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2012/06/04

「子どもの恐怖を刺激するもの」と「子どもの興味を刺激するもの」

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(駅前の空 by iPhone4)

授業なんかしないで読んでいたい本というものがある。いま、そういう本を数冊抱えている。だが、当然授業は授業。やる。まあ、やり始めれば授業をすることは面白いので、そちらに没入するのだが、読みたい本に突入できないのは体に良くないなあと思う。

今日の教科教育法(国語)の授業は、学習ゲームの続きと、読書指導を講じた。学習ゲームでは、「J1百人一首」「四字熟語でポン」などの私が開発したゲームを中心に、なぜこのゲームを開発する必要があったのか。その勘所は何か。

学習ゲームは楽しければいいのだが、開発者には思想が必要だ。
なぜ学習ゲームという指導方法を採るのか、これを説明できなければならない。これがきちんと説明できれば、授業として価値のある指導法であるとの説明が出来る。また、改良や開発の力を身につけることもできる。では、何か。インターフェイス、ゲームバランス、学習内容。先ずこの三つが大事だ。

で、この頃改めて思うのが、子どもを学習に向かわせるのは、「子どもの恐怖を刺激するもの」と「子どもの興味を刺激するもの」の二つがあるいうことだ。恐怖を刺激するというのは、「勉強しないと〜になりますよ」のように説明するやり方だ。この恐怖スタイルで勉強させられて来た人は多いと思う。

ただ、体罰で子どもを殴って育てても、子どもが殴られるのを何とも思わなくなった時にこの体罰は効果がなくなり、逆に殴ってくるようになるように、恐怖を刺激して勉強させようとした所で、「別に、高校行かないし」とか「もう、入試は終わったし」となってしまうと、子どもは勉強はしなくなる。恐怖を刺激する勉強には、このような限界がつきまとう。

もう一つの、子どもの興味を刺激する勉強方法は、もっと開発されて良い。子どもが興味を持つものを素材にして、それでもっと遊んでいたいと思って遊ばせていたら勉強していたというものである。学習ゲームはその文脈で作られている。私は興味を刺激されて行われる勉強は、学びだと思っている。

そこで扱われる教材は、教材ではなく、学習材になるのだと思う。教材は、教える側の都合から作られる。教えやすさに重点が置かれているのではないだろうか。それに対して、学習材は、学習者の学びやすさに重点を置く。だから、子どもの興味や関心は重要になる。そこにどれだけ寄り添えるかだ。

学習材の考え方をとるとき、学校文化と子ども文化の対立の場面を見ることになるかもしれない。子どもが興味を持っているものは、学校に持ち込んではダメなものが殆どであるからである。ただ、子どもの興味を刺激するスタイルの学習を考えようとする時、ここは避けて通れない部分でもある。学校現場を混乱させずにどうやるかだ。

今日の授業の前半はこの辺りのことをあれこれ考えてみた。読書指導に関しては、またいずれ。さ、食事に行ってこよう。

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