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2018/11/17

【模擬授業】  戦争が廊下の奥に立ってゐた

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模擬授業終了。
今日は俳句。
今日もなかなか面白かった。

取り上げた俳句は

咳をしても一人
戦争が廊下の奥に立ってゐた

である。

咳をしても一人は、

咳をして◯一人

と板書して、○に入る言葉は何かを考えさせるものであった。

は、と、も が出て来た。
ま、この辺りは学生が答えているので知った上でのわざとの発言ではあるが。

そして、はともではどう違うのかを考えさせていた。

惜しかったのは、どう違うかの説明を生徒役の学生がしたのを受け止めきれなかったことである。

「は、と、もは、どう違いますか?」
という発問に対して

1)
は:咳をするたびに一人
も:誰も言ってくれない

2)
は:一人のことを再確認してさみしい
も:自分から去って行った人のことを思い出す

3)
どちらも共通しているところがある。でも、もの方が強い

という答えが生徒役の学生からあった。
これを活かし切れていないのだ。

これは、は、と、もの役割をきちんと授業者が理解していないことが原因だろう。どちらも提示をする助詞である。そして、もは複数を提示するものであると言う部分をしっかりと押さえて置けば、うまくまとまったはずである。そこが、出来ていないので、この1)〜3)の発言の共通項を見出せないで、先生の考えを押し付けることになってしまった。

子供の発言を授業中に聞いて、授業に取り入れて行く。
このライブでの作業が授業の醍醐味の一つだ。取り入れて行く為には、授業者の方にこの授業のゴールが見えていなければならない。そこに向かって行くわけだから。だけどそこが曖昧だと厳しい。

いや、もう少し言えば、子供の発言が分からないというのは次の三つがある。

1)子供の発言の内容が理解できない
2)子供の発言の内容は理解できているのだが、授業との関連性が見えない。
3)子供の発言の内容は理解できていて、授業との関連性が見えいるのだが、それをどう授業に組み込んで行くのかが分からない

である。今日の授業は2)であった。
そこについて授業後の指導で指摘した。

また、咳の代わりに「風呂」「めし」「糞」等を入れてみたらどうなるだろうか?というアイディアも検討してみるが良いということも。松尾芭蕉の「 句ととのわずんば舌頭に千轉せよ」を出しながら説明をしてみた。

もう一つの

戦争が廊下の奥に立ってゐた

は、非常に面白かったが、惜しかった。

「これは擬人法ですね。戦争が立ってゐたわけですから」
「では、廊下に出てみましょう」

という指示を生徒にする。生徒が廊下に立つと、同じ授業グールプの学生が、戦争と書かれた紙を持って立っていたのだ。このイメージからどう授業を展開するかが最大の見物だった。

「廊下は人生を現しています」

と断定して授業が始まってしまった。なんでそう言いきれるのかの説明が抜けていた。「廊下は、通り抜けて行かなければならないところですが、その先に戦争が待ってます」と説明していた。本当なのだろうか? 少なくとも私は次の六つを想定した。

1)私が廊下を戦争に向かっていく
2)私は廊下に立ち尽くす
3)私は廊下を戦争と反対方向に向かう

4)戦争が私を呼んでいる
5)戦争が渡し向かって微笑んでいる
6)戦争が私に向かって迫ってくる

である。
授業者はこの中の1)だけを想定して進めてしまっていた。
実際、戦争の書かれた紙を持っていた学生は、その紙を横にちょっと傾けてニコッと笑っていたのだ。
(を、5)のイメージでやっているのか?)
と私は時はその演出に驚いたのだが、あとで確認したら単なる癖であった。

『このように6つ位はイメージできる。そして、5)の解釈にリードしようとする無意識の行動もあった。これは生徒を無意識に混乱させる可能性のある授業展開であったろう。押しつけのつもりはないはずだが、押しつけになってしまっていた可能性が高い。』

と説明。

俳句の授業は言葉が少ないだけに、作品を丸ごと味わえて、かつ一つ一つの言葉をじっくりと吟味できる。国語の教師を育てるには非常にいい教材だなあと今回も思った。

この授業は、宗我部さん、渡邊さんにFacebookを通じてアドバイスを頂きながら作りました。ありがとうございました。こう言うとき、Facebookは本当に頼りになります。


2014/11/17の記事から

2018/11/06

『だめだこりゃ』(いかりや長介著 新潮文庫)

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『だめだこりゃ』(いかりや長介著 新潮文庫)を読み終えた。

今頃?と言われるかもしれないが、今頃だ。買っておいたまま積ん読になり、埋蔵され、発掘されたので読むことにした。

この本は、いかりやさんの自伝だ。

いかりや長介さんといえば、言わずと知れた「ザ・ドリフターズ」のリーダーである。「ザ・ドリフターズ」は、バンドである。いかりやさんはベーシストである。

https://www.youtube.com/watch?v=6uRfYrYJAW4

クレイジーキャッツの後釜として育てられたといかりやさんは書かれている。そして、自分たちは技術も才能もほとんどないとまで書いている。その「ザ・ドリフターズ」が、どのようにして、怪物番組「8時だよ全員集合」を引き受け、育てていったのかが書かれている。その前後が書かれている。

「8時だよ全員集合」で育った私には、とても興味深い本であった。

【余談】私が小学生の頃は、毎週土曜日「8時だよ全員集合」を見続けていた。土曜日だけは、これを見るために9時まで起きていてよかったのだ。いつもは8時には寝ていた。

そして

(世の中には、かわいそうな子供がたくさんいるんだなあ)

と思っていた。「8時だよ全員集合」は公会堂などでの生放送である。その会場にはたくさんの子供達がいる。しかし、私の感覚では夜の8時に子供達が出歩いているというのは考えられなかった。そこで私が思いついた理路は、

(ああ、この子たちは、親がいないので、かわいそうなのでドリフに呼ばれて、お客さんとして生で見ているんだなあ)

というものであった。小学校の高学年までこう思っていた。

プロ野球やコント55号をなぎ倒した「8時だよ全員集合」は、「オレたちひょうきん族」に負け、いかりやさんはドリフターズとしては表舞台からさっていく。カトちゃんケンちゃんの時代になっていき、いかりやさんは、俳優としてもう一花を咲かせていくことになる。

一貫して書かれているのは、その場でどうしたら一番いいのかということを考えて実行しているいかりやさんの姿だ。

自分たちに才能がないのは、自分たちが一番よくわかる。

そしてそれなのに、表舞台に出てきている。ビートルズの前座をやるときの作戦の立て方、テレビに生放送で出演するときの作戦の立て方、俳優として生きていくときの学び方などなど。今ある我と我ら(ザ・ドリフターズ)を、どうやって活かしていくのかということに懸命になっている姿が浮かび上がってくる。

「才能とは、努力した後に生まれるものに対して名付けられたものだ」と中野孝次さんも言われている。「なまじ才能があると、そこに埋もれて努力もせずに終わってしまう人が多い」ということも言われている。

いかりやさんの文章を読んでいると、中野孝次さんの言っているのはいかりやさんのことではないかと思えてしまう。

このところ、人工知能やEdTechのことを勉強したり考えたりしている。だから、人間とはなんなのかを一方で勉強している。人間とは何なのかが私の中で定まらないまあ、人工知能、EdTech、教育のことを考えても、柱がぶれるような気がしているのだ。

そんな時に読めたこの一冊は、とてもエキサイティングな本であった。

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