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特別支援教育、イクルーシブ教育についての講座をお願いしております。
充実した時間になります。
お越しください。
◆
青山 新吾氏(ノートルダム清心女子大学)
1989年 大学卒業と同時に小学校教員に。 ことばと情緒の教室勤務。
1994年 備前市内通級指導教室勤務。言語障害、情緒障害、自閉症教育、学校教育相談等を中心に実践。
2002年 岡山市内通級指導教室勤務。
2005年『自閉症の子どもへのコミュニケーション指導』明治図書出版。
2006年『特別支援教育を創る 子どもを見つめる確かなまなざしと 暮らし支援』明治図書出版
2007年『特別支援教育 学級担任のための教育技術』学事出版出版。 岡山県教育庁指導課特別支援教育室勤務。
2011年 明日の教室DVD第20弾「僕が自閉語を学ぶわけ」有限会社カヤ発行
2012年『個別の指導における子どもとの関係づくり』明治図書出版
2013年『青山新吾 エピソードで語る教師力の極意』明治図書出版
2014年『THE特別支援教育 通常の学級編』明治図書出版特別支援教育ONEテーマブックリーズ編集代表 学事出版
カヤDVDシリーズⅴ『教室のあの子を考えるシンポジウム』有限会社カヤ発行
2015年『今さら聞けない! 特別支援教育Q&A』明治図書出版
最新刊は、「インクルーシブ教育ってどんな教育?」(学事出版)です。
J・W・ヤングは、「『アイデアのつくり方』で、アイデアの定義をこのように述べています。
・アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない。
今までに発見されているものの組み合わせです。私は、この既存の要素については、知識と技術を重視しています。本と体験で知識。トレーニングや修行で技術を身につける。この知識と技術の組み合わせがアイデアを生み出すと考えています。
しかし、知識と技術があったところで組み合わせはそう簡単に生まれるものではないでしょう。何がこの二つを組み合わせるのでしょうか。ヤングは、このように言います。
・新しい組み合わせを作り出す才能は事物の関連性を見つけ出す才能に依存する。
一見関係のなさそうなものの中に関連性を見つけ出す。それは、二つのことから可能性が上がると考えています。一つは、言葉遊び。具体的には謎かけ。または連句。一見関係のないところに関係性を見つける言葉遊びです。遊びながらトレーニングができると思っています。
もう一つは、何とかしたいという熱意です。これがないと繰り返し行うことができない。一回でうまくいくなんてことはありませんから。そして、その熱意は時に運を運んできてくれます。これが結構大事。
アイデアは、こうやって生まれてくるものだと思っています。
魚のソテーの仕方。
今の所、これがいいですかねえ。写真は、鰆です。
三枚下ろしにしたものを、
1)両面に満遍なくうっすらと塩を振る。5分ぐらいおく。
2)フライパンに油をうっすらと引く。私はオリーブオイル。
3)皮を下にして、フライパンにおく。
4)弱火*1で焼く。
5)1分ぐらいしたら、チリチリ音が言い出します。
6)魚の上から、フライ返しで押さえつけて丸まらないようにします。30秒ぐらいでタンバク質が凝固して丸まらなくなりますので、そこで放します。
7)焦げ付かないように、時々フライパンを揺すります。
8)身の下から1/5ぐらいまで白くなったら、火を消してひっくり返します。余熱で1、2分加熱します。
9)仕上げに、胡椒を少し。
10)完成。
*1 弱火とは、フライパンの底に直接火が届かないぐらいの火力です。
なお、
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E3%83%A9・・・/dp/4062996219
と
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%A0%E3%81%BE・・・/dp/4800229561
が根拠の本です。
今年も板書指導が始まった。
最初は、名前をきちんと黒板に書くことから指導を始める。
先日、会議と会議の合間に研究室に戻って一仕事と思って、ふと研究室の前の教室を見ると学生たちが何やら話していた。
『何しているの?』
と聞くと、板書の課題で自分の名前を書いているとのことであった。
『ん、じゃあ、もう一度書いてなさい』
と言って、全員の字を指導した。
20分ぐらいの指導時間であった。
学生たちは
「うわーーーーーーーーー、上手くなった!」
と興奮。
ま、チョークの使い方などは、まだまだだが、それなりに上手くなったと思う。
指導したことは、
1、自分で書かせる。(実作)
2、私が書いてみせる。(模範)
3、学生の名前の字の特徴を指導する。(解説)
4、学生に私が書いた文字の上をなぞらせる。(摸書)
5、私の文字を見ながら、自分で書く。(臨書)
の流れである。
解説でポイントにするのは、その名前の字の中心はどこにあるのかの指摘。中心が揃えば、整った字に見える。それと、その字の外形のイメージ。結構というが時にはこの外形の型が81通りあるのだ。指導者はその型を(すべて理解しているわけではないけど)使いながら指導するのだ。
学生たちは手書きの字に接する機会が少ないまま、自分で手書きで書くことを求められる。それも、腕を前に出して書くなどという極めて不自然な形で。こういう形で書くのは絵描か左官屋さんぐらいなものだ。学生たちの高校生までの生活にはほとんどない。だから、大変。でも、訓練でできるようになる。文字を整えて書くときの理論を理解し、あとは体がその理論通りに動くように訓練を重ねるのだ。
ぐっと上手くなった学生たちは欲が出る。
「もっともっと上手くなりたい」
と言い出す。
そこがスタートライン。
そこに乗せるのが私のお仕事。
* 写真は、名前の板書なので、加工して一部だけ載せました。
籠字(かごじ)、双鉤塡墨(そうこうてんぼく)という書道のお手本作り、練習方法がある。
お手本の上に薄い紙を置いて、お手本の輪郭を写し取り、その中をぬってお手本のコピーを作るやり方である。コピー機のなかった時代のお手本の作り方である。
学生時代にこの方法を習った。
(んなもん、本をコピーすればいいじゃん)
と思ったが、課題なのでやった。
やったところ、これがなかなか奥が深い。
輪郭を筆で写し取るには、元の字をきちんと見なければならない。また、一定の線の太さを保たないと書くことができない。つまり、じっくりとお手本を見ることと、筆の力加減の調整の二つも鍛えられることになる。
◆
今、亀に文字を刻しているのだが、ふと思いついて酒瓶にもやってみた。これが楽しい。そして、台所を見たら空いた日本酒の瓶があって、そこには籠字をしてくれと言わんばかりの酒瓶があった。
早速やってみた。
和紙の上から刻してみた。
なかなかいい。
この後、水につけて和紙を剥がしてみたのだが、刻し方が弱かったので、酒瓶にはきちんと文字は残っていなかった。次回は、酒瓶にしっかりと文字が残るように刻してみよう。
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(一体俺は、この忙しい四月に何をしているんだ? 何を目指しているんだ?)
と冷静にツッコミを入れてくるもう一人の私もいるが、こういう風に思いついたことをやるのは実に楽しい。
そして、この楽しいから始まったことは、次の何かのどこかにつながっていることが多い。まだまだ続けよう。
現職教員のための修士論文の書き方 ver.4.1.1を公開します。
この原稿は、私が平成15年度に東京学芸大学大学院に現職派遣として通っていた時に書いたものです。
2年間の予定で終わるところを、1年で終了することができ、結果的に同期より先に卒院したところ、後輩になった同期から
「池田さん、修論てどう書いたらいいの? 書き方を教えて」
と言われて、それなら書き方を書いてしまおうかと思ってまとめたものです。
修論は20万字でした。
書き進めている時は、辛かったのですが、書き終わった時にまだ書いていたいという思いが、熱が残り、このまとめを書くことになりました。クールダウンとして書いたものです。
リンク先など、今でも残っているかどうかはわかりませんし、検索の仕方などは今の方がはるかに先に進んでいます。ですが、今でも通用するものがあると思われますので、そのままアップします。
これからますます、現場の先生が大学院で学ばれて、修論を書くことが増えると思います。小論が、そんなみなさんの参考になりましたら、嬉しく思います。
ファイルは、ここにあります。
追記
公開を薦めてくださった白梅学園大学の無藤先生に感謝します。
また、サーバーを提供してくださった福分堂の村岡様、ありがとうございます。
昨日の
教科教育法(国語)では、漢字テストを行った。採点は交換して丸つけ。丸つけも学生達には大事な学習事項である。さて、試験、丸付け、返却の時に注意すべき点は何であろうか?
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私が試験の際に行った指示は以下の通り
1)机を等間隔に並べなおさせる。
2)問題用紙を配る前に、『この試験は通常の試験と同じです。不正行為、不正行為を疑われることがあった場合、この授業のみならず、前期の成績がすべて認められないこともあります』と告げる。
3)『机の上には、筆記用具と消しゴムのみだけ置きなさい。筆箱もしまうこと』
4)『問題用紙を裏にして配りなさい。ない人は手をあげること』
5)『解答時間は5分です。解答が終わったら答案を裏返しにして時間を待ちなさい』
6)『はじめ』
7)『残りあと半分です』
8)『やめ。筆記用具をすべて筆ばこにしまいなさい。そして、採点に必要な赤ペンなどを出しなさい』
9)『近所の採点者の机の上に、赤ペンがあることを確認し、その人と答案を交換しなさい。互いに採点をします。なお、採点間違いがあった場合、採点者の得点からその分の点数を引きます』『解答を配ります。どうぞで採点を始めてください』
10)『採点が終わりました。向きを揃えて後ろから送ってきてください』
ということである。
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その後、さらに確認する。
『漢字の丸つけは、解答用紙のどこにしましたか? 1)数字の部分、2)漢字の部分、3)その他』
これに関する私の考えは、2)である。そして、漢字の間違っている部分にバツをつける。
『解答が空欄の場合、どうしましたか? 1)そのまま、2)正しい字を書いてあげた、3)印をつけた』
これについては3)である。2)も状況によってはあるが、1)はしない。
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私は点数がよかったら何かを買ってもらうということを親からしてもらったことはない。勉強はするべきものであって、その対価に何かを買ってもらうという教育はされなかった。もちろん、私の娘にもしていない。
ただ、そういう家庭が多くあるのも事実。そういう子供たちの場合、
(ああ、あと一点あればDSを買ってもらえるのに)
となることは十分に想定できる。魔がさすこともあるのだ。
その一方で一生懸命努力して満点にギリギリ届かない子供や、教師の採点ミスであっているのに「先生、間違っているのに点数があります」といってくる子供達もいた。
教師は、きちんと努力している子供達が報われる勉強のシステムを作る必要がある。試験と採点の時の指示は、試験が不正に行われないように配慮した指示である。
しかし、実は不正行為は答案返却時に行われることが多い。クラス30人に返却している間に、書き直して
「先生、合っているのに点数がありません!」
と言いに来るのだ。
そのことを防ぐために、バツは間違っている感じの部分に行うのだ。数字だと、間違ったところを消して書き直して持ってくる子供が出てしまう。また、空欄をそのままにしておくと後から書き加えられても、証拠がない。だから印をつけるのだ。
私の友人の高校の教師は、空欄は緑のペンで印をつけ、マルとバツに関しては赤で付けるとしていた。これならきちんと証拠が残る。
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不正行為を生み出させない。子供を加害者にしないための配慮である。また、きちんと努力している子供達が馬鹿を見ることがないように配慮する。これが試験、採点、答案返却では大事なだ。
子供の頃は、なんで年と年度があるのだろうと思っていた。
(んなもの面倒くさい。年に一回でいいじゃん。どっちかに統一したらいいのに)
と思っていた。実に子供だ。
確かに、今でも面倒くさい。西暦と元号でも、『今が2016年だけど、平成は二十何年だったっけ?』とよくわからなくなる。ではあるが、今はこれが豊かさなんだろうなあと思うようになった。
2016年4月1日。平成二十八年四月一日。さらに、旧暦で言えば二月二十四日。桃が満開だ、もうそろそろひな祭りだ。今日を生きる人は、同じ時を生きているはずだが、それぞれの時間を生きている。
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「人前で大声を出すな」
と親に躾けられた。もともと顔の骨格の関係か、声が響く上に剣道や歌をやっていたので地声も大きい。だから、普通に話していても大きい。教師にとってはいいことだと思うのだが、街中ではみっともない。
伊集院静さんが
「お前さんが、嬉しい時、その隣にいる人は、友人がなくなった悲しみに耐えているかもしれない。だから、人前では大声を出すんじゃない。それが大人の嗜みだ」
のようなことを書いていたのを思い出す。なるほど、よくわかる。他人に配慮するというのは大人であるための大事な一歩だ。
花見の席に、「その隣にいる人は、友人がなくなった悲しみに耐えている」ということは通常考えられない。だから、酒を酌み交わし燥ぐのもありだ。しかし、公の普通の場所での大声というのは、大人としては如何なものかなのだ。私たちは同じ時を別々に生きている。そして、時々、同じ時を過ごす人に出会い、喜ぶのだ。
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一年は正月に始まる。これは、生活者としての新しい一年のスタートを切る時。私ならば、父として、子として、夫としての新一年の始まりだ。そして、年度は仕事人として新しい一年をスタートさせる時だ。大学の教員として新しい学生たちを受け入れ、進級した学生たちを鍛え始め、研究を加速させる時だ。
子供の頃は、正月が終わってたった三ヶ月でもう一回やり直すことの意味がよくわからなかった。生活者としての自分と仕事人としての自分の違うがわからなかったのもあるが、もう一つ、やり直すことの意味、価値もわからなかったのだろう。
人間はしょっちゅう失敗する。三ヶ月前に決心したのに、できていないことだらけだ。だから、ここでリセットするのだ。ドラゴンクエスト2的に言えば、復活の呪文を唱えるのだ。新たな気持ちになれる時間をセットし直して、もう一度、もう少しまともになりたいと願う時間なのだと思うのだ。
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年と年度があってよかった。