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2012/07/30

10分の模擬授業を通して、授業を作ることの基礎基本についてのレッスン

7/30

Photo
(昨日の夕暮れ。赤銅色というかセピア色というか。こんな色は滅多に見ることが出来ません。驚きました)

三回生ゼミ合宿には、キャンプファイヤーから参加した。キャンプリーダーのボランティアをやっている学生たちが多いので、かなり正式なキャンプファイヤーであった。私は、ビールを飲み乍らゆっくりと火を見て過ごすのを想像していたが、ま、それは単なる焚き火であったf(^^;。

あれこれの活動をキャンプリーダーが指示してやって行く。ゼミ生たちの新しい顔を見ることが出来て、それはそれで面白かった。しかし、私は違和感も感じていた。なんというのだろう、押しつけ感を感じていたのだ。

「リーダーの言うことを聞け。これに従え」というものを感じていたのだ。
リーダーが正しくて、それに従うべきであるというようなものを。私が生徒の立場で参加していたら、引いていただろうなあと思うのだ。

勿論、この指示で新しい自分を出す子どももいるだろう。だが、ダメという生徒もいるに違いない。翌日ゼミ生たちに聞いてみたら、確かにいると言うことであった。なんというか1960年代の冷戦構造がしっかり残っている時の文化のように感じたのであった。

キャンプリーダーではなく、キャンプファシリテーターという存在はいないのかなあと思った。構成と演出をきちんとやって、その場での存在を消してくれる存在。ファシリテーションの可能性はここにもあるなあと思った。そして学生たちには
『ファシリテーションを勉強すると良いよ。もっと良い、ファイやストームが出来ると思うよ』
と伝えた。

お約束の肝試しをし、二回目の肝試しをしているときに流石に東京日帰りの疲れが出て寝た。
真っ暗な森の中のテントでぐっすりであった。

翌朝は、パンを食べてネイチャーゲーム。
いくつかやったのだが、「動物交差点」というのが面白かった。頭の上に動物のカードを自分に見えないように乗せ、クローズエンドの質問をしながら自分が何の動物なのかを当てるゲームである。

私は
『四つ足歩行ですか?』
『肉食ですか?』
『アフリカ大陸にいますか?』
の三つの問いで、ライオンという答えを導いた。

ところが学生たちを見ていると、これが実にうまいこといっていない。なんでだろうかと見ていた。理由は大きく二つあった。一つは、動物に関する知識がないため、質問されてもそれが正解かどうかを答えられないという答える側の問題。もう一つは、質問する側が戦略的に概念レベルを整理して消去するということが出来ていない問題である。

ネイチャーゲームとしては、動物の知識を得られることが面白いのかもしれないが、私は後者の質問する側の問題としてこれを面白く見ていた。このゲームを、メタ概念やグループ化ということを教えるレッスンに使えるのではないかと思った。実に面白かった。

その後、講義の出来る部屋に場所を移して、10分、または15分の規模の模擬授業を四つ行った。これも面白かった。ゼミ生たちは自分がやってみたい授業を書籍等から捜して来て、それを追試し乍ら行っていた。実習を一ヶ月後に控えた彼らにしては、思ったよりも上手く出来ていると思ったが、当然のように上手く行かないことが出て来た。

追試の場合、書き手はこの指示の仕方で大丈夫だろうと思って書く場面であっても、別の者が追試をすると上手く行かないことがある。それが何故なのかを検討し、修正追試を加えることで授業の腕は上がって行く。また、それを文章に残すことで実践記録の書き方も身につけて行く。

今回は10分の模擬授業を通して、授業を作ることの基礎基本についてのレッスンを行うことにしたのだ。

例えば、中村健一さんの「ダジャレ川柳」の授業をやったグループがあった。
10分という制限を掛けたことで授業者は「導入が難しかった」と感想を述べた。何故難しいかと言えば沢山の例を出すことが出来ないからである。そうなのである。ダジャレ川柳の例を5つも6つも出せれば出すのだが、そんなことをしていたら時間がなくなる。だから、1つにする。そう、ここで1つに絞ることで、「導入にはそもそも何が必要なのか?」と考えざるを得なくなるのだ。ここが大事。

そして、困った所である。中村さんの本には子どもからダジャレが出てくる前提で書かれている。ところが実際に模擬授業をやってみると学生たちも急にはダジャレが出てこないのである。ダジャレが出て来たらそれを575の形に変えて、川柳にするということなのだがそもそもダジャレが出てこないのである。さ、どうするのか?ということで授業後の検討会に移った。

私が学生たちに口を酸っぱくして言っているのは、授業は子どもが発問に答えてくれる前提で作ってはだめだといことである。コナン型の授業構成で、こういう発問をすれば、子どもたちが答えてくれて、それを受けてさらに発展させてとしてしまうと、最初の発問で子どもたちが答えられないと、あっという間に崩壊してしまう。答えてくれることを前提にして展開を考えているからだ。

だから、答えてくれないを前提にせよと言うのである。
今回の場合では、ダジャレが作れないを前提にしなければならないのである。幸いにして、導入でダジャレを使った川柳は一つしか紹介していない。そうしたら、ここで紹介することも可能である。

ところが、もう一つ問題がある。多くを紹介してしまうと、児童がダジャレを考えるネタを潰してしまうことになる。だから多くは紹介できない。さ、どうしたらいいのだろうかと考えて行くことになる。

わたしのアドヴァイスは、川柳のダジャレになる部分の一部を紹介するという方法である。例えば「布団干す 風が強くて ふっとんだ」という川柳の場合、これを丸ごと紹介するのではなく、「布団」だけを紹介すると言うことである。これで子どもたちを刺激するのである。

このダジャレ川柳の実践は、ダジャレを川柳の575に収めるということで面白さを生みだすというものである。柄井川柳の示した川柳はおかしみが大切になる。それをダジャレという視点で子どもたちに作らせると言う観点は、さすが中村本である。しかし、よく見てみると、1)ダジャレを作る、2)川柳形式にするという二つの内容がはいっている。1)が前提になっていて2)になっている。

だから、1)が出来ない児童にはこの授業はとても難しいものとなり、日頃からお笑いを考えている子どもだけが参加できる授業になってしまうのだ。(この指摘はゼミ生からもあった。なかなか鋭いなあと思った)

そうだとすれば、修正追試では、1)の部分がクラスの子どもたちにとって可能であるような工夫を加えたものを行えば良いのである。そうして、授業をしたものを記録に残したとき、新たな実践論文が生まれて行く。授業がより良いものになっていくのだということを話したのであった。

この時の残りの模擬授業も結構面白かったので、このことについては多分続きます。

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