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2017/01/22

教師=爺や説

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明日本学は入試。なんと雪の予報が出ている。参ったなあ。

今年は入試に雪がぶつかる。

先日のセンター試験も雪だった。

その雪の日、娘(9)は大喜び。

外で遊ぶその様子を見に行ったところ、雪の滑り台をお友達と作っていた。

第一コースができて、引き続いて第二コースを作ろうとしているところであった。第一コースに90度向きを変えて長距離が取れるようなコース設計を考えたようだ。

で、しばらくその様子を見ていたのだが、この作業の効率の悪いことってのはない。

雪を橇に載せて持ってっくるのだが、柔らかいまま持ってくるから少ない量。それを第一コースの上の部分から積み重ねようとしていく。

『ああ、それじゃだめだよ。まずは、土台の部分にしっかりと雪を集めて重ねていかないと』

と言おうと思ったが、その言葉を飲んだ。

そして、雪を集めて持ってくる係を自主的にやり始めた。

雪を固めて丸くしながら大きくして、第二コースの横に持ってくる。

「おとうさん、これ壊してもいいの?」

『もちろん。好きなように使いなさい』

「やった!」

と言いながら娘はその雪塊にキックをして細かくしてまた上の方に重ねて行く。

『だから、それじゃあ、うまく固まらないよ』

と言おうと思って、これも我慢する。

我慢して雪集めに勤しむ。

教師は、大人は、最適解を知っている。

どうしたらいいのかということを知っている。子供は知らないことが多い。

だから、子供がやっている姿を見ると、あーしろ、こーしろと言いたくなる。

しかし、これは厳に慎まなければならないことなのだ。

もし、大人が指示を出して、子供がその通りにやったら。

また、その指示通りにやらなかったことを大人が叱るようになってしまったら、これは子供の遊びではない。それは単なる「作業」である。大人の指示に従ったら褒められ、ダメだったら叱られる悲しい作業になってしまう。

たしかに、主体的に作業をするかもしれないが、自主的に遊ぶことにはならない。

娘を見ていると、思った通り第二コースは脆くも崩れ、何回かやり直しを余儀なくされていた。そして、娘はあれこれ考えて第二コースを作っていた。自分で雪を集めながらやっていた。

雪集めをした私は、その後はカメラマンとなって、記録をしていた。

転ばぬ先の杖。

これをどうしても教師や大人は、子供に与えたくなる。

失敗しないし、失敗しないから早く効率的にできる。

そう、できるのだけど、それは子供が自分でやったのではなく、やらされてできたのであって、さて本当にできたのかと言われればそれは怪しい。転ばぬ先の杖は、老人には必要かもしれないが、子供には必要ない。

バブル崩壊までの日本経済では、指示されたことを早く正確にこなして行く仕事が求められてきた。そしてそれができる人たちが優秀な人と評価されてきたことだろう。しかし、その仕事はこれからはAIが行う。指示通りに動くばかりでなく、休憩時間もいらないでどんどん仕事をするだろう。

大事なのは、どうしたらいいのか。どうしたらよかったのかと自分で考える人間を育てることだ。最適解を与えられてそれを早く正確に実行する人間を育てるのではないのだ。

雪を集めながら、遊んでいる娘の様子を見ながら、考えていた。

やはり、遊びと学びは似ているなあと。

これからの教師の仕事は、爺やになることではないかと思った。

学ぼうとする主体の子供、学習者に対して、教師はせっせと「雪」を集めてくる。

彼ら彼女らが学ぼうとしているところに、学びやすい環境、条件、材料を整えて行くのだ。

これを、教師=爺や説、と名付けたい。

もちろん、彼ら彼女らはやがて自らが自らの爺やになって、学びやすい環境、条件、材料を整えて行くことができるように教師が関わって行くことは大事だ。それにしても、まずはしっかりと爺やになることじゃないかなあと思えてくるのだ。

教育でも子供が自分でやりはじめたら、あとは教師はカメラマンになるぐらいしかないだろうなあと思う(^^)。

従来の授業では、「あー」という声が出る授業はいいだと言われている。学習者が授業者の説明を聞いて心から納得したり共感したり驚いたりした時に、「あー」という声は出る。だから、いい授業なのだ。しかし、このいい授業の定義は変わって行くかもしれない。

「あー」が出るのは、教師が最適解を学習者に示した時ということも言えるかもしれない。そうだとすれば、それは学習者が学びをしているのではなく、作業をしていると言えないか。「どうしよう、こうしようか、いや、ダメだった、次はこうしよう」と主体的に学習を始める時、また、自主的に学ぶ時、その引き金になる授業では、学習者の口からは「えー」とか、「うーん」とかが出る授業がいい授業になって行くのではないだろうか。

つまらないことが面白くなるように教える。

分からないことが分かるように教える。

できないことができるように教える。

これは『新版 教師になるということ』(学陽書房)にも書いた、教えることに関しては大事なポイントだと思っている。しかし、主体的に、自主的に学習し、学ぼうとする者を育てる授業を考える時、実はこれではダメかもしれない。

「えー、ちょっと違うんじゃないかなあ」

「うーん、それは本当なのかなあ」

というところが学習者にあることが、主体的に、自主的に学習し、学ぼうとする者のスタート地点になる可能性はないか。

最適解を知りながら、最適解を示さない。

雪遊びは、娘が興味を持っていることだから、勝手にやっていた。

学びも、楽しいから学ぶのであって、最適解を目指して勝手にやるだろう。

問題は、勉強の部分だ。

私は、学びをするために勉強が必要になるから、勉強するという道筋を作って行くことが大事だと考えている。

それが「恐怖を刺激する勉強から、興味を刺激する学びへ」という私の研究のテーマにもつながっていると考えている。

娘が無心に遊んでいる姿を見ながら、そんなことを考えていた。

明日は本学の入試。

雪が予想されます。

お気をつけて、お越しください。

大学もみなさんを待ちしております。

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