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2017/07/08

部活動は学校外に置くのが適当であると考える

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私が教師になった30年前は、部活動、クラス指導、授業の順番で教師としての力をつけるようにという考え方があった。やりたいことをやるために集まっている部活動、偶然で集まったクラス、受けたくもないものを受けている授業。子供達がやる気になっているのは部活動。だから、ここで集団を指導する力量形成のスタートを切るようにということであったと思う。

また、管理職になるには部活動というものもあったように思う。バレー、バスケット、野球などその地域の部活動のまとめ役としてトップになった先生で、若いうちから管理職になった先生は多かった。将来管理職になるのであれば、いや、なることになるのだから部活動をやって人脈を作っておくのが大事なのだという雰囲気はあった。

前者の方は、まあ、まだわかる。集団を指導するというのは、実はかなり難しいこと。先生がそこに立てば子供達はその人のことを先生と認めてくれる集団であれば、それは指導はできる。30年前であれば、そういうこともあった。しかし、今は違う。また後者の方だが、今は管理職になれるという「えさ」は、意味をなさないだろう。管理職にはなりたくないという教員が多い。降格人事を希望する人すらいるのだから。

30年の時間は、学校教育現場を大きく変えている。指導する内容が増えたことや、社会の変化に対応していくことで仕事量は膨大になっている。30年前にベテランであった先生は大学で学んだ教育学だけで教員人生40年を終えることもできた人も珍しくないだろう。今は、そんなの全く無理。毎年何らかの変更があり、アップデートをしなければならない。そして、10年に一回の学習指導要領の変更。今回の変更はアップデートというよりは、パラダイムの転換なのできちんと勉強しなければならないはずだが、そんな余裕もないくらいだ。

教えるということが、コンピュータの担当になるのであれば、教師は勉強の支援と特別活動の指導と生活指導がその仕事の柱になるかもしれない。そうであれば、クラブ指導は教師の仕事の一つとして、子供達の集団的な力量の形成を担う大事な活動として扱われるかもしれない。

しかし、現状は、何でもかんでも学校に押し付けられている中で、教師の仕事の優先順位を考えた時、部活動は学校外に置くのが適当であると考える。

2017/07/07

七夕の日に万葉集を読む  子煩悩、挽歌、ラブソングなど

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2014/7/7

今日の教科教育法(国語)では、90分で和歌の歴史1500年分を概説した。
短歌から俳句が誕生した事を説明した。
その中で、万葉集は結構時間をかけて説明した。
特に説明したのが、山上憶良とラブソングだ。

なお、現代語訳は、『SONGS OF LIFE―Contemporary Remix“万葉集”』からです。

あ、長いです。

子煩悩の憶良は良く教科書に載っている。
私はそれを紹介した後で、教科書ではあまりと扱わない社会に対する訴えと、愛児の死を悼む挽歌を紹介した。

貧窮問答歌
風雑(ま)じり 雨降る夜の雨雑じり 雪降る夜は術(すべ)もなく 寒くしあれば 堅塩(かたしお)取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜(すす)ろひて 咳(しは)ぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 髭かきなでて 我除(われお)きて 人はあらじと ほころへど 寒くしあれば 麻襖(あさぶすま) 引きかがふり 布肩着ぬ 有りのことごと きそへども 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢え寒(こご)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ このときは 如何にしつつか ながよはわたる
 天地(あめつち)は 広しといへど 吾がためは 狭(さ)くやなりぬる 日月は 明(あか)しといへど 吾がためは 照りや給はぬ 人皆か 吾のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 吾れもなれるを 綿も無き 布肩衣の 海松(みる)のごと わわけさがれる かかふのみ 肩に打ち掛け ふせいおの まげいおの内に 直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは足の方に 囲みいて 憂へさまよひ 竈(かまど)には 火気(ほけ)吹きたてず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣かきて 飯炊(いひかし)く 事も忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると 言えるが如く しもととる 里長(さとおさ)が声は 寝屋戸(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり 術なきものか 世の中の道 世間を憂しとやさしと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

ここまで読んで、というか普通は読まない。
授業でも、サッと見せて直ぐに現代語訳を示した。

Q:
風まじりの雨が降るこんな夜
雨まじりの雪が降るこんな夜
どうしようもなく寒いから
塩をなめて ドブロクすすり
咳き込んでは 鼻水たらし
まばらなアゴ鬚さすりながら
「俺ほどデキた人間はいないよ」なんて
ひとり自慢げに呟いてはみるものの
それでもやっぱり寒いから
薄っぺらな麻布 ひっかぶり
ありったけの服 重ね着するけど
やっぱり寒いこんな夜
なあ 俺より貧しいあんたはどうしてる?
両親はひもじく凍えているだろう
奥さんや子供は泣いているだろう
なあ こんなときあんたは
いったいどうやって切り抜けているんだ?

A:
世界は広いというけど
おいらだけには狭くなったようだ
太陽や月は明るいと言うけれど
おいらのためには照ってくれないようだ
世の中みんなこうなのか?
たまたま人間に生まれ
毎日人並みに働いているというのに
おいらが羽織っているものといえば
藻クズのようにぶざまに破れた
綿なし上着のボロ一枚
傾きかけた地ベタにワラを敷き
両親は枕もとで 女房子供は足もとで
おいらに身を寄せ 愚痴りうめく
ガスは止められ 炊飯器には蜘蛛の巣
飯を炊くことも忘れて
溜め息ばかりついていると
尻の毛までむしろうと 鞭を片手に村長が
寝ているそばまでやって来て
「税金払え」と怒鳴りたてる
なあ 生きて行くことということは
こんなにもどうしょうもないものなのか?

教師は子供の貧困をリアルタイムで改善する事は出来ない。
教師に出来るのは、その子供が大人になった時に貧困の連鎖から抜け出せるように力を付ける事である。
ただ、1500年前の人の叫びを、いま、同じ地平に立って聞く事は意味がある。
携帯電話税が検討され始めているいま、「溜め息ばかりついていると 尻の毛までむしろうと 鞭を片手に村長が 寝ているそばまでやって来て「税金払え」と怒鳴りたてる」というフレーズは重なって仕方が無いと思えるのだ。

子煩悩の憶良の最愛の子供が亡くなった。
その事を歌う歌が以下にある。

挽歌

世の人の 貴(たふと)び願ふ 七種(ななくさ)の 宝も我は 何せむに
我が中の 生れ出でたる 白玉の 我(あ)が子古日は
明星(あかぼし)の 明くる朝(あした)は しきたへの 床の辺(へ)去らず
立てれども 居(を)れども 共に戯(たはぶ)れ
夕星(ゆふつづ)の 夕へになれば いざ寝よと 手をたづさはり
父母も うへはな離(さか)り 三枝(さきくさ)の 中にを寝むと
愛(うつく)しく しが語らへば いつしかも 人と成り出でて
悪(あ)しけくも 吉(よ)けくも見むと 大船の 思ひ頼むに
思はぬに 横しま風の にふふかに 覆ひ来たれば
為(せ)むすべの たどきを知らに 白たへの たすきを掛け
まそ鏡 手に取り持ちて 天(あま)つ神 仰(あふ)ぎ祈(こ)ひ祷(の)み
国つ神 伏して額(ぬか)つき かからずも かかりも 神のまにまにと
立ちあざり 我(あれ)祈(こ)ひ祷(の)めど しましくも 吉(よ)けくはなしに
漸々(やくやく)に かたちつくほり 朝な朝(さ)な 言ふことやみ
玉きはる 命絶えぬれ 立ち躍り 足すり叫び
伏し仰(あふ)ぎ 胸打ち嘆き 手に持たる あが子飛ばしつ 世の中の道
恋男子名古日歌三首 天平五年(733年)六月作 巻第五 九〇四

これもざっと見てみるだけ。
意味は分からない。
だから、以下の訳を示す。

世間の人が貴ぶ宝石も
子供には遠く及ばない
妻との間に生まれた
真珠のようなわが子は
朝になっても私たちの寝床を離れず
立っても座っても一緒に遊び
日が暮れれば手を引っぱり
「ねえ、ネンネしよ
パパもママもそばにいてね
ボク、パパとママの間でネンネするから」
などと愛らしく言う
そんなわが子をみるにつけ
悪人になろうと善人になろうと
とにかく早くこの子の
成人した姿を一目見たいと
ただそれだけを楽しみにしていた
ああそれなのに 思ってもみなかった
突然わが子を襲った悪い病気
私たちはなすすべもなく ただ
白布のタスキをかけて
鏡を手に持ち
天の神を仰ぎ 地の神に伏して
「神様、あなたの思し召すまま
どのようなことでも承知しますから」と
必死に祈り拝むけれど
少しも快方に向かうことはなく
次第にその顔から生気は失せ
朝が来るたびに言葉も減って
やがて小さな命の灯は消えてしまった
半狂乱の私は泣き叫び
冷たくなったわが子を抱いて
その旅立つ魂を見送った
ああ これが運命なのか

この長歌に対して、反歌がある。

反歌

稚(わか)ければ 道行き知らじ
幣(まひ)は為む
黄泉(したへ)の使(つかひ)
負ひて 通らせ

天使さま
この子はまだ幼くて
天国への道を知りません
お礼はいたしますから どうか
背負って連れて行ってやってください

教科書にはこれらの歌を載せ切れていない。
学生たちは、万葉集=なんか昔の偉い人たちが難しい事を言っているというイメージしか無い。そんなことはない。いまの私たちの心にまっすぐに響く歌が沢山ある。それを使って授業が出来るようになって欲しい。

恋愛の歌も凄い。

恋は今は
あらじとわれは思へるを
何処の恋そ
つかみかかれる

巻4 695 
  広河女王 (ひろかわのおおきみ)

これはどういう意味だろうか。
こんな意味である。

もう恋なんてしない
そう決めていたのに
ふいに現れた恋が
私につかみかかってきた

学生の感想は、「恋をしないと決めた女性につかみかかってくる恋ってどんな恋なんだろう」というもの。1500年の時を超えて、短歌に体を奪われているのだ。

ガス、電話、電気、車、インターネット。これらが当たり前だけど無かった1500年前。
しかし、人は今と変わらない喜怒哀楽を歌にしている。
それが分かると、古人は友人に変る。
その感覚の入り口を理解させようと挑戦した90分の今日の授業でした。

2017/07/02

句会をやると、いわゆる「問題句」がでる。 実に面白い。

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2013年7月2日

句会をやると、いわゆる「問題句」がでる。
実に面白い。
学生は正選句に取れないことが多いのだが、私がみると実に面白いという句である。
たとえば、今日でた問題句には、こんなのがある。

1)ザクザクと土の中からかぶとむし
2)浴衣きて 男片手に 夏祭り
3)花火見て 君を見つめて 不発弾

以下やや詳しく見る。
1)ザクザクと土の中からかぶとむし
この句に違和感を感じないだろうか。「ザクザクと土の中から」とあったら、その後は通常は「金銀小判」ではないだろうか?「カブトムシ」がでてくるのであれば、「ザクザク」ではなくて「もこもこと」とか「わらわらと」ではないだろうか。
それにも関わらず「ザクザクと」を使うと言う事は、この作者にとって、かぶとむしが金銀小判に該当するのではないだろうか?というのが私の読みであった。
ところが、作者に聞くとそれは違っていて、単にシャベルでザクザクと土を掘っていたら、カブトムシの幼虫がでて来て、それを気がつかないままシャベルで実をちぎってしまっていたこともあったということから作られた俳句だと言う事が分かった。
そこで面白いのは、作者のストーリーと私のストーリーはどちらの方が聞いていた学生たちに届いたのかということである。私の方であった。ま、どちらでもいいのだが、そういう解釈の自由度があるといういことが俳句の読みの楽しさなのだ。
つまり、俳句と言うのは17音の世界なので、描こうとする世界は不十分。その不十分な世界が提出されているので、読み手はそこに自分の読みを加える事が出来るのだ。
そもそも、俳句は俳諧連歌の発句であって、発句の次の脇句を求める文芸作品。だから、読み込むことが積極的に求められていいのだと考えている。

2)浴衣きて 男片手に 夏祭り
この句は浴衣を季語にした俳句としては、異例の句である。浴衣と夏祭りが季重なりなのは惜しいが、句意は面白い。学生は正選句として6票。逆選句として20票で、マイナス14点であった。
通常、浴衣となると
浴衣着て 君のもとへと 走り出す
浴衣着て 心踊らせ リンゴ飴
のような淡い恋とかファンタジーとかの俳句に向かう。それはそれでいい。こういうシーンは、この夏の京都でも1万回位はあるだろう。しかし、この句は豪快だ。浴衣を着た彼女の手には、団扇でもりんご飴でも綿菓子でもない。男だ。男を片手に夏祭りに向かう女性が描かれている。
引きづり回されたい男だっていくらもいる。しかし、俳句にはなかなか現れない。そこを俳句で描いた所がいい。俳句によって発見されている。これがいい。この夏の京都で100回位はあってもいい。面白い句だ。

3)花火見て 君を見つめて 不発弾
この句も花火、君とくれば夏の恋の歌であることが分かる。
ここまでは凡庸だ。しかし、第三句がいい。「不発弾」である。
上手く行かなかったのだ。
相変わらず花火は大空に打ち上がっている。
しかし、恋の花火は不発弾なのだ。
この対比によって、花火の美しさと、残念だった彼または彼女のガッカリが奇麗に描かれている。明るい花火によって映し出されるそのガッカリの顔が良ーく見える句である。
学生は、正選句が18票、逆選句が5票で13点でありました。

句会の選句は、作品の良さで決まるものでもない。句会に参加しているメンバーによって決まる。だから、私から見ていい句だというものであっても、学生たちには選びきれないものもある。たとえば、

4)老い先に 病葉積もりて なほ凜と
である。
この句にある「病葉」を読める学生は殆どいないだろう。しかし、この言葉を使って来た学生がいることに先ず驚いた。
病葉とは、夏に狂ったように紅葉するその一枚の葉っぱのことを言う。病気であったり突然であったりするものだ。別れる葉というところから、わくらばとなり、この病葉という字を当てはめたのではないかと思われる。つまり、熟字訓だ。(明日と書いて、あした。小豆とかいて、あずきと読むのと同じ)
老いて行く我が身。年齢よりも少し早く老いてしまったか。いや、だが、まだ凛として生きて行こうじゃないか。
という句意を感じられる。
これを20歳そこそこで作っているのは、中々だと思った。
この作者がこのクオリティで俳句を作り続ける事が出来たら、かなり才能があると思う。こういう才能が表にでてくるのも句会の面白さである。実際の句会では正選として1票。逆選として1票であった。学生諸君には、選びきれないかもしれない。が、私は審査員特別賞を上げた。

5)醜いわ 金魚の糞ね あなたたち 
これは正選句として3票。逆選句として45票を獲得し、堂々のマイナス42点を獲得し、逆選句の一位になった句である。逆選句の一位に選ばれた場合は名乗らなくてもいい。ただ、名乗りたい場合は名乗っていいとしてある。関西人の血が騒ぐのであれば、名乗ってもいい(^^)。
この句は、まず「醜いわ」と会話文から入っている。会話文そのもののはあってもいいが、「醜い」と言う言葉が問題であろう。俳句は、美しい、かなしい、楽しいなどの言葉を使わずに、美しい、かなしい、楽しいということを表す。だから、いきなり「醜い」ということばを使うのは困りものなのだ。
しかし、この「醜い」の部分をたとえば、「大文字」にしてみる。
大文字 金魚の糞ね あなたたち 
となるとどうだろうか。大文字の送り火とすると季語になるが、大文字だけなら季語にならないか。すると金魚が季語として生きて、二物衝突(取り合わせ)が生まれて一つの新しい世界が出現しないだろうか。
授業時の解説では、その場で考えて「大文字」に入れ替えてみた。句会の指導で難しいのは、このその場での添削と改良のためのアドヴァイスだと思う。ここは指導者が勉強しておかないと出来ない。今回は、二物衝突までは時間がなくて説明が出来なかったが、感覚は伝わったようだ。
最後に、私が解説に気合いが入った句。

6)ラインでも 緊張するよ 「花火行こ♪」
ラインは、LINEのことである。最先端のSNSである。
この句を読んだとき、私は万葉人の歌垣、平安貴族の歌によるプロポーズから始まって、手紙、ポケベル、FAX、e-mail、mixi、Twitterなどのメディアの流れを感じた。
自分の思いを伝える手段は、文明の進歩によってどんどん変わる。
しかし、好きな人をデートに誘う。その時にあるドキドキ、不安、期待は1500年前の万葉人の歌垣の時代から何も変化していない。同じだ。
文明の利器の変化と、人間の本質の変わらなさの対比。
この句は、そこがサラッとしかもハッキリと描かれている。
ちなみに、この句は、学生たちもきちんと選んでいた。正選句20票、逆選句3票の17点であった。いい句である。

とまあ、こういう話を選句のあとにし続けた。60句以上やったので、時間がなくなって「短歌から俳句へ」の授業はできなかったのだが、ここが面白いんだよね、句会は。
また、やりたい(^^)。

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