10/21
国語科教育法2。
今日は、学習ゲームの実際。「対義語でぽん」を扱う。UNOのようなカード交換型の池田オリジナルの学習ゲームだ。対義語を揃えて手札を無くして行くゲームだ。
今年は、例年と違う展開で授業を進めた。
例年はやり方を私が簡単に説明し、実際にやらせて、ゲームをたっぷりさせて、説明を最後に少し解説。これを変えた。
やり方は説明しない。プリントにあるルールを読解させてやらせる。
実際にやらせる。時間を10分に区切って。なおかつ、やる目的は「10分以内にグループの人が"対義語でぽん"のルールを理解すること」とした。
説明は、途中で発問の形式で行い考えさせた。
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少し分かりにくいかもしれない。
実際にゲームをさせたのだが、学生達は自分の手札を見せずに、ルールの書いてある文章を読みながらグループ毎に進めていた。
目的を達成させる為であれば、手札は公開して進めた方が分かりやすい。お互いのカードを見ながらの方がルールを確認しやすい。ところが、これをしないで進めていたのである。
そこで
『なんで、公開してやらないの?』
と問う。学生達は、そんな考えで良いのかと驚きの表情ばかり。
◆
10分間ゲームをさせた後、質問する。
『やってみて不満はありませんか?』
すると
「対義語の知識がないので、ゲームを進めにくいです」
とのこと。ま、中学生の便覧に載っているレベルなんですけど(^^)。
『そうですか。じゃあ、何があれば、その不満を解決できますか?』
「.....」
『これでしょ?』
と言って対義語のペアが載っている資料を渡す。
「うわ! これだ」
と喜ぶ学生達。
そして、また暫くやらせる。
『何か他に不満のある人?』
と聞くと今度は手が上がらない。
『え、まだその資料不十分でしょ? それでやりやすい?』
最初に配った資料は、ペアの片方だけ五十音順に並べてある。だから、そちらが持ち札であれば、対義語が捜しやすい。しかし、反対だと捜しにくい。
『だから、裏側には、反対の方で五十音順を印刷する必要があるんじゃないの?』
というと、頷く。
『こうやって、子どもたちが学びやすい環境を調整して行くのだよ。ゲームで言えば、これをゲームバランス、またはインターフェースの調整というのだ。ここがうまくいかないと、クソゲーになる』
◆
『ルールの書いてある資料を見てご覧。そこにはver.1とあるね。実はこのルール最終的にはver4.2まで進化しました。では、いまからver.4のルールも配ります。ver.1とver.4を比較して、どこがどう違うかを見つけなさい』
学生達は簡単に見つけるかと思いきやなかなか見つからない。例えば、ver.1には図が描いてあるのに、ver.4にはないなんてところは最後まで気がつかない。
『では、なんで、その違いを付けたのか、その理由を考えなさい』
ルールを変更する。
学習ゲームにおいては、身につけさせたい内容(学習目標)を楽しく効果的に身につけさせるために、変更して行く。子どもの実態に応じてルールを変更して行くことが大事だ。一つのルールは、一つの目的を達成することができたら、次の目的達成のために変更して行く。これが大事。ここに気がつかせる為に、ルールを比較させ、発問を重ねて授業を構成した。
◆
私は、子どもの頃子ども同士で遊ぶ時は、その状況に応じて遊びのルールを変えて来た。あの塀の向こうに行ったら3塁打だとか、この子はストライクは4つまでいいとか。子どもは、ルールを守ることを躾けられたが、自分たちの遊びでは、状況に応じてルールを変更することを自主的にやって来た。
が、いま、子どもの遊びは大人のルール管理下にあることが多い。ゲームも閉じられたゲームの世界の中にあることが多い。
ルールは、子どもたちが民主主義の世界に生きているのであれば、守ることを教え、正当な手続きを経て変えることも教えて行く必要があるはずだ。
学習ゲームを教えることは、この部分の指導に一つの可能性を見いだすことができだろう。
◆
「じゃあさ、ここはこういう新しいルールを作らない(^^)?」
とあるグループで学生達はゲーム中に言っていた。ゲーム終了後、私はそれを取り上げて、
『それが大事なのだ。状況に応じて、目的に応じて変えていいのだ。ヴァージョンアップすれば良いのだよ』
つまりこれは、子どもの実態に応じて指導方法を変えて行くということを言っているだけなのだ。しかし、これはとても大事なことなのだと私は思うのだ。
学習ゲーム。
奥が深いんだよね。
この授業の後、新幹線に飛び乗って東京に向かうのでありました。