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2012/05/31

入試の問題で正解を得るのとは、問題も正解も解法も違うのです

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(浜大津の花火 by GR4)

二回生ゼミが終了。この授業では、子どもが書いた詩を、テキスト論的な読解方法で読み進めることをしている。小学校の低学年の書いた詩。10行前後の詩をレポーターを決めて読み込ませている。これが面白いのである。

90分の授業のうち、私が10分位事務連絡や今週起きた教育関係の事件、ニュースについてなどあれこれ話した後、残りの時間を学生の発表者たちに任せる。当初一作品、一グループ40分程度の持ち時間で、90分の授業の中で二つの詩を扱う予定でいた。

ところが実際にやってみると、一つの作品で私の時間あとの70〜80分をまるまる使って議論をすることになっている。学生たちは、最初40分の発表なんて出来るのかと思っていたのだが、いざやってみると40分ではとても時間が足りなくなる。発表者も驚いている。

私はいいなあと思っている。私がファシリテートするのではなく、学生たちが自分たちで発表をして授業を回す。まだ二回生なので模擬授業も何もやっていないが、せめて同学年の仲間たちでの発表は自分たちで舞わせるように育てたい。そして、それが二回生ゼミだと考えている。

一つの詩の解釈を通して、子どもの姿を読み取る。書かれている事を根拠に、書かれていない部分を推察する。その子どもがどんな子どもかは分からない。だから、作家論的には読解できない。精々、小学校1、2年生が書いたという情報位のことである。私にも分からない。学生と同じ地平で読解する。

これが心地よい。ま、多少のハンデはつけなければならないから、私は事前にその詩を読み込んで行く事はしていない。今日やるところはどこだっけ?あたりは確認するが、事前にじっくりと読み込んで自分の解釈を作ってから授業に挑むということは、この授業ではしていない。それもまた面白い。

文字として書かれている情報の多さと少なさを実感しながら読み進めて行く学生たちである。関西の、子どもの書いた詩なので、方言や口語が随所に出てくる。関西と言っても滋賀、京都、大阪、奈良、兵庫では読み取り方が違う。それを確認しながら、子どもが何を伝えたかったのかを読み取る。

脱線も面白い。今日は男子学生の髪型の話になった。私がとある髪型について『これはどうなの? あれって格好いいの?』と聞いたら「あれはアウトです。中2病です」と言っていた。『じゃあ、なんで止めないの? 周りは止めさせないの?』なんて話をしながらあれこれ。

私のあれは変だという感性は間違っていなかったも嬉しかったが、こんな風にあれこれ話すのもゼミの楽しい時間である。で、授業が終わってからある学生が質問に来た。自分が○か×かどちらかの意見を選んで下さいと指示されると、いつも選べない。なぜなのかという相談であった。

『それは、考えていないか、考えすぎているかのどちらかではないかなあ。でもあなたの場合は、後者だと思うよ』と話した。『○か×かで選べと指示が出たとき、あなたは10対0になるように考えているでしょ』「はい」『そこは違うのですよ』「?」

『現実問題として、10対0ということは殆どあり得ない事でしょう。6対4とか、5.5対4.5とかでどちらかを選ぶわけです。ただどちらかを選べと言われると、外側から見ると10対0に見えるだけです』「...」

『どちらかを選ばなければならないときには、より可能性のあるものを選ぶわけであって、一方的に正しいと思われるものを選ぶのではないのですよ。どちらにもそれぞれ相応の理由や可能性がある。しかし、選ばなければならないときに選ぶとすればどちらなのかということです』

『選ばなくてもいいのであれば、そのままにしておけば良いかもしれません。しかし、ここでは立場を決めて議論をするという授業のスタイルを選んで行われているわけです。そのスタイルでいくならば、より可能性のあるものを選ぶことをやってみましょう。選ぶと言うのは実は大変なことですよね』

まじめな学生だと思う。自分がなぜ一歩を踏み出せないのかを見つめているのだから。そんな学生だから丁寧に対応したつもりだ。さらに『入試では、◯と×で答えが決まるように出題をしています。そして、みなさんはそういう決め方で物事が決められるように訓練されています。それが入試です。だけど、人生は違う』

『人生は数限りに無い可能性、グレーのグラディエーションの中にあります。どれが、どちらがより良いのかをじっくりと考えて、取りあえずはこっちが正しいだろうと決めて一歩を進みだす。これが正解なわけです。入試の問題で正解を得るのとは、問題も正解も解法も違うのです』

『さらに言えば、入試は分からない事が分かる、解けない問題が解ける事がゴールです。しかし、学問や人生ってのはなかなか大変で、分からない事が分かったら、その先に新しい分からないものが出現するというように出来ています。分かるというのは分からないことが見えるという形で提示されます』

『分かりましたか(^^)?』「はい」。この学生は分かったようだ。少し肩の力が抜けたようであった。ああ、良かった。やはり、授業と言うのは実にいいなあ。来週も楽しみ。

2012/05/30

「人間も蛹になれればいいのに」

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我が家の揚羽蝶の幼虫が蛹になった。羽化がとても楽しみだ。で、蛹を見るといつも思い出す呟きがある。もう、10年以上も前のことだ。

中学校の教員をしていたとき、「大人とは何か?」という授業をしていた。その時、中学三年生のある女子生徒が「人間も蛹になれればいいのに」と呟いたのだ。

虫なんか嫌いと思っている女子生徒が多い中で、その生徒は父親の指導もあって自然の中で動植物と遊ぶことを覚えている生徒だったので、
(へー、虫になりたいのかねえ)
と思ったのだが、後から聞いてみたらそうではなかった。

人間は、子どもと大人の境目がはっりしない。そのはっきりしないなかで、中学生は大人であったり、子どもであったりすることを求められる。だから、この授業でその境目は何なのかを考えさせるのだが、その時にこの呟きが出たのだ。

彼女に言わせれば、人間も蛹に変態することができれば、
(ああ、この人は、いま子どもから大人に変わろうとしている瞬間なんだな)
とはっきりと理解してもらえるというのである。成る程である。

中学生を指導する教師である私は、それから蛹という言葉は鍵の言葉になったのでありました。

最初の会合が東京であった

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昨日は新しい仕事を引き受けて、最初の会合が東京であった。

毎年思うことがある。
(来年こそは仕事を減らそう)
と。
大学の仕事、就中授業。そして、学内行政に論文。これだけで結構な仕事になっている。私を必要として下さる方がいてくれることはとても有り難いこと、嬉しいこと。だけど、大学の仕事、就中授業を最優先したいと思っている。だが、結果としては確実に仕事は増えている。

今回の仕事はまだ公表していいのかどうか分からないので、公表はしないが、今まで引き受けて来た仕事の中では三本指に入るぐらい大きな仕事になると思われる。言ってしまえば、日本の未来や人類の未来に関係する仕事である。教育の仕事はどんな仕事でも、この二つを担っていると思うが、今回のは教室で授業をするのとはまた別の形で、これに関わることになる。気合いを入れ直して、お引き受けすることにした。

東京駅までは京都駅から、最短で2時間17分で到着する。
だから、京都からだと日帰りの出張も当然できる。で、昨日はそれであった。

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京都駅についたら、とんでもない空模様。新幹線のホームから伊勢丹の上の空を見ると、稲妻が光っている。
(あ、部屋の窓を開けて来てしまったかも)
と思うが、ま、もう仕方がない。

豪雨に見舞われて新幹線が止まらないことを願いつつ、飛び乗る。
名古屋辺りでは青空が見えたので、富士山を期待したが、富士山のころにはまた別の雷雨が出ていた。

まったく。スタートだというのに、なかなか凄い天気だ。

会合は、3時間弱で無事に終了。

私をメンバーに入れて下さるような会合である。初対面の方ばかりではあったが、私の役割は新たな風を入れることだろうと自覚して、その場の人間関係や、今までの流れ等は考慮に入れず思ったことを素直に申し上げた。さすがに、あまりにも細かい所まで言うのは遠慮したが、実際はかなり細かい所まで申し上げたやも知れない。

チームのメンバーは、同じ目的を持っていながら、違う環境、条件にいる人が集まっている方が面白い。
ミッションコンプリートの時に、出来上がったものの懐の深さが違うと私は常々感じている。
私のような異端児がいることの意味はそこにあると思う。他にはないのではないかと思う。
時間いっぱい、申し上げた。

その後、東京駅に慌てて戻る。
新幹線の時間までにあと1時間ある。
ま、本当は予約をネットでし直して、1時間早く帰ることも出来たのだが、折角なので新丸ビルに向かう。最近は京都でも瓶のものは安く手に入るようになった「フランチスカーナー ヘフェ  ヴァイスビア  ゴールド」だが、この生はなかなか飲めない。そこで新しい仕事を始めた記念に、「フランチスカーナー のドゥンケルを飲むことした。高いんだけど、お祝いだ。うまーい。

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で、さらに東京駅の地下でよなよなエールと、雨後の月を手に入れ、おつまみも手に入れて、1時間後に新幹線に飛び乗りました。

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東京から京都へのお供は、上弦の月。
車窓からよく見える。ずっと京都までお供してくれた。
本を読み、今日を振り返り、よなよなエールと、雨後の月、上弦の月である。
無事23:00前には自宅に到着でした。

引き受けた以上は、良い成果を出したいと思う。
この件に関して、月に一度ぐらいずつ日帰り出張が続くと思うが、
倒れないようにやりましょう。

2012/05/28

明日の教室に、高久啓吾先生にお越し頂いた

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(フラフープに謝っているのでも、祈っているのでもありません。ヘリウムフープというアクティビティです)

明日の教室に、高久啓吾先生にお越し頂いた。私が初めて高久先生のプロジェクトアドベンチャーの講座を受けたのはもう15年も前になろうか。

その講座は、一言で言って衝撃であった。
その頃の私はファシリテーションという言葉も知らず、プロジェクトアドベンチャー(PA)は、単なるレクだろうと思っていた。ところがそれはそうではなく、チームビルディングのための有効なプログラムであった。

1)体験学習
2)フルバルリュー コントラクト
3)チャレンジ バイ チョイス

これがPAの考え方である。簡単に言えば、「思い切りやる。でもやれるかどうかは、自分で選択することができる」である。とっても大事な事だと思う。人にはいろいろな事情がある。その事情は他の人には知られたくない事もある。だから、一生懸命やろうということはみんなで約束しつつ、無理なときはその無理と言うことを仲間で受け入れようということだ。

レク、つまりリクリエーション。再びクリエートするがレクである。人間関係を再びクリエートするわけである。PAはチームを育てる「レク」と言っていいだろう。

今回の講座では、高久先生は小声で簡単な説明をし、アクティビティに入ったら、そのあとは殆ど笑顔で見守るだけであった。

これがなかなかできない。
つい、茶々を入れたり、結論に近いヒントを言ってみたくなりするものだ。だが、高久先生は微笑みながら見守っていた。

どうしても出来そうも無いグループには、制限時間を提示してそこまで頑張らせるというい事をしていた。それでいいという。なぜならば、PAは、結果だけではないからである。そこに至ろうとする過程にも学びがあるからだと言うのだ。

出来たら成功。
出来なかったら失敗。

こんなように二項対立で物事を考えてはいない。その間にあるいくつもの段階それぞれに価値を見いだそうとしつつ、チャレンジする人を認め、チームが育つのを見守る。

活動に対する明確な指示。
達成すべきゴールの提示。
そして、
見守り。

参加された方は、その眼差しの安心感と優しさを受け止めながら、アクティビティに没頭し、仲間ができる瞬間の快楽を手に入れたのではないかと思う。

そして、
(はやく、クラスでやりたい)
と思った事であろう。

高久先生のポケットには1000種類位のアクティビティがあるという。今回やったのは10程度。まだまだ教えて頂きたい事は沢山ある。また、お越し頂きたい(^^)。

盆栽作りと恩送り

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教科教育法(国語)では、導入で吹野安先生の話をしてしまった。國學院大学で漢文でお世話なった恩師の一人だ。この先生の話をすると、つい長くなってしまう。今日の授業の進行を考えると、吹野先生の話はしないのが正解。しかし、しないわけにはいかない。

エピソードの多い先生で、私も一回生のときは「理不尽」な授業の展開に頭に来て授業に出なくなったり、喧嘩をしたりと散々迷惑をかけたが、今となっては本当に感謝するばかりの先生である。だから話をしないわけにはいかなかった。『吹野先生は、余分な枝を払ってくれた』。私はそう感じている。

人間は成長するものだ。だが、どの方向に育つのかが問題である。良くわからないが、盆栽の松は、50年後の成長のために、今必要な枝と不必要な枝を見分けてハサミを入れて育てるという。私には当然見分ける事が出来ない。しかし、盆栽作りの名人はそこに敢然とハサミを入れる。

吹野先生がして下さった事は、そんなことだったのだなあと、学校教育現場に立ってからつくづく思うようになった。私のだらしなさや、いい加減なところにハサミを入れて、幹の部分を強くし、一見とんでもなく見える枝にはハサミを入れず、これを個性としての場して下さったのだなと思う。

盆栽の作り方は分からないが、恐らくそういう面は教育も同じなのだろうと思う。今、成長のど真ん中にいる子ども、学生たちは、自分たちの成長の方向は良くわからない。思春期にある子どもたちは、正しいと思っても大人がやれと言えば、敢えて違う事をやる。その中で無駄な「枝」を切り取り幹を残す。

これが教育の仕事なのだろうなあと思う。子どもたちは、人間は基本的には勝手に成長する。その伸びようとする働きを邪魔せず、間違った方向に伸びる部分を矯める、芽摘みするということだ。矯められ、芽摘みされる方は猛反発する。成長を否定されるわけだから。

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だが、教師は、大人は、親は10年後、20年後の世界からこれを見る。だから、抵抗されても何でも断固として行う。その痛みは実は矯められ、芽摘みされる方よりも激しい。判断がが間違っていたらどうしよう。子どもたちに嫌われるのは嫌だ。それは分かる。しかし、それを仕事としてするのが教師なのだ。

私たちが厳しく指導して下さった先生方を懐かしく有り難く思い出すのは、その先生の痛みを大人になったときに実感できるからだ。先生の方が辛かったのだ。そして、その辛さに先生が耐えて下さったから、今の自分があるのだと思えるからだと思う。そして、今の自分の指導の生温さを恥じるのだ。

教師は、恩師に恩返しは出来なくとも、教え子に「恩送り」をすることができる。受けた恩、ご指導は自分の教え子たちに送る事が出来る。悪い指導は篩にかけて取り除き、良いものを少しだけ良くして、次世代に送る事が出来る。それを仕事に出来る仕事だ。さ、ご飯を食べたら、あと少し授業の準備をしよう。

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