もっともっとエピソードを語るべきだ。古人がそこに居るように
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古典の部分を教科教育法(国語)で教えている。なんというか、本当に学生達が可哀想という思いがこみ上げてくる。これは国語教員として、教科教育法(国語)を教えている人間として猛省しなければならないことだと思う。一言で言えば、国語の面白さを高校までに味わっていないのだ。
言葉の面白さ、さらに、古典の世界の面白さを味わっていないまま、大学生になっているのだ。私は言葉が面白い。文字が面白い。(こんなに面白いのに、なんで国語が嫌いな人がいるんだろう)と単純に思っていた。それは、言葉や文字の面白さに早い段階で気づかせてもらったからかもしれない。
小学校4年生の時に「のらくろ」の漫画を読んだ。歴史的仮名遣いはこの漫画で覚えた。一時期、自分の書く文章はすべて歴史的仮名遣いで書いていたぐらい影響されていた。中学で歴史的仮名遣いが分からない仲間がいるのに驚いたぐらいだ。また、さだまさしさんに出会えたのも大きい。
グレープ時代のアルバム、さらにソロの「帰去来」「風見鶏」のアルバムに収められたさまざまな古典の世界。これは今聞いても色褪せない。「さだまさしを聞く奴はネクラだ」などと「攻撃」もあったが、やはり今聞いても良い。
「フレディもしくは三教街」に憧れて漢口(ハンカオ)に行ったり、「飛梅」から、『大鏡』を読み、太宰府天満宮に行ったり、「絵はがき坂」から長崎の活水大学に行ったりと、今風に言えばたっぷりスローリーディングしてたわけである。勝手に灘校の橋本武先生がされていたことをしていたのだ。
私が塾や中学校の教師だった頃は、だから文章の、文学の内容というよりはその周りにあるエピソードをタップリと語って来た。横道にそれているという言い方も時にはされたが、文学と古典を彼らに結びつけるには、生徒の生活とこれらが繋がっていることを実感させないと入って行かないと思っていた。
所が彼らは、見事にこれがされないまま大学生になっている。(君たち、辛かったろうなあ)と思う。というか、授業で言ってしまった。教科書を読まされて、問題集をやらされて、漢字を暗記させられて、先生の説を聞いて。まるで私が受けた中学校2年生の時の授業だ。これをずっと受けて来たわけだ。
古典が古典でありうるのは、そこに描かれている世界が今と繋がっているからだ。今と繋がっている。または同じであることを発見するとき驚きと喜びがある。言葉は変わる。やさしが、痩せる思いという意味から、優しいに変わったりするように変わる。しかし、人の思いはそれほど変わるものではない。
言葉の難しさから、古典の世界が敬遠される。それは分かる。しかし、それはあまりにも勿体ない。また、国語の教科書は教科書だけに人間の正しさ、美しさ、立派さを扱った教材が載る。これだとうんざりする生徒が出てくる。しかし、当然だが人間は間違っていたり、醜かったり、情けなかったりする。
その古人の「生き様」を他人事としてではなく、(ああ、同じだ)感じられるとき、人間への愛しさや共感が生まれるのではないかと思う。国語の授業では、もっともっとエピソードを語るべきだ。古人がそこに居るように、そこに居て違和感が感じられないように。今日改めて強く思った。
因に、参考図書としては、「学校では教えない古典」 と 「SONG OF LIFE」 がお勧め。先生が先にはまってしまうでしょう(^^)。
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