【模擬授業】 戦争が廊下の奥に立ってゐた
模擬授業終了。
今日は俳句。
今日もなかなか面白かった。
取り上げた俳句は
咳をしても一人
戦争が廊下の奥に立ってゐた
である。
◆
咳をしても一人は、
咳をして◯一人
と板書して、○に入る言葉は何かを考えさせるものであった。
は、と、も が出て来た。
ま、この辺りは学生が答えているので知った上でのわざとの発言ではあるが。
そして、はともではどう違うのかを考えさせていた。
◆
惜しかったのは、どう違うかの説明を生徒役の学生がしたのを受け止めきれなかったことである。
「は、と、もは、どう違いますか?」
という発問に対して
1)
は:咳をするたびに一人
も:誰も言ってくれない
2)
は:一人のことを再確認してさみしい
も:自分から去って行った人のことを思い出す
3)
どちらも共通しているところがある。でも、もの方が強い
という答えが生徒役の学生からあった。
これを活かし切れていないのだ。
これは、は、と、もの役割をきちんと授業者が理解していないことが原因だろう。どちらも提示をする助詞である。そして、もは複数を提示するものであると言う部分をしっかりと押さえて置けば、うまくまとまったはずである。そこが、出来ていないので、この1)〜3)の発言の共通項を見出せないで、先生の考えを押し付けることになってしまった。
◆
子供の発言を授業中に聞いて、授業に取り入れて行く。
このライブでの作業が授業の醍醐味の一つだ。取り入れて行く為には、授業者の方にこの授業のゴールが見えていなければならない。そこに向かって行くわけだから。だけどそこが曖昧だと厳しい。
いや、もう少し言えば、子供の発言が分からないというのは次の三つがある。
1)子供の発言の内容が理解できない
2)子供の発言の内容は理解できているのだが、授業との関連性が見えない。
3)子供の発言の内容は理解できていて、授業との関連性が見えいるのだが、それをどう授業に組み込んで行くのかが分からない
である。今日の授業は2)であった。
そこについて授業後の指導で指摘した。
また、咳の代わりに「風呂」「めし」「糞」等を入れてみたらどうなるだろうか?というアイディアも検討してみるが良いということも。松尾芭蕉の「 句ととのわずんば舌頭に千轉せよ」を出しながら説明をしてみた。
◆
もう一つの
戦争が廊下の奥に立ってゐた
は、非常に面白かったが、惜しかった。
「これは擬人法ですね。戦争が立ってゐたわけですから」
「では、廊下に出てみましょう」
という指示を生徒にする。生徒が廊下に立つと、同じ授業グールプの学生が、戦争と書かれた紙を持って立っていたのだ。このイメージからどう授業を展開するかが最大の見物だった。
◆
「廊下は人生を現しています」
と断定して授業が始まってしまった。なんでそう言いきれるのかの説明が抜けていた。「廊下は、通り抜けて行かなければならないところですが、その先に戦争が待ってます」と説明していた。本当なのだろうか? 少なくとも私は次の六つを想定した。
1)私が廊下を戦争に向かっていく
2)私は廊下に立ち尽くす
3)私は廊下を戦争と反対方向に向かう
4)戦争が私を呼んでいる
5)戦争が渡し向かって微笑んでいる
6)戦争が私に向かって迫ってくる
である。
授業者はこの中の1)だけを想定して進めてしまっていた。
実際、戦争の書かれた紙を持っていた学生は、その紙を横にちょっと傾けてニコッと笑っていたのだ。
(を、5)のイメージでやっているのか?)
と私は時はその演出に驚いたのだが、あとで確認したら単なる癖であった。
『このように6つ位はイメージできる。そして、5)の解釈にリードしようとする無意識の行動もあった。これは生徒を無意識に混乱させる可能性のある授業展開であったろう。押しつけのつもりはないはずだが、押しつけになってしまっていた可能性が高い。』
と説明。
俳句の授業は言葉が少ないだけに、作品を丸ごと味わえて、かつ一つ一つの言葉をじっくりと吟味できる。国語の教師を育てるには非常にいい教材だなあと今回も思った。
◆
この授業は、宗我部さん、渡邊さんにFacebookを通じてアドバイスを頂きながら作りました。ありがとうございました。こう言うとき、Facebookは本当に頼りになります。
2014/11/17の記事から
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