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2016/12/31

こんな風になるとは思わなかったことが二つ。亀と諺です。

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ふう、熱も下がって一安心。

口の中がヒリヒリするのは治らないけど、まあ、いいでしょう。

風呂が沸くまでにちょっと。

1年間全体を振り返るのは、面倒なので(^^)、思いつくままに。

今年の最大は、何と言っても再現ですね。

こんな風になるとは思わなかったことが二つ。亀と諺です。

まず、亀です。

亀の甲羅が手に入ると言われて、本当かと思っていたのですが本当に手に入って、それを元に甲骨文字の再現をしたわけです。私にとっては恍惚でした。私が調べた限りにおいては、甲骨文字の再現をしているネット上の記録は、私がするまでにはありませんでした。亀卜の記録は論文にもありますが、甲骨文字の再現はありません。

ここからあれこれ始まったわけです。

授業化を想定していた私は、甲骨文字を甲羅に刻すのに彫刻刀では子供たちは大変だと言うことでミニルーターを手に入れてやって見ます。ところが、これでは歯が立たない。で、まあ、せっかくなのでと思って家にあった一升瓶に文字を刻して見たところ、これが非常に楽しい。結果的に一升瓶に般若心経を刻し、大学の書道展で展示してもらうことになりました。また、そこから、板ガラスに文字を刻すのもやり、蘭亭序の前半を刻し終えました。

さらに、そこから写仏の本に手を出し、ガラス板に仏を刻す「刻仏」なるものを創作してしまいました。渡辺徹さんには、「光の彫刻」とまで言っていただきました。

そして、ここに現役の学生と卒業生が関わって来ます。

現役の学生は、この亀の甲羅に甲骨文字を刻すと言うワークショップを某博物館で計画中です。また、卒業生の教員たちと一緒に、中高生に甲骨文字を刻す書写、書道の授業をすることを始めています。そのうち、高校では刻した甲骨文字の拓を取ると言うこともしました。来年は中学生に実施します。

私の方は、甲骨文字の再現のために京都の美術館を巡り、さらに東京の書道博物館、国立博物館に出向いて実物を見て目を肥やしていました。そして、京都のわが国最古に民間美術館の有鄰館で私が再現した甲骨文字が収蔵展示されることになりました。

亀からスタートした再現。最初に亀の甲羅を手にした時、まさかこんな展開になるとは思ってもいませんでした。しかし、これらは全て今年行ったものです。牛にひかれて善光寺参りではありませんが、亀に導かれて「わらしべ長者」のような気分です。

次に、諺です。

もともと、諺は好きで、中学校の教員の頃から「ことわざでぽん」「ことわざスピーチバトル」「人生名言集」など諺で遊びながら言葉を学ぶと言うことはしていました。

大学でも、この延長であれこれやっていました。今年は、その流れに一つの山がきました。

小学校の3、4年生で諺を学ぶことになっています。小学校の教員を目指す彼らに諺の授業をしておきたいと思っている私は、色々と工夫をして見ました。

その一つが、去年から続けている、カルタの諺を写真で表現すると言うものです。今年は、さらにそれを発展させて5秒の動画で表現する「諺デジタル動画辞典」の作成に乗り出しました。

二回生ゼミで行ったのですが、ハマってしまった学生が今年も結構出て、卒論のテーマにしたいと思っている学生も数名でています。この実践は、日本デジタル教科書学会で発表できまして、さらに朝日新聞の記事にもなりました。http://withnews.jp/article/f0161022000qq000000000000000W03r10101qq000014184A

もう一つは、まさに再現です。「急がば回れ」を再現してみると言うものです。

滋賀に住まいするようになって、滋賀の歴史を勉強して見ました。

すると、「急がば回れ」は滋賀県の「諺」と言うことがわかりました。

しかも、私の住まいの対岸。

これは知らなかった。

実際にやってみたいと思ってあれこれしていたまま、10年が過ぎてしまっていました。

陸路は三回生ゼミのメンバーと一緒にやって見ました。

そして、水路です。

で、今年タイミングがうまくあってお世話になっているオーパルの中岡さんに協力を得て、実際に再現することができました。八月です。

琵琶湖の穏やかな風を受けながら、気持ちよく「急いで」見ました。陸路と水路とを両方とも再現することができました。これも記事になった。

http://withnews.jp/article/f0160816003qq000000000000000W03j10601qq000013857A

さらに、ここから新しいプロジェクトも動き出している。

幸せ。

さて、次は何をしようかと画策中。

言葉って楽しいなあと改めて思う。

そして、その楽しさを学生に、学生が教師になった時に子供達に伝えていく。

そのための研究と授業を今年は一つの形にすることができた。

来年、これがどう言う展開をするのか実に楽しみ。

どちら様も、よいお年を。

小三治の「芝浜」を聞きながら。

2016/12/25

学びの支援とは

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授業中の学習者のつぶやきで、いい授業の時に出るつぶやきは

「あ〜」

だと言うのは、実は一部ではよく知られている事実。

「あ〜」と言うのは、茂木健一郎さんのアハ体験と同じであって、説明されたことが理解の次の納得の次元で承認された時に出てくる言葉だと言える。つまり、深いところで分かった時に快感とともに出てくる言葉なのだ。

この言葉がどのぐらいの頻度で出てくるかで、その教師の学習の指導力が見て取れると考えることもできる。その一方で、「え〜」とか「う〜ん」とか言う言葉が出てくるときは、教師の説明に対して、理解ができないとか、納得がいかないのサインとして考えられ、いい授業ではなかったと言うこともできる。

ところが、これを学習ではなく、学びを基軸に考えると違った様相を呈することになるのではないだろうか。学びを支える支援の場合、教師が説明をして「あ〜」と言う場合は、実は良くないのではないかと思われる。「あ〜」が深いところで分かった言葉だとしたら、その学習者は、その部分についてもう先に進もうとは思わないだろう。

私が大学に行って一番最初に修正した授業のデザインはここだった。中学校の教師だった私は、懸命に中学生に理解させようとしてきた。分からないと言うことが無いようにしてきた。それを大学でもやった。すると、学生たちは理解するし、納得もする。しかし、その先に進んで行って学ぼうと言うことにはなっていなかった。

そこで、デザインを変更した。分からないことが分かったの授業から、分かっていない自分が分かったの授業への変更である。勉強しなければならないことが山盛りあることに気がつかせる。自分では当然だと思っていたことが、それは実は単なる思い込みであったことを気がつかせる。「え〜」「う〜ん」と言う言葉は、その先にある自分の学びのための問いを得るきっかけがここにあると言うサインの音と考えることもできるのではないだろうか。

自分が理解している世界を一度否定されることで、「え〜」「う〜ん」と言う言葉が出てくる。しかし、それはその先に進むために必要なことで、少なくとも学びを手にしようとする者たちは、ここの部分を通過せざるを得ない。そして、学びの支援とは、実はこの「え〜」「う〜ん」と言う言葉が出やすくすることではないかと思うのだ。

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