10/1
(富士川を行く新幹線の車窓から。橋梁と雲の隙間から奇跡のように富士山を眺める)
「池田先生、お忙しい所をありがとうございます」
講座では主催者にこのように挨拶される事が多い。
『いえ、まあ、そんなことないです。お招きいただきまして、ありがとうございます』
と答える事が普通である。だが、この三ヶ月は
『はい、まあ、良く私のことをお分かりいただきまして。ええ、本当に忙しいんです』
と言いたくなるような時間であった。
この三ヶ月は、
「倒れないように」
が自分に言い聞かせていた言葉だ。
綱渡りのようなスケジュールで乗り越えて来た。
いや、まだ終わり切っていないものもあるのだが、大きな山を乗り越えたという実感はある。今週は、授業と大学の会議だけ。なんだか、スケジュールの記録漏れではないかと思ってしまうほど、外に出て行く仕事は何も無い。これで日常に戻ったなあと言う感覚だ。本を読み、原稿を書き、娘(5)と遊びとすることができる。
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週末は明日の教室東京分校で講座を務めた。「体験作文の書かせ方」である。案内文にはこう書いた。
引用開始 ーーーーーーーーーー
「運動会のことを書きましょう」
そう言って月曜日の朝、子どもたちに原稿用紙を配る。二ヶ月も前から準備練習に取り組んで、もの凄く盛り上がった運動会。どんな作品が仕上がるかあなたは楽しみにしています。ところが、子どもたちは
「先生、何を書いたら良いか分かりません」
と言ってくる。
「え、だってあんなに書くことがあるでしょ!」
と驚愕。さらに、
「どう書いたらいいのか分かりません」
「なんで書かなければならないのですか?」
と言われ
「とにかく、好きなように書きなさい」
「思った通りに書きなさい」
としか答えられない自分に気がつくものの、さて、どうしたらいいのか分からない。
そんなあなたに贈る、体験作文の指導方法です。
秋の行事の前に、教室が幸せになる体験作文の指導方法を是非身に付けて下さい。
子どもたちは、作文を書き終えると
「早くもう一度作文を書きたい!」
となるでしょう。
引用終了 ーーーーーーーーーー
自分でハードルを上げてどうするんだ?と思ったが正直な気持ちはこれであった。
そもそもこの講座は、特別講座になっている。もう既に9月の予定は決まっていたのに、行事が目白押しするこのタイミングでこの作文の書かせ方の講座をやっておいた方がいいんじゃないのかなあと思っていた所、東京で急遽日程を組み込んでくれたので、手を挙げてやってきた。
一言で言うと、19年間で私が中学校教育現場であれこれやってきた内容と最近考えている事を、3時間30分で語り尽くすと言う無謀な講座であったf(^^;。 会場にはtwitterやFacebookでしかお話しした事の無い方々のお顔もありとても嬉しかった次第。宮崎からの参加者も居た訳で。
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恐ろしい事に、小中学校では作文の書き方を習っていない。
(え、習ったけど?)
と思う人はよく考えてみるとわかるのだが、それは恐らく原稿用紙の使い方であり、「タイトルの付け方」「準備の仕方」「書き始めはどうするのか」などは習っていないはずである。
なんでそうなっているのか?
仮説を述べる。
「読み書きそろばん」である。
なんでこれが重視される標語になっているのであろうか。
国語の教師としては「話す聞く」が無い事に疑問がある訳である。
私の仮説は「話す聞く」は遺伝子レベルに組み込まれているので、放っておいてもできるである*1。しかし、「読み書きそろばん(計算)」は、遺伝子に組み込まれていない。教育という営みを持って初めて成すものである。
ところが、この「読み書き」の部分であるが、日本語ではこれが「漢字の習得」に重きが置かれて、文章の「読み書き」のレッスンは行われなくなったというのが私の仮説である。「なった」というのは、嘗ては漢文の素読や全教科書の音読などがあったため、そこで行われていたと思われる。しかし、今は漢字の読み書きに重点が置かれて、文章の読み書き、就中、書きは指導されず、まるで書く事が遺伝子に組み込まれていると思っているかのように放っておかれる。そして、
「書け、自由に書け」
と言われる状況になっているのではないだろうか。
私は無謀にもこの状況を打破するための一歩を作れないかとあれこれ考えてやってきた。
そのあれこれを示したのが土曜日の明日の教室東京分校特別講座だった、つもりである。
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講座の感想を、講座で習った方法を活かしつつ書いて、書き込み回覧作文でコメントし合って終わりとした。古くからの友人の千葉大学の藤川さんには「池田さんは疑う人」「池田さんはしつこい人」というありがたい言葉をもらった。
子どもの頃から「それはおかしいでしょ?」と思った事は割と口に出して来た。そして、矢が降ってくる事も何回も経験した。刺さったりもした。だけど、おかしいものはおかしいのだから、曲げなかった。そうなると、世の中はおかしい事をおかしいと主張している私がおかしいというラベルを貼るようになる。ま、そんなもんんだ。
だけど、「それでもおかしい」とコペルニクスじゃあないが、そんなことを思ってあれこれやってきた。かっこうよく言えば、目の前の子どもの事実自分の実感を大事に授業を作って来たつもりだ。そして「この作文の方法が学校の作文指導のスタンダードになるといいなあと思います」という言葉まで貰ってしまった。
教員生活の前半のころの私に聞かせてあげたい(^^)。
『おい、そのまま頑張れ。大丈夫だから』
と言って上げたい。
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勿論、現場の参加者のみなさんからも、学生のみなさんからもあれこれ言葉を頂いた。一番嬉しかったのは、
「早く授業がしたい」
「早く子どもたちに会いたい」
「月曜日が楽しみだ」
というような言葉。
講座の感想としてこのような言葉は、とにかく嬉しい。誰かの役に立っている、そしてそれが先生でその結果子どもたちに繋がっている。これが嬉しい。
今回の講座に参加した方の子どもたちは、行事のあとの作文が書けるようになっていくと思えるのが嬉しい。指導する先生が前向きで燃えているとき、それは十分可能だと思う。
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あと30分あったらもう少しワークが出来たなあと思いながらも、ま、この位で終わらないとみんな倒れてしまうなとも思う講座でした(^^)。
講座の完成度はある程度の水準で作れたと思うので、これを元に他の所でも講座を受けられますね。本もこのテーマだけで書けそうだなあ。って、また自分で忙しくしている私。
学問の秋であります。
*1 勿論、高度な話す聞くはディベートなどで訓練をする必要があります。