玉置先生は、大人の後半を生きていらっしゃった
7/1
昨日は「夏越しの祓(なごしのはらい)」である。茅の輪をくぐりながら、一年間の前半の穢れを落とす式が関西では行われる。関東にいた時はこれを意識したことは無かったが、関西、特に京滋では結構気にしている。
そんな昨日、私たちは明日の教室で玉置崇先生をお迎えした。
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子どもの頃、大人になったら何でも出来ると思っていた。
自分が困ったことを解決できないのは、子どもだからだと思っていた。
子どもが大人になれば、いろんなこと、またはありとあらゆることが解決できると思っていた。
解決できない人は大人ではないと思っていた。
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そして、私も大人になるわけである。
そして、笑ってしまうのである。
(問題だらけだ。解決なんて出来るわけがない)
と思ったのだ。
(俺の人生の時間で、この解決は無理だ)
と思ったのだ。これが大人の前半
◆
その後、もう少し大人になり、
(俺の人生の時間で解決できなくても、これ以上悪くしないこと、または、やや少し次世代が解決できる道筋を残すことができればなあ)
と思うのようになったのが、大人の中半。
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そんな定義が正しいとすれば、今日お越しいただいた玉置先生は、大人の後半を生きていらっしゃった。
激務の教頭職をしながら、また、校長職、教育委員会職をして、さらにそのことで得た体験からの知見を現在の校長職に注ぎ込みながら、問題を課題に変えて
(うんにゃろおおおおおおおおおおおお!)
という思いを胸に持ちながら、冷静に解決されていた。
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凄いなあと思うのは、大きく三つある。
1)玉置先生がやられる政策は誰もやっていないこと。だから、どうなるかは分からない。その上で、このプランを採った場合、どうなるかということを綿密にシミュレーションした上で、それへの対応を予め考えていること。勿論、全てとは言えないが、どういうクレームが来るかを予め想定した上で、手を打っていること。
2)子どもを伸ばそう、職員を大事にしようという理念を具体化できるということ。具体的にはICTを活用してあれこれされるのであるが、それが、私利ではなく、公利に則ったやり方であって、それが凄い。
3)落語
例外を排除した上で、場合分けをしつつ考える数学を専門とされているにも関わらず、例外だらけ、寧ろ例外の中で生きている人を描く落語を趣味とされている先生のありかた。今日の講座でも、高座ではないかと思うような模擬授業。レベルを下げるのではなく、低いレベルでのネタフリから始まって、最後は学習者が考えざるを得ない学習環境条件への導き方などを具体的に教えて頂いた。
で、そのときのキーワードが、落語であった。
これは説明できない。玉置先生の講座か、DVDで実感して頂けるのがいいかなと。
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現場にいた時、結果的に私も良い校長に7割位恵まれたと思っている。自分で言うのもなんだが、人のことを悪く言うのが好きではないタイプなので7割と言うのは実はもっと低いのかもしれない。が、まあ、このぐらいの数字かなあと思っている。
その中でも頭抜けて素晴らしい校長にも出会えたとき、私は本当に成長させてもらったと思っている。私のような教員が職員室にいたらやりやすいか、やりにくいかだとは思う。だが、敬愛している校長は好き放題させてくれたし、自分も好き放題やっていた。
(なんだ、こんな風にやってもいいんだ)
と思わせてくれた。子どもたちに向き合っていれば、いいんだと実感させてくれた。
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玉置先生の学校で働く先生たちは、いいなあと思う。
大変だとは思うけど、いいなあと思う。
学校を見学にいきたいなあと思った。
玉置先生、ありがとうございました。
一年の前半の締めくくりの日に素晴らしい学びを頂きました。
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