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2016/07/27

宿題の5種類

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宿題には5種類あると考えている。

1)授業の予習としての宿題
2)習熟、トレーニングとしての宿題
3)終わっていないところをやってくる宿題
4)自主的にする勉強としての宿題
5)長期休業中の宿題

もともと宿題という言葉は、句会から来ている。
「次の句会の時までに、この季語で作ってきてね。でないと、句会に参加できないよ」
というものが、宿題なのである。上記の分類で言えば、1)である。

しかして、学校の現状の宿題はどうなっているであろうか。2)と3)がメインではないだろうか?
2)は、わかる。例えば、余りのある割り算を学校で習って、それを確実にできるようにするために家でその類題について練習するような宿題だ。

しかし、3)は私は違うと思う。
授業では、教師が理解させ、課題をさせる。ところが、授業中に終わらなかったから、宿題にするというのだ。授業中にできなかったのは、教師の授業デザインが破綻していたからである。もちろん、授業が計画通りにいかないことがあるのはよくわかる。それはあることだ。だから残った部分は家でやってくることというのも、無くはない。しかし、「教師が理解させ、課題をさせる。」の「理解させ」の部分が不十分のまま、宿題にすることがあるのではないかと思っている。この場合は、論外だと思うのだ。

前期の振り返りで学生がこんなことを書いていた。1)についてである。

宿題をしてくることが、楽しいアトラクションの入場券になっていると
感じてもらえるようなものを考えたい

その通りなのだ。宿題をやってきたから授業が楽しい。
そういう宿題が、本来の宿題なのだと考えている。
宿題をその位置に置いた時、授業がどうデザインされるのか。
これを考えると授業づくりは面白いと思う。
そして何より、子供達が喜ぶと思うのだ。

2016/07/19

いい言葉に出会うと書き写したくなる

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いい言葉に出会うと書き写したくなる。そうやって中学生の時からずっとノートに書き写してきた。好きな歌の歌詞を書き、ギターコードを書き歌っていた。その時は、単に好きでやっていただけのこと。母親には

「修、そんなことやって何の意味があるのかねえ」

と言われた。私は別に何かのためにやっていたわけではない。歌が好きだから。また、文字を書き写すのが楽しいからということ以外に理由は見つからなかった。

いい言葉を書き写し体に貯めていくとそれがいつの間には発酵を始め、自分の言葉となっていく。自分が心からそう思うという言葉が生まれてくるようになる。いい言葉は、思考を促し、行動を促す。最強のプレゼンテーションだ。ただし、時間がかかる。

入っていないものは、出てこない。当たり前のことだ。いい言葉をたくさん、体に入れておく。だから、中学校の教師をしている時は、授業の最初に黒板に「今日の詩短歌俳句、名言」としていい言葉を書いて「アンソロジーノート」というノートに書き写させていた。3年間担当すると200作品ぐらい書き写させていたことになる。そして、それを年間5作品程度は暗記させていた。

私は40年もこんなことをしている。体は勝手にそのいい言葉を発酵させてくれて、自分の人生を豊かにしてくれることがこの頃とても実感できる。中学生だった彼ら彼女らも今頃、発酵に気がついてくれているんじゃないかなあと思う。

「母さん、実はね、これにはね」
と今なら効果を説明できると思うが、ま、それよりも
「単にいい言葉を書き写したいんだよ」
というのが本音かな。

日々、いい言葉に出会える嬉しさのあることよ。

2016/07/12

テキストに根拠を求めながら読む

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昨日の教科教育法(国語)では、ごんぎつねの3の場面を中心に授業づくりの具体について指導した。

具体的には、以下の指示を事前に出して、指導案を書かせ、物語文の読解の仕方、指導の仕方の基礎を抑えた上で、授業ではテキストの読解をしながら進めた。

目標: 3場面を読んで、ごんの行動や気持ちの変化を考えよう。

学習指導要領 小学校国語 第三学年及び第四学年 C 読むこと
(1) 読むことの能力を育てるため,次の事項について指導する。 ウ 場面の移り変わりに注意しながら,登場人物の性格や気持ちの変化,情景などについて,叙述を基に想像して読むこと。

目的:テキストに根拠を求めながら読む。

思い込みではなく、テキストに書かれていることから考えていくわけである。
ごんは、うなぎ、いわし、山栗、松茸と兵十にgiveする。giveするものが違っていくこと、またgiveの動詞が違っていくことをテキストから読まねばならない。そして、それはなぜ変わっていったのか。その時、ごんの心情はどのように変化していったのか。ごんの心情の変化の一方で、兵十はどうだったのか。

これらを、教師の思い込みではなく、テキストに書かれている事実から考えていく。
国語の授業としては当たり前の授業なのだが、このような読み方を指導してもらった学生は実に少なかった。教師が自分で読んだ解釈を児童が当てるような国語の授業が多かったのだ。そうではない。

『ごんぎつねは、ハッピーエンドですか? バッドエンドですか?』
と発問した。学生はほぼ50%にわかれた。
『では、その根拠は何ですか?』
その根拠を本文から読取らねば、国語にならない。
『では、横の人とペアになって、じゃんけんに勝った人から、ペアの人に、「私は〜エンドだと考えています。なぜならば教科書の〜にこう書いてあるからです」という形で説明してください。はいどうぞ』
と交代でやらせる。

授業の終わりには、
『今日の授業で勉強になったなあ、と思うことを三つ、ノートに書きなさい』
『ペアの人に、その三つについて何がどう勉強になったのかを説明しなさい』
とした。

人間は、必要なことと興味があることでないと学ばないと思うのだ。
だから、教師がいかにこれが大事だと言っても、学習者が必要、または興味があるとなっていないと学ばない。だから、自分が勉強になったと思うことをまとめさせるというやり方は、大事だと思っている。

『もちろん、教師は児童に対して(あ、これは必要だ)と思わせる導入を考える必要があるんだぞ』
と付け加えておいた。

前期の授業もあと一回で終わる。

娘自身は生活の中で、算数を遊んでいる

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「1+11は12!」
エレベーターを待っていた娘(6)が突然言い出した。
(なんだ?)
と思ったら
「1+10は11!」
と言う。
????

分かった。
二機あるエレベータに提示される階の階数を足しているのだ。
そして、次は
「9-2は7!」
とかやっている。

面白いなあ。

さらに、エレベーターの中にある階を表すボタン。
「3、6、9、12、15、18!」
と読んでいる。いわゆる3飛ばしだ。

まだまだなあと思う。

娘自身は生活の中で、算数を遊んでいる。
私はそれを楽しんでいる。
算数の先生ではないが、小学校教員養成過程の先生である。
こういう遊び方をもっともっと私の身近なものにしたいなあと思う。

娘に教えられる休日である。

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