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2013/11/11

言葉の海にどっぷりと浸るのだ

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2限の四回生ゼミは、卒論指導。
書き上げた部分で検討して欲しい所を、読み上げていく。私が指摘した部分は、これ、

「〜ボランティアの体験からです。」

というもの。ここが二つの意味に取れてしまう可能性があることを指摘。「から」である。この空はbecauseにもなるし、fromにもなる日本語である。この卒論を書いている学生はbecauseのつもりで書いているが、文章を読んでいるとfromの意味でも取れてしまう。

じっくり読めば、fromではないことが分かるのだが、問題はそこ。読み手がじっくり読むことを前提にした文章を書くのはダメだと言うことだ。書き手が村上春樹であれば、世界中の読者がじっくりと読んでくれるだろう。また、じっくりと読まざるを得ない概念というものがあることも分かってはいる。筆者が言語化しにくいものを言語を使って、必死に絞り出そうとした文章があることも分かる。

しかし、これはそのどちらでもない。書き手の配慮の問題である。



もう一つ卒論指導で指摘したのが、副詞、副詞句だ。

絶対
必ず
間違いなく

という語群である。
これを使ってしまうのだ。

絶対に、と言われれば
(例外は無いんだろうなあ?)
と考える。いや、絶対ではないから絶対と言う言い方をして逃げようとする、論証を正当化しようとしていると思われるのだが、これをつい使ってしまう。

『絶対であれば、絶対であると言う証拠、データを出しなさい』

実際にアンケートや実験でデータを取っているわけではないので、これはできない。「〜なので、◯◯の可能性が高い」ということは言えても、その先は言えない。

絶対と言うことばを使って論文を書いているのは、まるで子ども達が
「お母さん、みんな持っているから買って」
と言っているようなものなのだ。

私もつい、使ってしまいたくなる誘惑の多い、絶対。だが、慎まねばならない。



3限の2回生ゼミは、『「学ぶ」ということの意味 (子どもと教育)』(佐伯 胖)を講読している。発表者が発表の部分を要旨に纏めてきて発表し、担当箇所に問いを立てて、議論するスタイルである。

今日は、大人と子どもで未来の捉え方が違うのは何故なのかということを、テキストに沿って考えると言う問いであった。学生達は、小グループに分かれてその問いに対して議論を重ねて、答えを発表していった。

最後になって
「何か、ありませんか?」
とあった。学生達は満足した感じで特に何も問題は無かった。が、私はじっとこの様子を見た上で、最後に発言した。
『私がこの問いに答える立場だったら、答えられないと言うと思うのだが、みんなは良く答えられたね』
と。
そこから更なる議論が始まった。そして辿り着いたのは、大人と子どもの境目を決めないままでは、この問いに答えることは出来ないということであった。

そう。大人と子どもの定義をしないまま、わけることは出来ないのだ。折角だったので、ゼミ生に大人とは? 子どもとは?と定義をさせてみた所、特に大人の定義が見事にバラバラなのであった。

『本を読む。議論をする。学術的な文章を書く。こういう時には、言葉の意味をきちんと確認しながら行うことなのだ。この講読というのは、そういう作業を通して行われる。いや、君たちを怒っているわけではない。そういう訓練をする機会がなかっただけだろう。このゼミではこれをやるのだ』

言葉の海にどっぷりと浸るのだ。

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