昨日の授業は、読解と発問
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昨日の授業は、読解と発問。
読解は、連続テキストと非連続テキストの二つについてそれぞれ2、3問の具体的なものを提示しながら行う。読解と言えば、登場人物や作者の心情を読み取ることに焦点をあてることの多い日本の国語教育。それよりも文章に何が書かれているかをきちんと読み取る授業をもっと増やすべきだと考えている。
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その為に、「短編問題集」を二つほどやる。
短い文章に問題は一つ。制限時間内は何回提出しても良い。当たるまで頑張れと言う問題だ。
私が塾の講師をしていた大学生の時に開発し、かれこれ50作品ぐらいは作った。私が教えた生徒たちは全員これをやっている。そして、好評。学生たちにも好評であった。
答えに辿り着く為には、何回も本文を読まざるを得ない。
『教科書10回読むように』
と言って読むのであればいいのだが、そう中々いかない。だとすれば、10回読まざるを得なくなるような仕組みを作ればいい。この教材を終えた後学生たちにこれを話したら、まんまとやられたという感想が続出。Aさせたいなら、Bなのである。
制限時間の中で答えを見つけた学生たちは、つい周りの学生たちに話したくなる。しかしそれを私は許さない。
『他の人が考える楽しみを奪うでない!』
と注意。分かったから言いたくなるのは分かるが、それが他の人の喜びを奪う事になるのだ。自慢したい気持ちは分かるが、これを許すわけにはいかない。
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非連続テキストは、非連続テキストの読解なんてやった事の無い学生たちばかりで、最初はやや混乱。今回は、三枚の写真を使って、それぞれの写真の情報を読み取る授業をした。
私が非連続テキストの読解は国語の守備範囲と考えて指導していた頃は、
「それは国語?」
と随分叩かれた。
(国語なんだけどなんで知らないの?)
と地元の国語の専門で有名な先生には言い返さない方がいいと思って言わなかった私。あ、ごめん、本当はすこし言った。それで叩かれたf(^^;。
ところが、OECDのPISAでこの非連続テキストが取り上げられるようになったら、掌を返すように私の授業が認められるようになる。ま、そういうものだとは思うがあまりの変化に驚いたのを思い出す。
連続テキストにしても、非連続テキストにしても、読解はそのテキストにある情報だけで読み取らなければならない。ところが、これが実に出来ない。非連続テキストとして、ある写真を見せると自分で勝手にストーリーを作って説明していまう。つまり、バイアスが掛かっていることが客観的には分からないのである。これを指摘しながら読解の授業を進める。
http://www.kobun.co.jp/dataroom/vocabulary/ha_06.html
のような部分を指導することが求められる学生たちだ。
しっかりと理解させたい。
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発問。
先ず、指導言に説明、指示、発問の三種類がある事を説明。その三種類は、授業の三つのスタイル、即ち、講義、問答、ワークショプのうち、特に問答で必要になる三種類である事を説明。
国語の授業では、発問が難しいと良く言われるのだが、私に言わせれば、それは発問ができないのではなく、説明ができないのである。
たとえば、
「今日は7/15日です。海の日です。海の日は〜」とするのが説明。
「今日は何日ですか?」「今日は何の日ですか?」」「海の日とは何の日ですか?」とするのが発問なのである。
発問が苦手な人は、説明が苦手な人なのである。もっと言えば、説明のために必要な読解が苦手な人なのである。そうだとすれば、
「いやあ、発問が苦手なんですよ」
という言い方は、言ってはならない事なのである。そんな事言ったら恥ずかしい事なのだ。
この後、メロスやごんを使ってあれこれ説明。
ほら、分かったでしょ。大事でしょ。
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最後の授業が終わってから30分後には、プールの中で泳いでいた。
もう暑すぎる。
プール終了の15分前に飛び込んで、ひたすら泳いだ。
夏なのに、まだまだ授業は続く。
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