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2016/12/31

こんな風になるとは思わなかったことが二つ。亀と諺です。

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ふう、熱も下がって一安心。

口の中がヒリヒリするのは治らないけど、まあ、いいでしょう。

風呂が沸くまでにちょっと。

1年間全体を振り返るのは、面倒なので(^^)、思いつくままに。

今年の最大は、何と言っても再現ですね。

こんな風になるとは思わなかったことが二つ。亀と諺です。

まず、亀です。

亀の甲羅が手に入ると言われて、本当かと思っていたのですが本当に手に入って、それを元に甲骨文字の再現をしたわけです。私にとっては恍惚でした。私が調べた限りにおいては、甲骨文字の再現をしているネット上の記録は、私がするまでにはありませんでした。亀卜の記録は論文にもありますが、甲骨文字の再現はありません。

ここからあれこれ始まったわけです。

授業化を想定していた私は、甲骨文字を甲羅に刻すのに彫刻刀では子供たちは大変だと言うことでミニルーターを手に入れてやって見ます。ところが、これでは歯が立たない。で、まあ、せっかくなのでと思って家にあった一升瓶に文字を刻して見たところ、これが非常に楽しい。結果的に一升瓶に般若心経を刻し、大学の書道展で展示してもらうことになりました。また、そこから、板ガラスに文字を刻すのもやり、蘭亭序の前半を刻し終えました。

さらに、そこから写仏の本に手を出し、ガラス板に仏を刻す「刻仏」なるものを創作してしまいました。渡辺徹さんには、「光の彫刻」とまで言っていただきました。

そして、ここに現役の学生と卒業生が関わって来ます。

現役の学生は、この亀の甲羅に甲骨文字を刻すと言うワークショップを某博物館で計画中です。また、卒業生の教員たちと一緒に、中高生に甲骨文字を刻す書写、書道の授業をすることを始めています。そのうち、高校では刻した甲骨文字の拓を取ると言うこともしました。来年は中学生に実施します。

私の方は、甲骨文字の再現のために京都の美術館を巡り、さらに東京の書道博物館、国立博物館に出向いて実物を見て目を肥やしていました。そして、京都のわが国最古に民間美術館の有鄰館で私が再現した甲骨文字が収蔵展示されることになりました。

亀からスタートした再現。最初に亀の甲羅を手にした時、まさかこんな展開になるとは思ってもいませんでした。しかし、これらは全て今年行ったものです。牛にひかれて善光寺参りではありませんが、亀に導かれて「わらしべ長者」のような気分です。

次に、諺です。

もともと、諺は好きで、中学校の教員の頃から「ことわざでぽん」「ことわざスピーチバトル」「人生名言集」など諺で遊びながら言葉を学ぶと言うことはしていました。

大学でも、この延長であれこれやっていました。今年は、その流れに一つの山がきました。

小学校の3、4年生で諺を学ぶことになっています。小学校の教員を目指す彼らに諺の授業をしておきたいと思っている私は、色々と工夫をして見ました。

その一つが、去年から続けている、カルタの諺を写真で表現すると言うものです。今年は、さらにそれを発展させて5秒の動画で表現する「諺デジタル動画辞典」の作成に乗り出しました。

二回生ゼミで行ったのですが、ハマってしまった学生が今年も結構出て、卒論のテーマにしたいと思っている学生も数名でています。この実践は、日本デジタル教科書学会で発表できまして、さらに朝日新聞の記事にもなりました。http://withnews.jp/article/f0161022000qq000000000000000W03r10101qq000014184A

もう一つは、まさに再現です。「急がば回れ」を再現してみると言うものです。

滋賀に住まいするようになって、滋賀の歴史を勉強して見ました。

すると、「急がば回れ」は滋賀県の「諺」と言うことがわかりました。

しかも、私の住まいの対岸。

これは知らなかった。

実際にやってみたいと思ってあれこれしていたまま、10年が過ぎてしまっていました。

陸路は三回生ゼミのメンバーと一緒にやって見ました。

そして、水路です。

で、今年タイミングがうまくあってお世話になっているオーパルの中岡さんに協力を得て、実際に再現することができました。八月です。

琵琶湖の穏やかな風を受けながら、気持ちよく「急いで」見ました。陸路と水路とを両方とも再現することができました。これも記事になった。

http://withnews.jp/article/f0160816003qq000000000000000W03j10601qq000013857A

さらに、ここから新しいプロジェクトも動き出している。

幸せ。

さて、次は何をしようかと画策中。

言葉って楽しいなあと改めて思う。

そして、その楽しさを学生に、学生が教師になった時に子供達に伝えていく。

そのための研究と授業を今年は一つの形にすることができた。

来年、これがどう言う展開をするのか実に楽しみ。

どちら様も、よいお年を。

小三治の「芝浜」を聞きながら。

2016/12/25

学びの支援とは

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授業中の学習者のつぶやきで、いい授業の時に出るつぶやきは

「あ〜」

だと言うのは、実は一部ではよく知られている事実。

「あ〜」と言うのは、茂木健一郎さんのアハ体験と同じであって、説明されたことが理解の次の納得の次元で承認された時に出てくる言葉だと言える。つまり、深いところで分かった時に快感とともに出てくる言葉なのだ。

この言葉がどのぐらいの頻度で出てくるかで、その教師の学習の指導力が見て取れると考えることもできる。その一方で、「え〜」とか「う〜ん」とか言う言葉が出てくるときは、教師の説明に対して、理解ができないとか、納得がいかないのサインとして考えられ、いい授業ではなかったと言うこともできる。

ところが、これを学習ではなく、学びを基軸に考えると違った様相を呈することになるのではないだろうか。学びを支える支援の場合、教師が説明をして「あ〜」と言う場合は、実は良くないのではないかと思われる。「あ〜」が深いところで分かった言葉だとしたら、その学習者は、その部分についてもう先に進もうとは思わないだろう。

私が大学に行って一番最初に修正した授業のデザインはここだった。中学校の教師だった私は、懸命に中学生に理解させようとしてきた。分からないと言うことが無いようにしてきた。それを大学でもやった。すると、学生たちは理解するし、納得もする。しかし、その先に進んで行って学ぼうと言うことにはなっていなかった。

そこで、デザインを変更した。分からないことが分かったの授業から、分かっていない自分が分かったの授業への変更である。勉強しなければならないことが山盛りあることに気がつかせる。自分では当然だと思っていたことが、それは実は単なる思い込みであったことを気がつかせる。「え〜」「う〜ん」と言う言葉は、その先にある自分の学びのための問いを得るきっかけがここにあると言うサインの音と考えることもできるのではないだろうか。

自分が理解している世界を一度否定されることで、「え〜」「う〜ん」と言う言葉が出てくる。しかし、それはその先に進むために必要なことで、少なくとも学びを手にしようとする者たちは、ここの部分を通過せざるを得ない。そして、学びの支援とは、実はこの「え〜」「う〜ん」と言う言葉が出やすくすることではないかと思うのだ。

2016/12/21

わらかないは、わかるための入場券

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(え、なんでなんで?)
と思うのは楽しくないかなあ。
わらからないって楽しいけどなあ。

わからないと、バカにされる、頭が悪いと思い込んでいるのかなあ。思い込まされているのかなあ。わからないことがあるから、わかると言う体験ができるのになあ。

わらかないは、わかるための入場券なんだけどなあ。
その入場券を手にれたのは、嬉しくないかなあ。楽しくないかなあ。

2016/12/19

【明日の教室】京都本校の予定  阿部先生、日野田先生

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【明日の教室】京都本校の予定。

1/28 上越教育大学教職大学院准教授 阿部隆幸先生。 2/4 大阪府立箕面高校校長 日野田直彦先生。

しばらくしましたら、正式なご案内をします。
お楽しみに。

2016/12/14

葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏

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葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖浪裏
友人の一人は、光の版画と称してくれました。
嬉しいなあ。

醍醐寺 弥勒菩薩像

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刻仏

義務教育で扱う問題だと思うのだ

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義務教育で教えておくこと、または生徒が身につけておくことは何かって考える必要があるなあと改めて思い始めている。

学校教育法の二十一条には、義務教育が行う普通教育の内容について以下の要に述べている。

第二十一条 義務教育として行われる普通教育は、教育基本法 (平成十八年法律第百二十号)第五条第二項 に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

 学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

 学校内外における自然体験活動を促進し、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。

 我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 家族と家庭の役割、生活に必要な衣、食、住、情報、産業その他の事項について基礎的な理解と技能を養うこと。

 読書に親しませ、生活に必要な国語を正しく理解し、使用する基礎的な能力を養うこと。

 生活に必要な数量的な関係を正しく理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。

 生活にかかわる自然現象について、観察及び実験を通じて、科学的に理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。

 健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養うとともに、運動を通じて体力を養い、心身の調和的発達を図ること。

 生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸その他の芸術について基礎的な理解と技能を養うこと。

 職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。

因に、教育基本法の52項は、これ。

2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。」

大筋でこの方向で異論を挟むことは無いと思う。これはこれでいい。しかし、この二十一条は、なんというんだろう、前向きというか攻めというか、そういうものに見える。

勿論、目標なんだからそういうように見えるというか、文言化するのかもしれないが、私にはそれは一面にしか過ぎないんじゃないかなあと思えるのだ。

たとえば、以下のようなものはどこで教えるのだろうか。何の授業で教えるのだろうか?

1)お礼の仕方、謝り方

2)借金の仕方

3)保健所の活用の仕方

4)払いすぎた税金の取り戻し方

5)生活保護の申請の仕方

他にも、名誉挽回の仕方とか、ひき逃げに合った時の対応の仕方とか、えん罪に巻き込まれた時の対処の仕方とかもあるかもしれない。

このような「身を守るため」に用意されているマナーや社会保障は、どういう授業で行われるのだろうか? 1)は道徳? 2)は家庭科? 3)は保健体育? 45)は社会科? よく分からない。これらは、教育基本法の52項のように、前向きに生きて行くことを求めているものではないので、教えなくていいのか?

義務教育は、可能か不可能かは別として、人生で生きて行くために必要な基礎の部分を教える教育だと考えている。それは、前に進む方法だけでなく、立ち止まったり、倒れた時に安全に倒れることのできる方法であったり、復活するまで倒れ続けていられる安心を手に入れる方法も含まれている必要があると思うのだ。

人生は、前向きでありたい。前進して行くものでありたい。誰も、没落して行くことを人生の目標として設定するものはいないだろう。しかし、前向きにならないときもある、なれないときもある。その時の対策としてセーフティネットが社会で用意されているのだとは思うのだが、そのセーフティネットを活用する方法が学習される機会が与えられていないのではないかと思うのだ。

ここは、福祉ではなく、教育で扱う問題だと思う。

そして、義務教育で扱う問題だと思うのだ。

2016/12/06

『わたしたちの「撮る教室」』

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石川晋さんから最新刊をいただいた。『わたしたちの「撮る教室」』だ。ありがとうございます。

おそらく、類書はないと思う。
いま、こうして学級の学校の実践をそのまま出せる環境にある先生(もちろん、その環境は実践家が作って行くのだが)がいないことが一つ。また、個人情報の保護のことからが一つ。ということで、貴重な本だと思います。

自らの歴史を綴る権利が、ユネスコの学習権宣言には学習権の一つとして挙げられていますが、たぶん、この『わたしたちの「撮る教室」』は、その文脈に位置付けられるのだと思います。

それも、連続型テキストではなく、非連続型テキストのテキストの一例として。

私も学生たちに出版せよと言い続けています。電子ブックであっという間にできますから。出版学習が身近なところに来ていると思っています。その際にも、この本は貴重な学習資料になると思いました。

2016/12/05

もう一度言う

ニシンの白子が手に入った。

ニシンは、今が旬。

北海道の小樽に向かう列車の進行方向右側のオホーツク海では、フケが発生していることだろう。

私は、スーパーに並んでいたニシンを手にいれて、身をグリルで食べようと思ったのだ。で、出てきたお宝が白子であった。

プリン体満載の、この白子。

私にとっては敵である。

敵は撃破するか、友好条約を結ぶかである。

私は、後者を選んだ。

で、調理。

日本酒に漬けて洗って、白子の臭みを取る。

そのあとは、バターでソテー。

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もう一腹は、素焼きをしてポン酢、一味、山椒でいただく。

どちらも実に美味しい。

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もう一度言う。

どちらも実に美味しい。

2016/12/04

恐怖を刺激する勉強から、興味を刺激する学びへ

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勉強しない子供達に出会ったのは、三校目の中学校でのこと。それまでは、勉強ができなくてもまあ、試験前になれば勉強するという子供達がほとんどであった。試験があれば勉強する。しかし、試験があっても勉強しないという子供達を目の前にすることになったのだ。

高校に行く気がないから勉強しない。

まあ、違うんだけどこれはわかる。

その一方で、高校には行く気だけど勉強はしないという生徒がいるのだ。

これは何を意味しているのか、最初の頃はよく分からなかった。

私の理解では、高校に行くなら勉強しないと合格しないし、行くのであれば少しでも自分の希望にあった学校に行けるようにするのが普通ではないかと思っていたのだ。

しかし、高校に行く気はあっても勉強はしない、のだ。

調べて、考えてみての結果は、これであった。

つまり、勉強しなくても高校には行けるから、勉強しないである。少子化で高校の入学枠の方が広くなってしまったから、選ばなければ高校に行けるのだ。

衝撃であった。

それまで、定期考査や高校入試があるから、ギリギリ勉強をすることを仕向けることができていたのではないかという疑いが私の中に生まれた。もちろん、学習内容の面白さ、身につけることのできる技術を前面に出して授業を作って来たと思っている。しかし、こういう生徒を見るとそれはどこまで本当だったのかと考えるようになった。

言い換えれば、テスト、入試という恐怖、脅しで勉強をさせていただけではないのかということだ。恐怖では人は動かない。動いたとしても一時的なものだ。その場しのぎ、緊急避難である。そうだとしたら、恐怖で勉強をさせても子供達は、勉強にはならないはずだ。

人が勉強するのは、どういう時か。

多分、二つだ。

1)必要な場合

2)興味がある場合

いい学校に入りたいというのは、この二つが色々と混ざっていると思われる。だから勉強した。ところが、高校には入れさえすればいいというのであれば、勉強は必要でない。高校に興味はあるが勉強には興味はないのだから、やっぱり勉強はしないとなる。

そもそも、学校で「これは君の将来に必要なことだからしっかりやりなさい」というのは、難しい。いや、それでも身につけるべき知識が技能がはっきりしている場合は、この「必要だから」というのは学習者に届いた。または、先生が言うのだからと言う先生の権威があった場合は、これも有効だった。しかし、今はその知識や技能はコンピュータやAIが担おうとしているし、先生に権威のある人は少なくなっている。

さらに、いい高校に入っていい大学に入って、いい会社に入ればいい人生待っている、約束されていると言うのも、信じている若者はもうすでに少数派ではないだろうか。必要性で勉強させるのは難しい。

しかし、勉強は大事だ。

勉強しなければ、社会にエントリーすることはできない。

勉強し続けなければ、社会から投げ出されてしまうだろう。

そうだとすれば、もう一つの手掛かりに期待して行くしかないかもしれない。「興味がある場合」だ。

自分が興味のあることは、やる。

さらに面白ければもっとやる。

子供は、人間はそうだと思う。

一人一人の興味に合わせた授業づくり、または教材開発。

いや、この場合教える側の都合で作られた教材ではなく、学ぶ側の癖や好みに合わせて作るから学習材と読んだ方がいいだろう。私はそんなことを考えながら現場で勉強をしたくないけど高校には行きたいと言う子供達、勉強なんてそもそもしたくないと言う子供達に授業を作っていた。

ハンドメイドの授業、オーダーメイドの授業は、面倒だ。

しかし、これをすることに教師の、授業の醍醐味はあると感じていた。

全部が全部このスタイルの授業でやることはできない。時間の限界がある。能力の限界もある。だから、クラスのしんどい子供にはこのことをしていた。本当は全員にしてあげたいなあと思いながらも、限界を感じながらやっていた。

しかし、だ。

この一人一人に合わせた学習材に基づく、そう、興味に基づく勉強が可能になる時代がそこまでやってきているのではないかと思うのだ。AIによってその子供の特技、才能、特性、趣味、興味などに合った学習プログラムが提供できる時代がすぐそこに来ているのではないかと思われる。今までは、この組み合わせがとても大変で、やれたとしたらそれは職人芸の能力を持つ教師か、人件費無視して人を使ってやることでしかできなかった。そして、それはそれだからできなかった。

ところが、AIはこれをいとも簡単にやってしまうだろう。

私がやっている、子供の興味を基にした授業づくり、学びの支援はやがてAIのプログラムの一部に組み込まれて行き、これに興味があると感じることのできる子供の学習に活用されて行くんではないかなあと思っている。

時代は、「恐怖を刺激する勉強から、興味を刺激する学びへ」と変わって来ているだろう。親や教師が「これができないと困るよ」言う。それは確かにそうなのだが、子供たちは恐怖では動かない。そんなことより、「面白くて仕方がないからもっとやらせてほしい!」と言う学びの環境をいち早く実現するべきだと思うのだ。

AIが来る前でも、子供たちの興味のある学びを、今の学習指導要領にリンクしてその子供学びを支えるカリキュラムを一部でも組み込むことはできるんじゃあないかなあ。アクティブラーニングってのは、アクティブに勉強するではない。アクティブに学ぶだってことを抑える必要があると思うなあ。

「恐怖を刺激する勉強から、興味を刺激する学びへ」

実は、大学の教員は、興味を刺激する学びのために、必要な場合に勉強していると思われます。それは外側から見ると遊んでいるように見えると思います。

私は、その「遊び」を義務教育の子供達から実感できるような授業ができないかなあと思ってあれこれしています。

「謎掛けで遊ぼう」

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よし。12/10の第四回教育と笑いの会の番組の準備が終わった。今回の演目は、ネタおろし。いわゆる初演となる。「謎掛けで遊ぼう」である。

私はことあるごとに、謎掛けができるようになることは教育関係者、授業づくりには大事なことだと言ってきた。だが、これを授業や講座でやることは今までなかった。よくやっていたのが、懇親会の座興である。

今回、教育と笑いの会で「池田さん、何か次もやって」と玉置先生に言われた。そんな私は玉置先生のように落語を一席語れるとか、志水先生のようにネタを組み込んで漫談をするとかはできない。(どうしよう。もうネタがないなあ)と思っていた時に、(そうか、謎掛けやればいいか)と思って腹を括った。

面白いものでこの話が決まってから、今度はNHK教育テレビからまた謎掛けに関わって相談があった。今度放映される「テストの花道」である。これも実は謎掛けが関係している。私が監修した。

第四回 教育と笑いの会が、12/10で、テストの花道が12/12「新テストにも対応! 大喜利で“発想力”を鍛える!」だ。
なんだか不思議な縁を感じる。

ここまで来たら「教師教育における謎掛けの活用についての研究」てな論文を書くべきかなあ(^^)。

http://www6.nhk.or.jp/hanamichi/
http://www2.schoolweb.ne.jp/swas/index.php…

2016/12/03

問いの外に出る

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今週の二回生ゼミでとてもエキサイティングなシーンがあった。

二回生ゼミでは、テキスト購読と議論と議論のためのファシリテーションの体験を目的として行なっている。
学生たちがチューターとしてファシリテートするのだが、まだまだなので、ときどき私が「ガイド」をする。学生たちには『このガイドが要らなくなるように、勉強するんだよ』と伝えてある。

教師のファシリテートが不十分なため、学習者の議論ができない、深まらないことがある。学生たちはファシリテートのことなんて知らないので、そのことをタイミングを見て、進行を止めてガイドしたり、注釈を入れたり品が行なっている。

今日もチューターが、発表の部分をまとめてそこで討議したい問いを提示した。この問いが、よくみるとクローズドクエスチョンであった。
その時に、端っこの班から賛成か反対かを聞いて、その理由を確認していた。
その時、ゼミでは他のグループは自分の話すのをやめず、議論をしていた。
私はこのタイミングで、ガイドに入る。

『いま、この班が発表しているのに、他の班で話しているところがあったでしょ。「こら、話をするな。聞きなさい」と叱ることもできるけど、それは私に言わせれば先生が悪い。そういう展開をしてしまったからだ。

例えば、一斉に賛成なのか反対なのかを挙手で答えさせ、その後、同じ意見同士のメンバーで席を移動して話し合わせるとどうなるだろうか。全員が手をあげることで主張をし、その後、グループで議論をする。無駄に話す人はいなくなるわけだ』

とガイドしてその方法でやっていく。実際にやって見ると学生たちはなるほどと実感する。

ところが面白い学生がいた。賛成でも反対でもないというのだ。一部分が賛成で一部分が反対。または、選択肢が別にあるかもしれないというのだ。

『いまの問いは非常に良い。つまり、そもそも提出された問いを疑っているということだね。賛成か反対かと言われると、つい、どちらかを選びたくなる。しかし、これを哲学者の苫野一徳さんは、「問いのマジッック」と言っている。実際はどちらもであったり、別にあるかもしれないのにそう考えてしまうというのだよ。

ところが、きみはその問いの外に出た。
これが大事なんだ。外側に出た結果、実は出たことが間違っていることもある。しかし、出ることができるかできないかはとても大事なことだ。

いままで君達は、大学入試で、いやこれからの採用試験でもそうだが、選択肢が4つあったらその中から正解を1つ選ぶという試験をやってきたしやっていく。早く正確にその選択肢の中から選ぶわけだ。しかし、選択肢の中に正解がないということも世の中にはある。問いの外に正解がある場合があるわけだ。

問いの外側に出ると、通常の学校教育では、先生に嫌がられることが多い。先生の持っている正解とは違うところに話が進んでいくことになるからだ。しかし、本当にしっかりと考えて教えることのできる先生は、外に出た答えが正しいかどうかを子供達と一緒に吟味するだろう。君達にはそうなってほしい。

また、勇気を持って君達も一旦、問いの外に出て考えて見ることを体験しよう。学問は、そうやって問いを立てては検証しとして前に進んでいく。いま、それを見ることができてとても嬉しいなあ』

そんな話をした。

そして、今日の授業の最後。残り2分。どうやって終わらせるかチューターは混乱していた。意見がまとまらないのだ。そこで最後のガイドが登場。

『いまから、三つの終わり方を示します。1)先生の答えを正解として示して終わる。2)学習者の多数決で答えを決める。3)そのままで終わる。さて、どれでしょう』と挙手させたところ、2)がほとんどで残りが1)。『私ならね、学習者の年齢にもよるけど、3)です」
「ええーー」
『正しい知識を教える場合は、1)でいいでしょう。しかし、議論の場合は1)はだめ。2)も少数派になった学習者は不満になる。次の学習の意欲はなくなる。3)は、そうね、自分の考えをノートに書いてあることが前提だけど、そのまま終わらせます。

特に今回は、まだ読んでいくテキストがあるからね。読み進めた結果、あれはどうだったのかとわかることもたくさんある。無理やり結論を出すことはしないで、わからないまま残すという読み方も大事なのです』

そう簡単にわからないこともたくさんある。それを分かったつもり、分かった気になって読み進める方がよほど怖い。そんなことを学生たちが実感してくれるといいなあ。

もう少し自分の違和感を大事にしたらいいのになあと思う

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もう少し自分の違和感を大事にしたらいいのになあと思う。みんなと違う感覚を持つのは悪いことではない。法律を守らないのとは違う話なのだ。‬

‪他でもないあなた自身が
(コレは何か違う)
とメッセージをあなたに送って、贈っているのにそれを受け取らないのは、検証しないのも実に勿体無い。‬

学年旅行とかいうものは、今でもあるのだろうか?

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学年旅行とかいうものは、今でもあるのだろうか?

私が現場にいた時も、ある学年はあった。毎月1万円ぐらい貯金して、年度末に豪勢に近隣の外国に二泊三日ぐらいで行こうなんて企画されたこともあったし、やっている学年もあった。

私は、これがダメだった。

毎月1万円であったら、10万円を超える。そんな金額で旅行を学年の先生たちと二泊三日でいくとは考えられない。それだったら奥さんと行きたい。一泊二日で豪華ホテルでディナーの方がいい。

さらに、小さい子供がいる女の先生にとって、何かあった時にすぐに家に帰れるというのは大事なこと。海外にいたらこれは無理。かつて飛行機トラブルで始業式に帰ってこれなかった学年もあったぐらいだし。

そこで、私が提案したのが職場の近くにあったログハウスでの学年旅行。学校から車で30分ぐらいのところにあるところでやった。ここなら、何かあった時にすぐに帰れる。アルコールは我慢していただくしかないが、参加できないよりはいい。

その学年は、私の他にもう一人、先輩シェフがいた。

いつも職員室でお互いが作った料理の話をしていた。日頃、深くお世話になっている女性陣にお礼をしようということである。

そこで、こういうことにした。

1)前菜は私が作り、メインは先輩シェフが作る。

2)料理を作っている間、女性陣にはジャグジーで寛いでいただく。

3)食材は途中にあるスーパーで購入を基本とする。ドルチェは買っておく。

4)飲み物は、ビール、日本酒、ワイン、ソフトドリンクとし、どうしても飲みたいものやどうしても振る舞いたいものは持参のこと。

5)苦手な食材があれば、あらかじめ伝えてもらう。

これが実に楽しかった。

『こちらが本日の一品めです』

なんて言いながら、サービスする。

日頃の腕を振る舞うのが楽しい、男性陣。振舞われるのが嬉しい女性陣。

男性陣がジャグジーに入っている間に、片付けはしてもらった。

確か、ログハウスのレンタル料を含めて、一人15000円ぐらいだったと思う。

薪ストーブに薪をくべながら、

「色々とあったけど、いい一年だったねえ」

と語り合う学年旅行でした。

あまりにも良かったので、翌年もやりました(^^)。

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