私は基礎トレーニングをしているのだ
「修、そんなことがやって何か意味あるのかね?」
私が熱中してやっていると、母親に何度となく言われた。何回も言われた。
結婚してからも奥さんに同じようなことを言われる。
「お父さんは、やると決めたらだーっとやって、で、ある時突然ふっとするのをやめてしまう」
その通りなので、何も反論できない。
歌を始めた時もそうだった、カメラもそうだった、ギターを始めた時もそうだった、オフロードバイクもそうだった、リコーダーにフルートもそう、ドライトマトもハンモックもそうだった。集中してドーンとやる。そして、パタリと終わる。
いや、細く続いて入る。ギターも歌もカメラも続いて入る。ドライトマトもハンモックも。でも、新しく甲骨文字をやったり、ガラスに仏像掘ったりとやる。ウッドストーブもそう、燻製もそう。特に最近は、完成品を手にするのではなく、自分であれこれ工夫するものを多くやっている。
いや何を言いたいかと言うと、どうでもいいことにあーでもないこーでもないとやっている。外側から見た母と奥さんは何か意味あるのって言っているが、自慢じゃないが、私だってそんなのは、わからない。
◆
だけども、この頃、思うことがある。私は基礎トレーニングをしているのだと。
何の基礎トレーニングをしてるのかと言えば、試行錯誤の基礎トレーニングなのだ。
もともと私は音痴だった。自分ではうまいと思っていたのだが、高校2年先時に
「先輩って音痴ですね」
と後輩に言われて、衝撃を受け、録音して聞いてみたら音痴だった。
(いや、これ録音のラジカセの電池がないんじゃないの)
と思って新しい電池を入れて録音し直してみたら、やっぱり音痴だった。
そこで私は1年間かけて音痴は直した。自分で歌った歌を録音して、音が外れているところを何回も歌ってまだ録音してということを1年間続けて音痴を直した。
大学生の時はひらがなが書けなかった。特に「はひふへほ」のひらがなが書けなかった。もちろん筆である。筆を使って書けなかった。悔しくて悔しくて何回も書いた。書けるようになるまで1年間ぐらいかかった。
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教えることを仕事にしてる割には、人から習うのが苦手な私は、自分であーでもないこーでもないとやっている。
(効率悪いなぁ)
と自分でも思うのだが、でも、習っているとその人の教え方に従わなければならなくて、わがままな私にはそれが耐えられないことが多くあった。だから自分でやる。そのほうがよかった。だから試行錯誤になる。
でもそのおかげで、試行錯誤の基礎トレーニングができていたのではないかなぁと今は思っている。
◆
また、教育と言う仕事についたおかげであれこれやった事は、いろいろなものと結びつくことができる。まさかギターが、まさか料理が、まさかカメラが、まさかまさか。教育と言う仕事を選んだおかげで、この試行錯誤が結びついたとき、結構いい仕事をしてくれるのだ。
さらに今は、研究と言う仕事もしている。これなんか日々試行錯誤だ。
「なんでそんなことやってんのかな、お前は、何か意味あるのそれ」
子供の頃から親に言われて、
(いや特にないんだけどやりたいんです。意味はあるかどうかわかりません)
と心の中で思っていた。が、そろそろ
「いや実はね」
と口に出して言ってもいいのかもしれない。
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なんでか知らないけど、あーでもないこーでもないとやるのは、意味があったのだと思っている。意味があるのだと思っている。
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