« 2015年9月 | トップページ | 2016年2月 »

2016/01/30

コンピュータが教える授業は、もう始まっている

Img_4772


https://www.youtube.com/watch?v=7g8pmwLuZxM

コンピュータが教える授業は、もう始まっている。
「アメリカでは単に知識を与えるだけの教師はクビになっている」と書かれている本があったが、ものすごく実感できる。

http://chibicode.com/yomikaki-soroban-monogatari/
に書かれていることによると、

引用開始 ーーーーーーーーーー

「ゲーム感覚で数学を学べる」と聞くと、よくありそうなアプリに思える。だがST Mathの凄さは、小学校から高校までの数学カリキュラムを網羅する教材の量と、高い普及率にある。執筆時点でST Mathのユーザー数はアメリカだけで、

生徒: 80万人。アメリカの全生徒数の1.6%。だが、ST Mathは主に「数学ができない子」、すなわち下位10~20%層をターゲットにしている。それで計算すると、「できない子」の約10人に1人がST Mathを使っていることになる。
教師: 3.1万人。アメリカの全教師数の1%。だが、「数学を教えていて、しかも『できない子』を教えている」先生だけに限定すれば、かなり普及していると言えるだろう。
また、アメリカの15の大都市で学力テストの結果を見ると、全都市で、ST Mathを利用している学校の生徒は数学の成績が向上したらしい。

ちなみに、ST Mathを含む多くのエドテックのソフトウェアは、基本的には家庭向けに販売されていない。学校や学区がライセンスを購入し、学校や学区全体に配布する仕組みになっている。

引用終了 ーーーーーーーーーー

だそうだ。
私も小学生なら、これ、やってみたいし、娘にもやらせてみたいなあと思う。

これをベースにして、次にどういう教育をするかだ。

39.6度まで一気に上がった

Img_7253
全くもって、子供のようだなあと思う。
授業が終わったら熱を出すなんて。

やるべき時にやりきったとも言えるが、会議が終わっていないのに倒れるのは修行が足らんかなあ。そこで気が抜けてしまうのはだらしがないのかなあとも思う。また、その一方で日頃オーバーワークをしているので、終わったと思った瞬間に脱力して熱が出てしまったのかもしれない。

私のこの頃のぶっ壊れの特徴は、急激に高熱が出ることだ。
今回も、夜中に寒いと思い布団をかけ、足元カイロを入れたのだがダメ。お腹を壊して、なかなか寝られず朝方体温みたら発熱。その後、39.6度まで一気に上がった。よくないねえ、こういうの。40度を超えていくとタンパク質の変成が起こってしまって、脳みそがゆで卵のように固まってしまう。それは非常に危険。一回40度を超えて、味覚障害が起きたことがある。今回も、口の中が痛くて、まだ少し痛い。

で、このぶっ壊れの特徴は、治る時はすっと治るということだ。熱も36度台に戻った。
先ほどお風呂に入って、さっぱりすることもできた。
はああああ。

もうしばらくダラダラしようっと。

三学期に行う自己紹介の授業

Img_5960

三学期の国語の授業で是非扱って欲しいのが、自己紹介の授業である。

自己紹介は、四月、新学期に行うものである。しかし、授業としては前年度の三学期に行っておきたい。

四月に

「自己紹介をしてください」

と言われても、子供達は自己紹介練習する機会はない。多くの場合、指導?は「はい、やってください」で終わりである。また、新しい担任が自己紹介の指導をしたとしても、その子供についてのエピソードはほとんどわからない。

だから、1年間の最後に、その子供のことをよく理解している担任が、来年度の自己紹介の練習をさせるのだ。「話すことがない」と子供が言ったとしても、「ほら、○○があるでしょ」と言ってあげられるのは、今年1年間一緒に過ごしてきた担任なのだ。

ちなみに、私の指導はこれ。

http://www.nhk.or.jp/sougou/gokui/?das_id=D0005180020_00000

小学校の飛び込みの授業でしたが、三学期にやるのはやっぱり意味があるなあと思いました。

2016/01/26

そういう授業スタイルが必要だと考えている

Img_7002_3

 

今の子供は、説明は聞かないが解説は聞くと感じている。だから授業で作業の仕方を説明するとき、説明は極力短くし、作業に移らせ、できないときできたときの解説を丁寧にするというのがいいと考えている。

今、子供達が触れているコンピュータゲームやiPhoneは、使うための説明がほとんどない。iPhoneの説明書の薄いことに驚いたであろう。これらは直感的に操作ができるようになっている。むしろ、始めるための説明が多いゲームは、「クソゲー」などと言われる始末である。

説明はいらないからすぐにやりたい。これが子供の気持ちであり、それができる環境にいる。じっくりと説明をして理解させてからやらせたい。先生の話はしっかりと聞きなさい。これが教師の気持ち。だから合わない。教師の指示に従わない子供は怒られる。しかし、そうでいいのだろうか。

命に関わるような失敗につながる可能性のある、火の取り扱いや体の動かし方等については、しっかり説明する必要がある。しかし、そうでないのならば、さっさとポイントだけ説明してやらせる。失敗したら解説を加えフォローして次に向かわせる。そういう授業スタイルが必要だと考えている。

2016/01/24

鑑賞会をした

Img_6695

で、昨日の夜は娘の初アイススケートの様子をiPhone撮影した写真を、アップルテレビで家のテレビに飛ばして、鑑賞会をした。

iPhoneでスライド設定する。すると複数枚の写真が次から次へと流れてくるのだが、動画は、スライドが停止して動画の部分が流れる。

実にいい。

合唱コンクールなどを撮影して、閉会式でこの方式で流せば、素晴らしいエンディングムービーが自動的にできてしまうなあ。

「お父さん靴履かせて」

Img_6707
「お父さん靴履かせて」
と娘(8)が言う。
(ああ、懐かしいなあ)
と思う。
なんでもかんでも自分でたったかやろうとする娘は、靴を履かせて欲しいなどという言葉は、小さい頃はほんの少ししか言わなかった。
さすがにアイススケートの靴は自分では履けないようだ。
本当は、雪が降る予定だったので雪遊びをする予定の1日だったが、なぜか降らなかった。遊びモードにはなっていて、しかも寒い中での遊びモードになっていたので、アイススケートに連れて行った。
私が初めてアイススケートをしたのは、小学校高学年か中学校に入ってからだ。だから、こんなに小さい頃にアイススケートを体験するなんて凄いなあとは思うのだが、連れて行った。
実は、滋賀県立アイスアリーナは、うちから1時間もしないところにある。去年連れて行こうと思った時は、営業期間が終わっていてダメだった。今年はオンシーズンで連れて行くことができた。
娘は、生まれた時、病院のベテランの看護婦さんに
「意欲的なお子さんですねえ」
と言われた。
(なんでだす?)
とあさなら効くのだろうが、私も同じように思った。なぜかといえば、やたら体を乗り出して、あちこちを見る赤ちゃんだというのだ。なるほど。そんな風に見るのねと思ったことを思い出した。
だから、アイススケートに行っても大丈夫だと思っていた。
本当に大丈夫だった(^^)。
リンクの壁に捕まっていることなく、さっさとリンクの中央に行こうとする。もちろん、うまく動けないのにもかかわらずではあるが、とにかく行こうとする。
(ああ、意欲的な娘だ)
とここでも思う。
『だから、こうやって膝を曲げて、ひょうたんのように滑るのだよ』
と教えるのだが、もうそんなの関係ない。とにかくガンガン行く。小一時間経ったら、なんとなく滑ることができるようになってきた。
「お父さんも、一緒に!」
これも滅多に聞くことのできないセリフだ。いつも勝手に自分でどんどん行ってしまうのだから。手をつないで、または私の腰に捕まって後ろにつながって滑った。
2時間があっという間であった。
とても面白かった。
(こういう時間がやがて記憶の中で輝きだすんだろうなあ)
と思いながら、スケート靴を脱ぐ娘を見ていた。

2016/01/23

講座案内 明日の教室 3/5 質問づくりの授業

51jzwbteol_sx337_bo1204203200_

三月の明日の教室の内容が決まりました。

三月は、ワークショップと実践報告です。

ワークショップは池田が担当して、実践報告は糸井先生がします。

テーマは、「質問づくり」です。

私たち教師は意識することなく

「さあ、何か質問はありませんか?」

と学習者に声をかけます。

そして、それは良い行いとして行っている可能性があります。学習者の学習を促すために必要な良い行いを促しているという思いです。

しかし、学習者は

(質問っと言ったって、何を質問すればいいの?)

(どうやって質問を考えれればいいの?)

というところで止まっていることはないでしょうか?

『たった一つを変えるだけ: クラスも教師も自立する「質問づくり」』(吉田新一郎訳 新評論  2015/9/4)には、

「指導者ないし教師がよい質問をしているかぎりは、対象者はよい質問ができるようには決してならない」

「多様な質問をつくり出し、それらを効果的に使いこなすというスキルは、一部の例外となる人たちを除いて、まったくと言っていいほど教えられていません」

とあります。そして、

「ソクラテスが弟子たちに問いかけることで自らを窮地に陥れた二五〇〇年前から、教師からの質問こそが教育の質を測る重要な指標でした。ある意味では、ソクラテスが、教師の質問によって全てをコントロールするという悪い伝統をつくり上げてしまったと言えます。教師としてのソクラテスが問いかけ、生徒としての弟子たちは、質問の流れに沿って答えなければならないのです。そして、このような状況が何千年も続いてきたわけです」

と述べています。

教師が質問をするのではなく、学習者が質問を考える授業は、勉強から学びへとパラダイムが変わっていくときに極めて重要なものになるのではないでしょうか。

「質問づくりを導入した教師たちは、生徒たちが自らの学びに主体性をもつようになったと告白しています。『生徒たちは、自らが作った質問への答えを見つけ出したいのです』と、理科教師のオストバーグ先生は言っています」

まさに学びが起動しているのではないかと思われます。

今回の明日の教室では、池田が大学三回生に指導した経験をもとに、参加者の皆さんに前半で「質問づくりの授業」を体験していただきます。これは『たった一つを変えるだけ: クラスも教師も自立する「質問づくり」』の翻訳者である吉田新一郎さんにサポートを得てのものになります。

そして、後半では糸井先生が小学校で行った質問づくりの授業の発表をもとに、ディスカッションができればと考えております。

私が調べた限りでは、日本の教育関係でこの「質問づくりの授業」を講座でやるのは、ここが初めてのようです。とても面白く新学期からの授業に役立つものになるのではないかと思います。ぜひ、ご参加ください。

日時:201635日(土) 13301700

場所:京都橘大学 児優館

会費:3000円 学生は無料

授業づくりは先生が楽しむところ

Img_6473

入試業務を終えた後、授業を作るための調べ物をしながら研究室で勉強をしていたら、あっという間に時間が過ぎてしまった。

私は、授業を作るために勉強をするってのが、やっぱり性に合っているんだろうなあ。先行研究、先行実践を探しているのだけど、今の所見つからないでいる授業を、3月に希望者のみで行うことにして準備をしています。

ただ、この授業は国語教育、漢字教育に関わる人なら、やってみたい授業だと思います。滅多にできないと思うのですが、今回非常に運のいいことに、いろいろな先生のお力を借りて本学でその環境が整ったので、やる予定です。

授業中は、先生が楽しむのは如何なものかなあと思うこともありますが、授業づくりは先生が楽しむところですので、今、楽しんでおります(^^)。

あ、でも、授業も楽しみ楽しみ。

2016/01/17

腕を磨きたい

娘(8)は苦手なのだが、私は、タルタルソースが好き。

小学生の時に給食で、初めて食べた時の感動を今でも覚えている。
白身魚のフライにかけて食べたタルタルソース。
なんともなんとも美味しかった。
今なら簡単に作れる。
今日も作った。
Img_6436
Img_6441
Img_6443
Img_6444
これは落合務シェフの本をもとに作っている。最近は、この本をもとに自主トレというか修行をしている。
本屋でこの本をめくったとき、以下の文章が目に入った。
Ude
本当だよなあと思い、この本を買って修行している。
しかし、この言葉、読めば読むほど料理のことではなく、授業のことを言っているのではないかと思えてくる。食材を教材に置き換えて読んでみるといい。
同じ教材を使っていながら、教師によって出来上がる授業は全く違う。
有田和正先生が、「授業は教材7割、腕3割」とおっしゃったことから、授業は教材、ネタが大事だという考え方が随分広がったと思う。
そうなのだろうが、同じ教材でも腕によっては全く違う授業になることを、私たちは理解したいと思う。
腕を磨きたい。

2016/01/13

今朝の朝焼け

美しかったなあ。

Asayake

2016/01/09

「先生、何を勉強したらいいのでしょうか?」

Img_5935
今日の明日の教室で若手の先生数人から、同じ質問を受けた。
なかなか驚いた質問だった。しかも、それが数人から出てきたことにも驚いた。
「先生、何を勉強したらいいのでしょうか?」
という質問である。
明日の教室に来るような熱心な先生である。その先生が、どうやって技量を高めていけばいいのかが分からない。何を勉強したらいいのか教えて下さいというのだ。
実に驚いたのだ。そして、納得もしたのだった。多分、これを学べばいい教師になれる何かがあると思っているのではないだろうかということなのだ。
採用試験に合格するためには、この正解を効率良く理解しそれを間違いなく答案用紙に書き込む勉強を必要とする。しかし、これは採用試験に受かるまでのことだ。学校の現場には、このようにこれを学べばすぐに全てに対していい結果の出るというようなものは、ない。
いや、何かを学んで力をつけるというような発想は、私にはなかった。教師としての力量は、実践の中で結果的に身についていくものであったというのが、私の実感なのだ。
私は、同じことを数回説明した。
『あのね、子供の事実はどうなっている? そして、あなたはこのクラスをどのように育てたいの? 3月のゴールは何?』
「.....」
『今のクラスを理想のクラスに導くために、必要なことは何?』
「えーっと、どうも一部の女子が固まりすぎてしまって、交流がないので、グループがあってもいいので、交流のあるクラスにしたいです」
『そう。じゃあ、そのためには何が必要なの?』
「......」
『そこを考えて、必要なものがわかったら、それを身につけるための努力をするんじゃないかな。それが勉強では?』
「......」
『その過程を文章にまとめて、自分で考察する。そして、それを他の誰かにも見てもらう。そうやって足りないところを見つめ直し、修正しながら指導に当たる。そのために必要なことを勉強し、指導に当たる。その結果教師は指導力がついていくんじゃないのかなあ。どう?』
もしそうだとしたら、クラス、子供を見る目と、自分が何者なのか、比較優位の中で自分は何が抜きん出ているのか、他の人にはできないものは何なのかなどを理解する。その中で、その先生にだけしかできない実践が生まれてくるのだと思うのだ。
慌てて付け足せば、その先生にだけしかできない実践が生まれてくればいいのではなくて、その実践は価値がなくてはならない。しかし、価値があるかどうは自分では判断が難しい。だから、発表しコメントをもらいとしていくんだよなあ。
この技術が身に付けば、授業ができる。
その技術とは何だろうか?
そんなことを思っている若手教員が増えているとは思っていたが、まさにそれを具体的に体験した。
その技術が生まれざるをえなかった、子供の事実、指導のあり方などを視野に入れないと、その技術の本当の価値は伝わらない。理解できないだろう。
そういう意味で、今日のレポート検討、模擬授業はとてもいい刺激を与えてくれたんだなあと思う。
良かった。

いい実践ってのは

Img_3383

明日の教室。

今日は、初めての試みで午前中は実践発表を行っている。一人20分で四人。うーん、いいなあ。

実践発表は、質問を受けて批判も受ける。

バッサリやられる。それがいい。

もちろん、非難ではなく批判。

批判しながら、その実践から学ぶ。

批判する以上は、その実践に対して修正案や対抗案を提示する必要があると思う。つまり、私ならこうするということだ。これがないままの文句は、私は認めない。

この頃、学生たちに読ませたい実践記録がない。出版レベルでもない。探しているのだが、なかなかない。売れないから本にならないのか、本にするだけの実践がないのか。でも、こうして実践発表を見ていると、いい実践はある。

いい実践ってのは、現実の子供達を見て、将来育って欲しい子供達の姿を頭に描いで、実践を作っていく。そんな実践だと思う。もちろん、簡単にその描いた通りにはいかないので、それをまとめてこうして発表して、修正してということが大事になるのだ。

まとめるとは、考えるということだからまとめることが大事。そして、批判を受けて、実践を高めて深める。

糸井さんと話してからのことだけど、これから明日の教室京都本校は、実践発表をもっとしてもいいなあと思い始めている。

2016/01/08

授業も、腕なんだと思う

今から専門学校や食堂で料理の修業をすることはできないと思う。
だが、何かを身につけようとするとき修行の時間は大事だ。
教師が授業の修業をする。学級経営の修業をする。
文章の書き方について修業をする。
1万時間ぐらいは必要だと言われている。

料理も同じだと思う。
小学生の頃から料理はしていたので、時間だけは1万時間はとっくにやっているだろう。だが、修行はしていない。
このところ、修行と思って料理を作っている。
間違えたところ、師匠に叱られることはないお気楽の修行だが、自分の考えではない考えの下に、料理を作っていくというのは新鮮である。
修行本として選んだのが、
紹介されている料理の数は、24品ということで多くはない。
しかし、それぞれの料理は、実際に作るとなるとイタリアン料理の基本的な考え方や、料理をするということの基本的な考え方を理解しながら作る必要がある。
だから、私の修行のための本としては、いいのだ。
今の所、24品のうち、13品作ってみた。
落合シェフはいう。
「料理は腕です」
と。素材は家庭のほうがいいものを使っているのじゃないかともいう。店はコストを考えなければならないからなのだという。なるほどである。

授業も、腕なんだと思う。
同じ教材を使って授業をして、素晴らしい授業をする先生もいればそうではない先生もいる。料理と授業は全く違うと思われるが、実はかなり共通していることがあると思われる。
落合本を修行本として、料理の修行をしつつ、
授業づくりのヒントが得られるかもしれないなあと思いつつ、しばらく作り続けていきたいと思っている。

水菜とトマトのサラダ。

Img_5909

ディスグラツィアータスパゲティ。

Img_5906



で、これが論文になったらいいな。面白いなあとも思っている。



マグロのカマのスペアリブ

Img_5879

お気に入りのお店の看板メニューの一つ。
久しぶりに作ったけど、やはり美味しい。

2016/01/07

つまり、公人になる

Img_5865
二回生ゼミ。

彼ら彼女らは、来週の成人式で新成人となる。

お祝いの言葉を述べ、残りの大学生活について幾つかのことを話す。

その一つが、私人と公人の違いである。

教師は、多くの場合公務員となる。つまり、公人になる。

個人の私人としては全く問題ないことが、公人になると許されないことがある。

社会人に成ったら求められるもの以上に、公人の教師というのは求められるものが多い。固苦しくも感じる。だが、それは期待されていることの裏返しでもあり、一概に悪いということでもない。

人間は、急に悪くなることはできるが、急に良くなることはできない。

これが私の基本的な考え方の一つだ。

この二回生ゼミの諸君は、順調に行けば、2018年4月1日に辞令を受け取る。公人になる。その前日の2018年3月30日までは、私人である。

さて、1日だけで、さっと切り替えることができるであろうか?

私はほとんどできないと考えている。

性格や生活習慣は、繰り返しの中で身についていくものだ。だから、変えようとすれば変えることはできる。しかし、ここには時間がかかる。2018年4月1日になったら突然切り替えることができるのかというと、そんなことができる人はいなくはないだろうが、ほとんどいないだろう。

大学生活が半分過ぎようとしている今、自分の生活習慣、癖などを見直し、公人として仕事をしていける自分に向けて訓練を始めるのがいいだろうということを話した。

ちなみに、私も老人になるための訓練をしている。

スーパーなどで買い物をしたら、レシートを受け取り、お釣りを財布に入れて鞄にしまうまではレジを離れないという訓練である。若いうちはお釣りを受け取って、歩きながら財布に入れるということでほとんど問題はないと思う。しかし、これを老人になってからするのは危険だ。

危険であるが、レシートを受け取り、お釣りを財布に入れて鞄にしまうということが生活習慣になっていないと、老人になった時に歩きながらをやってしまうだろう。だから、今老人になるための訓練をしているのだ。買い物をしたかどうかの証拠は、レシートがあるかないか。ひったくりなどに遭いにくくなるのは多くの人がいるところ。だから、レジの前できちんと終わらせるようにしている。

しかし、これには時間がかかる。

性格や生活習慣の上書きには時間がかかる。私人から公人へのチェンジはさらなるものがあると思っている。

『だから、今から始めなさい』

年長者が話すべきことは、若者が気がつかないけど大事なことだ。

それは多分、こんな当たり前のことなのだと思う。

2016/01/06

新任1年目を生き抜く 教師のサバイバル術、教えます

51rq8e4tf9l_sx350_bo1204203200_

年末に「お歳暮」を送った所、「お年賀」を頂いた。『新任1年目を』本。

あっという間に読める。

簡易な言葉で書かれているから、スラスラ読める。

しかし、深い。

あっという間に読めるだけに、ここに書かれていることが本当は何を意味しているのかが分からない新人もいるだろうなあ。

書かれていることは、空を飛べだとか、毎朝素振り100回だとか、不可能なことや激しいことはない。寧ろ逆。

(え、そんなこと?)

と思われるようなこと。だから、その意味について理解が難しいかもしれない。

例えば、

「学校の書類の多くは、「あれば」いいのです」

なんてのは、

(本当?)

と思うでしょうが、本当なんです。

他にもそのようなことが満載。

これは、今年卒業して四月から教壇に立つ学生達に読ませたい。

また、来年度以降も読ませたいので、私の学生に読ませたい本のリストに加えさせていただこうと思います。

西川先生ありがとうございました。

学級担任論では、忘れ物指導について

Img_5836

学級担任論では、忘れ物指導について。

この忘れ物指導は、実は教師の指導観を見るのにとてもポイントになるトピックだと考えている。

「忘れ物をするな!」

という指導。実はこれは短期的には忘れ物は減る。恐怖による支配だ。怖いから怒られるから忘れ物をしないようにしようというものである。しかし、怖くない先生になったらだめになる。

人間は忘れる存在であり、命令では動かない存在であろう。

だから、長期的には厳しい指導となる。

家本芳郎先生によれば、授業数が少ない授業の持ち物、保護者関係のもの、宿題。これが三大忘れ物であるという。つまり、関心が低くて、いやいややるものに忘れ物が多いということだ。

もしそうだとすれば、忘れ物をなくのは論理的には簡単なはずだ。関心を高めて、喜んでやるようにする指導があれば減るということになる。好きな先生の授業、好きな教科の授業にであれば、忘れ物は減るのだ。

つまり、人は忘れるものであるから忘れ物はするが、忘れにくくするには教師の側の工夫で改善される部分が多いということになろう。それが分かれば

「忘れ物をするな!」

と簡単に言えなくなる。だから、教師の指導観を見るのにいいポイントだと言うのだ。

そもそも子どもたちは分が悪い。

大人は、言ってしまえば手ぶらで職場に行き帰りができる。しかし、子どもたちは学習道具、用具を持ち帰りしなければならない。忘れ物が発生しやすい環境なのだ。

そうだとすれば、どうしたら忘れ物を減らすことが学校として出来るのだろうかということを考えさせた。

例えばノート。教科毎にわけているが、一冊に纏めて書いたら、忘れ物の発生の確率は1/9になる。9教科が一冊で済むのだから。教科毎にわけるというのは、あれは先生のノートチェックの為に必要なことで、子どもたちがわける必要があるのかは、本当のところ疑わしいと思っている。分母を減らせば、忘れ物は減る。他にはないかを考えさせる。

子どもたちの荷物が減れば、登下校時に動きやすくなる。安全な登下校にも寄与するはずだ。小学校低学年の荷物が歩いているのだか、子どもが歩いているのだか分からないのは、見た目には可愛く思えることもあるが、安全性を考えればかなり危険だ。そういう観点からも忘れ物指導は見ることが出来る。

学級担任の仕事は問題解決学習だ。

そのケーススタディをいくつかすることで、学生が現場に出た時に発生する問題も、課題として捉えて子どもたちと一緒に解決することが出来るような指導観を手に入れさせたいと考えてやっている。

宿題忘れ。

これだって、考え方によっては教員が悪いとも言える。

宿題には大きく三つの種類があると考えている。

一つ目。そもそも宿題とは、句会の時に、「次回までにこの季語で俳句を作って来て下さい」というのが宿題なのである。つまり、その季語で俳句を作ってこないと、句会に参加できないということなのだ。

その宿題をやってこないと、授業に参加できない。または、参加しても意味が無い、楽しくないってこと。一種の反転授業のことだ。だから、宿題は忘れないのだ。

二つ目。教わったこと、学んだことを定着させる為の宿題。漢字を覚える為に書くとか、計算の仕方を身につける為のドリルとかである。

私が宿題として許せるのはここまで。でも、もう一つある。

三つ目。残ったらからやっておけという宿題。「じゃあ、計算問題終わらなかった人は、あとは宿題ね」という奴だ。これは、その時間内に子どもが終わらせることができなかったのは、1)時間に対して問題数が多すぎた、2)その子どもの能力に対して問題数が多すぎたのどちらかであろう。となると、これは教師の指示ミスである可能性が高い。

そもそも、終わらなかった人は、出来なかった人である。尚かつ、問題は後半の方が難しいことが多い。それを「終わらなかったら後はやっておいてね」と投げ出すような宿題の出し方は、違うだろうと思うのだ。そういう子どもこそ残して先生が面倒を見ないとダメなはずである。

で、この三つ目の宿題が出されたとき、子どもたちは「忘れました」と答える。これは、1)できなかった、2)わからなった、3)プリントを無くしたなどのときに言う。出来ない、分からない、無くしたとは言えないので、「忘れました」となる。

「忘れ物をするな!」

「自分だけでなく回りにも迷惑がかかるだろ!」

「今度忘れたら親に連絡するぞ」

忘れ物が悪いことは、本人も分かっている。さらに忘れ物をしたくてしているわけではない。そうならば、忘れ物を減らすにはどうしたらいいのか、また、忘れ物をしてしまったらどうしたらいいのかを考えさせ、あれこれ改善の努力をさせるべきなのだ。

また、教師は自分の指導力を向上させることで、学習環境を改善することで子どもたちの忘れ物を減らすことができないかと工夫を重ねるべきなのだ。

そういうことを重ねて行くとき、子どもの忘れ物は少し減る。

しかし、この少し減った部分は、恐怖で減らしたものとは違う。

価値のある、意味のある減り方なのだと私は考えている。

« 2015年9月 | トップページ | 2016年2月 »

2022年3月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31