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2012/08/04

共演と饗宴  琵琶湖に昇る月の色の変化を楽しむ

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昨晩の月の移ろい。
なんというか、音楽が聞こえてくるようだった。

上り始めは、赤い月。

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次に、金色の道。

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銀色の道に変わり、

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最後は花火との共演でした。

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いや、頑張った私のための、饗宴か(^^)。
乾杯。

IMETS フォーラム2012

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(しっかり食べて講座に向かう)

IMETS フォーラム2012で講座を担当して来た。教育工学の研究会なのだが、もう4年も講座を担当している。二日間ある講座で、二日間とも。一つが体験作文の書かせ方。もう一つが、『こんな時どう言い返す』である。それぞれ二時間で行う。

私は教育工学の専門家でも何でも無いが、私を招いて下さる事務局からみると、教育工学的な観点で授業を作っている。又は、指導をしていると思って下さっているようで
(え、おれ場違いじゃないの?)
という思いはやや持ちつつも、お招きいただいているので毎年講師として伺っている。

この研究会の講師の先生方は、大阪大学の名誉教授の水越先生の門下生であった大学の先生たちが中心だ。私にとっては
(すごい研究者の先生だよなあ)
と思っていた人たちばかりで、
(え、おれ場違いじゃないの?)
と懇親会でもときどき思うのだが、そこの場にいられるのは幸せなことである。

特にびっくりしたのが、会長の日本女子大学の吉崎静夫先生が
「池田さん、あなたのやっている「明日の教室」は凄いね。うちのゼミ生、みんなあの本を読んでいるよ」
と話しかけられたことだ。本当に我が耳を疑った。
こんなところでこんな風に評価を頂けるとは。

また今年から山形大学の准教授になった、野口徹先生にも声をかけて頂いた。申し訳ないのだが、私は先生が八王子に勤めていたことも存じ上げなかったのだが、山田先生は私のブログも良く読んで下さっていて、さらに同じ年ということで話がとっても合うし、私が今取り組んでいる研究にも理解を示して下さったりと、もう、幸せであった。

勿論、私だけが幸せになってはだめである。

自主参加をしている先生もいるが、区の夏期研修として指定されて参加している先生もいる。主幹研修として指定している区もある。
(えー、夏休みなのに研修なんて受けたくないよなあ)
という思いで講座に参加される先生方が、
(ああ、参加して良かった)
と思える講座を作らなければならない。できれば、
(早く9月にならないかな。子どもたちの前に早く立ちたい)
と元気がでる研修にしなければならない。
そうでなければ、自主参加している先生にも申し訳ない。
そうでなければ、こんなに晴れていてホゲーッと過ごす楽しみができる夏休みに申し訳ない。

参加される先生は、新卒の先生から教職経験30年以上の先生までが一緒にである。
私はこういう研修方法はいいと思っている。
同じ目的に対して、違う環境、状況にいる人たちがあれこれ議論を交わす。同質で集まっても刺激は少ない。それからするととてもいい受講者集団だと思う。

講座の一つ、『こんな時どう言い返す』は、本から生まれた講座である。小書『こんな時どう言い返す』は、もう発売されて12年になるんだなあと思う。
類書がないので、いまだにこつこつと売れている。そろそろ大台に乗るかなあと思う。
小書は、事例だけなのでその理論の部分をこの『こんな時どう言い返す』の講座では行っている。講座は、与えられた90分、2時間、3時間、4時間、8時間で組み立てる。で、今回は2時間枠。

こんな感想を頂いた。

■□■

本当にすばらしかったです。子どもの対応の仕方を距離感という考え方でとらえたことはなかったです。4月の学級開きで言っておくことは、先生のお話のように若手教員に伝えたいと思います。先生のお話を、本校の、2年次、3年次、4年次の教員に伝えたくなりました。あっという間の2時間でした。(20年目)

■□■

どのように言い返す、指導すべきかの他に、2時間があっという間に感じる先生ご自身の授業スタイルにただただ、びっくりでした。また、お話を聞かせて頂きたいです。(3ヶ月目)

■□■

大変楽しいお話ありがとうございました。ユーモアのあるお話やお小言、私も言われてみたいです。昨年も6年生で隣のクラスの若い男性のクラスが難しくなり対応に追われました。今日のいろいろな話を伝えたいと思います。私も残り6年。楽しくしかれるように工夫してみます。ありがとうございました。(33年目)

■□■

お話ありがとうございました。大変参考になりました。「エネルギー切れ」している25年目の教員ですが、新学期から又子供と楽しく過ごそうと言うエネルギーが湧いてきました。本も購入して読ませて頂きます。(25年目)

■□■

全体を通してユーモアたっぷりで、とても楽しく感じました。先生の大学での講義を聴いてみたいです。ありがとうございました。一番心に残ったことは"ことば"です。表面的な自分の"言い返し"は、響いてないんだなと反省しました。良く子どもの話を聞くことから始めたいと思います。(小学校教員)

■□■

全部は紹介できないが、こんな感じの感想がほとんどだった。
ありがたい。京都から出張った甲斐があったというものだ。
良い時間をありがとうございました。

来年は40回記念大会になるそうです。
また、お招きいただくことになりそうです。
多分、私の担当する講座は同じテーマです。
良かったらお越し下さい。

2012/08/01

山上憶良、すごい

山上憶良、すごい。
子煩悩であることは、有名だが、その子供が亡くなった時の長歌、反歌がすごい。

世間の人が貴ぶ宝石も
子供には遠く及ばない
妻との間に生まれた
真珠のようなわが子は
朝になっても私たちの寝床を離れず
立っても座っても一緒に遊び
日が暮れれば手を引っぱり
「ねえ、ネンネしよ
パパもママもそばにいてね
ボク、パパとママの間でネンネするから」
などと愛らしく言う
そんなわが子をみるにつけ
悪人になろうと善人になろうと
とにかく早くこの子の
成人した姿を一目見たいと
ただそれだけを楽しみにしていた
ああそれなのに 思ってもみなかった
突然わが子を襲った悪い病気
私たちはなすすべもなく ただ
白布のタスキをかけて
鏡を手に持ち
天の神を仰ぎ 地の神に伏して
「神様、あなたの思し召すまま
どのようなことでも承知しますから」と
必死に祈り拝むけれど
少しも快方に向かうことはなく
次第にその顔から生気は失せ
朝が来るたびに言葉も減って
やがて小さな命の灯は消えてしまった
半狂乱の私は泣き叫び
冷たくなったわが子を抱いて
その旅立つ魂を見送った
ああ これが運命なのか

世の人の 貴(たふと)び願ふ 七種(ななくさ)の 宝も我は 何せむに
我が中の 生れ出でたる 白玉の 我(あ)が子古日は
明星(あかぼし)の 明くる朝(あした)は しきたへの 床の辺(へ)去らず
立てれども 居(を)れども 共に戯(たはぶ)れ
夕星(ゆふつづ)の 夕へになれば いざ寝よと 手をたづさはり
父母も うへはな離(さか)り 三枝(さきくさ)の 中にを寝むと
愛(うつく)しく しが語らへば いつしかも 人と成り出でて
悪(あ)しけくも 吉(よ)けくも見むと 大船の 思ひ頼むに
思はぬに 横しま風の にふふかに 覆ひ来たれば
為(せ)むすべの たどきを知らに 白たへの たすきを掛け
まそ鏡 手に取り持ちて 天(あま)つ神 仰(あふ)ぎ祈(こ)ひ祷(の)み
国つ神 伏して額(ぬか)つき かからずも かかりも 神のまにまにと
立ちあざり 我(あれ)祈(こ)ひ祷(の)めど しましくも 吉(よ)けくはなしに
漸々(やくやく)に かたちつくほり 朝な朝(さ)な 言ふことやみ
玉きはる 命絶えぬれ 立ち躍り 足すり叫び
伏し仰(あふ)ぎ 胸打ち嘆き 手に持たる あが子飛ばしつ 世の中の道

恋男子名古日歌三首 天平五年(733年)六月作 巻第五 (九〇四)

" song of life"から訳

天使さま
この子はまだ幼くて
天国への道を知りません
お礼はいたしますから どうか
背負って連れて行ってやってください

稚(わか)ければ 道行き知らじ
幣(まひ)は為む
黄泉(したへ)の使(つかひ)
負ひて 通らせ

(九〇五)

" song of life"から訳

お布施を置いて私は乞い祈ります。
どうか欺かないで真っ直ぐに連れて行って、
天の道を教えてやってください。

布施置きて われは乞ひ祷(の)む
あざむかず 直(ただ)に率行(ゐゆ)きて
天道(あまぢ)知らしめ

(九〇六)

http://homepage3.nifty.com/enou/okura1.htmから訳

すごいなあ。
これ、1300年前に作られた歌です。

2012/07/30

これを「省察的教材研究」と呼んでいる

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(で、これが今朝の琵琶湖。パステルカラーの色調は、昨日の名残でしょうか?)

もう一つは、「http://sekichan.net/kokugo/tomodachinarikiri.swf」にある「友達なりきり自慢作文」の追試の模擬授業であった。これもなかなか学べることの多い模擬授業になった。

まず、「友達なりきり自慢作文」というタイトルが良くわからないという意見が出た。

1)自慢は、作文の中で、友達が友達の語り方で自分を自慢するように、私が書く? 
2)自慢は、作文の中で、私が私の語り方で友達を自慢するように、私が書く? 

作業をさせると、ここが最初から混乱してしまっていた。HPにある例文と授業者がそれを元にオリジナルで書いた例文では、1)を想定しているのだが、上手いこと説明できずに混乱させてしまっていた。ひょっとしたら、「友達なりきり自慢作文」というタイトルに工夫が要るのかもしれない。

授業は、作文を書かせる為の準備に移った。
「ペアになって、友達のことを知りましょう。さ、どうしたらいいかな?」
という発問が起きた。そこでは、

・お話をする
・友達と遊ぶ

という答えが出た。授業者は「お話をする」の「答え」を選択して授業を進める。そして、「そう、取材が大事なんですね」と進めて行った。これは、HPにある通りの流れである。しかし、ここも私なら拾うのは「友達と遊ぶ」である。

「友達と遊ぶ」と子どもが答えたとき、教師の中には
(この子は何を考えているのか?)
(勉強したくないのか?)
(???)
と思う者もいるだろう。
だが、落ち着いてこの子どもが答えた「友達と遊ぶ」の真意をこの瞬間に読み取らなければならない。柱になるのは、「本当に勉強をしたくなくて遊びたいのかどうなのか」である。私は授業を聴き乍ら、この発言をした児童役のゼミ生は「本当に勉強をしたくなくて遊びたい」という意味で発言したのではないと理解した。

授業の後の検討会で学生は
「だって、友達と遊んだら、その友達のことが良くわかるから」
と発言していた。そうなのだろう。そこを言いたかったのだろう。しかし、この「だって、友達と遊んだら、その友達のことが良くわかるから」という理由の発言は、通常授業では言えない。そして、「友達と遊ぶ」という主張の部分だけが、取り上げられ、その主張が一見突拍子もないほど、授業では捨てられて行く。そして、スカスカの授業になる。発言した子どもの不満が残る授業になる。

『じゃあ、どうしたら良かったのだろうか?』
といくつか議論をさせた後、私ならこうすると言ってその場でやってみた。

『どうしたら良いと思う?』
「友達と遊ぶです」
『えー、なんだって?! びっくり!! 友達と遊んじゃうんだ』
「うん」
『だって、作文書くんだよ。遊んで大丈夫なの?』
「だって、先生、一緒に遊んだらその子のこと良くわかるよ』
『あ、そうか。なるほど。お話をすることでそのお友達のことが分かることもあるけど、遊んでも分かるってことね』
「うん」
『そうだね。この作文は友達のことを取材するんだけど、取材は色々なやり方があるかもしれないね』

という展開である。授業者は、取材という概念を狭く考えすぎていたのである。HPの先行実践は確かにその通りに書いてあるのだからその通りにやってみるのがいいのだが、このように授業にはその場での瞬間の判断を迫られる場面が突然訪れるのである。

その時に、そこで流すことをせず、捨てることをせず、
(これはいったいなんなんだろうか?)
と踏ん張って立ち止まって、仮説を立てる。
そして、授業の展開を再構築して進んで行くことが大事なのだ。
これを、「省察的教材研究」と呼んでいる。授業の後にやることが多いとは思うが、優れた授業者は、これを授業内にやりながら進む。これが出来る力量を身につけないと授業は面白くならない。

授業は、やりたかったことと、出来たことがズレるものである。それは、良い方向にズレることもあれば、残念な方向にズレることもある。しっかりと教材研究をした所で、その発生を0%にすることは、講義メモをそのまま読み上げるスタイルの授業をするか、録画して修正した映像を流す以外には、あり得ない。だから、ズレることを恐れてはならない。

問題は、残念な方にズレたとき、何がきっかけでズレてしまったのかを省察することである。自分で省察できない場合は、教えを請うことである。模擬授業、研究授業では授業が終わってから授業者に「自評」を述べる時間を与えられるのが普通である。その際に、
「私がしたかった授業はAというものです。しかし、Bになってしまいました。どこの指導が悪かったのか。どうすれば、Bに向かえたのか。そこの部分をご指導ください」
と言えば良いのである。

研究授業の検討会では時に
「指導案にはAとありますが、Bになりましたね。おかしいですね」
とだけ指摘する方もいる。授業者は頭を下げて反省すると言う構造だ。だが、私は違うと考えている。

指導案にはAとあるが、Bになったというのは授業者が十分に分かっていることなのだ。そんなことを指摘しても意味が無い。そこを踏まえた上で、Bにするにはどうしたら良かったのかを、授業の事実を元に検討する。そして、授業者が(なるほど!)と思えるアドヴァイスを研究授業を見ていた人がすることができたとき、その省察は授業者に響くのだと思う。そして、やがて授業者が授業内で省察を行いつつ、授業を進めることのできる力量を身につけることが出来るようになっていくことを期待したいのである。

念のために加えておけば、話し合うという方法に付いても、1)話し合う項目のリストを用意する、2)話し合う時の例を示す、3)Why -Because Gameのようなコミュニケーションゲームを用意しておく等の準備も必要である。

「お話しして下さい」

という指示は、子どもによっては泳げないにもかかわらず「泳ぎなさい」と指示されていることと同じ意味を持つことがある。

教師は出来る。出来る側からだけ考えて、指示を出し、その指示に子どもたちが従うという前提で授業を作る。そろそろこういう授業はもう終わりにしたいものだ。

ゼミ合宿の模擬授業とその後の検討会が面白かったので、長文を書き続けてしまいました。

ゼミ合宿の模擬授業に関する三回連載は、これでおしまい。

「いるか」(谷川俊太郎 言葉遊びうた)の模擬授業

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(赤銅色の次に現れたのが、この紫色の空。これも実に神秘的でした)

忘れないうちに、後二つの模擬授業に付いても書いておく。

一つ目。「いるか」(谷川俊太郎 言葉遊びうた)の模擬授業だ。この授業は音読を楽しむ。声に出して読んでみてその面白さを楽しむのだ。

■□■

「いるか」 谷川俊太郎

 いるかいるか      いるかいないか
 いないかいるか     いないかいるか
 いないいないいるか   いるいるいるか
 いつならいるか     いっぱいいるか
 よるならいるか     ねているいるか
 またきてみるか     ゆめみているか

■□■

である。
音読の授業ということは声に出して読めば良い、ということではない。声に出して読むには意味を理解しないと読めないと言うことなのである。

この詩を扱った発問で優れているなあと思うのは、http://homepage1.nifty.com/moritake/kokugo/1/iruka.htm にある「一連の中に、動物のいるかは何回出てくるでしょうか?」というものだ。つまり、「いるか」は、海豚であるものと、そうではないものが混在しているということなのである。だから、どの「いるか」が「海豚」なのかを特定しないと音読できないと言うことなのである。

今回の模擬授業では、学生の最初の発問は
「この詩を読んでどんなことを思いますか?」
のようなオープンドの発問であった。学生たちは最初の発問に、この手の発問を好む。なぜかと言えば、子どもたちが答えやすいからというのである。つまり何を言っても良いので答えやすいということなのである。

「一連の中に、動物のいるかは何回出てくるでしょうか?」のクローズエンドの発問との差は歴然としている。この発問は、数を数えることで子どもたちの中に差が出てくる。その差を活用して議論を生み出し、理解を深めることが出来る。

一方オープンエンドの発問は、好き放題の「答え」を言うことが可能になる。そして、それはどんな「答え」であっても、「どんなことを思いますか?」と発問した以上「正解」にしなければならなくなるはずなのである。これで授業が混乱しないわけが無い。

因に模擬授業で生徒役の学生の出した「答え」には、

・水族館
・お菓子、いるか?

などがあった。
当然、授業者は「水族館」を拾う。そして、授業を進める。ま、そうだろう。しかし、私だったら拾うのは断然「お菓子、いるか?」である。

授業者は、「いるか」は「海豚」と「居るか」の二つの意味だけで考えている。ところが、この他にも「要るか?」という可能性があることを「お菓子、いるか?」という答えは示してしまったのである。教材研究をそこまでしていなかった授業者は、「お菓子、いるか?」を捨て、「水族館」で授業を進めた。「お菓子、いるか?」と発言した子どもは不満を抱えつつここから先は授業の傍観者になるのである。

「いる」は、「射る、要る、居る、煎る、鋳る、炒る」などの漢字を思い浮かべることが出来る。授業が小学校二年生であれば、この漢字の全部を検証することは厳しいが、少なくとも「要るか?」は検討する必要性が出たわけである。

ここで授業の計画を、授業中に見直して
「あ、ほんまや。要るかもあるねえ。他にもある?」
と発問を組み立てることができないと、授業は実につまらなくなる。

例えば
「いるかいるか いないかいるか」
の第一連の最初の二行だけであっても、

1)海豚 海豚 海豚
2)居るか 居るか 居るか
3)居るか 居るか 海豚
4)海豚 海豚 居るか
5)海豚 居るか 居るか
6)居るか 海豚 海豚
7)海豚 居るか 海豚
8)居るか 海豚 居るか

の読みが可能であり、さらに「射る、要る、煎る、鋳る、炒る」も健闘するとなると、相当な検討をしなければならないことになるのである。そして、どれにすると良いのかを、クラスの議論の中で一致させて行く指導が必要になるはずである。

この詩は、単純に深く意味を考えずに音の響きだけを楽しめば良いのかもしれない。
しかし、意味をしっかりととらえて読もうとすると、このような検討が必要になるはずである。これを小学校二年生に向けて、何を選び何を捨てて、何を学ばせるのかと言うゴールがきちんと決められていないと、意味を取らせて読ませようとしつつも、簡単に失敗してしまうだろう。

そんなことを話した。
後一つ、続きます。

10分の模擬授業を通して、授業を作ることの基礎基本についてのレッスン

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(昨日の夕暮れ。赤銅色というかセピア色というか。こんな色は滅多に見ることが出来ません。驚きました)

三回生ゼミ合宿には、キャンプファイヤーから参加した。キャンプリーダーのボランティアをやっている学生たちが多いので、かなり正式なキャンプファイヤーであった。私は、ビールを飲み乍らゆっくりと火を見て過ごすのを想像していたが、ま、それは単なる焚き火であったf(^^;。

あれこれの活動をキャンプリーダーが指示してやって行く。ゼミ生たちの新しい顔を見ることが出来て、それはそれで面白かった。しかし、私は違和感も感じていた。なんというのだろう、押しつけ感を感じていたのだ。

「リーダーの言うことを聞け。これに従え」というものを感じていたのだ。
リーダーが正しくて、それに従うべきであるというようなものを。私が生徒の立場で参加していたら、引いていただろうなあと思うのだ。

勿論、この指示で新しい自分を出す子どももいるだろう。だが、ダメという生徒もいるに違いない。翌日ゼミ生たちに聞いてみたら、確かにいると言うことであった。なんというか1960年代の冷戦構造がしっかり残っている時の文化のように感じたのであった。

キャンプリーダーではなく、キャンプファシリテーターという存在はいないのかなあと思った。構成と演出をきちんとやって、その場での存在を消してくれる存在。ファシリテーションの可能性はここにもあるなあと思った。そして学生たちには
『ファシリテーションを勉強すると良いよ。もっと良い、ファイやストームが出来ると思うよ』
と伝えた。

お約束の肝試しをし、二回目の肝試しをしているときに流石に東京日帰りの疲れが出て寝た。
真っ暗な森の中のテントでぐっすりであった。

翌朝は、パンを食べてネイチャーゲーム。
いくつかやったのだが、「動物交差点」というのが面白かった。頭の上に動物のカードを自分に見えないように乗せ、クローズエンドの質問をしながら自分が何の動物なのかを当てるゲームである。

私は
『四つ足歩行ですか?』
『肉食ですか?』
『アフリカ大陸にいますか?』
の三つの問いで、ライオンという答えを導いた。

ところが学生たちを見ていると、これが実にうまいこといっていない。なんでだろうかと見ていた。理由は大きく二つあった。一つは、動物に関する知識がないため、質問されてもそれが正解かどうかを答えられないという答える側の問題。もう一つは、質問する側が戦略的に概念レベルを整理して消去するということが出来ていない問題である。

ネイチャーゲームとしては、動物の知識を得られることが面白いのかもしれないが、私は後者の質問する側の問題としてこれを面白く見ていた。このゲームを、メタ概念やグループ化ということを教えるレッスンに使えるのではないかと思った。実に面白かった。

その後、講義の出来る部屋に場所を移して、10分、または15分の規模の模擬授業を四つ行った。これも面白かった。ゼミ生たちは自分がやってみたい授業を書籍等から捜して来て、それを追試し乍ら行っていた。実習を一ヶ月後に控えた彼らにしては、思ったよりも上手く出来ていると思ったが、当然のように上手く行かないことが出て来た。

追試の場合、書き手はこの指示の仕方で大丈夫だろうと思って書く場面であっても、別の者が追試をすると上手く行かないことがある。それが何故なのかを検討し、修正追試を加えることで授業の腕は上がって行く。また、それを文章に残すことで実践記録の書き方も身につけて行く。

今回は10分の模擬授業を通して、授業を作ることの基礎基本についてのレッスンを行うことにしたのだ。

例えば、中村健一さんの「ダジャレ川柳」の授業をやったグループがあった。
10分という制限を掛けたことで授業者は「導入が難しかった」と感想を述べた。何故難しいかと言えば沢山の例を出すことが出来ないからである。そうなのである。ダジャレ川柳の例を5つも6つも出せれば出すのだが、そんなことをしていたら時間がなくなる。だから、1つにする。そう、ここで1つに絞ることで、「導入にはそもそも何が必要なのか?」と考えざるを得なくなるのだ。ここが大事。

そして、困った所である。中村さんの本には子どもからダジャレが出てくる前提で書かれている。ところが実際に模擬授業をやってみると学生たちも急にはダジャレが出てこないのである。ダジャレが出て来たらそれを575の形に変えて、川柳にするということなのだがそもそもダジャレが出てこないのである。さ、どうするのか?ということで授業後の検討会に移った。

私が学生たちに口を酸っぱくして言っているのは、授業は子どもが発問に答えてくれる前提で作ってはだめだといことである。コナン型の授業構成で、こういう発問をすれば、子どもたちが答えてくれて、それを受けてさらに発展させてとしてしまうと、最初の発問で子どもたちが答えられないと、あっという間に崩壊してしまう。答えてくれることを前提にして展開を考えているからだ。

だから、答えてくれないを前提にせよと言うのである。
今回の場合では、ダジャレが作れないを前提にしなければならないのである。幸いにして、導入でダジャレを使った川柳は一つしか紹介していない。そうしたら、ここで紹介することも可能である。

ところが、もう一つ問題がある。多くを紹介してしまうと、児童がダジャレを考えるネタを潰してしまうことになる。だから多くは紹介できない。さ、どうしたらいいのだろうかと考えて行くことになる。

わたしのアドヴァイスは、川柳のダジャレになる部分の一部を紹介するという方法である。例えば「布団干す 風が強くて ふっとんだ」という川柳の場合、これを丸ごと紹介するのではなく、「布団」だけを紹介すると言うことである。これで子どもたちを刺激するのである。

このダジャレ川柳の実践は、ダジャレを川柳の575に収めるということで面白さを生みだすというものである。柄井川柳の示した川柳はおかしみが大切になる。それをダジャレという視点で子どもたちに作らせると言う観点は、さすが中村本である。しかし、よく見てみると、1)ダジャレを作る、2)川柳形式にするという二つの内容がはいっている。1)が前提になっていて2)になっている。

だから、1)が出来ない児童にはこの授業はとても難しいものとなり、日頃からお笑いを考えている子どもだけが参加できる授業になってしまうのだ。(この指摘はゼミ生からもあった。なかなか鋭いなあと思った)

そうだとすれば、修正追試では、1)の部分がクラスの子どもたちにとって可能であるような工夫を加えたものを行えば良いのである。そうして、授業をしたものを記録に残したとき、新たな実践論文が生まれて行く。授業がより良いものになっていくのだということを話したのであった。

この時の残りの模擬授業も結構面白かったので、このことについては多分続きます。

お幸せに

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朝五時に起きて東京の結婚式に向かい、和やかな挙式と披露宴を終えて、とんぼ返りで近江八幡に向かう。三回生ゼミの合宿だ。

結婚式は、実に和やかだった。招待してくれた彼とは、彼の高校三年生のとき以来だから、10年ぶり。ディベート甲子園で戦っていた頃の仲間たちも一緒に久しぶりに会えた。

10年間は、風の便りに消息を聞くことはあっても、特に連絡があるわけでも無かった。そして、10年ぶりの連絡が結婚しますであった。

私はそんなもんでいいと思っている。卒業してからは、私は只のおじさんでいいのだと思う。こっちは勝手に彼らのことをあれこれ思うが、私たちが積極的に関われるのは、関わらなければならないのは、目の前の生徒、学生でいるとき。

その後は、彼らがどう思うかだ。
特に毎日を充実して忙しくしている卒業生は、卒業した中学校の先生なんて、10年に一回ぐらい思い出す位で上等である(^^)。

お幸せに。

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