« 2012年5月6日 - 2012年5月12日 | トップページ | 2012年5月20日 - 2012年5月26日 »

2012/05/17

決定打は出ない。こう言うとき、どうしたら良いのであろうか

5/17

Img_3251_2
(オーロラが出たかのような琵琶湖の空)

二回生ゼミは、小学生の書いた作品(詩)を読解する。レポーター2人がよく調べ考えてと、かなり丁寧に準備をして来たので、持ち時間の40分を大幅にオーバーして70分ぐらい発表と議論が行われた。最後の10分で私がコメントして簡単な整理となった。最初の発表がこのレベルにあるのはなかなかいいな。

作品を読んで感じた違和感を丁寧に拾う。違和感は言語化できないから違和感なのである。レポーターは自分の違和感をレポーターグループのメンバーに伝え、それをメンバーの中で言語化して行くと言うことを繰り返す。そして、その違和感を言語化し、問いに作り上げその答えまたは仮説を考えて発表に臨む。その考えを提出するために発表の構成、発問、展開を考えて発表に臨む。

今回の読解で引っかかった言葉は、「やっぱり」ということば。この言葉は論理的な接続をするように見えていて、感情の度合いが高い。また意味が4種類あるので、どの意味で子どもが使っているのかを考える必要があった。4種類から一つにするには、文脈の理解が必要になる。

発表者の展開を引き受けて私が議論を構築した。当初、二つの読みの可能性があることを指摘し、どちらかを◯×で決めさせて議論を展開するということを私は考えた。ところが学生の方からもう一つの可能性もあると声が出た。こういうのが面白い。こういうのがあるゼミは面白い。

私は、その可能性はあると考えていたのだが、議論をシンプルにしようと二つにしておいたのだ。しかし、学生が三つ目を出すというのであれば、議論が深まる。子どもの書いた詩をテキストにして、何が読み取れるか。それぞれのグループに分かれて主張の根拠の部分を作品内に捜させた。そして、相手の意見を批判しながら、自説が正しい事を主張していく議論の時間を生み出した。

三つの立場の根拠は、それぞれ出てくるには出てくるのだが、決定打は出てこない。
『私は作品から主張の根拠を捜せと指示を出した。ところが、決定打は出ない。こう言うとき、どうしたら良いのであろうか?』
と発問をした。学生達は考え込んだ。

答えは実は極めてシンプルである。三つの可能性があるとして、そのままにしておくのである。決定打が出ない以上、決めつけることは出来ない。可能性を残し、その可能性を観点にして子どもの様子を見るのである。

子どもの作品は子どもの作品として鑑賞することが大事。これはテキスト論的な読み方。しかし、子どもの事実、文脈の中で読むことも大事。これは作家論的な読み方と言っていいだろう。
(ははあ、あの子の言いたかったことはこれだったのね)
と後から分かることがある。それで良いと私は考えている。決めつけてしまって間違えるより遥かに良い。

『子どもの作品は、その作品のテキストの中にあることからだけで、読み解かなければならない。テキストの中に決定打が無い時は、決めつけるのは危険である。可能性を確認することが大事。可能性というとカッコいいが、要は宙ぶらりんということである。そして、宙ぶらりんは居心地が悪い』

『居心地が悪いから、安定したところに落ち着けたくなる。実は、これが君たちが先生たちに対して不信感持つ要因として結構大きなもの占める決めつけの中身なのである。宙ぶらりんの居心地の悪さに耐えつつ、さらに子どもの事実と文脈で子どもの作品を読んで行けるようにならねばならない』

『決められないものは、無理矢理決めてはならない。そして、決められるものをしっかりと決めるべきである』

来週の子どもの詩の作品の読解も、非常に楽しみである。

教職生活の全体を通じた教員の資質能力の総合的な向上方策について(審議のまとめ)

R0025584

5/16

教職生活の全体を通じた教員の資質能力の総合的な向上方策について(審議のまとめ)

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo11/sonota/1321079.htm

中教審から出ましたねえ。
これをベースにさらに揉まれるでしょうが、大きな変更は無いかと思われます。

教員免許が普通、一般、専門の三つになる。
大学院での免許取得が柱になる。
学級経営等の力をつけることを求めている。
大学と教育現場が連携して育てることを求めている。

などが上げられるでしょうか。

手前味噌ですが、本学(京都橘大学)の児童教育学科は、ここに示されていることを6年前からやって来ていると思いました。アカデミックと現場。本学は、「臨床の知」を建学の精神の一つにしているので、積極的に取り入れて来たというわけです。

とはいえ、全てが全て出来ているわけではなく、根本的に対応を考えなければならないことも出てきそうです。

また、新しい課題を解決する挑戦が始まります。

2012/05/14

(あ、こいつに相談してもダメだ)

5/14

R0025120
(蓬莱山山頂から、琵琶湖大橋、比叡山方面を眺める)

人間ってのは、自分に都合の悪いこと、恥ずかしいことは隠そうとする。特に、子どもはそうだ。喧嘩で殴られて顔に痣を作っておきなら
「キャッチボールで失敗しました」
なんて嘘をつく。だが
「そうか。へたくそだな。いいか、キャッチボールというのはだな、体の真ん中で...」
とやってもダメ。

子どもたちは、自分で何があったかを隠しておきながら
(あ、こいつに相談してもダメだ)
と思う。
(私に起った事実が何なのかを見抜けない教師に、相談はできない)
と一瞬にして思うのだ。小学校低学年までなら、すぐに先生に言ってくる。分かりやすい。しかし、思春期ではありえない。

だから、教師は子どものバーバルと、ノンバーバルの間に立ち上がる、違和感、揺れ、光、陰をさっと見抜く必要がある。
(ん、なんか変だな)
と気がつく必要がある。これだけでも相当大変なことである。だが、指導力のある教師は、これができる。だから、子どもたちから信頼される。

子どもたちは都合の悪いことを「隠す」。教師は、その隠された都合の悪い何かに指導すべきことが存在することを理解している。そして、「隠し」ていることは、かくれんぼの遊びと同じで、探し出してほしい、見つけ出してほしいという子どものメッセージだと言うことも理解しなければならない。

(ま~ったく面倒くさいなあ)
と思う(^^)。しかし、子どもの傍にいるということはこういうことに繰り返しつき合うことであって、何回もだまされることなんだとも思う。その中で
「あの先生は分かっている」
「あの先生は、だませない」
という思いが子どもに育って行くのを待つ。

子どもを指導するってことは、そういうことから始まるのだろう。

« 2012年5月6日 - 2012年5月12日 | トップページ | 2012年5月20日 - 2012年5月26日 »