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2017/01/26

明日の教室 2/4 箕面高校校長 日野田先生

明日の教室、二月は、大阪府立箕面高校校長の日野田先生にお願いしています。箕面高校の研修会と共催という形で行います。

http://kokucheese.com/event/index/450530/



日野田先生といえば、今年36歳歳で全国最年少の民間校長として大阪府の校長に赴任し、3年間の学校経営で数々の実績を出した先生として注目されている方です。

https://www.houdoukyoku.jp/posts/4456

これからの日本の学校教育は、世界を視野に入れて進路指導をしていく必要があります。また、50代の教員が一気に退職していく中、若手の教員が早い段階から管理職として学校経営の先頭に立っていくことも求められていくことでしょう。

大変お忙しい中ですが、今回、若手の教員、また、教員志望の学生さんたちに向けて、これまでの箕面高校の学校経営、また、今考えられているこれからの学校教育、学校経営についてお話しいただけることになっております。

なお、今回は会場を箕面高校をお借りして実施します。さらに、参加費は学生のみならず、一般も無料です。ご案内が遅れたうえ、40名限定ですが、タイミングの合う方、ぜひお越しください。

いまの公立高校の最先端が、また、未来の日本の学校教育のビジョンに触れることができると思います。

申し込みは、こちらへ。

日野田直彦さんの経歴

大阪府立箕面高等学校校長

1977年生まれ。帰国子女。帰国後、同志社国際中学・高校に入学し、当時の日本の一般的な教育とは一線を画した教育を受ける。同志社大学卒業後、2000年に馬渕教室入社。2008年奈良学園登美ヶ丘中学・高校の立ち上げに携わる。2014年大阪府の公募等校長制度に応じ、大阪府立箕面高等学校の校長に着任。着任時、全国の公立学校で最年少(36歳)の校長。着任3年目に入り、海外トップ大学への進学者を含め、顕著な結果が出始めている。

・ホウドウキョク「教育のキモ」
『39歳・現役最年少校長が、着任3年で海外有名大の合格者を出した「教育」とは? 』
https://www.houdoukyoku.jp/posts/4456

今までうまく行っていたことが原因となって、これからうまくいかなくなることがある

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「〇〇とは何か?」と自分で問いを立ててみる。それに答えが出る。そこに「本当か?」「理由は?」「本当か?」と繰り返してみる。この程度のことであっても、自分の考えを磨きあげるには、いい訓練だ。

ただ、この訓練には弱点がある。一つの考えを先鋭化することには適しているのだが、根っこを変えることができないと言うことだ。スタート地点を疑うことができないと言ったらいいだろうか?

自分がやってきたことが正しいと言う前提で、さらにその正しさの精度を上げるために確認していると言う色合いが強い。しかし、これでは対応できないことがある。つまり、私が考えた根っこはそもそも正しいことなのか?と言う問いに対しては何も答えることができないのだ。

特に現場にいる教師は、正しいことを指導しようと考える。今までやってきて成果の出た方法が正しくて、それを今の子供達、これからの子供達にそれで指導しようと考える。それはある意味正しい。しかし、研究によって証明されたこと、または、社会の変容で変わってしまったことに対応できなくなる。

正しいことをやろうとして、正しさの精度を上げてきた教師は、それを変える理路をなかなか見出さない。(え、だって俺、うまく行っているし)となる。しかし、社会は変わる。子供も変わる。そうすると、そこを理解しない教師は根底から否定されることがある。

多くの場合、異動によって今まで依拠していたことが否定されて気がつくことが多い。ところがそれもなんとなく調整してうまく行くようになっていく、していくことであれこれを吸収する。しかし、本当に吸収できているのだろうか。いや、そもそも吸収ってことで済まされることなのだろう。

つまり、あなたが今までうまく行っていたことが原因となって、これからうまくいかなくなることがあるんだよと言うことがあるわけだ。それは破壊的イノベーションで説明されることもあるし、paradigm shiftで説明されることもある。この状況は私も何度かくぐり抜けてきた。

いや、正確に言うとくぐり抜けるではない。戦って乗り越えてきただ。必修科目から選択科目へ。相対評価から絶対評価へ。教える教科の授業から支援する総合的な学習の時間へなど。この数年でこれまで以上に大きく乗り越えるものが出てくるだろう。波があるだろう。

波があるのなら、乗ってしまえばいいと思う。最先端で学べることってかなり大事なことでもあると思う。ミクロに考えること、そもそもこれは何?って考えること、波を見極めること。マクロでも考える。これが大事なんだと思う。もちろん、目の前の子供、子供たちを見て、どうすればいいかを考えた上で。

さらに授業デザインを考えていこう。

2017/01/22

教師=爺や説

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明日本学は入試。なんと雪の予報が出ている。参ったなあ。

今年は入試に雪がぶつかる。

先日のセンター試験も雪だった。

その雪の日、娘(9)は大喜び。

外で遊ぶその様子を見に行ったところ、雪の滑り台をお友達と作っていた。

第一コースができて、引き続いて第二コースを作ろうとしているところであった。第一コースに90度向きを変えて長距離が取れるようなコース設計を考えたようだ。

で、しばらくその様子を見ていたのだが、この作業の効率の悪いことってのはない。

雪を橇に載せて持ってっくるのだが、柔らかいまま持ってくるから少ない量。それを第一コースの上の部分から積み重ねようとしていく。

『ああ、それじゃだめだよ。まずは、土台の部分にしっかりと雪を集めて重ねていかないと』

と言おうと思ったが、その言葉を飲んだ。

そして、雪を集めて持ってくる係を自主的にやり始めた。

雪を固めて丸くしながら大きくして、第二コースの横に持ってくる。

「おとうさん、これ壊してもいいの?」

『もちろん。好きなように使いなさい』

「やった!」

と言いながら娘はその雪塊にキックをして細かくしてまた上の方に重ねて行く。

『だから、それじゃあ、うまく固まらないよ』

と言おうと思って、これも我慢する。

我慢して雪集めに勤しむ。

教師は、大人は、最適解を知っている。

どうしたらいいのかということを知っている。子供は知らないことが多い。

だから、子供がやっている姿を見ると、あーしろ、こーしろと言いたくなる。

しかし、これは厳に慎まなければならないことなのだ。

もし、大人が指示を出して、子供がその通りにやったら。

また、その指示通りにやらなかったことを大人が叱るようになってしまったら、これは子供の遊びではない。それは単なる「作業」である。大人の指示に従ったら褒められ、ダメだったら叱られる悲しい作業になってしまう。

たしかに、主体的に作業をするかもしれないが、自主的に遊ぶことにはならない。

娘を見ていると、思った通り第二コースは脆くも崩れ、何回かやり直しを余儀なくされていた。そして、娘はあれこれ考えて第二コースを作っていた。自分で雪を集めながらやっていた。

雪集めをした私は、その後はカメラマンとなって、記録をしていた。

転ばぬ先の杖。

これをどうしても教師や大人は、子供に与えたくなる。

失敗しないし、失敗しないから早く効率的にできる。

そう、できるのだけど、それは子供が自分でやったのではなく、やらされてできたのであって、さて本当にできたのかと言われればそれは怪しい。転ばぬ先の杖は、老人には必要かもしれないが、子供には必要ない。

バブル崩壊までの日本経済では、指示されたことを早く正確にこなして行く仕事が求められてきた。そしてそれができる人たちが優秀な人と評価されてきたことだろう。しかし、その仕事はこれからはAIが行う。指示通りに動くばかりでなく、休憩時間もいらないでどんどん仕事をするだろう。

大事なのは、どうしたらいいのか。どうしたらよかったのかと自分で考える人間を育てることだ。最適解を与えられてそれを早く正確に実行する人間を育てるのではないのだ。

雪を集めながら、遊んでいる娘の様子を見ながら、考えていた。

やはり、遊びと学びは似ているなあと。

これからの教師の仕事は、爺やになることではないかと思った。

学ぼうとする主体の子供、学習者に対して、教師はせっせと「雪」を集めてくる。

彼ら彼女らが学ぼうとしているところに、学びやすい環境、条件、材料を整えて行くのだ。

これを、教師=爺や説、と名付けたい。

もちろん、彼ら彼女らはやがて自らが自らの爺やになって、学びやすい環境、条件、材料を整えて行くことができるように教師が関わって行くことは大事だ。それにしても、まずはしっかりと爺やになることじゃないかなあと思えてくるのだ。

教育でも子供が自分でやりはじめたら、あとは教師はカメラマンになるぐらいしかないだろうなあと思う(^^)。

従来の授業では、「あー」という声が出る授業はいいだと言われている。学習者が授業者の説明を聞いて心から納得したり共感したり驚いたりした時に、「あー」という声は出る。だから、いい授業なのだ。しかし、このいい授業の定義は変わって行くかもしれない。

「あー」が出るのは、教師が最適解を学習者に示した時ということも言えるかもしれない。そうだとすれば、それは学習者が学びをしているのではなく、作業をしていると言えないか。「どうしよう、こうしようか、いや、ダメだった、次はこうしよう」と主体的に学習を始める時、また、自主的に学ぶ時、その引き金になる授業では、学習者の口からは「えー」とか、「うーん」とかが出る授業がいい授業になって行くのではないだろうか。

つまらないことが面白くなるように教える。

分からないことが分かるように教える。

できないことができるように教える。

これは『新版 教師になるということ』(学陽書房)にも書いた、教えることに関しては大事なポイントだと思っている。しかし、主体的に、自主的に学習し、学ぼうとする者を育てる授業を考える時、実はこれではダメかもしれない。

「えー、ちょっと違うんじゃないかなあ」

「うーん、それは本当なのかなあ」

というところが学習者にあることが、主体的に、自主的に学習し、学ぼうとする者のスタート地点になる可能性はないか。

最適解を知りながら、最適解を示さない。

雪遊びは、娘が興味を持っていることだから、勝手にやっていた。

学びも、楽しいから学ぶのであって、最適解を目指して勝手にやるだろう。

問題は、勉強の部分だ。

私は、学びをするために勉強が必要になるから、勉強するという道筋を作って行くことが大事だと考えている。

それが「恐怖を刺激する勉強から、興味を刺激する学びへ」という私の研究のテーマにもつながっていると考えている。

娘が無心に遊んでいる姿を見ながら、そんなことを考えていた。

明日は本学の入試。

雪が予想されます。

お気をつけて、お越しください。

大学もみなさんを待ちしております。

2017/01/13

比較という工夫を入れる

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人に説明をするときに、数字が入ると受取手は理解しやすくなる。これはまあそうだと思う。しかし、この数字を単独で使うよりも、比較という工夫を入れるとよりわかりやすくなる。

卒論の発表会で、学生が給食の残菜量について数字を出していた。年間に、児童一人当たり年間で17.5kgだそうだ。よく調べてきたなあとは思ったが、その17.5kgがどういう意味を持っているのかが今ひとつわかりにくい。

『 17.5kgというのはどういう意味を持っているのだろうか? 例えば、この重さは年中さんの子供の体重ぐらい?』
と幼児教育コースの学生に聞く。
「年中さん、もうちょっと軽いと思います」
『そうか。しかしまあ、食べ物の重さを子供で比べるのは変だよね』

『もし、この17.5kgを元に、日本中でどのぐらいの残菜量があるのかを計算して、その量は,○○という国の子供の食事の○割りになります。という説明をしてくれたら、その数字が持つ意味がグッとわかりやすくなるなあ』

例えば、地球の自転速度は、緯度によって違うが、時速1200kmから1600kmである。まあ、数字に強い人はこれをさっと覚えるだろう。でも、時速1200kmから1600kmと言われても、実感はない。

ただ、私はこの自転速度は実感を持って感じることができる。それは、比較しているからだ。

夕方の6時ごろになると、琵琶湖の上空は旅客機のラッシュになる。琵琶湖を目印にして飛ぶ旅客機がこの時間になるととても多くなる。それを私は見るたびに、地球の自転のことを思い出す。

旅客機の巡航速度は、だいたい時速800kmである。
そうである。だから、地球はあの旅客機の進む速度の倍のスピードで回っているのだ。旅客機の進む方向に倍のスピードで目を進めて、地球の自転スピードを感じている。

そして、朝、太陽が昇るときに、またこの自転のことを思う。
あれだけのスピードで動いているにもかかわらず、太陽はゆっくりと昇ってくる。
(ああ、太陽と地球は遠いんだよなあ。だからあんなに。そして、あの太陽の光は、8分前の光なんだよなあ)
そんなことを思いながら、見ていることもある。

1)地球の自転速度は時速1200kmから1600km。
2)その速度は旅客機の倍。
3)しかし、太陽が昇ってくるのは遅い。それは太陽との距離が光速で8秒かかるぐらい遠いから。

情報の取り出し、解釈、評価。
多分、 PISAがリーディングリテラシーで求めているのは、こういうことなのだろう。

数字は数字として単独であってもいいのかもしれない。
しかし、人に伝えるとなったら、それは比較され、工夫される必要があると思うのだ。

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