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2012/06/27

判断、評価というのは、いろいろなレベルがある

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昨日、消費税に関する決議が国会で行われた。
今日のディベートの授業では、そのことに触れながら始めた。

『消費税率を上げることは良いと思う人は、パー。悪いと思う人はグー。さ、手を挙げてみよ。セーの』

で手を挙げさせた。パーが1/7程度いて、残りはグーであった。

判断、評価というのは、いろいろなレベルがある。
私が読んだ本の中で、そうかもしれないなあと思ったのは、次のようなものである。

 好きか嫌いかは、個人が決める。
 良いか悪いかは、社会が決める。
 正しいか間違っているかは、歴史が決める。

というものである。

今回の消費税率を上げようとする国会の審議は、個人で言えば明らかに嫌いの人が殆どであろう。勿論中にはアメリカの大富豪のように、「金持ちの税率を上げよ」と言うような人もいるが、それは例外中の例外だ。通常は、個人レベルでは税率が上がるのは「嫌」であろう。

で は、この判断は良い判断か悪い判断か。どちらであろうか。社会の判断というのは、世論であったり、パブリックコメントであったり、世論調査であったり、デ モであったりというところに出てくるであろう。増税について、良いのか悪いのかの議論として出てくる。今回の流れは、悪いという判断が多いように思える。

そして、正しいか間違っているかである。
上記の説が正しいとすれば、この判断が正しいか間違っているかを決定するには、あと100年程度は必要になってくるということになる。その時は、いまこの日本にいる人たちは、基本的にはいない。だから、正しかったのか間違っていたのかの結果を見ることができない。

(ははーん、そうか。じゃあ、結果が分からないんだったら、何をしても良いじゃん)

ということを言いたいのではない。
ディ ベートの授業では、肯定側と否定側に分かれて議論を行う。その際、肯定側に立つのも、否定側に立つのも自分の好みで選ぶのではない。機械的に選ぶことにな る。ジャッジも、自分の好みで判断するのではない。目の前で行われた議論を元に判断を下すことになる。つまり、ディベートは「好み」で議論が行われること は無い。

では、何を比べているのか。それは、プラン導入後の世界が、良いのか悪いのかを肯定側と否定側で比べ合っいるのである、その結果 をジャッジに届けてジャッジが判定を下すのである。ディベートは相手をやっつけるのではなく、ジャッジを説得するコミュニケーションゲームなのである。好 き嫌いを越えて、良し悪しを議論するのである。

そう、正しさを議論しているのではないのである。
ディベートによくある間違いに、勝ったら正しいのかというのがある。
勝ったのは議論が強かったからであって、正しかったからではない。私が学生達と戦えば、肯定側でも否定側でも勝ってしまう。それは正しいからではなくて強いからだ。

【日本は、~をすべきである。是か非か】という論題で問われているのは、日本にとってこの政策を実行することは、良いのか悪いのかである。プラン導入後に、良い世界が見えるのか、悪くなってしまうのかを問うているのである。

そして少しは、正しいか間違っているかという領域に踏み込んで議論の質を高めるように出来たら良いなと思っている。

今生きている私たちが届く部分は、良いか悪いかの部分であるとすれば、その良いが本当に良いのか、悪いが本当に悪いのかをじっくりと考えて、判断し、選択できる力を身につけて行く必要があるのだ。

そして、それはやがて、歴史の中で「正しい」という評価が下されることに繋がるのだと考えている。

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