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2016/01/09

「先生、何を勉強したらいいのでしょうか?」

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今日の明日の教室で若手の先生数人から、同じ質問を受けた。
なかなか驚いた質問だった。しかも、それが数人から出てきたことにも驚いた。
「先生、何を勉強したらいいのでしょうか?」
という質問である。
明日の教室に来るような熱心な先生である。その先生が、どうやって技量を高めていけばいいのかが分からない。何を勉強したらいいのか教えて下さいというのだ。
実に驚いたのだ。そして、納得もしたのだった。多分、これを学べばいい教師になれる何かがあると思っているのではないだろうかということなのだ。
採用試験に合格するためには、この正解を効率良く理解しそれを間違いなく答案用紙に書き込む勉強を必要とする。しかし、これは採用試験に受かるまでのことだ。学校の現場には、このようにこれを学べばすぐに全てに対していい結果の出るというようなものは、ない。
いや、何かを学んで力をつけるというような発想は、私にはなかった。教師としての力量は、実践の中で結果的に身についていくものであったというのが、私の実感なのだ。
私は、同じことを数回説明した。
『あのね、子供の事実はどうなっている? そして、あなたはこのクラスをどのように育てたいの? 3月のゴールは何?』
「.....」
『今のクラスを理想のクラスに導くために、必要なことは何?』
「えーっと、どうも一部の女子が固まりすぎてしまって、交流がないので、グループがあってもいいので、交流のあるクラスにしたいです」
『そう。じゃあ、そのためには何が必要なの?』
「......」
『そこを考えて、必要なものがわかったら、それを身につけるための努力をするんじゃないかな。それが勉強では?』
「......」
『その過程を文章にまとめて、自分で考察する。そして、それを他の誰かにも見てもらう。そうやって足りないところを見つめ直し、修正しながら指導に当たる。そのために必要なことを勉強し、指導に当たる。その結果教師は指導力がついていくんじゃないのかなあ。どう?』
もしそうだとしたら、クラス、子供を見る目と、自分が何者なのか、比較優位の中で自分は何が抜きん出ているのか、他の人にはできないものは何なのかなどを理解する。その中で、その先生にだけしかできない実践が生まれてくるのだと思うのだ。
慌てて付け足せば、その先生にだけしかできない実践が生まれてくればいいのではなくて、その実践は価値がなくてはならない。しかし、価値があるかどうは自分では判断が難しい。だから、発表しコメントをもらいとしていくんだよなあ。
この技術が身に付けば、授業ができる。
その技術とは何だろうか?
そんなことを思っている若手教員が増えているとは思っていたが、まさにそれを具体的に体験した。
その技術が生まれざるをえなかった、子供の事実、指導のあり方などを視野に入れないと、その技術の本当の価値は伝わらない。理解できないだろう。
そういう意味で、今日のレポート検討、模擬授業はとてもいい刺激を与えてくれたんだなあと思う。
良かった。

いい実践ってのは

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明日の教室。

今日は、初めての試みで午前中は実践発表を行っている。一人20分で四人。うーん、いいなあ。

実践発表は、質問を受けて批判も受ける。

バッサリやられる。それがいい。

もちろん、非難ではなく批判。

批判しながら、その実践から学ぶ。

批判する以上は、その実践に対して修正案や対抗案を提示する必要があると思う。つまり、私ならこうするということだ。これがないままの文句は、私は認めない。

この頃、学生たちに読ませたい実践記録がない。出版レベルでもない。探しているのだが、なかなかない。売れないから本にならないのか、本にするだけの実践がないのか。でも、こうして実践発表を見ていると、いい実践はある。

いい実践ってのは、現実の子供達を見て、将来育って欲しい子供達の姿を頭に描いで、実践を作っていく。そんな実践だと思う。もちろん、簡単にその描いた通りにはいかないので、それをまとめてこうして発表して、修正してということが大事になるのだ。

まとめるとは、考えるということだからまとめることが大事。そして、批判を受けて、実践を高めて深める。

糸井さんと話してからのことだけど、これから明日の教室京都本校は、実践発表をもっとしてもいいなあと思い始めている。

2016/01/08

授業も、腕なんだと思う

今から専門学校や食堂で料理の修業をすることはできないと思う。
だが、何かを身につけようとするとき修行の時間は大事だ。
教師が授業の修業をする。学級経営の修業をする。
文章の書き方について修業をする。
1万時間ぐらいは必要だと言われている。

料理も同じだと思う。
小学生の頃から料理はしていたので、時間だけは1万時間はとっくにやっているだろう。だが、修行はしていない。
このところ、修行と思って料理を作っている。
間違えたところ、師匠に叱られることはないお気楽の修行だが、自分の考えではない考えの下に、料理を作っていくというのは新鮮である。
修行本として選んだのが、
紹介されている料理の数は、24品ということで多くはない。
しかし、それぞれの料理は、実際に作るとなるとイタリアン料理の基本的な考え方や、料理をするということの基本的な考え方を理解しながら作る必要がある。
だから、私の修行のための本としては、いいのだ。
今の所、24品のうち、13品作ってみた。
落合シェフはいう。
「料理は腕です」
と。素材は家庭のほうがいいものを使っているのじゃないかともいう。店はコストを考えなければならないからなのだという。なるほどである。

授業も、腕なんだと思う。
同じ教材を使って授業をして、素晴らしい授業をする先生もいればそうではない先生もいる。料理と授業は全く違うと思われるが、実はかなり共通していることがあると思われる。
落合本を修行本として、料理の修行をしつつ、
授業づくりのヒントが得られるかもしれないなあと思いつつ、しばらく作り続けていきたいと思っている。

水菜とトマトのサラダ。

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ディスグラツィアータスパゲティ。

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で、これが論文になったらいいな。面白いなあとも思っている。



マグロのカマのスペアリブ

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お気に入りのお店の看板メニューの一つ。
久しぶりに作ったけど、やはり美味しい。

2016/01/07

つまり、公人になる

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二回生ゼミ。

彼ら彼女らは、来週の成人式で新成人となる。

お祝いの言葉を述べ、残りの大学生活について幾つかのことを話す。

その一つが、私人と公人の違いである。

教師は、多くの場合公務員となる。つまり、公人になる。

個人の私人としては全く問題ないことが、公人になると許されないことがある。

社会人に成ったら求められるもの以上に、公人の教師というのは求められるものが多い。固苦しくも感じる。だが、それは期待されていることの裏返しでもあり、一概に悪いということでもない。

人間は、急に悪くなることはできるが、急に良くなることはできない。

これが私の基本的な考え方の一つだ。

この二回生ゼミの諸君は、順調に行けば、2018年4月1日に辞令を受け取る。公人になる。その前日の2018年3月30日までは、私人である。

さて、1日だけで、さっと切り替えることができるであろうか?

私はほとんどできないと考えている。

性格や生活習慣は、繰り返しの中で身についていくものだ。だから、変えようとすれば変えることはできる。しかし、ここには時間がかかる。2018年4月1日になったら突然切り替えることができるのかというと、そんなことができる人はいなくはないだろうが、ほとんどいないだろう。

大学生活が半分過ぎようとしている今、自分の生活習慣、癖などを見直し、公人として仕事をしていける自分に向けて訓練を始めるのがいいだろうということを話した。

ちなみに、私も老人になるための訓練をしている。

スーパーなどで買い物をしたら、レシートを受け取り、お釣りを財布に入れて鞄にしまうまではレジを離れないという訓練である。若いうちはお釣りを受け取って、歩きながら財布に入れるということでほとんど問題はないと思う。しかし、これを老人になってからするのは危険だ。

危険であるが、レシートを受け取り、お釣りを財布に入れて鞄にしまうということが生活習慣になっていないと、老人になった時に歩きながらをやってしまうだろう。だから、今老人になるための訓練をしているのだ。買い物をしたかどうかの証拠は、レシートがあるかないか。ひったくりなどに遭いにくくなるのは多くの人がいるところ。だから、レジの前できちんと終わらせるようにしている。

しかし、これには時間がかかる。

性格や生活習慣の上書きには時間がかかる。私人から公人へのチェンジはさらなるものがあると思っている。

『だから、今から始めなさい』

年長者が話すべきことは、若者が気がつかないけど大事なことだ。

それは多分、こんな当たり前のことなのだと思う。

2016/01/06

新任1年目を生き抜く 教師のサバイバル術、教えます

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年末に「お歳暮」を送った所、「お年賀」を頂いた。『新任1年目を』本。

あっという間に読める。

簡易な言葉で書かれているから、スラスラ読める。

しかし、深い。

あっという間に読めるだけに、ここに書かれていることが本当は何を意味しているのかが分からない新人もいるだろうなあ。

書かれていることは、空を飛べだとか、毎朝素振り100回だとか、不可能なことや激しいことはない。寧ろ逆。

(え、そんなこと?)

と思われるようなこと。だから、その意味について理解が難しいかもしれない。

例えば、

「学校の書類の多くは、「あれば」いいのです」

なんてのは、

(本当?)

と思うでしょうが、本当なんです。

他にもそのようなことが満載。

これは、今年卒業して四月から教壇に立つ学生達に読ませたい。

また、来年度以降も読ませたいので、私の学生に読ませたい本のリストに加えさせていただこうと思います。

西川先生ありがとうございました。

学級担任論では、忘れ物指導について

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学級担任論では、忘れ物指導について。

この忘れ物指導は、実は教師の指導観を見るのにとてもポイントになるトピックだと考えている。

「忘れ物をするな!」

という指導。実はこれは短期的には忘れ物は減る。恐怖による支配だ。怖いから怒られるから忘れ物をしないようにしようというものである。しかし、怖くない先生になったらだめになる。

人間は忘れる存在であり、命令では動かない存在であろう。

だから、長期的には厳しい指導となる。

家本芳郎先生によれば、授業数が少ない授業の持ち物、保護者関係のもの、宿題。これが三大忘れ物であるという。つまり、関心が低くて、いやいややるものに忘れ物が多いということだ。

もしそうだとすれば、忘れ物をなくのは論理的には簡単なはずだ。関心を高めて、喜んでやるようにする指導があれば減るということになる。好きな先生の授業、好きな教科の授業にであれば、忘れ物は減るのだ。

つまり、人は忘れるものであるから忘れ物はするが、忘れにくくするには教師の側の工夫で改善される部分が多いということになろう。それが分かれば

「忘れ物をするな!」

と簡単に言えなくなる。だから、教師の指導観を見るのにいいポイントだと言うのだ。

そもそも子どもたちは分が悪い。

大人は、言ってしまえば手ぶらで職場に行き帰りができる。しかし、子どもたちは学習道具、用具を持ち帰りしなければならない。忘れ物が発生しやすい環境なのだ。

そうだとすれば、どうしたら忘れ物を減らすことが学校として出来るのだろうかということを考えさせた。

例えばノート。教科毎にわけているが、一冊に纏めて書いたら、忘れ物の発生の確率は1/9になる。9教科が一冊で済むのだから。教科毎にわけるというのは、あれは先生のノートチェックの為に必要なことで、子どもたちがわける必要があるのかは、本当のところ疑わしいと思っている。分母を減らせば、忘れ物は減る。他にはないかを考えさせる。

子どもたちの荷物が減れば、登下校時に動きやすくなる。安全な登下校にも寄与するはずだ。小学校低学年の荷物が歩いているのだか、子どもが歩いているのだか分からないのは、見た目には可愛く思えることもあるが、安全性を考えればかなり危険だ。そういう観点からも忘れ物指導は見ることが出来る。

学級担任の仕事は問題解決学習だ。

そのケーススタディをいくつかすることで、学生が現場に出た時に発生する問題も、課題として捉えて子どもたちと一緒に解決することが出来るような指導観を手に入れさせたいと考えてやっている。

宿題忘れ。

これだって、考え方によっては教員が悪いとも言える。

宿題には大きく三つの種類があると考えている。

一つ目。そもそも宿題とは、句会の時に、「次回までにこの季語で俳句を作って来て下さい」というのが宿題なのである。つまり、その季語で俳句を作ってこないと、句会に参加できないということなのだ。

その宿題をやってこないと、授業に参加できない。または、参加しても意味が無い、楽しくないってこと。一種の反転授業のことだ。だから、宿題は忘れないのだ。

二つ目。教わったこと、学んだことを定着させる為の宿題。漢字を覚える為に書くとか、計算の仕方を身につける為のドリルとかである。

私が宿題として許せるのはここまで。でも、もう一つある。

三つ目。残ったらからやっておけという宿題。「じゃあ、計算問題終わらなかった人は、あとは宿題ね」という奴だ。これは、その時間内に子どもが終わらせることができなかったのは、1)時間に対して問題数が多すぎた、2)その子どもの能力に対して問題数が多すぎたのどちらかであろう。となると、これは教師の指示ミスである可能性が高い。

そもそも、終わらなかった人は、出来なかった人である。尚かつ、問題は後半の方が難しいことが多い。それを「終わらなかったら後はやっておいてね」と投げ出すような宿題の出し方は、違うだろうと思うのだ。そういう子どもこそ残して先生が面倒を見ないとダメなはずである。

で、この三つ目の宿題が出されたとき、子どもたちは「忘れました」と答える。これは、1)できなかった、2)わからなった、3)プリントを無くしたなどのときに言う。出来ない、分からない、無くしたとは言えないので、「忘れました」となる。

「忘れ物をするな!」

「自分だけでなく回りにも迷惑がかかるだろ!」

「今度忘れたら親に連絡するぞ」

忘れ物が悪いことは、本人も分かっている。さらに忘れ物をしたくてしているわけではない。そうならば、忘れ物を減らすにはどうしたらいいのか、また、忘れ物をしてしまったらどうしたらいいのかを考えさせ、あれこれ改善の努力をさせるべきなのだ。

また、教師は自分の指導力を向上させることで、学習環境を改善することで子どもたちの忘れ物を減らすことができないかと工夫を重ねるべきなのだ。

そういうことを重ねて行くとき、子どもの忘れ物は少し減る。

しかし、この少し減った部分は、恐怖で減らしたものとは違う。

価値のある、意味のある減り方なのだと私は考えている。

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