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2013/07/25

「どうらく息子」

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やっぱり、落語だよなあ。

「寄席芸人伝」「タイガー&ドラゴン」「ちりとてちん」を楽しんだ私が、今楽しんでいるのが「どうらく息子」だ。作者の尾瀬あきらさんは、「夏子の酒」を描いている。丁寧に日本酒の世界を描いているいい作品。で、いま描いているのがこの「どうらく息子」だ。

有名な言葉がある。
「落語とは、人間の業の肯定である」
立川談志の言葉だ。

歌舞伎は人間のカッコいい所を描いている。だけど、落語は人間のみっともない所を描いている。だが、そのみっともない所を、それでいいんだというのが「業の肯定」なのだと思う。

そこに惹かれる。
ダメな人生を歩んでも、それでいいんだと言われる。
それでもいいんだと言われる。
そこが落語の根っこなんだと思う。

前期の授業最終日に、車のHDに貯めてある音源から一つを選んだ。
そうしたら、それは小さん師匠の「時そば」であった。だいたい、この一席を伺っている間に大学に到着する。

改めてこの話の伏線の妙にうなる。
何気ない言葉がきちんと伏線になっている。
これ、とんでもないネタだなあと思うのだ。

で、「どうらく息子」の一巻の第一話が、この「時そば」なのだ。
小さん師匠の「時そば」を聞いた日に、この「どうらく息子」を読み始めたのだ。うーん、素晴らしい。

ま、教育的に言えば「正統的周辺参加を学ぶ機会になる」とか言うことも出来るし、実際そうなのだが、落語の世界をたっぷり味わえる名著だなあと思う。あ、名マンガか。

現在出版されている第七巻まで、あっという間に読み終えてしまった。
楽しみに第八巻を待ちましょう。

お薦めのマンガです。

2013/07/24

その断定の甘美さを拒絶する所に

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状況や立場や条件で、正しいってことは結構変わる。にも

かかわらず、教師は何が正しいのかを決めて、子どもたちに正しいことを教えなければならない。一日に何回も。時には、瞬間的に。
これって実に難しく大変なこと。

だから、正しさは本当に正しいのかと振り返ることが出来ないと、この教師と言う仕事は勤まりにくい。

断定するのは楽なんだけど、その断定の甘美さを拒絶する所に、この仕事の本質はあるのではないかと、このごろ良く思う。

2013/07/22

『式の前日』(穂積 小学館flowers フラワーコミックスα)を読んだ

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『式の前日』(穂積 小学館flowers フラワーコミックスα)を読んだ。
さっと読める。
が、もう一度読み返すだろう。
そして、じわじわその良さの広がりを感じるだろう。

なんだろうなあ、『夏への扉』と『中国行きのスロウボート』と濱田金吾と乙一の世界を、30年前の「ぶーけ」で、描いていたあの人(ああ、名前が出てこない。内田善美だったかなあ)と小椋冬美と清原なつののタッチで描いていると言ったらいいだろうか。新人にしては中々の画力だと思う。

って、全然分からないでしょうね(^^)。

夏の午後に大滝詠一を聞きながら読むにはいいと思う。
1時間のブレイクにはいいと思う。

2013/07/21

たった3秒の確認だが、それが大事

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二回生ゼミで気になったことをメモとして。

子どもの詩の読解をして行く模擬授業をゼミ生が行う形で授業をするのが、このゼミ。教師役が読み込んで来て、発問を考えて授業を進める。昨日の一つの詩で、柱になる発問は二つであった。これがなかなか興味深かった。

発問の内容ということではなく、発問を取り巻く指導の在り方といったら良いだろうか。

一つ目の発問を終えたとき、教室がざわざわとなった。その発問の最後の指示は「まずは、一人で考えてみて下さい」である。であるからして、ざわざわするのはおかしい。まして相手は大学生である。一人で考えてみて下さいと言われたら、考えるものだ。にもかかわらずざわざわであった。

二つ目の発問は、発問の主語と述語がねじれてしまっていて、(ま、言いたいことはわかるけど、それ日本語としてどうよ?)というものであった。しかし、この後はざわざわしなかったのである。

この事実を授業後、二人の授業者に確認してみた。

『一つ目の発問のあと、何をした?』

「え、私は机間巡視です」

「私は、板書です」

『そうだよね。でも、それをするまえのことを聞いている』

「?」

「?」

『君は、この発問のあとの展開を確認しようとして、指導案に目がいっていたよね。で、あなたはチョークを捜しに行ったよね。その間に、教室はどうなっていた?』

ま、ここで答えられるようならばそんなミスはしていない。だから、分からない。

『発問、指示のあと教室がざわざわしたのに気がついた? あのざわざわを聞き逃してはならない。あのざわざわは、(え、なに、何をしたら言いの? こういうこと?)というざわざわだ。つまり、一つ目の発問、指示が学習者に理解されていないという合図なんだな。そこを聞き逃してしまっている』

『発問、指示をしたら、それが学習者にしっかりと届いているかどうかを確認することである。発問、指示の直後の子どもたちの様子をしっかりと見なければならない。たった3秒の確認だが、それが大事』

『逆に発問2は、なんだか日本語になっていなかったが、文脈で理解してざわざわは起きなかった。そういうこともある。発問、指示を出しっぱなしにしないということだ』

中には、自分が発問、指示を出しておきながら、それが学習者に理解されないでざわざわしてしまうときに、

「うるさい!」

と怒る人もいるが、これは論外。だが、これも発問、指示を出した後の確認をしないことの積み重ねから置きていると考えられる。仇やおろそかにすべきではないのである。

それでも教師は児童生徒を信じるのだ。

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それでも教師は児童生徒を信じるのだ。

教師が裏切られるのは良い。教師なのだから。教師が子どもを信じなくなり疑ったとき、実は何も問題が無かったという児童生徒がいたら、その児童生徒は絶望である。

教師が傷つくのはいい。教師なのだから。子どもを傷つけるよりよい。教師は信じつづけるのだ。しんどいんだけどね。

2013/07/19

子どもの表出を読み取る

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二回生ゼミでは、子どもの書いた詩を読み続けた。最初私が発表をし、その後、学生たちに順番で発表させた。一つの詩について40分程度を掛けて読み続けた。はじめのうちは学生たちは一つの詩を40分も掛けて読むことが出来るのかと不安であった。が、寧ろ足りないということに気がついていった。

私がこの授業で学生たちに手に入れさせたいと考えていたのは、子どもの表出を読み取るということである。表出とは、本人が意識しないまま溢れ出てしまう感情や考えのことである。それが、子どもの文章、詩、言葉、ジェスチャー、視線、身振り、構えなどに出てくる。これを読み取ることが指導にはどうしても必要になる。

子どもの本音を理解すると言うことだ。
子どもは、いや、人間は、自分に都合の悪いこと、恥ずかしいことは隠す。そして、その部分に指導の対象になる問題の種が隠れていることが多い。
さらに言えば、隠しておきながらそこを理解してくれない先生はダメという判断をすることがある。

子どもの本音が見えないと指導のストライクゾーンがズレる。
子どもの本音を知った上で、対応しないのと
知らないので、対応できないと言うのは、同じように見えて全然違う。

小学校一年生から五年生までの詩を10編程度だが、じっくりと読んだ。
句読点、ひらがなとカタカナの違い、倒置法、鍵括弧、複数回でてくる言葉、複数回でてくるのに微妙に言い方を変えている言葉などなど。これらを手がかりとして、子どもの表出を読み取るレッスンをした。

子どもの表出は、やがて、表現に高めて行く必要がある。
また、その表現は伝達の力へと導く必要がある。
その一歩目として、まずは書かれた言葉をじっくりと読む。
そして指導者がその表出を受け止めることができるようになることが大事だ。
それに取り組んだ。

現場に出れば、子どもの詩を一週間もかけて吟味するなんてことは先ず出来ない。毎日30人が連絡帳に書いてくる言葉を読んで、コメントして。これに一人一分として30分だ。たかだが10回のレッスンでこれが出来るようになるとは到底思えない。

が、出来るようになる為の種を埋め込んでやりたい。
そんな思いでやっていた半年が終わった。

2013/07/16

昨日の授業は、読解と発問

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昨日の授業は、読解と発問。

読解は、連続テキストと非連続テキストの二つについてそれぞれ2、3問の具体的なものを提示しながら行う。読解と言えば、登場人物や作者の心情を読み取ることに焦点をあてることの多い日本の国語教育。それよりも文章に何が書かれているかをきちんと読み取る授業をもっと増やすべきだと考えている。

その為に、「短編問題集」を二つほどやる。
短い文章に問題は一つ。制限時間内は何回提出しても良い。当たるまで頑張れと言う問題だ。

私が塾の講師をしていた大学生の時に開発し、かれこれ50作品ぐらいは作った。私が教えた生徒たちは全員これをやっている。そして、好評。学生たちにも好評であった。

答えに辿り着く為には、何回も本文を読まざるを得ない。
『教科書10回読むように』
と言って読むのであればいいのだが、そう中々いかない。だとすれば、10回読まざるを得なくなるような仕組みを作ればいい。この教材を終えた後学生たちにこれを話したら、まんまとやられたという感想が続出。Aさせたいなら、Bなのである。

制限時間の中で答えを見つけた学生たちは、つい周りの学生たちに話したくなる。しかしそれを私は許さない。
『他の人が考える楽しみを奪うでない!』
と注意。分かったから言いたくなるのは分かるが、それが他の人の喜びを奪う事になるのだ。自慢したい気持ちは分かるが、これを許すわけにはいかない。

非連続テキストは、非連続テキストの読解なんてやった事の無い学生たちばかりで、最初はやや混乱。今回は、三枚の写真を使って、それぞれの写真の情報を読み取る授業をした。

私が非連続テキストの読解は国語の守備範囲と考えて指導していた頃は、
「それは国語?」
と随分叩かれた。
(国語なんだけどなんで知らないの?)
と地元の国語の専門で有名な先生には言い返さない方がいいと思って言わなかった私。あ、ごめん、本当はすこし言った。それで叩かれたf(^^;。

ところが、OECDのPISAでこの非連続テキストが取り上げられるようになったら、掌を返すように私の授業が認められるようになる。ま、そういうものだとは思うがあまりの変化に驚いたのを思い出す。

連続テキストにしても、非連続テキストにしても、読解はそのテキストにある情報だけで読み取らなければならない。ところが、これが実に出来ない。非連続テキストとして、ある写真を見せると自分で勝手にストーリーを作って説明していまう。つまり、バイアスが掛かっていることが客観的には分からないのである。これを指摘しながら読解の授業を進める。

http://www.kobun.co.jp/dataroom/vocabulary/ha_06.html

のような部分を指導することが求められる学生たちだ。
しっかりと理解させたい。

発問。

先ず、指導言に説明、指示、発問の三種類がある事を説明。その三種類は、授業の三つのスタイル、即ち、講義、問答、ワークショプのうち、特に問答で必要になる三種類である事を説明。

国語の授業では、発問が難しいと良く言われるのだが、私に言わせれば、それは発問ができないのではなく、説明ができないのである。

たとえば、
「今日は7/15日です。海の日です。海の日は〜」とするのが説明。
「今日は何日ですか?」「今日は何の日ですか?」」「海の日とは何の日ですか?」とするのが発問なのである。

発問が苦手な人は、説明が苦手な人なのである。もっと言えば、説明のために必要な読解が苦手な人なのである。そうだとすれば、
「いやあ、発問が苦手なんですよ」
という言い方は、言ってはならない事なのである。そんな事言ったら恥ずかしい事なのだ。

この後、メロスやごんを使ってあれこれ説明。
ほら、分かったでしょ。大事でしょ。

最後の授業が終わってから30分後には、プールの中で泳いでいた。
もう暑すぎる。
プール終了の15分前に飛び込んで、ひたすら泳いだ。

夏なのに、まだまだ授業は続く。

教師になったらそんな授業を子どもたちにプレゼントする事が出来る

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「私も小学校や中学校でこういう国語の授業を受けたかっ

たです。」
このように学生たちの感想に多く書かれる。私個人としてはとても嬉しいことだ。

だが実を言えば、私だって小学校や中学校でこういう国語の授業を受けたかったのである。
だけど受ける事は出来なかっ
た。
だけど教師になったらそんな授業を子どもたちにプレ
ゼントする事が出来る。

教師は、こういう国語の授業をして、子どもたちが嬉しそうにしている姿を見て、喜ぶ事が出来る。
いい仕事だ。

2013/07/15

ちゃうで、お父さん

7/15
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(海の朝焼け by iPhone4)
旅行の帰りにIKEAに寄って来た。IKEAはセールと言う事でもの凄い人だった。IKEAでは、着ぐるみを着た人と12歳以下の子どもがじゃん拳をするというイベントがあった。勝ったらアイスクリームのチケットを貰えるとのこと。
店内のどこにいるかは分からなかったのだが、私がたまたま見掛けたのて、娘を連れて行った。
ところが、直ぐにじゃん拳をしない。次から次へと他の子どもが挑戦してしまう。
(あれ、こういうの苦手だったかな?)
と思いながら
『ほら、じゃん拳しておいで』
と言ったら4人ぐらいを先にやり過ごして、じゃん拳。
見事に一発で勝ってアイスクリームのチケットを貰う。
『を、強いね。運がいいなあ』
と言ったら
「ちゃうで、お父さん。あの人、ずっとグーしか出してへんかった。だから、パー出そうと思って、パー出したんやで」
と娘。
じぇじぇじぇ。
観察して、現状分析をしていたの?
この血は私でも奥さんでもないなあ。
ただ、驚くお父さんでした。

2013/07/08

七夕の午前の、すばらしい光景だった

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午後から関西授業づくり研究会が大阪であるので、いつもの週末なら午後にプールに行くのだが、今日は午前中に娘(5)と行った。

1時間程度の予定であったが、結局2時間近く居てしまった。
プールシーズンが始まったばかりの週末のプールの午前中は、思ったよりも人は少なかった。娘は一年ぶりのホームプール。だからたっぷり遊べた。

午後の研究会に間に合わせる為には、11:30にはプールを出なければならないのだが、延びてしまった。

娘は去年から泳げていた。ノンブレスで10m程度泳げるようになっていた。今年はどうかなと思っていたら、いきなりそれ以上をノンブレスで泳げていた。
(ああ、成長なのね)
と嬉しく思っていた。

で、そのままでもいいのだが、沢山できるようになりたい娘。
ま、教えるのが専門のお父さん。
呼吸の仕方を教えてあげたいなあと思っていたら、やりたそうな娘。
ならば、と教えてみた。

伏し浮きを教えたところ、いきなりできた。
出来なければ例の
『プールの中でお化けになってごらん』
の有名な指導言を言おうと思っていたのに、あっさりと出来てしまった。
嬉しいような、かなしいような(^^)。

で、それならばと、遊びに持って来た大きな水鉄砲をビート板のようにして持たせてブレスの練習。そして
「カエル泳ぎをやりたい」
という娘のリクエストに応えて、それを教える。

いきなりブレスが出来た。
いや、客観的には溺れているように見えるのかもしれないが、ブレスはブレス。
さらに、クロールでもできた。

こうなると、もう勝手に練習する娘。時々
「見て、見て!」
というが、どんどん練習をする。

気がついたら、息ができるようになり始めていた。
七夕の午前の、すばらしい光景だった。

2013/07/05

今日、私は誕生日を迎える事が出来た

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数日前に、山形の叔父からサクランボが届いた。
毎年この時期になると、送ってくれる。

昨日、実家の父から山形産のメロンが届いた。
私は大好物なのだが、娘はそんなに好きではない。
そのことを知りながらも、送ってくれた。

実家に電話をした。
「相変わらずだよ、良くはならないけど相変わらずだよ」
という言葉で、安心もしている。
娘も
「おじいちゃま、メロンありがとう」
と言えた。

やっと授かった娘。
長生きをしてくれている両親。
その御陰で、この電話があるんだなあと思う。

やがて娘が結婚したら、私は季節のものとして
何を送るのかなあと思う。

今日、私は誕生日を迎える事が出来た。
ありがたいことだ。

濃密な時間が過ぎて行く

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四回生ゼミは、今日でおしまい。
今週末から採用試験が始まるので、今日で終わりとした。

一人一人に今の気持ちを語らせ、それに返事をした。
彼ら彼女らがいま持っている不安を少し楽にできれば良いなあと思いながら、アドヴァイスした。

真新しい2Bの鉛筆を一人一本用意し、そこを少し削って言葉を書いた。
「前へ」「よく食べろ」「夢の実現」などなど。一人ずつ違う言葉を書いた。それを袋に入れてくじ引きで選ばせた。

『一人だけ、「来年も頑張れ」と書いたからな』

と付け加えておいた。
勿論、これはジョーク(^^)。

七夕飾りに短冊をぶら下げ、近くの神社にお参りに行った。
宗教上の信念について確認した所、問題ないというので全員で行った。

苦しい時の神頼みだ。
それもいいと思う。

私の年齢になれば、浪人、留年、採用試験二度目の合格なんてのはなんでもないことで、寧ろそれが私の人生を作っているというか、彩りを添えているような感覚すらある。だが、彼らは今年で決めたいと必死だ。それでいい。

が、一方で私は

『どういう結果が出たとしても、それは君たちの人生の一部でしかなく、棺のふたが閉まるまでは何がどうなるかはわからないのが、人生だ。合格、採用に向けて頑張れ。だけど、うまく行ったからといって全て良いわけでもないし、ダメだからといって全てがダメなわけでもない。だけどいまやるべきことを淡々とやり続けよ』

と話した。

昼ご飯を終えて、研究室にいたらノックの音が。
何だ?と思ったらゼミ長がとなりの部屋に来て下さいとのこと。
顔を出すと、三、四回生ゼミの諸君。
ああ、そうか。

私の、明日の誕生日をお祝いしてくれるという。
お祝いの言葉のパネルもプレゼントしてもらった。
『そんな暇があったら勉強しろ!』
と言うのが私のキャラだと思うが、
ここは有り難く貰った。

濃密な時間が過ぎて行く。

2013/07/03

ディベートのジャッジのスピーチは、その練習にうってつけだと思うのだ

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ディベートの授業。終盤に入って来てジャッジのスピーチ

がそれなりに形になって来た。

ディベートの入門期指導で、難しいのはジャッジの育成である。ディベートのジャッジは勝敗の判定とその理由を述べなければならない。さらに、教育もしなければならない



野球では、三塁ゴロをさばいた三塁手がファーストにボールを投げたとき、「アウト!」と審判が言えばそれでおしまい。ところが、ディベートでは、「アウト! なぜアウトかというと、〜だからです。では、今後どうしたらいいのかというと、〜をするのが良いでしょう」というスピーチをすることになる。これが初心者には難しいのだ。

そこで、私は最初の段階では「分かりやすかった方を勝ちにせよ」という指示を出してやらせている。判定の理由まで、こちらが指示してしまうのだ。これだとうまく行く。

しかし、ずっとそれでやらせるわけにはいかない。メリットとデメリットの比較を行うジャッジ、判定の理由をしっかりと言えるジャッジ、負けた側が
(あ、それなら仕方が無い)
と思う判定の言えるジャッジに育てたい。



これは、実は教師になる学生にとって実に大事なことではないかと考えている。
子どものダメな部分を指摘し、なぜそれがダメなのかを説明し納得させる。さらに、では次にどうしたら良くなるのか、その取り組みについて指示を出す。

教師の仕事は褒めるだけではない。ダメ出しをしたり、叱ったりすることがある。その時に、子どもが納得するスピーチを教師はする必要がある。ディベートのジャッジのスピーチは、その練習にうってつけだと思うのだ。

ディベートのジャッジの練習だけで、教師として目指すスピーチが出来るとは思わない。が、貴重な経験になるとは思っている。

2013/07/02

句会をやると、いわゆる「問題句」がでる

7/2

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句会をやると、いわゆる「問題句」がでる。
実に面白い。
学生は正選句に取れないことが多いのだが、私がみると実に面白いという句である。


たとえば、今日でた問題句には、こんなのがある。


1)ザクザクと土の中からかぶとむし

2)浴衣きて 男片手に 夏祭り 

3)花火見て 君を見つめて 不発弾 


以下やや詳しく見る。

1)ザクザクと土の中からかぶとむし

この句に違和感を感じないだろうか。「ザクザクと土の中から」とあったら、その後は通常は「金銀小判」ではないだろうか?「カブトムシ」がでてくるのであれば、「ザクザク」ではなくて「もこもこと」とか「わらわらと」ではないだろうか。

それにも関わらず「ザクザクと」を使うと言う事は、この作者にとって、かぶとむしが金銀小判に該当するのではないだろうか?というのが私の読みであった。

ところが、作者に聞くとそれは違っていて、単にシャベルでザクザクと土を掘っていたら、カブトムシの幼虫がでて来て、それを気がつかないままシャベルで実をちぎってしまっていたこともあったということから作られた俳句だと言う事が分かった。

そこで面白いのは、作者のストーリーと私のストーリーはどちらの方が聞いていた学生たちに届いたのかということである。私の方であった。ま、どちらでもいいのだが、そういう解釈の自由度があるといういことが俳句の読みの楽しさなのだ。

つまり、俳句と言うのは17音の世界なので、描こうとする世界は不十分。その不十分な世界が提出されているので、読み手はそこに自分の読みを加える事が出来るのだ。

そもそも、俳句は俳諧連歌の発句であって、発句の次の脇句を求める文芸作品。だから、読み込むことが積極的に求められていいのだと考えている。


2)浴衣きて 男片手に 夏祭り 

この句は浴衣を季語にした俳句としては、異例の句である。浴衣と夏祭りが季重なりなのは惜しいが、句意は面白い。学生は正選句として6票。逆選句として20票で、マイナス14点であった。
通常、浴衣となると

浴衣着て 君のもとへと 走り出す 
浴衣着て 心踊らせ リンゴ飴

のような淡い恋とかファンタジーとかの俳句に向かう。それはそれでいい。こういうシーンは、この夏の京都でも1万回位はあるだろう。しかし、この句は豪快だ。浴衣を着た彼女の手には、団扇でもりんご飴でも綿菓子でもない。男だ。男を片手に夏祭りに向かう女性が描かれている。

引きづり回されたい男だっていくらもいる。しかし、俳句にはなかなか現れない。そこを俳句で描いた所がいい。俳句によって発見されている。これがいい。この夏の京都で100回位はあってもいい。面白い句だ。


3)花火見て 君を見つめて 不発弾 

この句も花火、君とくれば夏の恋の歌であることが分かる
ここまでは凡庸だ。しかし、第三句がいい。「不発弾」である。
上手く行かなかったのだ。

相変わらず花火は大空に打ち上がっている。
しかし、恋の花火は不発弾なのだ。
この対比によって、花火の美しさと、残念だった彼または彼女のガッカリが奇麗に描かれている。明るい花火によって映し出されるそのガッカリの顔が良ーく見える句である

学生は、正選句が18票、逆選句が5票で13点でありました。



句会の選句は、作品の良さだけで決まるものでもない。句会に参加しているメンバーによって決まる。だから、私から見ていい句だというものであっても、学生たちには選びきれないものもある。たとえば、


4)老い先に 病葉積もりて なほ凜と

である。
この句にある「病葉」を読める学生は殆どいないだろう。しかし、この言葉を使って来た学生がいることに先ず驚いた。

病葉とは、夏に狂ったように紅葉するその一枚の葉っぱのことを言う。病気であったり突然であったりするものだ。別れる葉というところから、わくらばとなり、この病葉という字を当てはめたのではないかと思われる。つまり、熟字訓だ。(明日と書いて、あした。小豆とかいて、あずきと読むのと同じ)

老いて行く我が身。年齢よりも少し早く老いてしまったか。いや、だが、まだ凛として生きて行こうじゃないか。

という句意を感じられる。
これを20歳そこそこで作っているのは、中々だと思った
この作者がこのクオリティで俳句を作り続ける事が出来たら、かなり才能があると思う。こういう才能が表にでてくるのも句会の面白さである。実際の句会では正選として1票。逆選として1票であった。学生諸君には、選びきれないかもしれない。が、私は審査員特別賞を上げた。


5)醜いわ 金魚の糞ね あなたたち 

これは正選句として3票。逆選句として45票を獲得し、堂々のマイナス42点を獲得し、逆選句の一位になった句である。逆選句の一位に選ばれた場合は名乗らなくてもいい。ただ、名乗りたい場合は名乗っていいとしてある。関西人の血が騒ぐのであれば、名乗ってもいい(^^)。

この句は、まず「醜いわ」と会話文から入っている。会話文そのもののはあってもいいが、「醜い」と言う言葉が問題であろう。俳句は、美しい、かなしい、楽しいなどの言葉を使わずに、美しい、かなしい、楽しいということを表す。だから、いきなり「醜い」ということばを使うのは困りものなのだ。

しかし、この「醜い」の部分をたとえば、「大文字」にしてみる。

大文字 金魚の糞ね あなたたち 

となるとどうだろうか。大文字の送り火とすると季語になるが、大文字だけなら季語にならないか。すると金魚が季語として生きて、二物衝突(取り合わせ)が生まれて一つの新しい世界が出現しないだろうか。

授業時の解説では、その場で考えて「大文字」に入れ替えてみた。句会の指導で難しいのは、このその場での添削と改良のためのアドヴァイスだと思う。ここは指導者が勉強しておかないと出来ない。今回は、二物衝突までは時間がなくて説明が出来なかったが、感覚は伝わったようだ。

最後に、私が解説に気合いが入った句。


6)ラインでも 緊張するよ 「花火行こ♪」

ラインは、LINEのことである。最先端のSNSである
この句を読んだとき、私は万葉人の歌垣、平安貴族の歌によるプロポーズから始まって、手紙、ポケベル、FAX、e-mail、mixi、Twitterなどのメディアの流れを感じた。

自分の思いを伝える手段は、文明の進歩によってどんどん変わる。
しかし、好きな人をデートに誘う。その時にあるドキドキ、不安、期待は1500年前の万葉人の歌垣の時代から何も変化していない。同じだ。

文明の利器の変化と、人間の本質の変わらなさの対比。
この句は、そこがサラッとしかもハッキリと描かれている
ちなみに、この句は、学生たちもきちんと選んでいた。正選句20票、逆選句3票の17点であった。いい句である



とまあ、こういう話を選句のあとにし続けた。60句以上やったので、時間がなくなって「短歌から俳句へ」の授業はできなかったのだが、ここが面白いんだよね、句会は。

また、やりたい(^^)。
明日の教室でもやりたいですねえ。

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