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2017/12/14

義務教育で教えておくこと、または生徒が身につけておくことは何か

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義務教育で教えておくこと、または生徒が身につけておくことは何かって考える必要があるなあと改めて思い始めている。

学校教育法の二十一条には、義務教育が行う普通教育の内容について以下の要に述べている。

第二十一条 義務教育として行われる普通教育は、教育基本法 (平成十八年法律第百二十号)第五条第二項 に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。

一 学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
二 学校内外における自然体験活動を促進し、生命及び自然を尊重する精神並びに環境の保全に寄与する態度を養うこと。
三 我が国と郷土の現状と歴史について、正しい理解に導き、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する態度を養うとともに、進んで外国の文化の理解を通じて、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
四 家族と家庭の役割、生活に必要な衣、食、住、情報、産業その他の事項について基礎的な理解と技能を養うこと。
五 読書に親しませ、生活に必要な国語を正しく理解し、使用する基礎的な能力を養うこと。
六 生活に必要な数量的な関係を正しく理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。
七 生活にかかわる自然現象について、観察及び実験を通じて、科学的に理解し、処理する基礎的な能力を養うこと。
八 健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養うとともに、運動を通じて体力を養い、心身の調和的発達を図ること。
九 生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸その他の芸術について基礎的な理解と技能を養うこと。
十 職業についての基礎的な知識と技能、勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。

因に、教育基本法の5条2項は、これ。

「2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。」

大筋でこの方向で異論を挟むことは無いと思う。これはこれでいい。しかし、この二十一条は、なんというんだろう、前向きというか攻めというか、そういうものに見える。

勿論、目標なんだからそういうように見えるというか、文言化するのかもしれないが、私にはそれは一面にしか過ぎないんじゃないかなあと思えるのだ。

たとえば、以下のようなものはどこで教えるのだろうか。何の授業で教えるのだろうか?

1)お礼の仕方、謝り方
2)借金の仕方
3)保健所の活用の仕方
4)払いすぎた税金の取り戻し方
5)生活保護の申請の仕方

他にも、名誉挽回の仕方とか、ひき逃げに合った時の対応の仕方とか、えん罪に巻き込まれた時の対処の仕方とかもあるかもしれない。

このような「身を守るため」に用意されているマナーや社会保障は、どういう授業で行われるのだろうか? 1)は道徳? 2)は家庭科? 3)は保健体育? 4)5)は社会科? よく分からない。これらは、教育基本法の5条2項のように、前向きに生きて行くことを求めているものではないので、教えなくていいのか?

義務教育は、可能か不可能かは別として、人生で生きて行くために必要な基礎の部分を教える教育だと考えている。それは、前に進む方法だけでなく、立ち止まったり、倒れた時に安全に倒れることのできる方法であったり、復活するまで倒れ続けていられる安心を手に入れる方法も含まれている必要があると思うのだ。

人生は、前向きでありたい。前進して行くものでありたい。誰も、没落して行くことを人生の目標として設定するものはいないだろう。しかし、前向きにならないときもある、なれないときもある。その時の対策としてセーフティネットが社会で用意されているのだとは思うのだが、そのセーフティネットを活用する方法が学習される機会が与えられていないのではないかと思うのだ。

ここは、福祉ではなく、教育で扱う問題だと思う。
そして、義務教育で扱う問題だと思うのだ。

2017/12/11

30年前にお世話になった先生と

このところ時間がどんどんすぎるので、後から書くことが多いかなあ。
先々週の金曜日の話だ。

いやー、楽しかった。
30年前にお世話になった先生と、一緒に今日は京都駅で飲むことができた。

石川先生だ。当時は私は塾の講師をしていて、英語の教師から校舎を移動して国語の教師になっての一年目。学部の3年生だった。石川先生は、修士課程の1年目だったと思う。石川先生は、数学の先生。教科は違っても、いろんなことを教えてもらった先生だ。可愛がっていただいた先生だ。

先生とは、年賀状のやりとりをし、Facebookでの友人の関係になり、ずっと連絡を取り合っていた。そして今日久しぶりに会えた。

何が幸せって、石川先生が山梨から姫路に行く途中に
「池ちゃんに会いたいな」
ということで、わざわざ京都に途中下車してくれた。

そして、私の行きつけので久闊を叙したというわけだ。
まぁそこからは、過去の思い出話から始まって、Facebookにある記事のあれこれに関わって、もうとにかく話しまくった。気がついたらあっという間あっという間に5時間以上が経っていた。

で、石川先生と新しい仕事ができできそうな企画が生まれた。
正確に言うと私が石川先生におんぶに抱っこで、助けてもらうだけの話なのだが、これうまくいったらすごいことになるなぁと思いながら楽しい時間を過ごした。

幸せなことだ。
思っていたこと、温めていたことを100人ぐらいに語ると、それは本当になっていくと言うのが、私の実感なのだが、どうらやら100人ぐらいに話したかもしれない。動き出しそうだ。いや、動き出すぞ。

楽しみ楽しみ。

撃ち抜かれちゃったんだから、仕方がない

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授業をして、予定していたものを終えた後3分ほど時間が残っていた。気持ちが高揚していたのであろう、ちょっと話してしまった。

『私が大学に入った時、「お前、男なのに文学部なの? そりゃあ、とりあえず法学部か経済学部じゃないの? 人生捨てたね」と同級生に言われたことがあってね』

私は人生を捨てた感覚はなかったが、外側からはそう見えるのかとちょっと驚いたし、かなしくもあった。

『でもね、文学部を選んだでしょ。君たちは。
もうね、私の時代以上に文学部ってのは、文学部なんだなあ(^^)。 
(そんなこと学んで何の役に立つの?)
って世間に思われるんだよね。でもね、文学部を選んだ人は、大概、
(何かの役に立つ? そんなこと考えていないよ)
なんだよね(^^)。 私はそうだった。役に立つとかたたないとかではなく、
(だって、これしかないじゃん。やりたいこと)
っていう思いで、文学部なんだよね』

『何というか、文学部は、私は大事だと思うけど、世の中から見ると、どーでもいい学部なのよ(^^)。でも君たちは、人生の大学時代を文学部でという選択肢をとった。

撃ち抜かれた、言葉。撃ち抜かれた、文章。撃ち抜かれた作家。
君たちには、あるか、いるか?
私にはあるし、いる。

撃ち抜かれてしまったんだよ。
だから、文学部に来たんだよ。
出口に何があるかなんて、気にしなかった。
撃ち抜かれたから、文学部にいた。
そして、それについて卒論も書いた。

せっかくほとんど当てにされない文学部にいるわけだ(^^)。
撃ち抜かれた言葉、文章、作家に没入しないと、勿体なさすぎると思うな。
そして、撃ち抜かれたもののその先に、自分のオリジナルを作り出す。
そう、撃ち抜かれたものを乗り越えて、自分であることを提出する。
提出しようとして、もがく。
それが文学部に籍を置く大学生じゃないかなあと思うんだよなあ』

撃ち抜かれちゃったんだから、仕方がない(^^)。

私は基礎トレーニングをしているのだ

「修、そんなことがやって何か意味あるのかね?」
私が熱中してやっていると、母親に何度となく言われた。何回も言われた。
結婚してからも奥さんに同じようなことを言われる。
「お父さんは、やると決めたらだーっとやって、で、ある時突然ふっとするのをやめてしまう」
その通りなので、何も反論できない。

歌を始めた時もそうだった、カメラもそうだった、ギターを始めた時もそうだった、オフロードバイクもそうだった、リコーダーにフルートもそう、ドライトマトもハンモックもそうだった。集中してドーンとやる。そして、パタリと終わる。

いや、細く続いて入る。ギターも歌もカメラも続いて入る。ドライトマトもハンモックも。でも、新しく甲骨文字をやったり、ガラスに仏像掘ったりとやる。ウッドストーブもそう、燻製もそう。特に最近は、完成品を手にするのではなく、自分であれこれ工夫するものを多くやっている。

いや何を言いたいかと言うと、どうでもいいことにあーでもないこーでもないとやっている。外側から見た母と奥さんは何か意味あるのって言っているが、自慢じゃないが、私だってそんなのは、わからない。

だけども、この頃、思うことがある。私は基礎トレーニングをしているのだと。

何の基礎トレーニングをしてるのかと言えば、試行錯誤の基礎トレーニングなのだ。
もともと私は音痴だった。自分ではうまいと思っていたのだが、高校2年先時に
「先輩って音痴ですね」
と後輩に言われて、衝撃を受け、録音して聞いてみたら音痴だった。
(いや、これ録音のラジカセの電池がないんじゃないの)
と思って新しい電池を入れて録音し直してみたら、やっぱり音痴だった。
そこで私は1年間かけて音痴は直した。自分で歌った歌を録音して、音が外れているところを何回も歌ってまだ録音してということを1年間続けて音痴を直した。

大学生の時はひらがなが書けなかった。特に「はひふへほ」のひらがなが書けなかった。もちろん筆である。筆を使って書けなかった。悔しくて悔しくて何回も書いた。書けるようになるまで1年間ぐらいかかった。

教えることを仕事にしてる割には、人から習うのが苦手な私は、自分であーでもないこーでもないとやっている。
(効率悪いなぁ)
と自分でも思うのだが、でも、習っているとその人の教え方に従わなければならなくて、わがままな私にはそれが耐えられないことが多くあった。だから自分でやる。そのほうがよかった。だから試行錯誤になる。

でもそのおかげで、試行錯誤の基礎トレーニングができていたのではないかなぁと今は思っている。

また、教育と言う仕事についたおかげであれこれやった事は、いろいろなものと結びつくことができる。まさかギターが、まさか料理が、まさかカメラが、まさかまさか。教育と言う仕事を選んだおかげで、この試行錯誤が結びついたとき、結構いい仕事をしてくれるのだ。

さらに今は、研究と言う仕事もしている。これなんか日々試行錯誤だ。
「なんでそんなことやってんのかな、お前は、何か意味あるのそれ」
子供の頃から親に言われて、
(いや特にないんだけどやりたいんです。意味はあるかどうかわかりません)
と心の中で思っていた。が、そろそろ
「いや実はね」
と口に出して言ってもいいのかもしれない。

なんでか知らないけど、あーでもないこーでもないとやるのは、意味があったのだと思っている。意味があるのだと思っている。

その子供がそう考える「理論」は何なのかを探し当てて

‪子供が何回も同じ間違いをすると言うことは、その子供はそう考えるのが正しいと思ってやっていると言うことなのだ。

だから、その子供がそう考える「理論」は何なのかを探し当てて、そこを直すことが大事。

答え合わせで答えだけ直しても、全くダメ。‬

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