年と年度があってよかった。
子供の頃は、なんで年と年度があるのだろうと思っていた。
(んなもの面倒くさい。年に一回でいいじゃん。どっちかに統一したらいいのに)
と思っていた。実に子供だ。
確かに、今でも面倒くさい。西暦と元号でも、『今が2016年だけど、平成は二十何年だったっけ?』とよくわからなくなる。ではあるが、今はこれが豊かさなんだろうなあと思うようになった。
2016年4月1日。平成二十八年四月一日。さらに、旧暦で言えば二月二十四日。桃が満開だ、もうそろそろひな祭りだ。今日を生きる人は、同じ時を生きているはずだが、それぞれの時間を生きている。
◆
「人前で大声を出すな」
と親に躾けられた。もともと顔の骨格の関係か、声が響く上に剣道や歌をやっていたので地声も大きい。だから、普通に話していても大きい。教師にとってはいいことだと思うのだが、街中ではみっともない。
伊集院静さんが
「お前さんが、嬉しい時、その隣にいる人は、友人がなくなった悲しみに耐えているかもしれない。だから、人前では大声を出すんじゃない。それが大人の嗜みだ」
のようなことを書いていたのを思い出す。なるほど、よくわかる。他人に配慮するというのは大人であるための大事な一歩だ。
花見の席に、「その隣にいる人は、友人がなくなった悲しみに耐えている」ということは通常考えられない。だから、酒を酌み交わし燥ぐのもありだ。しかし、公の普通の場所での大声というのは、大人としては如何なものかなのだ。私たちは同じ時を別々に生きている。そして、時々、同じ時を過ごす人に出会い、喜ぶのだ。
◆
一年は正月に始まる。これは、生活者としての新しい一年のスタートを切る時。私ならば、父として、子として、夫としての新一年の始まりだ。そして、年度は仕事人として新しい一年をスタートさせる時だ。大学の教員として新しい学生たちを受け入れ、進級した学生たちを鍛え始め、研究を加速させる時だ。
子供の頃は、正月が終わってたった三ヶ月でもう一回やり直すことの意味がよくわからなかった。生活者としての自分と仕事人としての自分の違うがわからなかったのもあるが、もう一つ、やり直すことの意味、価値もわからなかったのだろう。
人間はしょっちゅう失敗する。三ヶ月前に決心したのに、できていないことだらけだ。だから、ここでリセットするのだ。ドラゴンクエスト2的に言えば、復活の呪文を唱えるのだ。新たな気持ちになれる時間をセットし直して、もう一度、もう少しまともになりたいと願う時間なのだと思うのだ。
◆
年と年度があってよかった。
« 自分なりの、切り替え装置を持つ | トップページ | 試験、丸付け、返却の時に注意すべき点は何であろうか »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント