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2012/07/30

これを「省察的教材研究」と呼んでいる

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(で、これが今朝の琵琶湖。パステルカラーの色調は、昨日の名残でしょうか?)

もう一つは、「http://sekichan.net/kokugo/tomodachinarikiri.swf」にある「友達なりきり自慢作文」の追試の模擬授業であった。これもなかなか学べることの多い模擬授業になった。

まず、「友達なりきり自慢作文」というタイトルが良くわからないという意見が出た。

1)自慢は、作文の中で、友達が友達の語り方で自分を自慢するように、私が書く? 
2)自慢は、作文の中で、私が私の語り方で友達を自慢するように、私が書く? 

作業をさせると、ここが最初から混乱してしまっていた。HPにある例文と授業者がそれを元にオリジナルで書いた例文では、1)を想定しているのだが、上手いこと説明できずに混乱させてしまっていた。ひょっとしたら、「友達なりきり自慢作文」というタイトルに工夫が要るのかもしれない。

授業は、作文を書かせる為の準備に移った。
「ペアになって、友達のことを知りましょう。さ、どうしたらいいかな?」
という発問が起きた。そこでは、

・お話をする
・友達と遊ぶ

という答えが出た。授業者は「お話をする」の「答え」を選択して授業を進める。そして、「そう、取材が大事なんですね」と進めて行った。これは、HPにある通りの流れである。しかし、ここも私なら拾うのは「友達と遊ぶ」である。

「友達と遊ぶ」と子どもが答えたとき、教師の中には
(この子は何を考えているのか?)
(勉強したくないのか?)
(???)
と思う者もいるだろう。
だが、落ち着いてこの子どもが答えた「友達と遊ぶ」の真意をこの瞬間に読み取らなければならない。柱になるのは、「本当に勉強をしたくなくて遊びたいのかどうなのか」である。私は授業を聴き乍ら、この発言をした児童役のゼミ生は「本当に勉強をしたくなくて遊びたい」という意味で発言したのではないと理解した。

授業の後の検討会で学生は
「だって、友達と遊んだら、その友達のことが良くわかるから」
と発言していた。そうなのだろう。そこを言いたかったのだろう。しかし、この「だって、友達と遊んだら、その友達のことが良くわかるから」という理由の発言は、通常授業では言えない。そして、「友達と遊ぶ」という主張の部分だけが、取り上げられ、その主張が一見突拍子もないほど、授業では捨てられて行く。そして、スカスカの授業になる。発言した子どもの不満が残る授業になる。

『じゃあ、どうしたら良かったのだろうか?』
といくつか議論をさせた後、私ならこうすると言ってその場でやってみた。

『どうしたら良いと思う?』
「友達と遊ぶです」
『えー、なんだって?! びっくり!! 友達と遊んじゃうんだ』
「うん」
『だって、作文書くんだよ。遊んで大丈夫なの?』
「だって、先生、一緒に遊んだらその子のこと良くわかるよ』
『あ、そうか。なるほど。お話をすることでそのお友達のことが分かることもあるけど、遊んでも分かるってことね』
「うん」
『そうだね。この作文は友達のことを取材するんだけど、取材は色々なやり方があるかもしれないね』

という展開である。授業者は、取材という概念を狭く考えすぎていたのである。HPの先行実践は確かにその通りに書いてあるのだからその通りにやってみるのがいいのだが、このように授業にはその場での瞬間の判断を迫られる場面が突然訪れるのである。

その時に、そこで流すことをせず、捨てることをせず、
(これはいったいなんなんだろうか?)
と踏ん張って立ち止まって、仮説を立てる。
そして、授業の展開を再構築して進んで行くことが大事なのだ。
これを、「省察的教材研究」と呼んでいる。授業の後にやることが多いとは思うが、優れた授業者は、これを授業内にやりながら進む。これが出来る力量を身につけないと授業は面白くならない。

授業は、やりたかったことと、出来たことがズレるものである。それは、良い方向にズレることもあれば、残念な方向にズレることもある。しっかりと教材研究をした所で、その発生を0%にすることは、講義メモをそのまま読み上げるスタイルの授業をするか、録画して修正した映像を流す以外には、あり得ない。だから、ズレることを恐れてはならない。

問題は、残念な方にズレたとき、何がきっかけでズレてしまったのかを省察することである。自分で省察できない場合は、教えを請うことである。模擬授業、研究授業では授業が終わってから授業者に「自評」を述べる時間を与えられるのが普通である。その際に、
「私がしたかった授業はAというものです。しかし、Bになってしまいました。どこの指導が悪かったのか。どうすれば、Bに向かえたのか。そこの部分をご指導ください」
と言えば良いのである。

研究授業の検討会では時に
「指導案にはAとありますが、Bになりましたね。おかしいですね」
とだけ指摘する方もいる。授業者は頭を下げて反省すると言う構造だ。だが、私は違うと考えている。

指導案にはAとあるが、Bになったというのは授業者が十分に分かっていることなのだ。そんなことを指摘しても意味が無い。そこを踏まえた上で、Bにするにはどうしたら良かったのかを、授業の事実を元に検討する。そして、授業者が(なるほど!)と思えるアドヴァイスを研究授業を見ていた人がすることができたとき、その省察は授業者に響くのだと思う。そして、やがて授業者が授業内で省察を行いつつ、授業を進めることのできる力量を身につけることが出来るようになっていくことを期待したいのである。

念のために加えておけば、話し合うという方法に付いても、1)話し合う項目のリストを用意する、2)話し合う時の例を示す、3)Why -Because Gameのようなコミュニケーションゲームを用意しておく等の準備も必要である。

「お話しして下さい」

という指示は、子どもによっては泳げないにもかかわらず「泳ぎなさい」と指示されていることと同じ意味を持つことがある。

教師は出来る。出来る側からだけ考えて、指示を出し、その指示に子どもたちが従うという前提で授業を作る。そろそろこういう授業はもう終わりにしたいものだ。

ゼミ合宿の模擬授業とその後の検討会が面白かったので、長文を書き続けてしまいました。

ゼミ合宿の模擬授業に関する三回連載は、これでおしまい。

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