『機械との競争』(エリック・ブリニョルプソン 日経BP社)を読む
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『機械との競争』(エリック・ブリニョルプソン 日経BP社)を読む。
「高校の遠隔授業を解禁 文科省、外部の人材活用 16年度にも 2013/12/14 13:30 日本経済新聞」
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1305K_U3A211C1MM0000/
という記事が年末に出ていたのであった。
この意味の大きさがあまり理解されていない感じがする。
簡単に言えば、「いまでしょ」の林修先生が日本中の高校の現代文の授業が出来るようになると言うことである。
教員一年目で授業が上手くない先生や、教員ん10年だけど上手くない先生より、ネット配信される超一流の先生の授業の方がいいということになり、そちらを見て授業を受けられるようになると言うことである。
教師も、大学教授も消える仕事に入っている。
http://commonpost.boo.jp/?p=26143
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本書は、この辺りの問題とリンクしている。
著者のエリック・ブリニョルプソンは、MITの経済学者である。経済学の見地からアメリカの景気動向を解説し、リーマン以降のアメリカの景気を見たとき、景気は回復しているにもかかわらず、労働者の実質世帯収入の中央値は、この10年ベースで見ると下がっていると言うのだ。
仕事は増えたのに雇用が無いと言う事態になっている。これは何を意味しているのかと言うと、増えた仕事は機械が行っている、簡単に言うとコンピュータが行っていると言うのだ。
良く言われるムーアの法則を出しながら、この流れはどんどんと加速するだろうと予言し、チェス盤の後半*1に入って来たICTの指数関数的な伸びの中では、何が起きてもおかしくないという。
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ラッダイト運動は、1811〜1817年に起きた。そう、あの機械打ち壊し運動である。高校時代にこの機械打ち壊し運動の挿絵の書いてある教科書を読んだとき
(バカだなあ)
と思ったが、200年を経て私たちはコンピュータ打ち壊し運動をすべきじゃないか?と思う時代に来ているかもしれない。
人類が経験して来た三つの産業革命、蒸気機関、電力、そしてICT。このうち二つはそれを敵にするのではなく、見方にすることで人類は繁栄して来た。しかし、現在ICTに人類は打ち負かされようとしているのか?
嘗ての蒸気機関、電力の発明の時には、それに伴って失われる仕事と生まれる仕事のバランスが取れていて、いや結果的に見るとその御陰で新しい産業が沢山生まれて雇用が増えたのだが、いまのICTについては、そのスピードが速過ぎて、失われる雇用に新しい雇用が追いついて行っていないという解説がされている。
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しかし、本書は、楽観的である。ICTを味方にして行くことをすれば良いのだと言う。その証左としてコンピュータと人間のチェスの戦いは、コンピュータが勝つことは確定したが、現在一番強いのは、コンピュータを使った人間が戦う場合が一番強いとなっていると言うのだ。
ただ、過渡期としては高度に訓練された技術技能を持つ人間と、意外なことに単純作業としてのウエイター等の作業員の二局に仕事は分散されるだろうと言う予測を出している。その過渡期は、恐らくこれから10年だろうと思われる。
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冒頭にあげた遠隔地からの教育、授業のありかたなどについても123〜126pで述べられている。本書のタイトルは『機械との競争』であるが、求められることは「機械との協同」または「機械の活用」なのだということだ。
ただ、相手はもの凄いスピードで迫ってくる。
「ビジネスが原子(物質)ではなくビット(電子情報)に依存するようになると、新たに生み出される製品それぞれが、次の起業家が利用できるパーツになる」118p
とある。
ニュートンは「私がさらに遠くを見ることができたとしたら、それはたんに私が巨人の肩に乗っていたからです。」と言った。ニュートンであってもこんなに勉強をしているのだと思ったものだ。それはそれで驚いたが、もう一つここに語られていることがあると思う。それは、人間はゼロから教育によって成長していかねばならないということだ。勿論本能や反射は別だが、勉強に関してはそうなのだ。
しかし、一方で情報は無くならない。積み重ねられる。共有されて新たな価値を生み出す。さらにスピードだ。コンピュータは標準的な最適化問題の処理速度を1988〜2003年の15年間の間に4300万倍に高速化しているとのことだ。40p
さ、この現実を見た上でどうやって「機械との協同」または「機械の活用」に向けた教育をしていくか。また、教育システムを構築するかだ。私たちはICTと言う巨人の肩を手に入れている。その肩に乗って行けるのか、その巨人に踏みつぶされるのか。
機械、コンピュータにはできない人間の強み。
機械、コンピュータの方が上回っている部分。
過渡期を生きる私たちは考えなければならない。
*1 本書を読んで欲しいが、要はチェスの盤にひと升に一粒、次に二粒、その次に四粒、十六粒と置いて行くと、チェス盤の後半はとんでもないことになると言うあれである。ただ、私は、なんでチェス盤のスケールで語れるのか、また、本当に後半に入っているのかと言うことに関しては、本書を読んでも分からなかった。が、例えとしてはわかる。
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