『「馬が合う」の絵を描きなさい』
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今日は教育実習の訪問指導であった。実習生の授業は児童に助けられて、可もなく不可もなくというもの。子どもが落ち着いているので、そこに依拠して流れて行く授業であった。慣用句の授業。小学校4年生だ。
授業後の指導でその事を話した。
授業として成立しているかどうかと聞かれれば、まあ、教科書と子どもたちのお陰で成立はしているが、面白くない。読めば分かることを一つ一つ教えている感じだ。教育実習生の授業としては、及第点だとは思うが。子どもがお付き合いしてくれている授業であった。
例えば、「虫の居所が悪い」という慣用句を使って単文を作れという指示があった。子どもたちは辞書(これが凄い付箋だらけの辞書で、日頃のご指導のようすが分かる辞書だった)を使って意味を確認して、例文を作っていた。だから授業は成立している。
だが、私はつまらないと思う。
授業後の指導の時間に実習生に聞いてみた。
『この虫は何という名前の虫ですか?』
「え?」
カブトムシのはずもないし、かといっててんとう虫ということでもない。
しかし、そんなことを疑問にも思わないであろう。
これはちょっと大きな辞書を見れば分かる。『大辞林』には、このようにある。
「人間の体内にいて、意識や心理状態を左右すると考えられていたもの。潜在する意識や、感情の動きをいう。」
だから、insectではないのだ。このことを分かっているといないとでは、説明の質が違う。
子どもはこんなところに疑問を持たない。だからこそ先生が疑問を投げかける。そうして子どもたちを巻き込む。
「居所が悪い」ということであれば、どこにいれば良いの?ということを聞くこともできる。子どもごとに違うだろう。これを交流しても面白い。
これをやっておくと、次に扱う「馬が合う」という慣用句をやるとき、子どもたちは
(馬って言うけど、馬なのか?)
と思うだろう。また、
(合うっていうけど、何?)
とも思うだろう。
私は実習生にこういう指示を出した。
『「馬が合う」の絵を描きなさい』
である。
絵がうまく描けないということなので、馬と言う漢字を使って説明していた。曰く、馬の漢字の上に、また馬を重ねるようなものである。
『ブブー。間違い』
「え!」
『それでどんな意味になるの?』
「だから、馬と馬が気が合う?」
『ブブー。合うだから確かにAとBとが合致するという意味だが、AとBは、馬と馬ではない』
「うーん、人ですか?」
『正解。馬と人の相性である。人と馬が合うか合わないかから始まって、他に転用されているのである』
「なるほど」
『だから、今風に作り替えることをさせても面白い。例えば、鉛筆が合うとかいうのもあっていいのだ』
子どもとの関係が上手く作れている実習生である。だから、一見授業はうまくいっているように見える。だが、実際は子どもと教科書のお陰で流れているだけで、面白くはない。
『どうだ。もう一回授業がしたくなったろ? 子どもたちに対してごめんなさいと思うだろ』
「はい」
彼は明日もう一度説明をし直すであろう。
教材研究の大切さを学んだことであろう。
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