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2012/06/08

この写真を楽しむ

6/8

この写真を楽しむ。
使ったカメラはiPhone4。
使ったアプリは、"My Sketch"

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非連続テキストの読解の授業は、非連続テキストが与えられてそれをどう読み取るのかというものが多い。というかそれが殆どではないだろうか。

だが、時代は「Photoshop」である。Photoshopは画像加工の代名詞になっている。遊んじゃう授業は無いのだろうか。私ならこんな風に遊ぶだろうなあと思う。

この写真は、比叡山を背景にして自転車で走る人を写している。それを前提にして、

1)写真を撮る。
2)写真の加工の仕方を教える。
3)小説に合った挿絵を作らせる。
4)どれが一番適しているかコンテストを行う。(句会方式)
5)その挿絵の相互評価を行う。
6)選び合う。
7)いい作品に選ばれた生徒は、なぜこのように加工したのかの理由を述べる。

ポイントは、なぜこの工夫をしたのかを述べる事である。勿論、なんとなくはダメである。そういうことを繰り返して置いて、その後

「『走れメロス』の挿絵を作ろう」

ということをするだろうなあと思うのだ。
作る事で理解するということをするのだ。

うわあ、小学校高学年、中学生にやってみたい授業だなあ(^^)。

2012/06/07

面接練習と注釈授業

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(キャンパスの裏山の空 iPhone4にて)

本日の授業は、四回生のゼミと二回生のゼミ。四回生ゼミは個人面接練習のラスト。最初に私がなぜ教師になったのかについて語った。なぜ教師になったのかの最終的な答えは、試験に受かったからである。これがないとどうあがいても小中高の先生にはなれない。

師はなりたいと思ってなる仕事である。だから、なぜあなたは教師になりたいのですか?という面接の問いは必ずといっていいほど聞かれる。面接では、あなたはどんな人間ですか?ということをあれこれ形を変えて聞いてくる。だが、これも、「何をして来た人?」「何が出来る人?」の二つに絞れる。

「なぜ教師になりたいのですか?」と聞かれるのは分かっているのに、それがしっかりと答えられない者がいる。先ずダメなのが、「なぜ?」と理由を聞いているのに、きっかけを話す者がいる。「両親が教師だったので」これは、きっかけである。「なぜ結婚したの?」「友人の結婚式で隣だったから」

これが理由だったら、結婚式のたびに隣の人と結婚しなければならない。これは理由ではなく、きっかけである。そのきっかけからなんで結婚に至ったのか。なんで教師を選ぼうと思ったのかである。答えは、公に言えるものと言えないものがある。

言えるものの中で採用試験の答えとして相応しいものを選んで、構成して答えを準備する。このことを繰り返して私は指導している。仮に「~だからです」と答えられたとする。すると試験官は「具体的には?」と聞くだろう。そうしたら、それを具体的に述べられるようにする。これは当然のこと。

ところがこれがなかなか難しい。それは、自分が何者なのかを見つめていないからだと私は考えている。いや、自分探しをせよということを言っているわけではない。自分がしてきたことをプラスの面からもマイナスの面からもきちんと見直すべきだと思うのである。そこが足りないと、答えが浮つく。

「よし、この人に私たちの町の子どもたちを任せよう」と採用担当者に思わせる何かを話さなければ、伝わらない。話は、熱意、内容、技術の三つが大事だとズーニーさんは言っているが、まずは内容をきちんと話す本人が理解していなければならない。

それも無いのに、熱意だけでは、暑苦しいしだけだし、技術だけでは、小手先過ぎる。あなたが採用担当者になって考えてみれば分かる。「この人を積極的に取る理由は、◯◯である」の◯◯の部分をあなたが伝えなければならないのだ。しっかりとサーブを打たなければならないのだ。

私が学生たちに話した、私の公にできる部分は『教師になるということ』に書いた事。出来ない部分は、ゼミで語るときにだけ伝えること。ま、大した事ではないが、あまりネットに書いてもねということである。その両方が自分にあることを理解して、その上で、どうプレゼンするかを考えたと話した。

採用試験まであと一ヶ月を切った。四回生ゼミはこれで一ヶ月間を空ける。採用試験後に集中して行って卒論指導となる。面接指導のあと『体に気をつけて無理せよ』と伝えた。ここで無理しないでどこで無理する。だが、体に気をつけて。しっかり。期待してる。

で、二回生ゼミも面白くなっている。子どもの詩をテキスト論的な読解で読み進めている。発表者が事前に読み込んで来て、90分の授業のうち60分以上を使いながらあれこれ議論をするのである。子どもの詩の中にある違和感を感じ取り、それを言語化し、問いに高めてゼミで発表するのだ。

最初に発表したグループのレベルがかなり良かったので、後から発表するグループによいプレッシャーがかかり毎回面白い展開になっている。ただ、当たり前だがまだ模擬授業もしたことのない二回生である。授業の運び方、回し方が稚拙である。稚拙と言うか知らないのである。

そこで、今日の授業では、私が授業の展開の仕方を途中で「注釈」のような形で解説を加えながら行ってみた。例えば、「この「ふん」という子どもの発言はどんな意味を持っていますか?」と発表者が指示を出したときのことである。これはいわゆるオープンエンドの発問である。

活発な議論がすでにあるクラスであれば、これだけでも十分に行く事が多いが、発言が無かった場合はどうするのかという見通しがない。見通しが無いから、直ぐに先生が答えを言ってしまう。自分で問いを発していて、自分で答える独り言のような授業になる。

そうならないためには、その発問のゴールをきちんと見極めて(というかそもそも発問は答えが分かっているとき、説明ではなく問い変えるものが発問だから、答えを掴んでいないとダメなのだが)、子どもがどこで躓くかを考えて、そこにヒントを出せるようにスモールステップにしておく必要がある。

具体的には、答えの選択肢を与えて選ばせるとか、◯か×かで立場を決めさせて発言するとかのクローズの質問に置き換えて行くなどである。また、子どもからの発言があったときに、それをどう評価するのか。評価の観点を決めておくことで評価がぶれなくなるなどの具体例を示しながら、注釈を加えた。

『はい、ここで注釈終了。続けてどうぞ』と彼らのファシリテーションの流れは崩さないように、それでいてもうちょいと深いところに気付く事が出来るように注釈を加える。この方法は野球の解説とも違うし、副音声とも違うし、なんだろうなあと思いながらやっていた。

まだ二回生なので、授業のやりかたについては勉強が不十分である。だから、彼らが懸命に考えて来たその流れをバッサリと切る事はしない。私はどうもこの辺りが中学校の教員が抜けなくて、教えていない事に関して学生が出来ない場合、バッサリとはせずまずは教えなければならないと思ってしまうのだ。相手が大学生なのだから、自分で勉強しているのだからそれを前提にして、違う時はバッサリやってもいいのかもしれないが、どうもここいらあたりが甘いf(^^;。

学生の感想を読んでみないと分からないが、もし注釈を入れるのが邪魔だったらこの方法を採るのは止めるつもりだが、今日の授業の感触ではそれなりに良かったのではないかと思っている。「ライブ解説」? いややはり「注釈授業」とでも名付けようかねえ。ま、先ず学生に聞いてみよう。

もしこれがいいと言うようであれば、模擬授業をしたことのない学生たちが、ゼミで発表する形式の授業の進め方として、一つの型になるかもしれないなと思う今日の三限でありました。

で、数名のレポートを読んだ限りでは、この注釈型の授業展開はいいという評価だった。授業を受ける側としても、授業をするがわとしてもいいとの事であった。最後にまとめて言われるより、その場で言ってもらった方が分かりやすいし、その後の展開を自分たちで選べるのでいいとのこと。

考えてみれば、ディベートの指導のときにはこれをしていたわけである。試合を途中で止めて、その議論の展開を確認したりもしていたわけだ。それと同じ部分があるかもしれない。今日の私のチャレンジは、成功したかもしれない。来週以降もこの方法で進めてみよう。









2012/06/05

今日は日本語の魅力について講じる

6/5

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(もうすぐで咲きそうな瑠璃柳 by GR4)

本日は、人間発達学部三回生に行う、オムニバス形式の授業「多文化の理解と教育」の私の担当の部分の授業を行った。15回の授業のうち、私は一回を担当。90分の授業であったが、年に一回の授業でやり直しがきかないわけだから十分に準備をして挑んだ。

いや、まさに挑んだと言う表現が自分では正しいと思えるのだ。「日本語の魅力」というテーマで話す事になってあれこれ考え始めたのが半年前。TreeというAPPに思いついた項目をどんどん打ち込んで寝かし、打ち込んで寝かしとしてだいたい一ヶ月前から、それに関する文献で確認。

私は国語科教育法は専門だが、日本語の専門家ではない。足りないところは調べて書き込んでとしたのが二週間前。先週はその内容をどうやっって伝えて行けばいいのかを考えながら構成を練って、ほぼ仕上がったのが昨日。そして、一晩寝かせて授業の始まる2時間前に最終チェックを始めて、昼ご飯を食べて、13:00からスタートであった。

『今日は日本語の魅力について講じる。主に、書き言葉の観点から、話し言葉の観点から、日本語そのものの特徴について講じる。90分と短いので行けるところまでいく。最初に授業後の課題のやりかたについて説明しておく』と尻切れとんぼに成ってもいいように課題の提示を先に行った。

講じた内容は国語をやっている人からすれば、珍しい事でも何でも無いが、日頃幼児教育、児童教育、英語コミュニケーションを学んでいる学生からすると、「え?」「あ、ほんまやほんまや」ということが多かった授業であったろう。ま、それを狙って構成したわけだが。

例えば、方言。『今日、明日と続けると、三日目、四日目、五日目のことをなんと言う?』と問うて確認する。東京では「あさって、しあさって、やのあさって」であるが、「あさって」が「ささって」という学生がいる。三重である。三重県は刺さるのである(^^)。さらに三重の中でも四日目をささってという学生もいる。

面白い事に、京都では「やのあさって」に該当する言葉が無かったりもする。『これで日本中で貨幣経済が成立するのが面白いねえ』と話す。他にも、「1、2、3、4、5、6、7、8、9、10」と順番に読む時と「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1」と上から読む時に違いが出るとか。

通常「7」が違うはず。下からの時は「しち」で、上からは「なな」になる不思議。野球のイニングを数えるとき、一回、二回、三回と読むが、階段で、一階、二階、三階のときは、三回(かい)で、三階(がい)となるのはなぜ?

ビールを飲むとき一杯、二杯、三杯なんて「ぱい、はい、ばい」となって、日本語を勉強し始めた外国人は簡単に混乱するとか、そもそも「日本」は「にほん、にっぽん」と読めるおかしさがあることなんての例に出しながらあれこれ。

こんな感じで書き言葉と、話し言葉と日本語そのものの特徴を講じ、ワークシートで問題を解き考えを深めさせた。さらに、なぜ、こんな風に日本語は豊かなのだろうかについても私の仮説を述べて、90分を駆け抜けた。だが、予定したものの半分しか終わらなかった。

『ということで、約束通り行けるところまで行きた。配れなかった資料は前においてある。参考にした本は10冊程度前においてあるから、必要な者は写メを取るように。講じたいことは後半分あるが、時間切れ。どっかで機会があればやりましょう。終わりにします。起立』と終わった。

授業後、写メを取りながら「あと1時間聞きたいです」と学生たちに言われた。
そういう反応が一番嬉しいねえ。準備の疲れ、授業の疲れが吹っ飛ぶ(^^)。美味しいコーヒーを飲んで一服したら、もう一踏ん張り仕事をしましょう。

2012/06/04

「子どもの恐怖を刺激するもの」と「子どもの興味を刺激するもの」

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(駅前の空 by iPhone4)

授業なんかしないで読んでいたい本というものがある。いま、そういう本を数冊抱えている。だが、当然授業は授業。やる。まあ、やり始めれば授業をすることは面白いので、そちらに没入するのだが、読みたい本に突入できないのは体に良くないなあと思う。

今日の教科教育法(国語)の授業は、学習ゲームの続きと、読書指導を講じた。学習ゲームでは、「J1百人一首」「四字熟語でポン」などの私が開発したゲームを中心に、なぜこのゲームを開発する必要があったのか。その勘所は何か。

学習ゲームは楽しければいいのだが、開発者には思想が必要だ。
なぜ学習ゲームという指導方法を採るのか、これを説明できなければならない。これがきちんと説明できれば、授業として価値のある指導法であるとの説明が出来る。また、改良や開発の力を身につけることもできる。では、何か。インターフェイス、ゲームバランス、学習内容。先ずこの三つが大事だ。

で、この頃改めて思うのが、子どもを学習に向かわせるのは、「子どもの恐怖を刺激するもの」と「子どもの興味を刺激するもの」の二つがあるいうことだ。恐怖を刺激するというのは、「勉強しないと〜になりますよ」のように説明するやり方だ。この恐怖スタイルで勉強させられて来た人は多いと思う。

ただ、体罰で子どもを殴って育てても、子どもが殴られるのを何とも思わなくなった時にこの体罰は効果がなくなり、逆に殴ってくるようになるように、恐怖を刺激して勉強させようとした所で、「別に、高校行かないし」とか「もう、入試は終わったし」となってしまうと、子どもは勉強はしなくなる。恐怖を刺激する勉強には、このような限界がつきまとう。

もう一つの、子どもの興味を刺激する勉強方法は、もっと開発されて良い。子どもが興味を持つものを素材にして、それでもっと遊んでいたいと思って遊ばせていたら勉強していたというものである。学習ゲームはその文脈で作られている。私は興味を刺激されて行われる勉強は、学びだと思っている。

そこで扱われる教材は、教材ではなく、学習材になるのだと思う。教材は、教える側の都合から作られる。教えやすさに重点が置かれているのではないだろうか。それに対して、学習材は、学習者の学びやすさに重点を置く。だから、子どもの興味や関心は重要になる。そこにどれだけ寄り添えるかだ。

学習材の考え方をとるとき、学校文化と子ども文化の対立の場面を見ることになるかもしれない。子どもが興味を持っているものは、学校に持ち込んではダメなものが殆どであるからである。ただ、子どもの興味を刺激するスタイルの学習を考えようとする時、ここは避けて通れない部分でもある。学校現場を混乱させずにどうやるかだ。

今日の授業の前半はこの辺りのことをあれこれ考えてみた。読書指導に関しては、またいずれ。さ、食事に行ってこよう。

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