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2013/07/25

「どうらく息子」

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やっぱり、落語だよなあ。

「寄席芸人伝」「タイガー&ドラゴン」「ちりとてちん」を楽しんだ私が、今楽しんでいるのが「どうらく息子」だ。作者の尾瀬あきらさんは、「夏子の酒」を描いている。丁寧に日本酒の世界を描いているいい作品。で、いま描いているのがこの「どうらく息子」だ。

有名な言葉がある。
「落語とは、人間の業の肯定である」
立川談志の言葉だ。

歌舞伎は人間のカッコいい所を描いている。だけど、落語は人間のみっともない所を描いている。だが、そのみっともない所を、それでいいんだというのが「業の肯定」なのだと思う。

そこに惹かれる。
ダメな人生を歩んでも、それでいいんだと言われる。
それでもいいんだと言われる。
そこが落語の根っこなんだと思う。

前期の授業最終日に、車のHDに貯めてある音源から一つを選んだ。
そうしたら、それは小さん師匠の「時そば」であった。だいたい、この一席を伺っている間に大学に到着する。

改めてこの話の伏線の妙にうなる。
何気ない言葉がきちんと伏線になっている。
これ、とんでもないネタだなあと思うのだ。

で、「どうらく息子」の一巻の第一話が、この「時そば」なのだ。
小さん師匠の「時そば」を聞いた日に、この「どうらく息子」を読み始めたのだ。うーん、素晴らしい。

ま、教育的に言えば「正統的周辺参加を学ぶ機会になる」とか言うことも出来るし、実際そうなのだが、落語の世界をたっぷり味わえる名著だなあと思う。あ、名マンガか。

現在出版されている第七巻まで、あっという間に読み終えてしまった。
楽しみに第八巻を待ちましょう。

お薦めのマンガです。

2013/07/24

その断定の甘美さを拒絶する所に

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状況や立場や条件で、正しいってことは結構変わる。にも

かかわらず、教師は何が正しいのかを決めて、子どもたちに正しいことを教えなければならない。一日に何回も。時には、瞬間的に。
これって実に難しく大変なこと。

だから、正しさは本当に正しいのかと振り返ることが出来ないと、この教師と言う仕事は勤まりにくい。

断定するのは楽なんだけど、その断定の甘美さを拒絶する所に、この仕事の本質はあるのではないかと、このごろ良く思う。

2013/07/22

『式の前日』(穂積 小学館flowers フラワーコミックスα)を読んだ

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『式の前日』(穂積 小学館flowers フラワーコミックスα)を読んだ。
さっと読める。
が、もう一度読み返すだろう。
そして、じわじわその良さの広がりを感じるだろう。

なんだろうなあ、『夏への扉』と『中国行きのスロウボート』と濱田金吾と乙一の世界を、30年前の「ぶーけ」で、描いていたあの人(ああ、名前が出てこない。内田善美だったかなあ)と小椋冬美と清原なつののタッチで描いていると言ったらいいだろうか。新人にしては中々の画力だと思う。

って、全然分からないでしょうね(^^)。

夏の午後に大滝詠一を聞きながら読むにはいいと思う。
1時間のブレイクにはいいと思う。

2013/07/21

たった3秒の確認だが、それが大事

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二回生ゼミで気になったことをメモとして。

子どもの詩の読解をして行く模擬授業をゼミ生が行う形で授業をするのが、このゼミ。教師役が読み込んで来て、発問を考えて授業を進める。昨日の一つの詩で、柱になる発問は二つであった。これがなかなか興味深かった。

発問の内容ということではなく、発問を取り巻く指導の在り方といったら良いだろうか。

一つ目の発問を終えたとき、教室がざわざわとなった。その発問の最後の指示は「まずは、一人で考えてみて下さい」である。であるからして、ざわざわするのはおかしい。まして相手は大学生である。一人で考えてみて下さいと言われたら、考えるものだ。にもかかわらずざわざわであった。

二つ目の発問は、発問の主語と述語がねじれてしまっていて、(ま、言いたいことはわかるけど、それ日本語としてどうよ?)というものであった。しかし、この後はざわざわしなかったのである。

この事実を授業後、二人の授業者に確認してみた。

『一つ目の発問のあと、何をした?』

「え、私は机間巡視です」

「私は、板書です」

『そうだよね。でも、それをするまえのことを聞いている』

「?」

「?」

『君は、この発問のあとの展開を確認しようとして、指導案に目がいっていたよね。で、あなたはチョークを捜しに行ったよね。その間に、教室はどうなっていた?』

ま、ここで答えられるようならばそんなミスはしていない。だから、分からない。

『発問、指示のあと教室がざわざわしたのに気がついた? あのざわざわを聞き逃してはならない。あのざわざわは、(え、なに、何をしたら言いの? こういうこと?)というざわざわだ。つまり、一つ目の発問、指示が学習者に理解されていないという合図なんだな。そこを聞き逃してしまっている』

『発問、指示をしたら、それが学習者にしっかりと届いているかどうかを確認することである。発問、指示の直後の子どもたちの様子をしっかりと見なければならない。たった3秒の確認だが、それが大事』

『逆に発問2は、なんだか日本語になっていなかったが、文脈で理解してざわざわは起きなかった。そういうこともある。発問、指示を出しっぱなしにしないということだ』

中には、自分が発問、指示を出しておきながら、それが学習者に理解されないでざわざわしてしまうときに、

「うるさい!」

と怒る人もいるが、これは論外。だが、これも発問、指示を出した後の確認をしないことの積み重ねから置きていると考えられる。仇やおろそかにすべきではないのである。

それでも教師は児童生徒を信じるのだ。

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それでも教師は児童生徒を信じるのだ。

教師が裏切られるのは良い。教師なのだから。教師が子どもを信じなくなり疑ったとき、実は何も問題が無かったという児童生徒がいたら、その児童生徒は絶望である。

教師が傷つくのはいい。教師なのだから。子どもを傷つけるよりよい。教師は信じつづけるのだ。しんどいんだけどね。

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