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2016/08/16

「急がば回れ」の実証が記事になりました

2016/08/14

あそこだけどね。なんで、多かったのを取り上げたの?

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ゼミ合宿が終わった。
ゼミの合宿係が中心になって、宿泊場所、スケジュール、レクなどすべて決めて行った。卒業生も参加してくれた。こう言う枠から決める経験が大事なんだと考えている。

本当なら中学生ぐらいからこう言うのを特別活動でやらせていくことが、これからの時代にはますます大事になるんだろうなあと考えている。大人という教師がサポートできるうちに、自分で枠を作るレッスンを受ける。大事だよなあ。

ゼミ合宿では、模擬授業も行った。
グループに分かれて指導案を作り、代表者が授業をするといものだ。それぞれ頑張っていたが、気になったこともあった。
二年生の算数の授業で、繰り下がりのある引き算についてである。

36-7

という計算をさせていた。
小グループに分けて、どういう計算をしたのかを説明させていた。そして、説明をさせた後に、

「ということで、いろいろな説明がありましたが、〜という説明が一番多かったですね。これはですね〜」

と説明していたのだ。

(あ〜〜〜〜)と思った。

『あそこだけどね。なんで、多かったのを取り上げたの?』
「?」

そう。学生は意識的にはやっていない。無意識だ。今まで自分が受けてきた授業がそうだったからそうしたのであろう。

『あそこは、他の人が解いていない方法で解いた子供を取り上げるべきでしょう』
「?」
『多くの人がやった方法は、後でやればいい。大事なのは、ユニークなやり方を見出した子供だ。それを価値付けよ。他の子供がやっていないなら、その方法を説明した方が、他の子供にとっても勉強になる』

こうやって少数派の子供達は、
(あ、自分は間違っていたのだ)
と思い込まされて、学習を進めていく。そして、ユニークな芽は伸びることなしにということは沢山あったろうし、今でもあるだろう。

少数派を拾う。実はとても難しいことではある。
意識の切り替えが必要。これができない。そして、拾えたとして、それを授業に位置付けることができるかどうか。これも難しい。

教師は自分が予定しているストーリーを持っている。そこに自分が想定していない意見が出てくる。それを受け入れたとして、想定していない意見を自分が理解して、さらに学習者に説明をし、その上でそれも取り入れて、新しい授業の展開をその場で作り出していく力が求められる。だから教師に実力がないと、挑めない。

しかし、ここに挑まないと授業そのものに価値がなくなっていくと私は考えている。ライブでやるのは、そこに意味がある。価値があると考えている。

数が多いのは安心だけど、安全とは限らない。
避難する時の言葉だ。しかし、これ、勉強の時にも言えるんじゃないかなあと思っている。

そして、嬉しかったのが卒業生の現役の教師たちのアドヴァイス。
(をを、それなりに成長したなあ)
と思わせてくれた。

指摘するポイントも、自分がクラスで指導に困っている子供にどうやって取り組んでいるのかがわかるところで、その取り組みが見えるようなアドヴァイスであった。

教師は、現場で鍛えられる。私にできるのは、刺激を与え、自分がいかにわかっていないかを理解させ、腹をくくらせることだと思っているが、それを改めて思った。

大学に移って10年。
いい流れができてきたかなあと思った。

2016/08/06

「急がば回れ」の実証 水路編

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昨日は、実に歴史的な日であった。

『「絵に描いた餅」「二階から目薬」「猫に小判」こういうの、写真で撮ったら面白いんじゃない?』
と大学の授業で何回か言っていた。関西の行動基準は「おもろいか、おもろくないか」であるというのを聞いたことがある。

そうだとしたら、この「ことわざを写真で表す」というのは、かなりおもろいのではないかと思うのだ。

ことわざの学習は、学習指導要領では、小学校の3、4年生行うことになっている。ことわざを知り、意味を知るにはこの頃に行うのは、適切だと私も思う。

しかし、ことわざはここで習っておしまいにするほどのものではない。奥が深い。中学や高校でも扱うべきだと思う。小学校ではことわざの意味の理解はあるだろう。しかし、いかにも人生経験が少ない。その後経験を重ねて、理解から納得へと行くあたりで、またことわざを学ぶといいと思っている。

去年の二回生ゼミでは、京加留多48枚の全てについて、取り札作成をおこなった。全て写真にしてそれをパワーポイントのひな形に流し込んで、作った。その様子を日本デジタル教科書学会で発表し、2015年度の本学の紀要論文にまとめた。「連続型テキストの読解を、非連続型テキストの表現から導く指導に関する一考察 〜京歌留多の取り札作成を通して〜」

取り札を作るためには、ことわざの意味を十分に理解しなければできない。一枚の写真に切り出すには、そのことわざの理解と解釈が必要だ。写真作りを通して、ことわざの理解を促すという実践であった。

本年度は、去年のものをベースにして、写真で取り札作りをし、また、5秒程度の動画も作った。この様子は今年の日本デジタル教科書学会で発表する予定だ。「連続型テキストの読解から、非連続型テキストの表現に導く指導に関する一考察 その2 ~電子ブック「京歌留多 ことわざ動画辞典」作成を通して~」ということで、電子ブックでことわざ動画辞典を作ることを視野にいれての実践を発表する予定だ。

で、この流れと並走する形で、もう一つ「ことわざ」実証関連をやっていた。繰り返し言うが、ことわざは、誰が言ったかわからないけど、いい箴言として残っているのが「ことわざ」。事件や出来事あってそれに基づいて作られた言葉が「故事成語」。だから、「急がば回れ」は、ことわざではなく、故事成語である。

で、「急がば回れ」実証プロジェクトである。すでに、三回生ゼミのメンバーと、今年の7月18日に、陸路編を終えている。この時は、旧東海道の琵琶湖に向かう分岐点の瓢泉堂から歩き始めて、石場の常夜灯まで13キロ4時間であった。

その時の感想は、一言で言えば、
『何があっても、船がいいだろう。船が出なければ、船を待ちます』
というのが偽らざる想いであった。

そして、昨日、「急がば回れ」水路編なのであった。

これを思いついた時、すぐに相談したのが本学の谷口先生だ。観光学の先生。優しくて頼りになる先生。そして、いつも新入生キャンプでお世話に成っているウォータースポーツ施設の「オーパル」。担当の中岡さんである。両者から快諾を得た段階で、もうすでに半分はうまくいったようなものであった。

ただ、気象条件、手続き、琵琶湖のかつての船の様子など分からないこともたくさんあったのでその確認などもして歩いた。琵琶湖博物館、大津歴史博物館、丸子船資料館などに訪れ、その疑問を確認して歩いてきた。

そして、下見をしたところ、スタート地点では「滋賀マリン」の岸さんに出会えて、駐車場のサポートや、急がば回れの歴史的な資料も拝見することができた。

そして、迎えたのが昨日であったのだ。

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4キロと少しの航路である。ゆっくり行っても2時間でと言われていたのだが、実際のところスイスイと移動できてしまって、90分程度で到着してしまった。
(え、もう到着?)
という感じで、往復できるじゃんと思えるぐらいであった。

これには理由がある。
とにかく、琵琶湖の状態がこの上なく良かった。心地よい風が吹いており、湖上は涼やかであった。それでいて、波はなく、思うようにパドルを扱うことができ、なんともいい感じであった。流されているなあと感じたのは、近江大橋のあたり。そう、そこからは瀬田川に向かって水が動いている。そこだけ少しだけ流されそうになった。あとは、何もなし。

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当時の丸子船は、昭和の半ばまで使われており、今では丸子船記念館に一艘だけ現存している。その船の構造を見たとき、逆風では前に進まないだろうことが推察された。また、オールを常備していることから、漕ぐことは大前提になったかと思われる。

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歌川広重の絵を見ると、何層もの丸子船が描かれている。
絵の様子からは、いかにも快適な船旅のような気持ちがしてくる。
私たちは今回パドルで漕いで渡って行ったが、当時の旅人は船に乗っているだけ。漕がなくていい。これはさらに快適であったろうと思われる。

たどり着いて、思ったことは
(このことわざは、季節も特定できるんじゃないかなあ)
ということ。急がば回れは、「風待ちで船が出るのを待っているよりも、急ぐなら瀬田の唐橋を回ったほうがいい」というところからきているのだが、私は、「風が吹いていないので風を待っているのだが、それなら風が吹くのを待つよりも、歩いたほうがいい」と解釈していたが、これは違うなと思ったのだ。

「風が強くて船を出せないから、風が収まるのを待っている。その収まりには時間がかかるから、遠回りでも歩いたほうがいい」というのが、急がば回れなのだろうと。で、その突風は比叡おろしと言われ、冬に吹く。または、春の嵐として吹く。

だから、この急がば回れという言葉が主に使われるのは、冬から春にかけてであろうと思われるのだ。夏と秋のシーズンなら、間違いなく船の方がいい。のんびりゆったり、琵琶湖の向こう側に雄大に聳え立つ比叡山を眺めながら、ゴールの京都への想いを馳せる方がいい。

このことを実感を持って説明できるようになった。

ゴール後は、琵琶湖ホテルでシャワーを浴びて、ランチとなった。
琵琶湖ホテルに交渉してシャワーを有料で借りることができたのだ。そして、イタリアンレストランでランチであった。

この結果を踏まえて考えている。

この先、どう展開するかだ。

始めた時は、殆どおもろいで始めているのだが、やりながら、これがなんの価値を持っていて、どう展開されたがっているのか、この出来事が、物事が、物語始めるのだ。

こうしてほしい、ああしてほしいとリクエストをし始めるのだ。こらがまた面白い。私は
『あー、そうですか。そうしたいのね』
などと聞き取りをしながら、整理していく。文字にすると変だが、実にそんな気持ちなのだ。

「お父さんのお仕事、なんか遊んでばっかり」
と娘(8)は言う。
うーん、否定しきれないが、でも、これはお仕事なのよ。

日本中の子供達が、大人が
「いやあ、言葉って面白いなあ、すごいなあ」
と感じてくれるような、わくわくする学習をデザインするためのお仕事をしているよ(^^)。

関わってくださった皆様、いろいろとありがとうございました。
次の一歩への一歩を確実に踏み出せました。
次も、よろしくお願いします。

2016/08/03

Twitterでの炎上の仕組み

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最近気がついた、Twitterでの炎上の仕組み。
Twitterとは、つぶやきだ。
つぶやきには根拠も出典もいらない。だって、自分がそう感じたことを漏らすのがつぶやきだからだ。

文章には、表出と表現のグループと、伝達のグループがある。
漏れてしまう思いや漏らした思いが表出と表現だ。伝達には技術と熱意がいる。
伝えられる人が、しっかりと聴かなくても誤解なく伝わるようにするのが伝達だ。

Twitterは伝達のツールである。しかし、それを理解せずに表出、表現に分類される文章を、伝達のツールに乗せてしまうことがある。ここに炎上の原因があると思うのだ。「ああ、お腹すいた」とつぶやく分には特に問題はない。しかし、これが「あの人ちょっと変だなあ」と他者に関するつぶやきとなると、問題になる。

本来、伝わらないはずのつぶやきが、Twitterというつぶやきの仕組みに乗ると、「不特定多数」の人に伝わってしまう。伝達されてしまうのだ。ここが問題の所在。心の中を外に出しただけのつもりなのに、それが伝達のシステムに乗せていることに気がついていないのが、問題だと思っている。

別の観点から言えば、Tweetなのだから、思いつきでTweetしているだけなのに、「根拠は?」とか「ネットに書くのなら正確に書きなさい」などとお叱りを受けることもある。そんなもん、知らんがな。なんとなく、そう思ったからTweetしただけ。それがTwitterなんだと思うのだが、ま、いろいろと混乱する。

根拠なく、その時の思いつきを140字で乗せている。それに信憑性を求めるのは、違うんじゃないかなあと思うのだ。本人は思ったこと、感じたこと、違和感を書くのが基本だと思うのだ。論理とかはあまり気にしていないと思う。これらのすれ違いが、炎上の仕組みだとこの頃気がついた。

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