「いるか」(谷川俊太郎 言葉遊びうた)の模擬授業
7/30-2
(赤銅色の次に現れたのが、この紫色の空。これも実に神秘的でした)
忘れないうちに、後二つの模擬授業に付いても書いておく。
一つ目。「いるか」(谷川俊太郎 言葉遊びうた)の模擬授業だ。この授業は音読を楽しむ。声に出して読んでみてその面白さを楽しむのだ。
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「いるか」 谷川俊太郎
いるかいるか いるかいないか
いないかいるか いないかいるか
いないいないいるか いるいるいるか
いつならいるか いっぱいいるか
よるならいるか ねているいるか
またきてみるか ゆめみているか
■□■
である。
音読の授業ということは声に出して読めば良い、ということではない。声に出して読むには意味を理解しないと読めないと言うことなのである。
この詩を扱った発問で優れているなあと思うのは、http://homepage1.nifty.com/moritake/kokugo/1/iruka.htm にある「一連の中に、動物のいるかは何回出てくるでしょうか?」というものだ。つまり、「いるか」は、海豚であるものと、そうではないものが混在しているということなのである。だから、どの「いるか」が「海豚」なのかを特定しないと音読できないと言うことなのである。
◆
今回の模擬授業では、学生の最初の発問は
「この詩を読んでどんなことを思いますか?」
のようなオープンドの発問であった。学生たちは最初の発問に、この手の発問を好む。なぜかと言えば、子どもたちが答えやすいからというのである。つまり何を言っても良いので答えやすいということなのである。
「一連の中に、動物のいるかは何回出てくるでしょうか?」のクローズエンドの発問との差は歴然としている。この発問は、数を数えることで子どもたちの中に差が出てくる。その差を活用して議論を生み出し、理解を深めることが出来る。
一方オープンエンドの発問は、好き放題の「答え」を言うことが可能になる。そして、それはどんな「答え」であっても、「どんなことを思いますか?」と発問した以上「正解」にしなければならなくなるはずなのである。これで授業が混乱しないわけが無い。
因に模擬授業で生徒役の学生の出した「答え」には、
・水族館
・お菓子、いるか?
などがあった。
当然、授業者は「水族館」を拾う。そして、授業を進める。ま、そうだろう。しかし、私だったら拾うのは断然「お菓子、いるか?」である。
授業者は、「いるか」は「海豚」と「居るか」の二つの意味だけで考えている。ところが、この他にも「要るか?」という可能性があることを「お菓子、いるか?」という答えは示してしまったのである。教材研究をそこまでしていなかった授業者は、「お菓子、いるか?」を捨て、「水族館」で授業を進めた。「お菓子、いるか?」と発言した子どもは不満を抱えつつここから先は授業の傍観者になるのである。
◆
「いる」は、「射る、要る、居る、煎る、鋳る、炒る」などの漢字を思い浮かべることが出来る。授業が小学校二年生であれば、この漢字の全部を検証することは厳しいが、少なくとも「要るか?」は検討する必要性が出たわけである。
ここで授業の計画を、授業中に見直して
「あ、ほんまや。要るかもあるねえ。他にもある?」
と発問を組み立てることができないと、授業は実につまらなくなる。
例えば
「いるかいるか いないかいるか」
の第一連の最初の二行だけであっても、
1)海豚 海豚 海豚
2)居るか 居るか 居るか
3)居るか 居るか 海豚
4)海豚 海豚 居るか
5)海豚 居るか 居るか
6)居るか 海豚 海豚
7)海豚 居るか 海豚
8)居るか 海豚 居るか
の読みが可能であり、さらに「射る、要る、煎る、鋳る、炒る」も健闘するとなると、相当な検討をしなければならないことになるのである。そして、どれにすると良いのかを、クラスの議論の中で一致させて行く指導が必要になるはずである。
◆
この詩は、単純に深く意味を考えずに音の響きだけを楽しめば良いのかもしれない。
しかし、意味をしっかりととらえて読もうとすると、このような検討が必要になるはずである。これを小学校二年生に向けて、何を選び何を捨てて、何を学ばせるのかと言うゴールがきちんと決められていないと、意味を取らせて読ませようとしつつも、簡単に失敗してしまうだろう。
そんなことを話した。
後一つ、続きます。
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