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2016/02/29

利き酒

Kiki

先日生まれて初めて「利き酒」というのをやってみた。
私は、「キキザケ」と発音していたが、講師の先生は「キキシュ」と発音していたのが気になったが、まあ、それよりも何よりも面白かったので書いておく。

今回の方法は、手前に置いたイロハのお猪口に、それぞれ違う日本酒を入れて味わい、その後、奥にあるABCに入っている日本酒とどれが同じかを当てるというものである。これが基本的なルールである。

今回は、イが純米酒、ロが普通酒、ハが大吟醸酒と事前に知らされてのものであった。飲んでみるとその通りの味で納得。最初から大きなヒントをもらっているので、わかりやすい。
「それぞれの味の特徴を言葉でメモしておいてください」
と講師に言われたので、その通りにする。

また、
「それぞれがどんな味なのかは、口にして離さないでください。周りの人の先入観になってしまいますから」
と注意があったのだが、対面に座っていたおばさんが、これが話すこと話すこと(^^)。隣のおばさんに「話しちゃダメよ」と言われても全く効き目がなかった(^^)。ま、仕方がない。
水を含み、口をさっぱりさせながら味わって味を覚える。

次に、ABCの酒を飲みながら比べることに。
ここで講師から突然

「今日のみなさんは結構飲めそうなので、イロハにお酒が残っていたら、一つのお猪口に一緒にしてください」

との指示。これで後で確認することができなくなった。難易度が上がった。
やや緊張しながら利き酒をしたが、まあ、大丈夫であった。日頃の訓練の成果が出たのであろう、まず間違いないと思われる判断ができた。

他の方がまだ悩んでいる間に、講師の先生に利き酒の歴史などを聞く。お酒の比較などは日本酒の種類が揃わないとできないので、江戸の末期ぐらいからではないかと教えてもらったが、後で調べてみたら、なんと『日本書紀』に利き酒の記録があるという。
はあ、すごいね。ディベートも日本書紀にあるし、利き酒もあるか。恐るべし、『日本書紀』。

で、さらにここで講師の先生から提案。

「今日は、皆さん和気藹々とされていますので、答えを発表する前に、グループの中でどれがなんのお酒かを語ってみてください」

とのこと。

をを、まるで「たほいや」ではないか。さらに、「ゴチバトル」「芸能人格付けランキング」「食わず嫌い王選手権」に通じる。いや待て、「たほいや」以外は日本の食べ物に関するゲーム。これは逆で、利き酒がルーツになって、「ゴチバトル」「芸能人格付けランキング」「食わず嫌い王選手権」が開発されたと言ってもいいのかもしれない。

で、発表。
お陰様でフルマークでした。
利き酒は、「ゴチバトル」「芸能人格付けランキング」「食わず嫌い王選手権」などのゲームのルーツかもしれなくて、大人の遊びとしてはとても面白いものでした。難易度の調整などが結構できるのも、ゲーム性を高める工夫があるなあと思いました。

ちなみに、利き酒の時にどんどん飲んでいた人は外れた人が多く、話してしまっていたおばさんも外れていました。ここはやはり少量をじっくりと利くのが大事なんだということがわかりました。

明日の教室の懇親会などでやっても面白いなあ。
大人の遊び。いいねえ。

2016/02/27

着火剤になり、燃料になると思っている

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学びを起動させる、またはさらに深めるための装置が教育の一面にはあると思う。私が知りたいのは、どういうときに、どうなったら、起動するのかということだ。

今私が焦点を当てているのが、子供が持っている興味。そこが着火剤になり、燃料になると思っている。

勉強が苦手な子供であっても、自分の興味に基づいた学びが苦手という子供は極めて少ないんじゃないかなあ。

それをどう教材化するか。いや、教えるための材料ではなく、学ぶための材料なので学習材化するかだ。

効率よく教えるための、教える側の都合にあった教材ではなく、学習する側の都合にあった学習材の開発をしたい。そのための原理や原則を考えたいというのが、マンガで漢字を学ぶとか、かるたの取り札を作ってみるとかに繋がっているだと思っている。

2016/02/22

不思議なことだが

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原田知世 - 夢の人 (I've Just Seen a Face) をBGMにして。

今日はいつもより耳鳴りが激しくない。だが、ややいつもはしない左側の耳でも鳴っている。バランス的にはいいのか、穏やかな夜だ。

自分の体なのに、自分の思うようにならない。なんとも不思議なことだ。もちろん、心臓の動きにしても消化吸収にしても自分の意思で動いているわけではないが、耳鳴りなんて必要のないものなのだろうに、自分でコントロールできないのはなんともなんとも。

しかし、実は自分でコントロールできないのが、実は普通なのかもしれないなあと思うのだ。言って仕舞えば、この世に生まれたことは私のコントロール下にあるわけではない。

吉野弘の詩ではないが、I was bornなのだ。私の意思で生まれてきたわけではない。いつの間にかこの世にいたのだ。

にもかかわらず、今の世は、主体性だ自主性だと喧しい。それがないと人間ではないかのような言われ方をし、教育もそれを求められる。

「いや、なんとなくこう言う人生になっています」
それが本当は人間の普通の姿ではないのかなあと思う。

不思議なことだが、聞こえなくなってから、いろいろなことが聞こえるようになった気がする。

2016/02/20

仕事とは、事に仕えること

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秀吉が下足番をやっていた時、信長の草鞋を抱えて温めていたという逸話は有名だ。下足番一つを取っても工夫の仕方があるということだ。

かつて、学生時代にアルバイトをしていた喫茶店で聞いた話がある。その喫茶店の親会社の社長さんがいつも出かけていくとあるデパートの社長室では、おいしい日本茶がいただけるというのだ。

何がおいしいと言って、いつも適切な温度で出てくるというのだ。それはどんなお客さんが行ってもそうなのだそうである。そこの秘書室のお茶を出す係りの人は、お客さんのお茶の好み、濃さや温度を全て記録してそれで出していたとのこと。

つまり一人一人が納得するお茶を出していたのだ。だから、全員がおいしいと感じるのであったのだ。

このことを知ったとある社長さんは、この秘書の人に店を出してみないかと出資を持ちかけたそうだ。そして、この人は多摩地区では結構有名な雑貨店を出して成功したのでした。

「私はお天気お姉さんになるために、キャスターになったんじゃない」

と新人女子アナウンサーは、配属されたお天気コーナーをやっていてあるとき、母親に愚痴をこぼしたそうだ。彼女は政治や国際情勢を語るアンカーになりたかったそうだ。

母親は娘にこう言ったそうだ。

「あなたね。お天気お姉さんをバカにしているようだけど、天気予報に一生をかけて仕事にしている人もいるのよ」

と。

彼女はそれこそぶん殴られたような気がしたそうだ。それから考えを改めて、天気のことを勉強し、スタッフの人たちにもどんどん質問をして天気に詳しくなろうとしたそうな。

そうすると、スタッフもその姿を見て色々と教えてくれるようになり、天気のことも詳しくなり、アナウンスもよくなったそうだ。

彼女は田丸美寿々さん。その後の彼女の活躍はここから始まったそうだ。

そうなんだと思う。

今やっている仕事をただルーティンとして熟しているだけではダメで、そこに改良を加え、深みを増しとしていくことが大事なのだ。

仕事とは、事に仕えること。

その事にどのように仕えるかによって、人は磨かれるのだと思う。そして、その姿は見る人が見てくれている。そして、その人はあなたにチャンスを与えてくれることがある。

1、2年ではダメだ。

5年、10年とやっている中でチャンスは与えられる。

揺るがず弛まず飽きずに事に仕えることで、道は開かれるのだると思う。

2016/02/19

まずは思い描くことだと思う

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新しい機器が出ると、これで何ができますか?と聞く人がいる。なんというか変だなあと思うのだ。やりたいことがあって、それを助けるために機器が必要になるというのじゃないのかなあと思うのだ。

例えば、私は学級通信に写真を載せたかった。だけど、教師になった頃は、これがなかなか難しかった。写真を撮って学級通信の原稿に貼り付けても、印刷の原稿に転写する段階でまずアウトであった。

だから、私は写真を学級通信の原稿に下において、なぞり書き(トレース)していた。そうやって少しでもその写真の雰囲気を出そうとしていた。

そうしたら、印刷機がリソグラフになって写真モード、文字モード、写真と文字とを自動的に判別する混合モードが出てきて、非常に喜んだのでした。

で、ワープロでの執筆、デジカメの出現、コンピュータ上でのレイアウトが簡単にできるようになって、今は難なく学級通信に写真を載せることができる。やりたいことが自由にできるようになるまで10年ぐらいかかったかなあ。

この機器から何ができるのかを考えることは、思考実験としては面白いかもしれない。しかし、現場でやりたいことを実現するためにその機器を探す、作るってことの方が面白いし、意味があるんじゃないかなあと思うのだ。

だとすれば、まず、やりたいことをしっかりと思い描くことだと思うのだ。今はできなくてもいい。テクノロジーの進歩はすごいものだがあるから、やりたいことを思い描いていれば、やりたいことは、テクノロジーと出会うだろう。または、人と出会うだろう。

そしたら、実現する。あっという間に、先頭集団で実現する。まずは思い描くことだと思う。

2016/02/18

連続型テキストの読解を、非連続型テキストの表現から導く指導に関する一考察 〜〜 二回生ゼミ、京加留多の取り札作成を通して 〜〜

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この春の新作が出来ました。

連続型テキストの読解を、非連続型テキストの表現から導く指導に関する一考察
〜〜 二回生ゼミ、京加留多の取り札作成を通して 〜〜

『京都橘大学研究紀要』第42号 2016年2月18日発行


2015年度の前期に二回生ゼミで実践し、夏の日本デジタル教科書学会で発表し、本学の研究紀要に収録されました。

私はこの流れがいいようです。すなわち、やって、発表して、まとめるです。

来年度は、これを先行研究として、焦点をもう少し絞って実践研究を行い、投稿論文に仕上げたいなあと思っています。

2016/02/17

「あんな、で、100点満点で合格なんやで!」

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娘(8)の漢字テストは150点満点。131点以上が合格。クラス全員が合格したとのこと。これは目出度い。

「あんな、で、100点満点で合格なんやで!」

と。

さて、分からない。

私もお母さんも、娘が何を言っているのかが分からない。頭を抱える。

しばらくあれこれ説明させるのだが

「だって、先生が『100点満点で合格』って言ったんだもん!」

と言って泣き出す。

『あのね。満点っていうのは、100のときもあれば、150のときもあるのは分かる?』

「分かる!」

『で、漢字テストは131点以上が合格なんだよね?』

「せやで!」

『漢字テストは150点満点で、131点以上で合格だよね?』

「だから、そうだって!」

『なら100点満点で合格っておかしいでしょ?』

「だって、先生が『100点満点で合格』って言ったんだもん!」

とループ。

「もういい!」

と泣き出すので、

『良い訳ないだろ。スッキリしない。紙に書いてやり直すぞ』

と泣いている娘に紙に書きながら確認。

娘は、先生の話は良く聞いている方だ。だから、先生が言い間違えたか、何か勘違いしているかだと思われた。また、算数はあまり得意ではないので、満点という単位当たりの数のところで躓いているのかもしれないと思って、紙に書いて確認した。

問題はあっさり解決した。

以下に、答えがある。

答えを見たくない方は、ここでストップして考えて下され。

考え中考え中考え中考え中考え中考え中考え中考え中

何があったかと言えば、先生が「100点満点で合格」と言ったのは、漢字テストのことではなく、クラス全員が合格できたので、100点満点といういうことであった。

はああああああああああ。

先生、気持ちは分かりますが、我が家はかなり混乱しましたf(^^;。

2016/02/14

プレ教育とオーベルジュの会

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実に楽しい時間でした。

気がついたら、深夜の二時になっていました(^^)。

プレ教育とオーベルジュの会を行いました。

教育を教育だけで極めて行くというのも、大事だと思うのです。しかし、一方で、教育とその他のを絡めながら楽しむってのもありだなあと思う訳です。

ま、ほとんど私の趣味というか道楽のようなものですが、美しいもの、美味しいもの、楽しいものが好きな私にとっては、こういう集まりは実に楽しい訳です。

今回中條さんの手配で、琵琶湖の畔にレンタルハウスを押さえてもらって、実施することが出来ました。写真を後から眺めてみると15品ぐらいの料理を作っていたようです(^^)。

5ステップ、5分ではじめる料理

https://itunes.apple.com/us/book/id1043474676

という本を書いたのですが、今回はこの本の料理を中心に作り続けました。

はじめて行く場所で作るので、煮込み系のものは作ることは出来ませんでしたが、5人の料理を15品目作り続けることが出来たのは、まあ、良かったかなと。

こんな道楽できるとは、幸せでした。

写真は、提供した順の料理です。

アルコールは、ベアードビアと大信州などでした。

http://bairdbeer.com/ja/

もう少しプレをやって、その後本格的に「教育とオーベルジュの会」を立ち上げたいなあと思います(^^)。

2016/02/11

菊の花の美しさを真に味わうのは

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この菊の花を子供と置き換えれば、まさに教師のことを言っているのだと思える。
その上で、さらに言えば、教師は美しく「咲いた」瞬間の子どもたちを見ることは出来ないかもしれない。菊は多くの場合一年草だ。一年手間をかけていけば答えが出る。しかし、子どもたちは一年草ではない。
一年間で咲く場合も当然ある。しかし、咲かない場合もある。人間とは悲しいものでその人間である教師は、この一年の間になんとか、自分で「咲かせたい」と思ってあれこれやったりもする。しかし、その結果花をダメにしてしまうこともあるのだ。

一年間は、学校の単位。社会の単位。
しかし、子供にとっては人生の一部であって、一年ごとの結果を出す時間ではない。出てもいいのだが、出なければならないというものではない。

三学期。
無理に出す必要はない。
その子が、成長していれば自然に花は咲くし、咲かないようであれば、それは咲くための手入れの時期なのだと思って、手入れをする。あとは、来年度以降の先生にお任せすればいいのだ。

そして、その花が見事に咲いた姿は、心の中で愛でるのがよい。
花は、無理矢理咲かせてはダメだ。花は咲く力を持っている。
その手入れをし、咲くのを待ちたい。

ポール・ポッツ

https://www.youtube.com/watch?v=PQ6HTz-PcpM

時々思い出したように見る。

逆転の人生なんてそうそうあるものではない。

意識して下積み、修行ならまだわかる。

しかし、思うようにならない人生の中で、これだけはとやっていたんだろうなあ。

そこの部分の情念を感じさせず、ただ、歌う。

声ってのは、凄い力だなあと思う。

ちなみに、決勝はこちら。

https://www.youtube.com/watch?v=QrqUUcGAZyE

2016/02/10

(これは走れるかなあ)

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今日は娘の学校のマラソン大会。インフルエンザ明けの娘。マラソンの練習がほとんどできなく体調も万全ではなかった。朝から咳も出て

(これは走れるかなあ)

と思ったのだが、本人が頑張ると言うので応援してみた。

結果は、残念ながら去年の成績よりも悪く本人はゴールした後、泣いていた。10番位悪かったかなあ。でも、いいんだよそれで。体調が悪い中頑張ったんだから。人生は大変なこともある。全部が全部思う通りにうまくはいかない。それを体験することも大事なことだ。

最後まで歩かないで走り切れたと言うだけで、とても素晴らしい。来年は、まずは体調整えて、さらに練習をして取り組みましょう。ご苦労様でした。

追いかけるな

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中学生の頃。ラジカセが我が家にやって来た頃。いわゆるエアチェックをしていた。学校で友人とテープを交換すると、恐ろしいことに、録音してある音楽とその順番が同じであることはけっこうあった。

聞いている番組が同じだから音源も順番も同じ。いまのようにあちこちに音源があるわけではない。だからそうなっていた。

「電リク75」なんて番組があって熱中して、聞いていたなあ。新しい曲が出ると、いち早く覚え、いち早くギターコードを探し、弾けるようになろうとしていた。

が、いまではほとんどそういうのは無くなったなあと思う。勿論、教育、研究関係の動向は一応気にするけど、それよりも自分の興味を追いかける方が圧倒的に面白い。

追いかけるな。

でも、追いかけるのであれば、自分の興味や引っかかりに就いてであろう。

自分はなんでこんなものに興味があるのか。それが分かるのもの面白いし、その追いかけていたものの正体が分かるのも面白い。

その自分の興味に従って動いている時に、出会う仲間はとても楽しい。強制もなれ合いも押しつけもない。楽しみだけがある。これが人生の楽しみだなあと思える。

2016/02/08

美術館に来ると

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美術館というのは、良いなあ。当たり前だが非日常に自分を置いてくれる。

だけど、これを作り続ける人というのは、いつも非日常に身を置くわけで、大丈夫か?と思ってしまう。

生活ができるかどうかわからないものに、自分を自分の人生。投げ出してしまうわけで、それはすごいなあと思う。

美術館に来ると、

(私は何かとんでもない間違いを犯しているのではないか?)

とか

(まだ気がついていない、重大な真実がゴロゴロあるんだろうなあ)

とか思ってしまう。

それを感じると辛いんだけど、一方で気持ちがいい。いい時間だ。

私のような人間には、これからの大学受験は厳しいなあ

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私のような人間には、これからの大学受験は厳しいなあと思うのだ。goal orientedであることを求められるのだ。

私は自分が興味のあることに向かってあれこれやって行きて来た。マンガ、料理、音楽、書道、剣道、写真、能楽、オフロードバイク、スキューバダイビングなどなど。
仕事は教師をしているが、さて、これが教師になるためのキャリアの積み方かと言えば、疑問である。うーんと結果的に言えば、教師になるためのキャリアの積み方であったと思うが、問題はそれを意図的にはしていないということだ。
野口芳宏先生は、経験は意図的に積み上げよと言われる。言われる意味は分かるのだが、私にはできないなあと思うのだ。
私はcuriosity drivenで生きて来た。好奇心に振り回されながら行きて来た。統一性を考えてやってきたわけではない。ただ、教師になったのであれこれの好奇心は、意味を持ったのだ。
「修、音楽なんてやったって、何か将来意味があるのかねえ」
と母親に言われたことがあるが、それを言われたとき
(本当に、そうだよなあ)
と思ったのだが、教師になったらギターが弾けて歌が歌えるってのは意味があるようになる。また、子供の頃からさせられたいた料理はいま、大学のゼミで親睦を図るのにはいいし、ステージを撮るために増感現像とかを覚えて自分で焼き付けまでやっていた写真は、子供の様子を撮影するのにとても役になっている。
結果的に何かに役に立っていたということは沢山ある。
しかし、それは自分の中に溜め込まれていたものを、(あれ、これ使えるんじゃないか?)と取り出して加工して使っていったのだ。
しかし、計画的ではない。
だが、これからは計画的に青春時代を過ごさなければダメだとうい。
(ああ、私にはダメだろうなあ)
と思うのだ。
しかし、私のようなcuriosity drivenで行きていく子どもたちはこれからも居るだろう。さて、そういう子どもたちにはどういう進路指導をしたらいいのだろうか?
一つは、やりたいことをやりきって、その先にセカンドキャリアを考えるような準備をさせるであろう。スポーツ選手のイメージだ。プレーヤーとしてやった後に、指導者になるかまた別の仕事をするのかを考えさせておくと言うものだ。Jリーグはこの指導をしているはずだ。
考えてみれば、相撲界はこれだ。協会に残れるのはほんの一握り。だから、残れないことを前提にして考えなければならない。おそらく、ちゃんこ屋はそのソリューションだろう。若手に料理を作らせるのは、引退後にちゃんこ屋を開くための技術を身につけさせてもいるのだろう。
もう一つは、自分のキャリアをまとめあげる力を育てるであろう。あれこれやってきたのは、実はこういう理由があったのだということをメタで見つめて、それをストーリーに繋げる力を育てると言うものだ。
スティーブジョブズの「点を繋げ」というあのスピーチである。
自分がいまなぜこれをしているのかなんて分からないことが多い。後になって、ああ、あれはこんなことを迎えるためにやっていたのかあと振り返る時に、やっていたことの意味は分かるんだと思う。
計画的に人生を組立てていく、経験を重ねて行くというのは、それはそうなんだろうけど、できない人にとって、辛いなあと言う思いだ。
もう少し考えよう。

2016/02/06

しかし、書かねば力は付かない

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最近のいい実践記録を学生に読ませたいのだが、これが見つからない。いい実践記録というより、実践記録そのものがない。これはどういうことなんだろうと思う。

実践記録の本は、出しても売れないというのを聞いたことがある。だけど、売れようが売れまいが、実践記録を書いている先生達は居ると思うのだが、見掛けない。

書いて入るのだが、個人情報の取り扱いが厳しくなったから、公表しないのか? それならいいんだけど、書かないでいるのだとすれば、それは結構由々しき問題だと考えている。

私が学生の頃、20代のころはそれこそいい実践記録があって、それを読みながら勉強した。私もサークルに自分の書いた実践記録を持っていって分析してもらっていた。学級通信をあちこちで読んでもらっていた。

教育は、文脈の中で行われる営みである。

だから、実践記録の中に教育は現れる。

さらに、教師という仕事は、自分で自分を育てることが必要になる仕事である。教室に行けば、自分が一番になる。だから、その授業をダメだししてくれる人はいない。教室の後ろに恩師が立って見てくれるわけではないのだ。授業が上手く行かなかったとき、子どものせいにして終わらせることも出来る。そうやって自分を甘やかして行きていくことも可能だ。だから、自分で自分を律して、自分で自分に突っ込みを入れて育てることが出来ないと、成長しない。

で、これがなかなか難しいから身銭を切ってサークルや研究会に出掛けていって、自分を鍛えようとするのだけれど、その基盤として、実践の記録を書いているかどうかが大きい。書くことによって、自分を客観的に見ることが出来る。足りなかったところが分かるようになる。振り返りが出来るのだ。

教育のネタも技術も必要だ。

だけど、それが教育の目的になるのは、おかしい。

それは実践に生かされてこそのものである。

そして、その実践の記録が残されて、教師の力量は高まっていく。

読むことが少なくなった教師。

書くことはもっと少ないかもしれない。

しかし、書かねば力は付かない。

読む → 実践する → 書く → 批判される → 読む

この流れに自分の身を置いて、渦巻き上に力量を高めていく。

これが教師になって三年以内にできれば、あとはこれが良い習慣になって10年目が楽しみ荷の先生になる。

いい実践記録があったら、教えて欲しい。

2016/02/03

富山行きの一泊二日

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門島さんにお呼ばれしての富山行きの一泊二日であった。

学力向上に関する研究集会の講師としてお話をしてきた。

年齢のせいか性格のせいか、人前で上がるということは今の私にはほとんどない。今の自分以上のものを無理矢理見せて、格好をつけようという気持ちがないから、上がりようがない。

ただ、人に呼ばれた時は、やや緊張する。

もし、うまくいかなかったら私を呼んでくれた人の顔をつぶすことになる。顔をつぶすなんて言い方は、いかにも日本人的だなあなんて子供の頃は思っていたが、今になってみると確かに顔をつぶすだなあと思う。

だから、最低限呼んでくれた人の顔をつぶさないようにしなければと思い、やや緊張してやることになる。幸いにして、笑いも多く出たしタスクは果たせたかなあと思う。

夜は懇親会で魚料理を楽しむ。

いいなあ。

こういう魚が食べられるところに住むってのは。

市場に行って、雑魚の魚を手に入れてあれこれ作るだろうなあ(^^)。

ゆったりしたお風呂のある宿に泊めていただき、翌日は楽しみにしていたイタリアンのランチである。本当は、落合シェフのラベットラの富山があるので、そこに行く予定であったが、なんとこの日が特別の休日。悲しい。

だが、その落合シェフと一緒に仕事をすることのあるシェフがいるお店があって、そこに行くことになった。門島さんの知り合いのお店。これが抜群であった。私は日頃、明るいうちはアルコールは飲まない。また、ワインも滅多に飲まない。だが、一品目を見たときに

(あ、これはワインが欲しい)

と思ってしまった。

そこからは美味しいワインを楽しみながら、料理を堪能した。

一品、一品が実に美味しいのだ。

特に塩加減。

(ん、少し足らないのでは?)

と思える塩加減なのだが、すべて食べきるとちょうどいい塩加減になっているのだ。素晴らしい。

で、食事の最後にシェフがテーブルに来てくれてあれこれ話した。衝撃的だったことが一つ。嬉しかったことが一つ。

衝撃的だったこと。

なんと、シェフはどこぞのお店に入って修行したことがないというのだ。イタリアの旅と食べ歩きとYouTubeをもとに自分で勉強したというのだ。すごい。

友人の若手マジシャンである彼もYouTubeでマジックを勉強し、マジックの師匠はいないというのを聞いて驚いたが、イタリアン料理でもそうなのかと思った。

教育もそうなる人が出てくるんだろうなあという予感がした。リアルで誰に習うというのはなしで、YouTubeやインターネットで勉強をして実力を身につけるという人が出てくるのだろうなあと。

衝撃的ではあるが、実はこれは王道なんだということも知っている。要は、YouTubeに私淑しているわけだ。確か、中野孝次先生もおっしゃっていたと思うが、勉強は、最終的には独学に至ると私は考えている。自分で考える人だけが、人生を創造していけるとおもっている。

そしてそのシェフが私の料理の写真を見て、きちんと評価してくれたのが嬉しいのだ。

「プロ並みですね。特に照明」

と。

嬉しいなあ。iPhone6で撮影しているのだが、実は照明はかなり気を使って工夫している。その工夫をきちんと理解してくれたのが、実に嬉しかった。プロにそれが伝わったのが嬉しい。

構図、照明、シャッターチャンス。静物を撮影するときも、この三つはとても大事になる。それが伝わったのが嬉しいなあ。

思わず、

『ここに日本酒をおいてください。オススメは、○○です』とプロに対してお願いしてしまった。シェフは、すぐにネットで調べて「これですか?」と確認してきた。さすがだなあと思う。

門島さんによれば、今年、また何か講座を企画して富山に呼んでもらえるようなので、その時は、ぜひ、ディナーも堪能してみたい(^^)。

なんだか、私が提供する講座よりも、たくさんのものを頂いた富山への一泊二日であった。ありがとうございました。

2016/02/01

一番いい根拠

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子供は10歳を過ぎると、人間は行動の理由を求めるようになります。「いいからやりなさい」が通用するのは10歳前後ということです。ですから、中学生以上は、指示をする根拠が子供達に届かないと、納得して動かないということなのです。なぜやるのか、何のためにやるのかがわからないと動かないってことです。

しかし、一つ一つの行動の根拠を説明するのは大変でめんどく臭い。また、説明したところで、子供の経験では理解できないこともたくさんある。

だから、一番いい根拠は

(あの先生が言うんだから、何か理由があるに違いない)

と子供達が思うようになることです。つまり、その先生の人間としての信頼が根拠になるわけです。

そうだとしたら、教師は人間性を磨き続けなければならないのです。子供は、言語化することなく、直感的に

(この人は大丈夫だ)

と見抜きます。また、

(この人はダメだ)

とも。

人間性を磨く。とても大変で面倒くさいことではありますが、ここができていれば教師の仕事はとてもスムーズに進むことになります。大変ですが、ここは避けて通ることのできないところだと思います。

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