« 2012年7月1日 - 2012年7月7日 | トップページ | 2012年7月15日 - 2012年7月21日 »

2012/07/14

傘が直った

7/14

Img_7494

傘が直った。

娘(4)のためにデンマークのアンデルセンミュージアムで買って来た、人形姫のデザインされている傘。とっても気に入って使っていたのだが、先日壊れてしまった。体の大きくなった娘が杖のように使って体重をかけてしまい、傘の芯が折れてしまったのだ。

娘は大泣き。
そりゃあ、そうだ。
大事に使っていたのだが、自分の不注意で壊してしまったのだから。
私に謝る。

そう言う時は、当たり前だが怒ることも、叱ることもしない。
『大きくなったんだね。だから、今までなら大丈夫だったのに壊れてしまったんだね。これからも、こういうことがあるから注意しようね』
と説明して終わり。

終わりだが、この傘はこのまま捨てるわけにはいかない。ものを直して大事に使うことを教えたい。お父さんは娘の見えない所で奔走することにした。

ネットで傘の修理が出来る所を捜す。
結果として5つほどの修理屋さんに連絡をしたのだが、デンマーク製で規格が違っている可能性があるということ、子どもの傘ということで修理する材料がないということなどの理由で断られ続けた。

実は、もっと簡単に傘の修理屋さんが見つかると思っていたので、やや焦った。
というのは、娘には
『傘の修理は、ガーデンの薔薇さんにお願いしようか』
と言って、お願いをすませてあったのだ。
我が家では、ファンタジーの世界を生きている幼児期の娘の世界観を大事にしてあげたいなあと思い、ガーデンに咲いている薔薇に、「薔薇さん」という人格を与えている。

時々「薔薇さんから」お手紙やプレゼントが来ることもある。
だから、今回も直して下さいとお願いしに行ったのだ。
にも関わらず、修理するお店が見つからない。
これは困った。

最終的には、この店で引き受けて頂けた。
修理ネット http://www.syuuri.net/

電話をして事情を話した所、先ずは送って下さいということだったので送って、祈った。
そしたら、何とかなりそうと言うことで修理をお願いした。

新しい上等な傘が一本手に入る位の値段になったが、
それこそ値段ではない。
見事に直してもらった。

Img_7497

本日届いた宅急便の伝票に、玄関で慌てて
「ばらさんより ◯◯ちゃんへ」
と手書きで書き添えて、娘に箱ごと渡した。

大喜びかと思いきや、やや照れくさそうに箱を開けて
傘を発見したら喜ぶ娘。
リビングからガーデンの薔薇さんに方向に向かって、
「薔薇さん、ありがとう!」
と叫ばせたのは言うまでもない。

ファンタジーの世界に生きている娘。
その世界を一緒に楽しんで味わって、その世界をもう暫く守ってあげたいなあと思うのでありました。

ま、その後娘は今ハマっているハサミのアートの方に突入してしまい、傘は一瞬で忘れられてしまいましたがf(^^;。それも子どもの良さです。

やがて娘がこのブログを読むようになったら、
そんなことがあったのかと思い出してくれるかねえ(^^)。

2012/07/13

自分で自分の学習ストラテジーを身につけて行くことができること

7/13

Pool

娘(4)をプールに連れて行っている。

つい先日、腕輪をしつつではあるが、犬かきが出来るようになったと思ったら、
今日は腕輪をしつつ、バタ足が出来るようになった。
犬かきは20メートル位。バタ足は10メートル位やれるようになった。

別にスパルタ教育をしているのではない。
私は子どもの用のプールに浸かって、ホゲーッとしているだけである。
そして、時々間の手を入れているだけである。
それなのに出来るようになって行く。

見ていて面白いなあと思うし、我が娘ながら凄いなーと思うことがある。

自分でスモールステップを設定している。
バタ足に辿り着く迄に立ったままジャンプ。前にジャンプ。ジャンプして私につかまる。その距離を伸ばして行くというように勝手に課題を設定して、スモールステップで克服して行くのだ。

また、スモールステップで挑戦しているときに、失敗をするのだがその時の言葉も面白い。
「でも、〜はできたんやで!」
と前向きなのだ。凹まない。

多分、学ぶと言うことはそう言うことなのだろうと思う。
自分で自分の学習ストラテジーを身につけて行くことができることが、学ぶことができるということなのだろう。

子どもはこういうことをするのだと思う。
(それを自覚的にできるように指導して行くのが、教師なんだよな)
と、娘から学んだ親ばかの私であった。

2012/07/10

もうそろそろwantで生きて行こうと思うのだが

7/10

Photo

(今朝の我が家のトマト)

ワープロに文字を打ち込む一日であった。

現在、
書きかけの本が一冊。
依頼されているのが二冊。
書くべき論文が二本。
依頼されている論文が一本。
共著の原稿が二本。
教育雑誌の原稿が一本。
書きたい本が二冊。
書きたい論文が二本。

今年度中に仕上げるのではなく、今年度の前半にかなりを仕上げなければならない。
書き出してみると、もうクレイジーだなあと思う。
もうそろそろwantで生きて行こうと思うのだが、いつのまにかmustが入り込む。
勿論、mustは本当はmustではなくて、次のwantに繋がるステップだと言うことも分かってはいる。いるが、なかなかである。

夕方、娘(4)とプールに行って体をほぐして来た。ま、子守りなのでは子供用のプールで水を浴びて体をストレッチしつつ、鬼ごっこの相手をしているだけだが。
それでも机で固まり続けるよりは数倍いい。

明日は、一限だけ授業をして会議の日。
原稿を書く時間があるといいなあ。

2012/07/09

もっともっとエピソードを語るべきだ。古人がそこに居るように

7/9

Imgp4833
(琵琶湖上空を行く)

古典の部分を教科教育法(国語)で教えている。なんというか、本当に学生達が可哀想という思いがこみ上げてくる。これは国語教員として、教科教育法(国語)を教えている人間として猛省しなければならないことだと思う。一言で言えば、国語の面白さを高校までに味わっていないのだ。

言葉の面白さ、さらに、古典の世界の面白さを味わっていないまま、大学生になっているのだ。私は言葉が面白い。文字が面白い。(こんなに面白いのに、なんで国語が嫌いな人がいるんだろう)と単純に思っていた。それは、言葉や文字の面白さに早い段階で気づかせてもらったからかもしれない。

小学校4年生の時に「のらくろ」の漫画を読んだ。歴史的仮名遣いはこの漫画で覚えた。一時期、自分の書く文章はすべて歴史的仮名遣いで書いていたぐらい影響されていた。中学で歴史的仮名遣いが分からない仲間がいるのに驚いたぐらいだ。また、さだまさしさんに出会えたのも大きい。

グレープ時代のアルバム、さらにソロの「帰去来」「風見鶏」のアルバムに収められたさまざまな古典の世界。これは今聞いても色褪せない。「さだまさしを聞く奴はネクラだ」などと「攻撃」もあったが、やはり今聞いても良い。

「フレディもしくは三教街」に憧れて漢口(ハンカオ)に行ったり、「飛梅」から、『大鏡』を読み、太宰府天満宮に行ったり、「絵はがき坂」から長崎の活水大学に行ったりと、今風に言えばたっぷりスローリーディングしてたわけである。勝手に灘校の橋本武先生がされていたことをしていたのだ。

私が塾や中学校の教師だった頃は、だから文章の、文学の内容というよりはその周りにあるエピソードをタップリと語って来た。横道にそれているという言い方も時にはされたが、文学と古典を彼らに結びつけるには、生徒の生活とこれらが繋がっていることを実感させないと入って行かないと思っていた。

所が彼らは、見事にこれがされないまま大学生になっている。(君たち、辛かったろうなあ)と思う。というか、授業で言ってしまった。教科書を読まされて、問題集をやらされて、漢字を暗記させられて、先生の説を聞いて。まるで私が受けた中学校2年生の時の授業だ。これをずっと受けて来たわけだ。

古典が古典でありうるのは、そこに描かれている世界が今と繋がっているからだ。今と繋がっている。または同じであることを発見するとき驚きと喜びがある。言葉は変わる。やさしが、痩せる思いという意味から、優しいに変わったりするように変わる。しかし、人の思いはそれほど変わるものではない。

言葉の難しさから、古典の世界が敬遠される。それは分かる。しかし、それはあまりにも勿体ない。また、国語の教科書は教科書だけに人間の正しさ、美しさ、立派さを扱った教材が載る。これだとうんざりする生徒が出てくる。しかし、当然だが人間は間違っていたり、醜かったり、情けなかったりする。

その古人の「生き様」を他人事としてではなく、(ああ、同じだ)感じられるとき、人間への愛しさや共感が生まれるのではないかと思う。国語の授業では、もっともっとエピソードを語るべきだ。古人がそこに居るように、そこに居て違和感が感じられないように。今日改めて強く思った。

因に、参考図書としては、「学校では教えない古典」 と 「SONG OF LIFE」 がお勧め。先生が先にはまってしまうでしょう(^^)。

« 2012年7月1日 - 2012年7月7日 | トップページ | 2012年7月15日 - 2012年7月21日 »