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2012/10/05

頭の中にある、タガを外させる

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読書の秋である。

子ども達に与える目標は、◯冊という単位が標準だと思うが、◯cmとか◯kgという目標の設定も面白いと思う。または、定価の合計が◯円とか。いつも同じ単位の冊より、(を?)と思うだろう。

そうやって子どもの頭の中にある、タガを外させる。いつの間にか打ち込まれたアンカーを取り除く。

子どもたちに提案させても面白いだろうなあ。
「僕は、学校までの距離と同じだけのページ数を読む」
とか
「私は一に必要な基礎代謝のカロリー分だけ読みます」
なんてことは言わないだろうけど(^^)。

2012/10/01

リフレーミングをするのだ

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国語科教育法2では、私の研究の柱の一つである「国語科を実技教科にしたい」についての部分に入った。ここについては、あちこちに書いている。今もそれを整理しつつ本を書いている。なんでこんな提案をしているのか。私は、子どもたちが国語や言葉を楽しいと思わないで過ごすのが悲しいのだ。

言葉は限りなく面白い。しかし、使い方を間違えるとかなり危険だ。この事を社会に出て直接知るのではなく、生徒の時代に擬似的にあれこれ体験させたい。そんな思いがある。子どもたちを分析し、どんな授業プランを作ればいいのかをあれこれ考えて行って来た。その過程を学生たちに示した。

省察をしながら授業をつくるというのはどういう事なのかを示したいと思って話している。下手をすれば単なる私の自慢話になるが、そういう訳ではなく、現場の教師がどう藻掻いたのかを語る事は結構大事な事ではないかと思っているのでやっているのだ。

学生たちから見れば、大学の教員なんて自分には出来ない事を楽々とやってのける人たちのように見えるだろう。私も恩師の事をそう思っていた。勿論、私と恩師は違うが見え方は同じであろう。だが、やってのけて来たことは事実だが、楽々ではないことは理解させたい。

藻掻く。現場にいるということはそう言う事だろう。一つ言える事は、順調に行っている時は人間は成長していないと言う事だ。順調は楽だ。できれば、この楽な中に居たい。しかし、成長はしていない。一刻も早くその苦しみの中から逃げ出したい、解決したいと藻掻いているとき、人間は成長している。

成長している。が、その成長の結果がその時に出てくるとは限らない。その時に出る事もあるし、3年後、5年後、10年後位先にひょっこりと関係のない所から顔を出してくる事もある。「お前なんで今頃?」というように。だが、それは藻掻いていなければあり得ない。また、出てくるとやはり嬉しい。

なぜなんだ?と問う。これは大事。だが、藻掻いているときに、そのなぜ?を問いすぎるのも場合によっては良くない。なぜ?と問うてみてもそれが分からないからそこから抜け出せないのである。また、なぜと問うてそれが分かったところで、過去のことを変えることは出来ないものだ。

そんな時は未来を見る。辿り着きたいゴールを見る。そして、その為に今すべき事は何なのかを考えるのだ。なぜできないのか?と問いを立てるのではなく、あと何があれば、できるようになるのか?と問いのフレームを変えるのだ。リフレーミングをするのだ。これは私の経験からするとかなり有効だ。

授業をデザインするということの、大変さと面白さを学生たちに伝えたい。大変だけど実に面白い事なのだと体験させたい。モダンではなく、ポストモダンの授業を考えさせたいなあと思いながら、後期の授業は進むのでありました。来週は諺の学習をテーマに具体的に「国語科の実技教科化」を考えます。

オリジナルの実践。 大変だけど、大変ではない。

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もう一つ。
今回の明日の教室東京分の特別講座で多かった感想は
「自分もオリジナルの実践を作ってみたい」
というものだった。
なんというかこれも感慨深い。

私は教わるのが苦手である。
なんというか、その教え方が気になってしまうのと、答えを言われるのがどうも嫌なのである。そこを考えるのが楽しいのであって、それを教えられてしまうのがダメなのだ。

勿論、これは効率が悪い事は十分に承知している。数学なんてそれで分かった喜びを得ないまま馬齢を重ねているのも分かる。だが、教わるときにあるいくつかのイライラを考えると、自分でやった方が気が楽で楽しい。いくつかの楽器を触るが、これも一つとして誰かに正式に習った事は無い。歌も音痴だったのを直したが、自分で直した。

そんな私なので、教育実践も誰かの真似をするとかいうことはしなかった。というか出来なかったのかもしれない。私は、

1)教師
2)生徒
3)社会
4)人類

この四つがキーワードになってそこから立ち上がってくるのが授業ではないかと考えている。(『教師になるということ』参照)特に生徒と教師だ。ここが変わるから授業はプレゼンテーションではなくなる。この四つのキーワードの中に立ち上がってくるものを捕まえて、子どもたちを伸ばして行く営みが授業だとすれば、実はオリジナルの授業しか生まれないと思っている。

藤岡信勝氏は、嘗て『教材づくりの発想』で以下のように述べた。

引用開始 ーーーーーーーーーー

上からの道

個々の科学的概念や法則、知識を分析して、そこに立ちあらわれっるさまざまな事 実、現象の中から子どもの興味・関心を引きつけるような素材を選び出し、構成してゆく。これを、教材づくりにおける「上からの道」と呼ぶ事にしよう。教材構成における中心的な、オーソドックスな方法は当然、この「上からの道」である。

下からの道

われわれは日常、さまざまな情報に接しているが、その中で、子どもの興味や関心を引きそうな事実にゆきあうことがある。そのとき、素材のおもしろさがまず発見され、しかるのち、事後的にその事実を分析し、おもしろさの意味を反すうして、その素材がどんな教育内容と対応しうるかという価値が見いだされる。このような過程を指して、教材づくりにおける「下からの道」というわけである。 

『教材づくりの発想』(日本書籍 藤岡信勝著)

引用終了 ーーーーーーーーーー

多くの授業は、この上からの道を元に教材を作っているであろう。だが、私は、私が出会った子どもたちは、この上からの道という方法で勉強に向かおうとうする者は多くなかった。特に学力の低い子どもたちや、更に言えば学力が高い子どもたちであっても、上からの道で作られた教材に飽きている子どもたちにとって、下からの道は魅力的であった。

この下からの道を選ぼうとすると、教師は大変になる。
「子どもの興味や関心を引きそうな事実にゆきあうことがある」とあるが、ゆきあわないときも沢山あるのだ。だから、ゆきあうためにあれこれをすることになる。

私は実は、そして、おそるおそる言うが、ここで藤岡が "教材づくりにおける「下からの道」"と読んでいる事に関して、教材ではなく、「学習材」と呼び直した方がいいのではないかと考えている。教える側の都合で作られた教材ではなく、学ぶ側の都合に合わせて用意される学習材である。

私はこの学習材を開発し続けて来たのではないかなあと、このごろになって思っている。そして、それは大変だけど良かったなあと思っている。学生たちにもその当たりの事話している。

『クラスに40人の子どもがいる。この40人の興味、関心を捕まえて、そこに応じたオーダーメイドの学習材を作ることは実に大変で実に面白い事である』

と。勿論、40/40の対応は大変である。しかし、それを頭のどこかに置いて、勉強が嫌いと言っている子どもたちに対して、教材ではなく学習材を用意するというパラダイムシフトを行う教師がこれからもっと増える必要があると考えている。私たちはモダンの時代を生きて来たが、今はポストモダンだ。(って、話を始めると長いからこの先は省略)

オリジナルの実践。
大変だけど、大変ではない。

目の前の子どもにあった授業を作ればいい。
それは大変な事だけど、自ずからオリジナルになる。
子どもほどオリジナルな存在はないわけだから。

恐ろしい事に、小中学校では作文の書き方を習っていない

10/1

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(富士川を行く新幹線の車窓から。橋梁と雲の隙間から奇跡のように富士山を眺める)

「池田先生、お忙しい所をありがとうございます」
講座では主催者にこのように挨拶される事が多い。
『いえ、まあ、そんなことないです。お招きいただきまして、ありがとうございます』
と答える事が普通である。だが、この三ヶ月は
『はい、まあ、良く私のことをお分かりいただきまして。ええ、本当に忙しいんです』
と言いたくなるような時間であった。

この三ヶ月は、
「倒れないように」
が自分に言い聞かせていた言葉だ。
綱渡りのようなスケジュールで乗り越えて来た。

いや、まだ終わり切っていないものもあるのだが、大きな山を乗り越えたという実感はある。今週は、授業と大学の会議だけ。なんだか、スケジュールの記録漏れではないかと思ってしまうほど、外に出て行く仕事は何も無い。これで日常に戻ったなあと言う感覚だ。本を読み、原稿を書き、娘(5)と遊びとすることができる。

週末は明日の教室東京分校で講座を務めた。「体験作文の書かせ方」である。案内文にはこう書いた。

引用開始 ーーーーーーーーーー

「運動会のことを書きましょう」
そう言って月曜日の朝、子どもたちに原稿用紙を配る。二ヶ月も前から準備練習に取り組んで、もの凄く盛り上がった運動会。どんな作品が仕上がるかあなたは楽しみにしています。ところが、子どもたちは
「先生、何を書いたら良いか分かりません」
と言ってくる。
「え、だってあんなに書くことがあるでしょ!」
と驚愕。さらに、
「どう書いたらいいのか分かりません」
「なんで書かなければならないのですか?」
と言われ
「とにかく、好きなように書きなさい」
「思った通りに書きなさい」
としか答えられない自分に気がつくものの、さて、どうしたらいいのか分からない。

そんなあなたに贈る、体験作文の指導方法です。
秋の行事の前に、教室が幸せになる体験作文の指導方法を是非身に付けて下さい。
子どもたちは、作文を書き終えると
「早くもう一度作文を書きたい!」
となるでしょう。

引用終了 ーーーーーーーーーー

自分でハードルを上げてどうするんだ?と思ったが正直な気持ちはこれであった。

そもそもこの講座は、特別講座になっている。もう既に9月の予定は決まっていたのに、行事が目白押しするこのタイミングでこの作文の書かせ方の講座をやっておいた方がいいんじゃないのかなあと思っていた所、東京で急遽日程を組み込んでくれたので、手を挙げてやってきた。

一言で言うと、19年間で私が中学校教育現場であれこれやってきた内容と最近考えている事を、3時間30分で語り尽くすと言う無謀な講座であったf(^^;。 会場にはtwitterやFacebookでしかお話しした事の無い方々のお顔もありとても嬉しかった次第。宮崎からの参加者も居た訳で。

恐ろしい事に、小中学校では作文の書き方を習っていない。
(え、習ったけど?)
と思う人はよく考えてみるとわかるのだが、それは恐らく原稿用紙の使い方であり、「タイトルの付け方」「準備の仕方」「書き始めはどうするのか」などは習っていないはずである。

なんでそうなっているのか?
仮説を述べる。
「読み書きそろばん」である。
なんでこれが重視される標語になっているのであろうか。
国語の教師としては「話す聞く」が無い事に疑問がある訳である。

私の仮説は「話す聞く」は遺伝子レベルに組み込まれているので、放っておいてもできるである*1。しかし、「読み書きそろばん(計算)」は、遺伝子に組み込まれていない。教育という営みを持って初めて成すものである。

ところが、この「読み書き」の部分であるが、日本語ではこれが「漢字の習得」に重きが置かれて、文章の「読み書き」のレッスンは行われなくなったというのが私の仮説である。「なった」というのは、嘗ては漢文の素読や全教科書の音読などがあったため、そこで行われていたと思われる。しかし、今は漢字の読み書きに重点が置かれて、文章の読み書き、就中、書きは指導されず、まるで書く事が遺伝子に組み込まれていると思っているかのように放っておかれる。そして、
「書け、自由に書け」
と言われる状況になっているのではないだろうか。

私は無謀にもこの状況を打破するための一歩を作れないかとあれこれ考えてやってきた。
そのあれこれを示したのが土曜日の明日の教室東京分校特別講座だった、つもりである。

講座の感想を、講座で習った方法を活かしつつ書いて、書き込み回覧作文でコメントし合って終わりとした。古くからの友人の千葉大学の藤川さんには「池田さんは疑う人」「池田さんはしつこい人」というありがたい言葉をもらった。

子どもの頃から「それはおかしいでしょ?」と思った事は割と口に出して来た。そして、矢が降ってくる事も何回も経験した。刺さったりもした。だけど、おかしいものはおかしいのだから、曲げなかった。そうなると、世の中はおかしい事をおかしいと主張している私がおかしいというラベルを貼るようになる。ま、そんなもんんだ。

だけど、「それでもおかしい」とコペルニクスじゃあないが、そんなことを思ってあれこれやってきた。かっこうよく言えば、目の前の子どもの事実自分の実感を大事に授業を作って来たつもりだ。そして「この作文の方法が学校の作文指導のスタンダードになるといいなあと思います」という言葉まで貰ってしまった。

教員生活の前半のころの私に聞かせてあげたい(^^)。
『おい、そのまま頑張れ。大丈夫だから』
と言って上げたい。

勿論、現場の参加者のみなさんからも、学生のみなさんからもあれこれ言葉を頂いた。一番嬉しかったのは、

「早く授業がしたい」
「早く子どもたちに会いたい」
「月曜日が楽しみだ」

というような言葉。
講座の感想としてこのような言葉は、とにかく嬉しい。誰かの役に立っている、そしてそれが先生でその結果子どもたちに繋がっている。これが嬉しい。

今回の講座に参加した方の子どもたちは、行事のあとの作文が書けるようになっていくと思えるのが嬉しい。指導する先生が前向きで燃えているとき、それは十分可能だと思う。

あと30分あったらもう少しワークが出来たなあと思いながらも、ま、この位で終わらないとみんな倒れてしまうなとも思う講座でした(^^)。
講座の完成度はある程度の水準で作れたと思うので、これを元に他の所でも講座を受けられますね。本もこのテーマだけで書けそうだなあ。って、また自分で忙しくしている私。

学問の秋であります。

*1 勿論、高度な話す聞くはディベートなどで訓練をする必要があります。

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