2019/12/22

まずはグーグルにそのキーワードを入力してみること

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もう一つ昨日の研究会で驚いたのは、「たほいや」である。
ある学校の先生が、探究型の学習の一つとして「たほいや」を発表していたのだ。

(をを、懐かしい)
と思いながら見ていた。ま、実際は大学の授業でもやっているので懐かしくはないのだが、中学校の実践としては懐かしいなあと思って見ていた。

ところが、どうも変なのだ。
何が変かというと、今までにない実践の一つとして提案する形で発表しているのだ。
途中から
(え、そうなの?)
と思いながら見ていた。

実は、この「たほいや」は、私がルーツなのだ。
1993年にフジテレビで放映された「たほいや」を見た私は、これは授業で行けると考えてすぐに実践した。「話す・聞く、読む、書く」の全てと、調べる、想像する、司会、計算と色々なスキルを駆使しながら遊ぶこの学習ゲームは、キングオブ学習ゲームという言い方を私はしていた。

いや、正確にいうとこの「たほいや」の実践をした時は、まだ「学習ゲーム」という言葉もなければ、当然、ゲーミフィケーションなんて言葉もなかった。言葉遊びぐらいの感覚であった。

だから、授業で子供達が盛り上がって騒ぎ、かつ懸命に文章を考えている姿を校長先生たちが見て
「あれは何をしているの?」
と言われた時、うまく言葉が見つからないで説明が難しかったのだ。
「遊んでいるの?」
と言われれば、確かに遊んでいる。しかし、遊んでいるだけでなく、しっかりと学んでもいる。この現象を説明する言葉がなかった時代だったのだ。

その後、この実践を恐る恐るやるのではなく、実践記録として世に出したのが、1997年2月の『授業づくりネットワーク』だったということになる。https://www.meijitosho.co.jp/sp/eduzine/gameidea/…

その後、この実践は追試、修正追試されました。この記事を書いた上條さんによれば、
「おそらくこれが学校教育に「辞書ゲーム」を導入した最初の報告だろうと思います。このゲームは大変に評判がよく、何名もの方が追試実践を発表しています。実践者によって目的が「作文」「論理的思考」「言語感覚」などと変化するのが面白いです。その度に実践の形もちょこっとずつ変わっています。拙著『論理的な表現力を育てる学習ゲーム』(学事出版)にも収録されていて、追試数は相当数になるだろうと考えています。」
ということなのです。

かつて私は、ディベートの実践を丸々パクられたことがある。東京都の中学校国語部会が主催する国語の研究会で。私の処女作の一冊『中学校国語科 ディベート授業入門』(学事出版)に書いた、平家物語の那須与一に関するディベートでだ。

たまたま職員室の机の上にあった研究会の案内に、私の開発したディベートの論題と全く同じ論題が書かれていたので
(へー、同じようなことを考える人がいるんだなあ)
と思いつつ、なんか変な気がしたのを覚えています。

時間割を確認すると午後は授業がない。校長に許可を取って参加しました。
学校に到着すると、やはり私の論題が書いてある。
授業者は全く知らない人。
たまたま授業者と思われる人と、廊下で会ったら、その人は顔面蒼白になりました。

で、授業は、何のことはない、私の授業のコピー。そして、資料には私の本のことはどこにも書かれていない。完全なパクリです。

その後の研究協議会では絶賛されていました。
私がやった時には、
「この教材をディベートでやるとは何事だ」
とお叱りを受けましたが、ここでは絶賛でした(^^)。
そして、授業者は複雑な表情をしたまま。

その後、おきまりの
「他に何かありませんか?」
ということを司会が聞いた時
『はい。で、この実践のどこがオリジナルなのでしょうか。というか、これ丸々私の実践なのですけれども』
と言いました。
会場は凍りつきました。

その後は、よく覚えていないのですが、
『研究なら、先行研究、先行実践を調べてその調べたものを出典として示し、その先行したものと比べてどこが違うのか、どこに提案性があるのかを示すものではないですか?』
『授業者は私がこの実践の開発者だということを知っていたと思いますけど』
のようなことを言ったかどうだったか(^^)。

昨日の先生は、東京都の先生のように悪意を持ってやってはいない。本当に自分が最初の実践だと思ってやっていたようだ(^^)。

ま、学会の発表なら
『素晴らしい観点ですが、この観点に基づいた〜というものはご存知でしょうな』
なんて言われてしまいます。が、まあ、昨日の研究会で、その場でいうのは大人気ない。そこで懇親会でこっそり本人に言おうと思ったら参加されていない(^^)。

ま、それをそのままにしておくのも良くないと思ったので、その学校の校長先生がたまたま懇親会の隣の席にいらっしゃったので、伝えました(^^)。
「これは、伝えておきます!」
とのこと。

報告者の先生は、まさか、自分がオリジナルと思って発表した実践の真のオリジナル報告者が目の前にいたとは思わなかったろうなあ。

これからは自分がオリジナルだと思った時、 だね。私も最近自分がオリジナルと思って実践したものを後から検索したら、やっている人がいることを発見して、自分の実践とどこが違うのかを確認したばかり。この一手間をするかしないかで全く違った結果になる。大事なことだと思う。

そういえば、東京都の中学校の研究会もその日になって出席を決めたけど、昨日の研究会もその日にFBにあった書き込みを見て、満席らしいけどなんとかならないかなあと思って、事務局に電話をして参加を認めてもらったということも共通だったなあ。

突然の池田は、嵐を呼ぶ男になっているかも(^^)。

私は、なんだかとても懐かしくなった

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“Education is what remains after one has forgotten what one has learned in school.”
(教育とは、学校で学んだことを忘れてしまった後に残るものだ)
アインシュタイン博士の有名な言葉だ。
これは昨日の探究型学習の研究会でも引用されていた。

何を学んだかではなく、どのように学んだかが残る。つまり、身につけた知識ではなく、知識を身につけるためにどのようにやったかだと言うことだ。

参加していたメンバー、登壇していたメンバーには30代の教師が多いと感じた。私は、なんだかとても懐かしくなった。そう、全国教室ディベート連盟が発足した前後の、教室ディベート研究会を思い出していた。

あの時、毎月の一回は研究会をしていたと思う。女子聖学院中学校を会場にして研究会を行い、その後駒込の飲み屋に突入してさらに議論と冗談を交わす。それをずっと続けていたのは、当時30代の私たちだ。

私たちは、議論の文化を日本に根付かせたいと言うことで、中高生に議論の一つであるディベートを身につけさせるためにはどうしたらいいのかと、毎月集まっては研究を重ねていた。冗談でなく、一ヶ月参加しないと全く追いつけないスピードで実践と研究が往還しつつ進んでいった。
反駁ワークシートが生まれたのもここだし、マイクロディベートが生まれたのもここ。そして、私の修論になる「シナリオ方式のディベート、改良シナリオディベート」もここで学んだものが大きい。

私たちは、そこでディベートの指導方法を開発しようとしてあれこれやっていた。その結果、指導方法は開発できたとお思っている。しかし、その結果開発できたのはディベートの指導方法だけでなく、私の授業の指導力だったとも思う。つまり、ディベートの指導法の開発を通して、指導力そのものを鍛えていたことになる。もちろん、そこで出会った仲間たちも非常に大きな財産になっている。

昨日の探究型の研究会では、それを感じた。

一般化するつもりはないが、法則化にしてもネットワーク運動にしても、全生研にしても、全国教室ディベート連盟にしても、そこで仲間となんとかしようとしていた人たちは、そこで何かを学んでいるはずなのだが、学んだ何かよりも、学び方を身につけた方が大きく残るのではないだろうか。

一つだけ言えるのは、多分、その学習集団、研究集団にボスがいないことが大事だと言ういこと。その人の考えを忖度するような実践や研究があるようなところは、ダメになると思う。

そうではなく、それぞれが一つのテーマに向けて、自分の実践のフィールドを大事にしながら実践を重ね、発表していくような研究会だと、面白いことになるだろうなあと思ったのでありました。

昨日が第一回だと言うことだが、第二回も楽しみである。

2019/04/30

その時、大事なのは、その違いを自分で見つけさせること

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このところ、SNSなどに文字を書いているのをアップしていることからだと思うが、会った人に自分の字を上手く書くためのミニレッスンを頼まれることが多くなった。

また、これが都合の良いことにいつでも万年筆を持っている私。どうぞと引き受ける(^^)。

やってみて改めて思うのは、文字の線の意味を知らない人たちが圧倒的ということだ。文字は結構と運筆が大事。文字全体のバランスと線の運び方である。

お習字をある程度やった人、または、字を教えるための勉強をした人はこの二つのことを理解している。だけど、当たり前だけどやったことのない人は、これが全く頭にない。

おそらく、今まで見てきた活字や他の人が書いてくれた自分の名前の字を頭に描いて、それを「お手本」にして書くのだが、それは結構と運筆を理解したものではないので、次の形、線の動きに意味がないのだ。または、知っている人からすると矛盾した動きになるのだ。

だから、レッスンの時にはまず、自分で自分の名前を一文字100円玉の大きさぐらいで書いてもらう。その次に、私が書いてみせる。

そして、その次に、


『どこが違うと思いますか?』


と発問するようにしている。

私は音痴だったが、音痴はなぜ音痴になるかといえば、自分の歌っている音を聞けていないからだという。だから、耳が聞こえない人でない限りは、音痴は治るというのだ。

私はそのことを知ってから、高校2年生の時に必死に自分の歌を録音して聞いて、音痴を直した。

文字が綺麗に書けない人は、綺麗な字と自分の字がどう違うのが見えていない人が多い。つまり、何がどう違うのかがわかっていないのだ。だから、直しようがない。

 

『ほら、ここが違うでしょ』


と私からやってしまうのはダメ。まず、その人の字に関する能力に基づいて、その人が認識できる範囲で発見させながら、わからせないとダメ。

そのあとヴィゴツキーのZPDではないが、


『そうですね。では、ここはどうですか?』


目の前にありながら見えていなかったものを、私の方で指摘して解説を加えていく。手助けをするのだ。

そうすると、頭の中に違いは残る。
あとは、その理解した内容をできるようにするために、トレーニングを重ねて小脳に、動かし方を刻みつけるということになる。

私が教師になった30年前はワープロが使えるとものすごく重宝されました。しかし、ワープロ、電子文字が当たり前になった時代だからこそ、手書きは重宝されます。価値は少数派に宿りますから。

今、そして、これからは手書きだと思います。書聖の王羲之のように「書けて」しまうソフトも開発されていますが、それでも手書きだと思います。

で、手書きの中で一番綺麗に書きたいのが、自分の名前でしょう。
どこぞでお会いしたら、ビール一杯飲みながら、お手伝いしましょう(^^)。

2019/03/29

奇跡のレッスン 書道編

奇跡のレッスン 2019年3月27日 190327
「書道編 書は身体がつくる/書くことは 人生と向き合うこと」

 

とてもいい番組だった。書道をやる人、文字を書くことに興味のある人にはたまらなくいい番組だったと思う。

レッスンをするのは、中国人書道家の熊峰さん。中国人ですが、日本に三年留学しかなも書ける書道家。この方が、広島は熊野筆で有名な熊野の中学生にレッスンをします。

基本的なレッスンの思想は、私と同じだった。嬉しい。

まずは、美しい文字とは何かを認識することから始めていた。技術に走るのではなく、美しい文字とは何なのかを観察させるのだ。そして、何がどのように美しいのかを言語化していく。番組ではそれをコーチがする場面もあれば、自分でさせる場面もあった。自分で書いた文字に、自分で朱を入れさせていた。これはとても大事なこと。自分がどこがどう違うのかと認知しないことには始まらないのだ。先生にいくら言われても、学習者に入らないことはたくさんある。だから、自分なのだ。

そして、その次に技術の指導となる。

 

「好きな字や得意な字には癖が出やすいものです」

「美の基準に基づいて子供の書いた文字のクセをそぎ落とす。そうすることで美しい漢字が浮かび上がってきます」

「まずは技術よりも、”美の観察力”を養うことが大事なのです」

「クセと個性は違います。だから、今日は字の法律を教えました」

 

と言う字の法律のことを、黒板には「字法」と書いてあり、そのあと「結構」と言う言葉を書いていました。

(ああああ、そうそう。そうなんだよ!)

と番組を見ながら、心の中で叫んでました。

昨今の美文字ブームを見ていると、この結構(その漢字が持っている適切なバランス。明の李淳が八十四通りに分類したものが有名)を勉強せずに感覚だけで書いている美文字の先生がいます。書道家にもいます。結構を勉強しないで、美文字家だったり書道家だったりするのは、それはそれで逆にすごいとは思いますが、それは、その人の感覚で書いているだけでしょう。

だから、読みやすい文字を書けるように指導する基礎的なレッスンは厳しいんじゃないかなあと思うのです。なぜ、この字は美しいのかを言語化しなければレッスンはできませんし、言語化したものが本人の感覚ではなく、歴史の時間を経て残っている古典によって証明されている言葉で説明できることが必要になるからです。

美文字家のレッスンを見ると、ホワイトボードに美しく書くにはどうしたらいいのかなどのアドバイスは、正しいと思うものもあります。例えば、小指をホワイトボードに立てて滑りにくくして書くとか、一面で書かずに、ノートの見開きのように書くとかそう言うアドバイスは正しいと思います。しかし、文字そのものについては、結構を理解していないため、厳しいものがある場合が多くあります。

 

私が、結構に関してが常に言っているのは、

・文字の中心線はどこにあるのか

・偏と旁のバランスは考えているか

・その文字の全体的な外形は何なのか

この三つです。このことを指導しないと、結構は整いません。

 

当たり前ですが、今回のレッスンではそれを最初にしていました。そして、その先に、字体の違いによる表現の違い、さらに運筆という筆の動かし方の技術、点画という点の書き方(書道では点が一番難しいと言われています)などの技術を習得して、自分が表したい文字を書いていくことになります。

ここまでが番組の前半。

そして、後半は西日本で起きた大水害のことに焦点を当てつつ、文字を書くとは何かという深いところに入って行きました。ここは本当にすごかった。

書く。

何かを伝えたくて書く。

話し言葉でも伝えられるかもしれないけど、ワープロでも伝えられるかもしれないけど、ペンでも伝えられるかもしれないけれども、筆を使って紙に、書く。

それは何なのかを中学校の書道部の子供達へのレッスンを通して、表していました。

 

いい番組でした。

 

2019/03/21

読了 『上手な教え方の教科書 入門インストラクショナルデザイン』

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『上手な教え方の教科書 入門インストラクショナルデザイン』(向後千春 技術評論社)を読み終えた。

3月はインストラクショナルデザイン(ID)を勉強し直そうと思って、三冊の本を読むつもりである。その1冊目に読んだ。

もちろん、今までにも向後先生の『いちばんやさしい教える技術』も『教師のための読んでいたし、『先生のための「教える技術」』も読んでいる。向後先生には「明日の教室」に来て頂いたし、本学のFDの講師でもお招きして勉強してきたが、学問的な背景を表にはあまり出していない本であるがため、そこを求めて本書を読みたいと思った。

結論から言えば、やはり正解であった。

導入の漫画の絵柄は好みが分かれるところではあるが、実に良かった。最後まで読み終わる前から、いい言葉を書き抜いては書いていた。だから、本当は1週間で読み終える予定であったが、これがま全然読み終わらなかった(^^)。

しかし、こういう計画倒れは良いものだと思う。まあ、来年度からの授業に生かすためには、3月中に読み終えておくことが理想だが、特に締め切りのあるものでも無いし、自分のスピードでじっくりと読めたのが良かった。

で、恐れ多くも言ってしまえば、

(ん、俺、薄々感じていたけどIDを習ったわけでも無いけど、IDの授業をしているなあ)

というものである。

特に、「体験作文の書き方」「読みやすい文字の書き方」「ディベート指導の導入のあり方」「学習材づくりの指導」などなど、自分で言うのもなんだけどまさにIDだなあと思った次第である。

私の場合は、これらの指導方法を実践を通して磨いてきた。学習者からフィードバックを得て、授業中に観察して、授業づくりの書籍を読んで、考えてヴァージョンアップしてきた。だから、指導の事実はあるのだが、それが何に裏付けされているのかの知識については、正直断片的なものとなっていて、体系化されていなかった。

しかし、この本を読み終えて体系がわかり、私も説明するための学術用語を手に入れることができた。これは、非常に嬉しかった。

今思っているのは、今まで指導をしてきたものに、この本から得た理論を付け加えながら授業を作ることである。行動心理学、認知心理学、状況的学習論。これらの知見から得られるものを元にして、国語の授業の作り方をもう一度整えて、来年度の授業でやることである。

それをすることで、学生たちが授業を作るときに、

(今教えているのは、これだから、注意するのは、ここだな)

となれるようにしたい。

全ての教えることを生業としている人にオススメである。

「万年筆で手書きの教育漢字、ひらがな、カタカナのルーツ本」完成

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万年筆で手書き文字シリーズ、完成
(漢字の練習、手書きの文字を見て書いた方がいいよなあ。活字ではなくて)
(そういうお手本あるかなあ。無いなあ)
(学生たちの字も綺麗に書けるようにするには、練習用のお手本が欲しいよなあ)
(卒業生も、指導するときに手書きの漢字のテキストがあった方がいいよなあ)
のようなことを思い始めたのが二月の末ぐらいだったと思います。
(無いんなら、作るか)
と思って書き始めて、万年筆シリーズはひとまずの完成を見ました。これで小学校で学ぶ文字は全て網羅したことになります。教育漢字1006字、ひらがな、カタカナ。全て手書きで書きました。充実感はありますねえ。来年度からの学生たちの教材にも使いましょう。
この後、常用漢字、人名漢字も書いてみようと思います。そして、紺紙金泥でも、最低教育漢字はやってみようと思っています。
今年、私が筆を持ってからちょうど50年になります。自分のアニバーサリーを自分でこうして祝っているのは、なかなかいいかもしれない。アドラーのいう「自己満足」です(^^)。
万年筆で手書きの学年別配当漢字
カタカナの元の漢字は何?どの部分?
ひらがなの元の漢字
学年別配当漢字 バラ
1年生
2年生
3年生
4年生
5年生
6年生

2018/05/25

【新著】 『野口芳宏の教育名言で学ぶ手書き文字』

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私が中学校の教師をしていた頃、野口芳宏先生といえば、もう歴史上の人物という感じがあった。遠くから拝見し、ご著書を拝読し勉強する。そう、私淑する先生であって、一緒に過ごす先生だという感覚はなかった。

ところが、NHK教育テレビの「わくわく授業」で私が放映される時、私の前の回は野口先生で、恐れ多かったのを覚えている。大学に移ることになり、大阪の小学校の校内研修会で野口先生の前に飛び込み授業をさせていただいたり、明日の教室にもお招きすることができてご縁ができ、また今では「教育と笑いの会」でご一緒させていただいている。なんだか夢のようである。

そして、今回また夢の夢のようなことが実現した。

野口先生の言葉を私が手書きしながら勉強していたものを、電子ブックにまとめて出版することができたのだ。

『野口芳宏の教育名言で学ぶ手書き文字』(池田修著)

である。

夢の夢の話である。

が、現実の話である。

ICTの普及で文字はキーボードで打ち込むから、フリック入力でキーボードを触るになり、さらに今では音声入力で文字を表すことができるようになっている。これはとても便利だ。しかし、だからこそ、手書きの文字なのだと思う。

価値は少数派に宿る。手書きで書けることは特に教師にとってかなりいいことである。板書にしてもノートへの一言にしても、これは間違いがない。

私が書いていた手書きの言葉をそのままにしておくのもなんだかなと思ってTwitterに挙げてみたところ、なかなか好評であった。そして「その手書きの言葉を本にしてほしい」という話も出てきた。需要はあるのかと思ったが、あるというのでまとめようとした。

ところが、手書きであっても文章に著作権があるだろうということで一回頓挫した。許諾を得るのに相当の労力が必要になり、それは私の能力をはるかに超えていたからだ。しかし、仲間からのアドバイスで直接本人に許可を得ればいいのではないかということが言われた。

(これは、もう野口先生にお願いするしかない)

と思って、電子書籍の見本を印刷したものを添えてお手紙でお願いしてみた。

すると

「いかようにもお使いください」

ともう、飛び上がるぐらいのお返事をいただいた。電話で手紙で。

そこからは一気呵成に仕上げた。

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字は、何歳からでも上手くなります。正しい練習方法で練習を続ければ、必ず上手くなります。

本書は、電子ブックの利点を活用して、なぞり書きで上手くなるように作ってあります。

自分の好きな言葉であれば、何回書いてもいいものです。

そうして、なぞり書きをしながら上手くなってしまってください。

お役に立てればうれしく思います。

* 私ごとで恐縮ですが、今年で筆を持ち始めて50年になります。その私の記念すべき年に、自分の手書きの本を出せたというのは、とても嬉しいことだなあと思っております。感謝。

2018/04/20

間違い探しを活用した書写指導法

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昨日の国語科教育法1の授業の後に、学生が相談に来た。
「先生、私どうしても自分の名前がうまく書けません。どうしたらいいでしょうか」
とのこと。
『だから授業中に言ったでしょ。書けない人がいたら手を上げて、書き方を教えてくださいと言えばいいと言ったのに』
たかだか25人ぐらいの授業なので、手はあげればあげられると思うのだが、まぁ自分の字が汚いの衆目に晒すことが耐えられなかったのであろう。許す。

『では、あなたの名前を黒板に書いてみなさい』
と言って書かせた。
その後、私はその字を見た後、その横にその名前を書いた。
『さて、私が書いたあなたの名前と、あなたが書いた自分名前では、どこが、どのように違いますか?』
このように発問した。

授業が終わったにもかかわらず、まだ10数名の学生がその様子を見ている。だったら授業で聞いても変わらなかったなぁ(^^)と思いながらも、話を進める。

学生は
「ここは何か、こう、シュッとしていて、それでまとまっていて、かっこいいです」
のように説明する。
『いや、全然説明なっていません。どの字のどこがどのように違うかを教えてください』
「えー」
『じゃあ、この川と言う字だとどこが違う?』
「えー、、、僕が書いたのは、最初の先が右に曲がってますけども先生の書いたのは左曲がっています」
『そうだね。その通り。他には』
このようなことを繰り返しながら4つの漢字について1カ所ずつどこが違うかを指摘させて、私の字との違いを確認させた。

その後、そこに残っていたのが書道コースの学生たちに
『あなた方は、私が書いた字と彼が書いた字ではどこが違うかわかるよね?』
その後、その学生たちは、
「川と言う字で言えば、彼が書いたものは三画とも書き始めが揃っていますけど、先生が書いたものは真ん中が凹んでいるように書かれています」
ということを指摘した。

『そうだね、そこは違うね他には?』
このようにして書道コースの学生さんたちに質問を重ねていく。そして私の解説を加えていく。
『川と言う事は、3本の線でできているが、長さが違う。1番短いのが真ん中の線。1番長いのは? そうです右側です。2番目は一画目です。 そして曲がっているのは一画目だけです。それも左側に曲がっています。いいですか?』

この後、その学生には私が書いたものを写真に収めさせた。
そして、私の書いた字の上をチョークで擦らせた。
さらにその後、
『擦った字を見ながら、その横に自分で黒板に書きなさい』
と言う指示を出した。

本人は書いてる途中に
「難しい。うまく書けない」
と言いながらも書いていた。
川の中を書き終えたところで、
『なかなかいい感じだよ、右側にあるあなたの最初の名前を見てごらん』
と言ったところ、その学生は自分が最初に書いた字を見て
「えー」
と叫んでいた。まるで違う。見ている書道コースの学生たちも、驚きの声を上げながら見ている。書き終えた彼の字は、最初のものと全く別物になっている。

「こうやって指導するんだよ」
と学生たちに話をする。ここまで10分ぐらい。
かつて学生たちは
「池田マジックだ!」
と言ってくれたので、今回は自分で
『これが、池田マジックだ(^^)』
と言ってみた。

でも、これ、マジックでもなんでもない。

私は、これを、「間違い探しを活用した書写指導法」と呼んでいる。
私も中学校の教師の最初の頃は、子供に名前を書かせて、その子供が書いた作品の上に手を加えたり、手を加えなくても子供の書いた作品の横に、私が名前を書いて
「こう書くんだよ」
と指導していた。

しかしこのやり方では、うまくならない、なりにくい子供が何人かいることに気がついていった。

自分で書いた作品の上に先生が書き込みをする事は、子供からしてみると自分の作品に勝手に手が加えられるようなもので嫌な思いをする場合がある。何の事は無い私がそうだった。赤を入れられるのが私は、好きではなかった。赤で直してもらうのに抵抗のない生徒、または親しみを感じる生徒もいるが、これで嫌になる生徒もいるのは事実。だから
『赤で書いていい?』
と確認しながら書いていた。
実に面倒くさい(^^)。

次に、子供の書いた作品の横に書いて、子供の作品との違いを説明する方法。これは、一見良いようであるが、どうも彼らに説明が入って行く実感が乏しかった。上滑りになるのだ。原因は何かと考えていたのだが、私が出した仮説は、学習者の理解の容量を超えた説明を私がしていたのではないかと言うものであった。

指導者の私は知識や技術を多く持っている。それを学習者に与えるため、あれこれ説明するのだが、学習者の器以上のことを説明して、学習者が混乱しているのではないかと考えるようになったのだ。そうだとすれば、学習者が学習できるサイズの指示が必要になる。では、その学習者が学習できるサイズの学習量とはなんであろうか?と考えたわけである。

私の結論は、
『先生の書いた字と、あなたが書いた字では、どこが、どのように違う?』
と言う発問を出すことであった。
上記の例のように、字の苦手な学生はどこが違うのかが見えない。見えても説明ができない。書道コースの諸君は、同じ字を見ていても、違いが見えている。これは能力の差である。訓練されて身につけた能力の差である。この能力の差が見えかたを変えているのだ。そして、その見え方の差が、書き方の差に関係していると思われる。

私は高校二年生の一年間で音痴を直した。
自分ではうまいと思っていたのだが、録音して聞いてみるとずれているところが多い。
自分でうまく聞こえていたと言うのが、ポイントである。自分では、音があっているところだけを聞いて、
(うむ。私はうまい)
と思い込んでいた。だけど、録音してみるとずれている。事実を突きつけられるわけである。つまり、聞いていなかったのだ。
聞いていないから、ずれているところがわからなかったのだ。
録音して、どこがずれているのかを聞いて、直していった。
自分で聞いて、おかしなところを探して、直していった。
一年かかった。
かかったが、治った。

字も同じだと思っている。
どこがどのように違うのかを、自分で発見することから学習は始まる。
先生に指摘されて、ここが違うと言われても本人にはどうして違うのか、なぜ違うのかが理解できないことがある。だから、自分の分かる範囲で違いを発見し、それを治すように努力させる。この方法が効果を出すと考えているのだ。

分かると言うのは、分かったものと、分かっていないものに分けることができるとき、分かったとなる。
AとBとで、どこが違うのか、どこが間違っているのかを発見することろから、学びは始まると思っている。

「間違い探しを活用した書写指導法」
と言うのは、なかなかいい方法だと思っている。

*写真では、一番最初に書いたのが、右側。私が書いたのが左側。そこに学生がなぞり書きをしています。そして、最後に、真ん中に黄色で学生が書いています。右側と真ん中を比べてもらえれば、随分と違うのが分かると思います。

2018/04/01

"Quickclick"という、早押し対戦型学習ゲームを開発している

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"Quickclick"という、早押し対戦型学習ゲームを開発している。
http://www.quickclick.jp/

これは、TBSテレビのオールスター感謝祭の四択早押し問題にヒントを得ている。
今から20年以上も前のことだ。この番組を見た私は、これを学校でやりたいと思った。
パソコン室の親機から問題を出題し、生徒たちは子機に出てくる問題をマウスを早押しボタンにして解凍する。パソコン室があのスタジオになる。これはとても面白いと思って開発を始めようと思った。

だが、当時の私には、開発費、開発スキル、パソコンのスペックの全てがなかった。ただ、ノートにアイディアだけを書き連ねていた。

大学の教員になった13年前。研究開発としてこれに再び挑戦することにした。学習の仕方としてこれはまだ魅力的だったからだ。開発費、開発スキル、パソコンのスペック。このうち、開発費が足りなくてこの2度目の挑戦もうまくいかなかった。

で、今から4年ほど前に、私の授業のことを面白いと言ってくれる方が突然現れた。初対面で意気投合して、あれこれ話しているうちにこの「早押し対戦型学習ゲーム」のことを語った。そうしたら、
「いや先生、これうちで開発できると思いますよ」
という素晴らしい言葉をもらった。開発費、開発スキル、パソコンのスペックの全てが揃ってしまった。私は、アイディアだけをバージョンアップしながら温めていてなんとかしたいなあと20年思い続けていたのだが、叶ってしまった。

パソコンでもスマートフォンでも、iOSでもウインドウズでもアンドロイドでもなんでも動く。html5のブラウザーが動けば問題ない。インターネットさえ繋がれば、世界中のどこにいる子供同士で、いや、大人も交えて対戦できる。

学習履歴も残るので、子供たちがどの問題に弱いのかもわかる。

今これは、文部科学省の一つの事業として活用していて、子供達に使ってもらっている。
その過程で、本物のオールスター感謝祭で四択問題を作っている放送作家さんに子供達を指導してもらう機会も得た。もうね、感無量ですよ。

だが、このQuickclickの凄さは、それだけではない。
一番は何かというと、自分で問題を作れることにある。
作って学べるのである。

勉強が苦手な子供たちは、一日教室で、先生から出題され、発問され、それに耐え続ける。答えられない状況に置かれ続けるというのは、一種の「教育的虐待」ではないかと私は思うのだ。「お前はできない、お前はバカだ」と言われ続けているようなものだ。

しかし、そんな子供であっても、問題を作る側に回ることができる。20年も前の私の実践で、漢字が全くダメな中学生に「漢字ウォーリーを捜せ」という教材を用意したところ、楽しんで解いただけでなく、自分で自宅で勝手にワープロで作ってきたことがあった。

学力の低い生徒であったが、それはそれワープロというICTツールを使って、実に見事な問題を作ってきた。そして、その問題は私が印刷して授業でやったところ、学力の高い生徒たちが解けなかった。教室に逆転現象が起きたのだ。これが起きるとき、授業は俄然面白くなる。

2年前に、小学校2年生の教室で「漢字ウォーリーを捜せ」の授業をしていたら、なんと休み時間に自分で手書きで「漢字ウォーリーを捜せ」を作っている子供がいた。これ、見方を変えると勝手に漢字の書き取り練習をしていることになるわけです。

作って学ぶというのは、出題者のポジションに立てるのだ。
自分だけが答えを知っていて、みんながうんうん考えている姿を見ていることができるのだ。いや、やや下品かもしれないが、一種の快楽でもある(^^)。少なくとも教育的虐待を受け続けている子供には、このポジションに立つのは許されても良い。

「漢字ウォーリーを捜せ」だけでなく、私の実践はこの「作って学ぶ」というスタイルをとっていることが多いことがわかった。いや、本当に。『スペシャリスト直伝! 中学校国語科授業成功の極意』(明治図書)を書いて見て、わかったのだ。それまでそんなに意識はしていなかったのだが、はっきりとわかった。

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実はこの作って学ぶは、教育学者ブルームが提唱している教育目標の分類学(ブルーム・タキソノミー)の、認知過程の次元で、最上位にある⑥創造に該当するものだと考えている。次期学習指導要領は、現状の①から③を重視しているものから、④から⑥を重視するものへと変わっていく。この④から⑥が「深い学び」だと私は考えている。(表は、中教審 教育目標・内容と学習・指導方法、学習評価 の在り方に関する補足資料 ver.5より)

アメリカの医学教育、解剖学では、

"See one, Do one, Teach one"

という考え方がある。「見て覚える。やって覚える。教えて覚える」である。一回生は、見て。二回生は、やって。三回生は後輩に教えて覚えるのである。この中で一番学習効果が出るのが教えて覚えるである。

現在私は、この教えて覚えるの周辺か先に、作って学ぶがあると仮説を立てて学習材開発を行っている。そのうちの一つが、このQuickclickなのだ。

日本中の子供たちが、いや、インターネットに繋がった世界中の子供達がこのQuickclickを使って
遊びながら、学習をして欲しいと思って開発している。

(やって見たいなあ)というお問い合わせは、ブログの一番上にあるメールフォームからお待ちしております。

2018/03/04

作って学ぶ国語の授業  〜ブルームのタキソノミーの創造・思考コードの創造との関連〜

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なんということだ。やっと繋がった。
車を運転していたら閃いた。

私は明治図書の「教育科学国語教育」2018年3月号で、深い学びについて論じてほしいという依頼があって「作って学ぶ国語の授業」というタイトルで原稿を書いた。

ブルームのタキソノミーについて論じて、そして、改訂版タキソノミーの最上位にある「創造」を、「作って学ぶ」国語の授業でやればいいと論じている。

それって、まさに首都圏模試センターの「思考コード」のCゾーンの世界をやりましょうということを提案していることではないか。『スペシャリスト直伝! 中学校国語科授業成功の極意』(明治図書)でもそれは言っている。そして、私は言葉は

覚える
使う
作る

の三段階学習を進める、つまり、学びを深めるということを提唱してきているし、実践してきた。

ずっとやってきたのに、ずっと提唱してきたのに、タキソノミーも勉強しているのに、繋がっていなかった。

だけど、研究室に向かう車の中で、ポンと結びついた。
思わず車の中で笑ってしまった。

私の国語の授業が、国語の授業に思われにくかったのは、また、子供達が力をつけて言ったのは、Cゾーンを、言葉遊びという形でたっぷりさせてきたからだったのではないかと思えたのだ。

多分、この仮説は正しい。
なんだ、時代がやっと追いついたのか(^^)。

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