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2016/12/04

恐怖を刺激する勉強から、興味を刺激する学びへ

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勉強しない子供達に出会ったのは、三校目の中学校でのこと。それまでは、勉強ができなくてもまあ、試験前になれば勉強するという子供達がほとんどであった。試験があれば勉強する。しかし、試験があっても勉強しないという子供達を目の前にすることになったのだ。

高校に行く気がないから勉強しない。

まあ、違うんだけどこれはわかる。

その一方で、高校には行く気だけど勉強はしないという生徒がいるのだ。

これは何を意味しているのか、最初の頃はよく分からなかった。

私の理解では、高校に行くなら勉強しないと合格しないし、行くのであれば少しでも自分の希望にあった学校に行けるようにするのが普通ではないかと思っていたのだ。

しかし、高校に行く気はあっても勉強はしない、のだ。

調べて、考えてみての結果は、これであった。

つまり、勉強しなくても高校には行けるから、勉強しないである。少子化で高校の入学枠の方が広くなってしまったから、選ばなければ高校に行けるのだ。

衝撃であった。

それまで、定期考査や高校入試があるから、ギリギリ勉強をすることを仕向けることができていたのではないかという疑いが私の中に生まれた。もちろん、学習内容の面白さ、身につけることのできる技術を前面に出して授業を作って来たと思っている。しかし、こういう生徒を見るとそれはどこまで本当だったのかと考えるようになった。

言い換えれば、テスト、入試という恐怖、脅しで勉強をさせていただけではないのかということだ。恐怖では人は動かない。動いたとしても一時的なものだ。その場しのぎ、緊急避難である。そうだとしたら、恐怖で勉強をさせても子供達は、勉強にはならないはずだ。

人が勉強するのは、どういう時か。

多分、二つだ。

1)必要な場合

2)興味がある場合

いい学校に入りたいというのは、この二つが色々と混ざっていると思われる。だから勉強した。ところが、高校には入れさえすればいいというのであれば、勉強は必要でない。高校に興味はあるが勉強には興味はないのだから、やっぱり勉強はしないとなる。

そもそも、学校で「これは君の将来に必要なことだからしっかりやりなさい」というのは、難しい。いや、それでも身につけるべき知識が技能がはっきりしている場合は、この「必要だから」というのは学習者に届いた。または、先生が言うのだからと言う先生の権威があった場合は、これも有効だった。しかし、今はその知識や技能はコンピュータやAIが担おうとしているし、先生に権威のある人は少なくなっている。

さらに、いい高校に入っていい大学に入って、いい会社に入ればいい人生待っている、約束されていると言うのも、信じている若者はもうすでに少数派ではないだろうか。必要性で勉強させるのは難しい。

しかし、勉強は大事だ。

勉強しなければ、社会にエントリーすることはできない。

勉強し続けなければ、社会から投げ出されてしまうだろう。

そうだとすれば、もう一つの手掛かりに期待して行くしかないかもしれない。「興味がある場合」だ。

自分が興味のあることは、やる。

さらに面白ければもっとやる。

子供は、人間はそうだと思う。

一人一人の興味に合わせた授業づくり、または教材開発。

いや、この場合教える側の都合で作られた教材ではなく、学ぶ側の癖や好みに合わせて作るから学習材と読んだ方がいいだろう。私はそんなことを考えながら現場で勉強をしたくないけど高校には行きたいと言う子供達、勉強なんてそもそもしたくないと言う子供達に授業を作っていた。

ハンドメイドの授業、オーダーメイドの授業は、面倒だ。

しかし、これをすることに教師の、授業の醍醐味はあると感じていた。

全部が全部このスタイルの授業でやることはできない。時間の限界がある。能力の限界もある。だから、クラスのしんどい子供にはこのことをしていた。本当は全員にしてあげたいなあと思いながらも、限界を感じながらやっていた。

しかし、だ。

この一人一人に合わせた学習材に基づく、そう、興味に基づく勉強が可能になる時代がそこまでやってきているのではないかと思うのだ。AIによってその子供の特技、才能、特性、趣味、興味などに合った学習プログラムが提供できる時代がすぐそこに来ているのではないかと思われる。今までは、この組み合わせがとても大変で、やれたとしたらそれは職人芸の能力を持つ教師か、人件費無視して人を使ってやることでしかできなかった。そして、それはそれだからできなかった。

ところが、AIはこれをいとも簡単にやってしまうだろう。

私がやっている、子供の興味を基にした授業づくり、学びの支援はやがてAIのプログラムの一部に組み込まれて行き、これに興味があると感じることのできる子供の学習に活用されて行くんではないかなあと思っている。

時代は、「恐怖を刺激する勉強から、興味を刺激する学びへ」と変わって来ているだろう。親や教師が「これができないと困るよ」言う。それは確かにそうなのだが、子供たちは恐怖では動かない。そんなことより、「面白くて仕方がないからもっとやらせてほしい!」と言う学びの環境をいち早く実現するべきだと思うのだ。

AIが来る前でも、子供たちの興味のある学びを、今の学習指導要領にリンクしてその子供学びを支えるカリキュラムを一部でも組み込むことはできるんじゃあないかなあ。アクティブラーニングってのは、アクティブに勉強するではない。アクティブに学ぶだってことを抑える必要があると思うなあ。

「恐怖を刺激する勉強から、興味を刺激する学びへ」

実は、大学の教員は、興味を刺激する学びのために、必要な場合に勉強していると思われます。それは外側から見ると遊んでいるように見えると思います。

私は、その「遊び」を義務教育の子供達から実感できるような授業ができないかなあと思ってあれこれしています。

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