考えるのが教師の仕事だ』

『その時に、大事にすることは子どもとの会話である。子どもが話している内容をしっかりと理解すること。例えば、子どもは「何を書いたら良いか分からない」と言う。その時に、「運動会で色々あったでしょ。書けるでしょ」と返事しても意味がないことがある』

『というのは、子どもは「(書きたいことがたくさんあって、そのなかからどれを選んで)何を書いたら良いか分からない」と言っていることがあるからだ。前半の部分は言語化できずに、後半だけ言うわけだ。良く聞いて、指導のストライクゾーンがどこにあるかを判断しなければならない』

作文指導はとても一回、90分では終わらない。来週に続くのであった。

2012/06/12

【講座案内】 6/30 明日の教室 玉置崇先生

明日の教室5月は、6月30(土)に玉置崇先生にお越し頂く事になりました。

玉置先生は、数学教育、ICT教育、愛知県教育委員会指導主事、所長、校長先生と実に多才なご活躍をされている先生です。落語にも造形が深い先生です。

今回は、「明日の教室 玉置崇先生 ICTを授業で、学校経営で生かす!」というテーマで御願い致しました。現職の校長先生を御招きするのは、明日の教室としては初めてだと思います。多くの観点からの学びが期待できると思っています。

みなさん、御待ちしております。

履歴(http://www.cec.or.jp/mtm/hito/tamaoki_takashi/index.htmlより)
昭和54年、教員生活スタート。小学校教諭3年、中学校教諭16年、教頭6年、校長3年、平成19年度より愛知県教育委員会義務教育課指導主事。現在は海部教育事務所長。専門は数学。

大学時代には落語研究会に所属。今でも高座に上がりご機嫌をうかがっている。小牧市立光ケ丘中学校校長時代に共同通信社賞、文部科学大臣奨励賞の (中学校の部)など多くの入賞をバックアップ。生徒だけでなく、地域と一緒に街がひとつになる様を作品で紹介された。また、マイタウンマップ・マイスター として関係する学校以外の作品にも協力されている。

玉置先生のブログは、http://www.enpitu.ne.jp/usr9/98434/diary.html
校長をされている中学校のブログは、http://swa.komaki-aic.ed.jp/weblog/index.php?id=komaki_j 

です。

お申し込みは、こちら

季節は、お互いを祝福するように移り変わって行く

6/11

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今朝、いつも通りにベランダの花や野菜の手入れをし、虫かごの揚羽蝶のさなぎを確認した。緑一色だったさなぎは、その空の向こう側に黒い縞模様が見えて来ていた。

『もうそろそろ羽化するぞ。ご飯食べ終えたら見てみようか』
と娘(4)に話したら
「うん(^^)!」
と喜ぶ。

ご飯を食べ終わったら一直線にベランダに向かう娘。
「あ、チョウチョや!」
と叫ぶ。

(へー、さなぎの中の模様を見て、蝶と分かるんだ)
と関心。何が出てくるのかは知らせていなかったから、蝶だと分かった事に驚いたのであった。

で、まあ、
(どれどれ)
と思って見に行ったら、確かに蝶がいたのである。
たかだが30分の間に蝶は羽化をし、羽を伸ばしている所であった。

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娘に羽化したばかりの揚羽蝶を幼稚園に持たせた。まだ羽が伸び切っていない蝶を見るというのはそんなにある機会ではない。園児に見せてほしいなと思ったのだ。そして、「羽が乾き切ったら、空へ放してあげて下さい」とお願いの手紙を先生に書いて娘に持たせた。ご迷惑かもしれないが、御願いした。

娘は幼稚園のバスが来るまでお友達の園児に見せていた。

二週間ほどベランダで飼っていた揚羽蝶がいなくなるのは、揚羽蝶レベルでも淋しいものだ。明日からは確認することもないのかと思うと淋しいものだ。

情が移ると言う事だろう。だけど無事に羽化してくれたことを祝いたい。また、来年の楽しみを待ちたい。

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娘が幼稚園に行った後、ベランダの片付けをしていたら、さなぎの羽化を祝うように、今年最後の月下美人が咲いたのに気がついた。こうして季節は、お互いを祝福するように移り変わって行くのだなあと思うのだ。

(ノーベル教育賞じゃないか? これ)

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(ノーベル教育賞じゃないか? これ)

と読後に思った。
『みんな言葉を持っていた ー障害の重い人たちの心の世界ー』(柴田保之著 オクムラ書店)である。

重傷心身障害を持つ人たちとの10年、20年にわたる交流、研究で、言葉等理解できるはずの無いと思われていた人たちが、信じられない位豊かな言葉を持っていたということを発見した本である。

考えてみれば、目が見えないからと言って言葉が話せないというようには思わない。しかし、体が思うように動かせない人たち(動かない、動きすぎる)は、言葉を持っていないと思い込んでしまっていたのではないだろうか。体が動かない事と、言葉を理解していない事は別の事なのだ。

柴田先生は、重い障害を持つ人たちの微かな反応に、言葉を理解している兆しがあると感じ取り、それをさまざまな方法で読み取る挑戦をする。

50音図の表をパソコンにいれ、選択したい文字のところにカーソルが動いたときにわずかに感じる変化を、選択の意思として文字を選ぶ。すると、俄には信じられない文章、詩が現れるのだ。

他にもさまざまな工夫をして、言葉を紡ぎだす手助けをする。

本書には、四章構成になっている。

第一章 秘かにに紡がれた詩
第二章 障害の重い人たちの心の世界
第三章 言葉の世界の扉を開く ー四人の歩みー
第四章 援助の実際

第一章の作品も凄いが、私には第三章の実践の記録が圧巻であった。ことばとは、教育とは、生きて行くとはどいうことなのかを深い所で問い直してくれる。目の前の子どもたちが違った姿で見えてくるのではないだろうか。

障害者に関わる人だけでなく、ことば、教育に関わる人には必読書として考えたい。

2012/06/10

新人の役割は、新たらしい風を入れる事

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(見事な雲。この雲の向こうに富士山です)

片道3時間半を掛けて東京の往復。現地では3時間の打ち合わせ。帰って来て一風呂浴びて、炭酸水で喉を潤す。

参加者は、私にとっては雲の上の存在のような方ばかり。
(いいのか、俺で?)
と思うのだが、御願いされているのだからいいのだろう。

で、そこは私。
ペーペーであるにも関わらず、ほぼ好き放題の事を申し上げる。
新人の役割は、新たらしい風を入れる事。
いきなり申し上げた。

最初から態度がでかいなあと自分でも思っているが、
染まらないから言えることがあるというのは、経験上ある。
失礼は最初に詫びてだっっっっっっと話す。

先輩方が懐の広い方ばかりで、良かったなあと思う私でありました。

一日のうちほぼ1/3を時速280キロの上で過ごすと言うのは、
実は中々大変なこと。体がまだ280キロの上にあるようにも感じる。
だけど、この仕事は大事な仕事。大切な仕事。

しっかりやって行きましょう。

2012/06/08

この写真を楽しむ

6/8

この写真を楽しむ。
使ったカメラはiPhone4。
使ったアプリは、"My Sketch"

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非連続テキストの読解の授業は、非連続テキストが与えられてそれをどう読み取るのかというものが多い。というかそれが殆どではないだろうか。

だが、時代は「Photoshop」である。Photoshopは画像加工の代名詞になっている。遊んじゃう授業は無いのだろうか。私ならこんな風に遊ぶだろうなあと思う。

この写真は、比叡山を背景にして自転車で走る人を写している。それを前提にして、

1)写真を撮る。
2)写真の加工の仕方を教える。
3)小説に合った挿絵を作らせる。
4)どれが一番適しているかコンテストを行う。(句会方式)
5)その挿絵の相互評価を行う。
6)選び合う。
7)いい作品に選ばれた生徒は、なぜこのように加工したのかの理由を述べる。

ポイントは、なぜこの工夫をしたのかを述べる事である。勿論、なんとなくはダメである。そういうことを繰り返して置いて、その後

「『走れメロス』の挿絵を作ろう」

ということをするだろうなあと思うのだ。
作る事で理解するということをするのだ。

うわあ、小学校高学年、中学生にやってみたい授業だなあ(^^)。

2012/06/07

面接練習と注釈授業

6/7

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(キャンパスの裏山の空 iPhone4にて)

本日の授業は、四回生のゼミと二回生のゼミ。四回生ゼミは個人面接練習のラスト。最初に私がなぜ教師になったのかについて語った。なぜ教師になったのかの最終的な答えは、試験に受かったからである。これがないとどうあがいても小中高の先生にはなれない。

師はなりたいと思ってなる仕事である。だから、なぜあなたは教師になりたいのですか?という面接の問いは必ずといっていいほど聞かれる。面接では、あなたはどんな人間ですか?ということをあれこれ形を変えて聞いてくる。だが、これも、「何をして来た人?」「何が出来る人?」の二つに絞れる。

「なぜ教師になりたいのですか?」と聞かれるのは分かっているのに、それがしっかりと答えられない者がいる。先ずダメなのが、「なぜ?」と理由を聞いているのに、きっかけを話す者がいる。「両親が教師だったので」これは、きっかけである。「なぜ結婚したの?」「友人の結婚式で隣だったから」

これが理由だったら、結婚式のたびに隣の人と結婚しなければならない。これは理由ではなく、きっかけである。そのきっかけからなんで結婚に至ったのか。なんで教師を選ぼうと思ったのかである。答えは、公に言えるものと言えないものがある。

言えるものの中で採用試験の答えとして相応しいものを選んで、構成して答えを準備する。このことを繰り返して私は指導している。仮に「~だからです」と答えられたとする。すると試験官は「具体的には?」と聞くだろう。そうしたら、それを具体的に述べられるようにする。これは当然のこと。

ところがこれがなかなか難しい。それは、自分が何者なのかを見つめていないからだと私は考えている。いや、自分探しをせよということを言っているわけではない。自分がしてきたことをプラスの面からもマイナスの面からもきちんと見直すべきだと思うのである。そこが足りないと、答えが浮つく。

「よし、この人に私たちの町の子どもたちを任せよう」と採用担当者に思わせる何かを話さなければ、伝わらない。話は、熱意、内容、技術の三つが大事だとズーニーさんは言っているが、まずは内容をきちんと話す本人が理解していなければならない。

それも無いのに、熱意だけでは、暑苦しいしだけだし、技術だけでは、小手先過ぎる。あなたが採用担当者になって考えてみれば分かる。「この人を積極的に取る理由は、◯◯である」の◯◯の部分をあなたが伝えなければならないのだ。しっかりとサーブを打たなければならないのだ。

私が学生たちに話した、私の公にできる部分は『教師になるということ』に書いた事。出来ない部分は、ゼミで語るときにだけ伝えること。ま、大した事ではないが、あまりネットに書いてもねということである。その両方が自分にあることを理解して、その上で、どうプレゼンするかを考えたと話した。

採用試験まであと一ヶ月を切った。四回生ゼミはこれで一ヶ月間を空ける。採用試験後に集中して行って卒論指導となる。面接指導のあと『体に気をつけて無理せよ』と伝えた。ここで無理しないでどこで無理する。だが、体に気をつけて。しっかり。期待してる。

で、二回生ゼミも面白くなっている。子どもの詩をテキスト論的な読解で読み進めている。発表者が事前に読み込んで来て、90分の授業のうち60分以上を使いながらあれこれ議論をするのである。子どもの詩の中にある違和感を感じ取り、それを言語化し、問いに高めてゼミで発表するのだ。

最初に発表したグループのレベルがかなり良かったので、後から発表するグループによいプレッシャーがかかり毎回面白い展開になっている。ただ、当たり前だがまだ模擬授業もしたことのない二回生である。授業の運び方、回し方が稚拙である。稚拙と言うか知らないのである。

そこで、今日の授業では、私が授業の展開の仕方を途中で「注釈」のような形で解説を加えながら行ってみた。例えば、「この「ふん」という子どもの発言はどんな意味を持っていますか?」と発表者が指示を出したときのことである。これはいわゆるオープンエンドの発問である。

活発な議論がすでにあるクラスであれば、これだけでも十分に行く事が多いが、発言が無かった場合はどうするのかという見通しがない。見通しが無いから、直ぐに先生が答えを言ってしまう。自分で問いを発していて、自分で答える独り言のような授業になる。

そうならないためには、その発問のゴールをきちんと見極めて(というかそもそも発問は答えが分かっているとき、説明ではなく問い変えるものが発問だから、答えを掴んでいないとダメなのだが)、子どもがどこで躓くかを考えて、そこにヒントを出せるようにスモールステップにしておく必要がある。

具体的には、答えの選択肢を与えて選ばせるとか、◯か×かで立場を決めさせて発言するとかのクローズの質問に置き換えて行くなどである。また、子どもからの発言があったときに、それをどう評価するのか。評価の観点を決めておくことで評価がぶれなくなるなどの具体例を示しながら、注釈を加えた。

『はい、ここで注釈終了。続けてどうぞ』と彼らのファシリテーションの流れは崩さないように、それでいてもうちょいと深いところに気付く事が出来るように注釈を加える。この方法は野球の解説とも違うし、副音声とも違うし、なんだろうなあと思いながらやっていた。

まだ二回生なので、授業のやりかたについては勉強が不十分である。だから、彼らが懸命に考えて来たその流れをバッサリと切る事はしない。私はどうもこの辺りが中学校の教員が抜けなくて、教えていない事に関して学生が出来ない場合、バッサリとはせずまずは教えなければならないと思ってしまうのだ。相手が大学生なのだから、自分で勉強しているのだからそれを前提にして、違う時はバッサリやってもいいのかもしれないが、どうもここいらあたりが甘いf(^^;。

学生の感想を読んでみないと分からないが、もし注釈を入れるのが邪魔だったらこの方法を採るのは止めるつもりだが、今日の授業の感触ではそれなりに良かったのではないかと思っている。「ライブ解説」? いややはり「注釈授業」とでも名付けようかねえ。ま、先ず学生に聞いてみよう。

もしこれがいいと言うようであれば、模擬授業をしたことのない学生たちが、ゼミで発表する形式の授業の進め方として、一つの型になるかもしれないなと思う今日の三限でありました。

で、数名のレポートを読んだ限りでは、この注釈型の授業展開はいいという評価だった。授業を受ける側としても、授業をするがわとしてもいいとの事であった。最後にまとめて言われるより、その場で言ってもらった方が分かりやすいし、その後の展開を自分たちで選べるのでいいとのこと。

考えてみれば、ディベートの指導のときにはこれをしていたわけである。試合を途中で止めて、その議論の展開を確認したりもしていたわけだ。それと同じ部分があるかもしれない。今日の私のチャレンジは、成功したかもしれない。来週以降もこの方法で進めてみよう。









2012/06/05

今日は日本語の魅力について講じる

6/5

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(もうすぐで咲きそうな瑠璃柳 by GR4)

本日は、人間発達学部三回生に行う、オムニバス形式の授業「多文化の理解と教育」の私の担当の部分の授業を行った。15回の授業のうち、私は一回を担当。90分の授業であったが、年に一回の授業でやり直しがきかないわけだから十分に準備をして挑んだ。

いや、まさに挑んだと言う表現が自分では正しいと思えるのだ。「日本語の魅力」というテーマで話す事になってあれこれ考え始めたのが半年前。TreeというAPPに思いついた項目をどんどん打ち込んで寝かし、打ち込んで寝かしとしてだいたい一ヶ月前から、それに関する文献で確認。

私は国語科教育法は専門だが、日本語の専門家ではない。足りないところは調べて書き込んでとしたのが二週間前。先週はその内容をどうやっって伝えて行けばいいのかを考えながら構成を練って、ほぼ仕上がったのが昨日。そして、一晩寝かせて授業の始まる2時間前に最終チェックを始めて、昼ご飯を食べて、13:00からスタートであった。

『今日は日本語の魅力について講じる。主に、書き言葉の観点から、話し言葉の観点から、日本語そのものの特徴について講じる。90分と短いので行けるところまでいく。最初に授業後の課題のやりかたについて説明しておく』と尻切れとんぼに成ってもいいように課題の提示を先に行った。

講じた内容は国語をやっている人からすれば、珍しい事でも何でも無いが、日頃幼児教育、児童教育、英語コミュニケーションを学んでいる学生からすると、「え?」「あ、ほんまやほんまや」ということが多かった授業であったろう。ま、それを狙って構成したわけだが。

例えば、方言。『今日、明日と続けると、三日目、四日目、五日目のことをなんと言う?』と問うて確認する。東京では「あさって、しあさって、やのあさって」であるが、「あさって」が「ささって」という学生がいる。三重である。三重県は刺さるのである(^^)。さらに三重の中でも四日目をささってという学生もいる。

面白い事に、京都では「やのあさって」に該当する言葉が無かったりもする。『これで日本中で貨幣経済が成立するのが面白いねえ』と話す。他にも、「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10」と順番に読む時と「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1」と上から読む時に違いが出るとか。

通常「7」が違うはず。下からの時は「しち」で、上からは「なな」になる不思議。野球のイニングを数えるとき、一回、二回、三回と読むが、階段で、一階、二階、三階のときは、三回(かい)で、三階(がい)となるのはなぜ?

ビールを飲むとき一杯、二杯、三杯なんて「ぱい、はい、ばい」となって、日本語を勉強し始めた外国人は簡単に混乱するとか、そもそも「日本」は「にほん、にっぽん」と読めるおかしさがあることなんての例に出しながらあれこれ。

こんな感じで書き言葉と、話し言葉と日本語そのものの特徴を講じ、ワークシートで問題を解き考えを深めさせた。さらに、なぜ、こんな風に日本語は豊かなのだろうかについても私の仮説を述べて、90分を駆け抜けた。だが、予定したものの半分しか終わらなかった。

『ということで、約束通り行けるところまで行きた。配れなかった資料は前においてある。参考にした本は10冊程度前においてあるから、必要な者は写メを取るように。講じたいことは後半分あるが、時間切れ。どっかで機会があればやりましょう。終わりにします。起立』と終わった。

授業後、写メを取りながら「あと1時間聞きたいです」と学生たちに言われた。
そういう反応が一番嬉しいねえ。準備の疲れ、授業の疲れが吹っ飛ぶ(^^)。美味しいコーヒーを飲んで一服したら、もう一踏ん張り仕事をしましょう。

2012/06/04

「子どもの恐怖を刺激するもの」と「子どもの興味を刺激するもの」

6/4

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(駅前の空 by iPhone4)

授業なんかしないで読んでいたい本というものがある。いま、そういう本を数冊抱えている。だが、当然授業は授業。やる。まあ、やり始めれば授業をすることは面白いので、そちらに没入するのだが、読みたい本に突入できないのは体に良くないなあと思う。

今日の教科教育法(国語)の授業は、学習ゲームの続きと、読書指導を講じた。学習ゲームでは、「J1百人一首」「四字熟語でポン」などの私が開発したゲームを中心に、なぜこのゲームを開発する必要があったのか。その勘所は何か。

学習ゲームは楽しければいいのだが、開発者には思想が必要だ。
なぜ学習ゲームという指導方法を採るのか、これを説明できなければならない。これがきちんと説明できれば、授業として価値のある指導法であるとの説明が出来る。また、改良や開発の力を身につけることもできる。では、何か。インターフェイス、ゲームバランス、学習内容。先ずこの三つが大事だ。

で、この頃改めて思うのが、子どもを学習に向かわせるのは、「子どもの恐怖を刺激するもの」と「子どもの興味を刺激するもの」の二つがあるいうことだ。恐怖を刺激するというのは、「勉強しないと〜になりますよ」のように説明するやり方だ。この恐怖スタイルで勉強させられて来た人は多いと思う。

ただ、体罰で子どもを殴って育てても、子どもが殴られるのを何とも思わなくなった時にこの体罰は効果がなくなり、逆に殴ってくるようになるように、恐怖を刺激して勉強させようとした所で、「別に、高校行かないし」とか「もう、入試は終わったし」となってしまうと、子どもは勉強はしなくなる。恐怖を刺激する勉強には、このような限界がつきまとう。

もう一つの、子どもの興味を刺激する勉強方法は、もっと開発されて良い。子どもが興味を持つものを素材にして、それでもっと遊んでいたいと思って遊ばせていたら勉強していたというものである。学習ゲームはその文脈で作られている。私は興味を刺激されて行われる勉強は、学びだと思っている。

そこで扱われる教材は、教材ではなく、学習材になるのだと思う。教材は、教える側の都合から作られる。教えやすさに重点が置かれているのではないだろうか。それに対して、学習材は、学習者の学びやすさに重点を置く。だから、子どもの興味や関心は重要になる。そこにどれだけ寄り添えるかだ。

学習材の考え方をとるとき、学校文化と子ども文化の対立の場面を見ることになるかもしれない。子どもが興味を持っているものは、学校に持ち込んではダメなものが殆どであるからである。ただ、子どもの興味を刺激するスタイルの学習を考えようとする時、ここは避けて通れない部分でもある。学校現場を混乱させずにどうやるかだ。

今日の授業の前半はこの辺りのことをあれこれ考えてみた。読書指導に関しては、またいずれ。さ、食事に行ってこよう。

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