2017/05/30

小学校一年生の子どもの書いた詩を読解した

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2013年5月30日 ·

(長文注意。ま、いつものことですがf(^^;)

今日の二回生ゼミは、下記の小学校一年生の子どもの書いた詩を読解した。
発表者は三番手。三人でこの詩を読み込んで、ゼミ生相手に読解の授業に挑戦であった。

ともだちってすごい 
          一馬

1. きょう ともだちから でんわがあった
2. 「しゅくだいしてから いくし まっててや」
3. とゆわはった。
4. 「ふん。」
5. とゆった。
6. ともだちって すごいなあ。
7. ぼくはダメダメ、
8. ぼくはぜったいダメダメです。
9. ぼくは
10. おかあさんがしゅくだいしいやとゆったけど
11. ぼくは しなかった。
12. ともだちはえらいねえ、
13. ぼくも がんばろっと。
14. おかあさんが
15. 「ぜったいダメな人間なんていない。」
16. とゆった。
17. ぼくもがんばる。

目的は、「この詩を通し、一馬くんの変化や成長を意識し考えるように指示する」である。勿論、これは授業の後に指導。「この詩を通し、一馬くんの変化や成長を理解し、説明できるようになる」に変更。そうでなければ、授業が成功したのかどうなのかが判断できない。

発表者たちの最初の発問は、4.行目にある「ふん」である。

「一馬くんの「ふん」と言う言葉の裏について、そのままの位置でまずは自分の意見を考える」その後グループディスカッションへとというものであった。ここでいう「裏」とは、真意のことであろう。ファシリテーションの本を紹介してあげたのだが、自分たちで買って勉強をして挑戦していた。それはよし。

だが、発問の後、ゼミ生の発表を聞き取りながら説明するその言葉が、自分の考えの巧妙な押しつけであり、本文そのものに根拠を求めた言い方ではなかった。私はそこでストップを掛けて、

『で、本文のどこにその根拠があるの? 言ってないでしょ? 敢えて言えば、根拠は私でしょ。それだったら、子どもが、「ぼくはこう思う」と言われたら、どっちも根拠が本文に求められていないと言うことで、同一の次元になってしまう。そう言うとき、多くの先生は「ま、◯◯くんの考えもいいと思うけど、これは先生の考えが良くない?」と他のクラスの子どもたちに同意を求めて、根拠なしのままで先生の意見を押し付けるという授業になってしまいがちなのだよ。本文に根拠を求めよ』

何回もこれを言う。

『私が授業者なら、この「ふん」は次の4つのうちのどれでしょうか? 1)怒り 2)驚き 3)ねたみ 4)尊敬として、選ばせたな。先ほどの君たちの発問は、どうでしょうか?というもので、これはオープンエンドと言う質問の仕方。簡単に言えばどうでも答えられてしまう。私のはクローズドエンド。ま、ハイとイイエで答えられるもの、答えが限定されるものだ。こうすると、議論がしやすくなるでしょ』

と解説を加える。

発表者による二つ目の発問は「13.「がんばろっと」が、17.「がんばる」の気持ちの変化について、自分の意見を考える」であった。これも発問になっていないf(^^;。「なぜ、このように変化したのか?」とすべきであると指摘。また、発表者が考えたこたえは、ややどうなのよ?というものであった。

でもまあ、いい所に目がいき始めている。
ファシリテートを意識しているので、一時一事の原則が守られている。その結果、ゼミでの議論も活発になり、発表者の解釈に対して、異論が唱えられるなど面白くなってきた。

全部が終わって残りの13分で私の解説の時間となる。
私の最初の発問は、
『この詩が連絡帳に書いてありました。あなたは担任の先生です。赤ペンでコメントをします。さて、なんて書きますか?』
である。学生たちに書かせて、私ならこう書くという例を示す。私なら、

『いいところがみっつあるね。いいともだちだね。いいおかあさんだね。がんばるってきめた一馬くんもいいね、だ。さて、ではどうしてそういえるのか。この詩の中に入って行く。私の読みがおかしければ、質問や反論は多いに受け付ける。ただ、10分しかないので、時間切れになったら、掲示板に書くこと。いくぞ』

と言って始める。

『この詩に描かれている一馬君の真意、つまり「裏」に入って行くのに「ふん」というところに着目したのは、いい。では、君たちは1)怒り 2)驚き 3)ねたみ 4)尊敬のうちのどれだと思うか? (全員に手を挙げさせる)。私は4)があると読んだ。なぜか?』
「3.にゆわはったとあります」
『そうだ。これは尊敬の表現では?』
「でも先生、京都では普通にいいませんか?」
『それもある。しかし、saidの意味で使われている言葉をこの詩の中に見ると、5.ゆった 10.ゆった 16.ゆったとあり、ゆわはったは他には無い。だとすれば、ここは尊敬の意味を込めて行っていると考えることが出来るだろう』
「なるほど」

『その作品の中に入って行くには、その作品の中に入って行く扉を見つけ、その扉を開ける鍵を手に入れることが大事だ』
「……」
『この作品はその扉と鍵がはっきりと書かれている作品である。分かるか?』
「……」
『扉は、何回も繰り返される言葉であることが多い。また、鍵はその繰り返される言葉で一部分が違っている言葉であることが多い。今の例でもそうだ。ゆったが繰り返されているが、ゆわはっただけ違っている。ゆったが扉で、ゆわはったが鍵だ』

『さ、そうだとしたら、他にある扉と、鍵はなんだ? 捜せ』
と指示を出す。
もちろん、ぼくが扉で、ぼくは、と、ぼくも の違い鍵として読むのである。
また、7.ダメダメ 8.ダメダメですを扉として、15.の「ダメな人間なんていない」を鍵として読むのである。

12.でともだちはえらいねえ、と思えたから、13.でぼく「も」がんばろっと。となれた。そして、15.でおかあさんから「ダメな人間なんていない」言われたことで、ダメダメのぼくは、17.で「ぼくも がんばる」と決意できたと読める』

と私の分析を紹介した。
『そう読んだので、「いいところがみっつあるね。いいともだちだね。いいおかあさんだね。がんばるってきめた一馬くんもいいね」とコメントするだろうと言ったのだ』

子どものを理解する為の「扉」と「鍵」。
二回生ゼミは、子どもの詩を使ってこの「扉」と「鍵」を発見するレッスンを行っている。
勿論、話し言葉、身振り、癖、服装、表情などさまざまなところに、この「扉」と「鍵」があり、それを見つけ出し、使えるようになることが大事になってくる。

その為にフィールドワークを行い、経験を積むのだし、
こうしてレッスンを行うのである。
身につけなければならないことは、たっっっくさんある。
勉強しましょう。

2017/01/26

今までうまく行っていたことが原因となって、これからうまくいかなくなることがある

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「〇〇とは何か?」と自分で問いを立ててみる。それに答えが出る。そこに「本当か?」「理由は?」「本当か?」と繰り返してみる。この程度のことであっても、自分の考えを磨きあげるには、いい訓練だ。

ただ、この訓練には弱点がある。一つの考えを先鋭化することには適しているのだが、根っこを変えることができないと言うことだ。スタート地点を疑うことができないと言ったらいいだろうか?

自分がやってきたことが正しいと言う前提で、さらにその正しさの精度を上げるために確認していると言う色合いが強い。しかし、これでは対応できないことがある。つまり、私が考えた根っこはそもそも正しいことなのか?と言う問いに対しては何も答えることができないのだ。

特に現場にいる教師は、正しいことを指導しようと考える。今までやってきて成果の出た方法が正しくて、それを今の子供達、これからの子供達にそれで指導しようと考える。それはある意味正しい。しかし、研究によって証明されたこと、または、社会の変容で変わってしまったことに対応できなくなる。

正しいことをやろうとして、正しさの精度を上げてきた教師は、それを変える理路をなかなか見出さない。(え、だって俺、うまく行っているし)となる。しかし、社会は変わる。子供も変わる。そうすると、そこを理解しない教師は根底から否定されることがある。

多くの場合、異動によって今まで依拠していたことが否定されて気がつくことが多い。ところがそれもなんとなく調整してうまく行くようになっていく、していくことであれこれを吸収する。しかし、本当に吸収できているのだろうか。いや、そもそも吸収ってことで済まされることなのだろう。

つまり、あなたが今までうまく行っていたことが原因となって、これからうまくいかなくなることがあるんだよと言うことがあるわけだ。それは破壊的イノベーションで説明されることもあるし、paradigm shiftで説明されることもある。この状況は私も何度かくぐり抜けてきた。

いや、正確に言うとくぐり抜けるではない。戦って乗り越えてきただ。必修科目から選択科目へ。相対評価から絶対評価へ。教える教科の授業から支援する総合的な学習の時間へなど。この数年でこれまで以上に大きく乗り越えるものが出てくるだろう。波があるだろう。

波があるのなら、乗ってしまえばいいと思う。最先端で学べることってかなり大事なことでもあると思う。ミクロに考えること、そもそもこれは何?って考えること、波を見極めること。マクロでも考える。これが大事なんだと思う。もちろん、目の前の子供、子供たちを見て、どうすればいいかを考えた上で。

さらに授業デザインを考えていこう。

2017/01/22

教師=爺や説

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明日本学は入試。なんと雪の予報が出ている。参ったなあ。

今年は入試に雪がぶつかる。

先日のセンター試験も雪だった。

その雪の日、娘(9)は大喜び。

外で遊ぶその様子を見に行ったところ、雪の滑り台をお友達と作っていた。

第一コースができて、引き続いて第二コースを作ろうとしているところであった。第一コースに90度向きを変えて長距離が取れるようなコース設計を考えたようだ。

で、しばらくその様子を見ていたのだが、この作業の効率の悪いことってのはない。

雪を橇に載せて持ってっくるのだが、柔らかいまま持ってくるから少ない量。それを第一コースの上の部分から積み重ねようとしていく。

『ああ、それじゃだめだよ。まずは、土台の部分にしっかりと雪を集めて重ねていかないと』

と言おうと思ったが、その言葉を飲んだ。

そして、雪を集めて持ってくる係を自主的にやり始めた。

雪を固めて丸くしながら大きくして、第二コースの横に持ってくる。

「おとうさん、これ壊してもいいの?」

『もちろん。好きなように使いなさい』

「やった!」

と言いながら娘はその雪塊にキックをして細かくしてまた上の方に重ねて行く。

『だから、それじゃあ、うまく固まらないよ』

と言おうと思って、これも我慢する。

我慢して雪集めに勤しむ。

教師は、大人は、最適解を知っている。

どうしたらいいのかということを知っている。子供は知らないことが多い。

だから、子供がやっている姿を見ると、あーしろ、こーしろと言いたくなる。

しかし、これは厳に慎まなければならないことなのだ。

もし、大人が指示を出して、子供がその通りにやったら。

また、その指示通りにやらなかったことを大人が叱るようになってしまったら、これは子供の遊びではない。それは単なる「作業」である。大人の指示に従ったら褒められ、ダメだったら叱られる悲しい作業になってしまう。

たしかに、主体的に作業をするかもしれないが、自主的に遊ぶことにはならない。

娘を見ていると、思った通り第二コースは脆くも崩れ、何回かやり直しを余儀なくされていた。そして、娘はあれこれ考えて第二コースを作っていた。自分で雪を集めながらやっていた。

雪集めをした私は、その後はカメラマンとなって、記録をしていた。

転ばぬ先の杖。

これをどうしても教師や大人は、子供に与えたくなる。

失敗しないし、失敗しないから早く効率的にできる。

そう、できるのだけど、それは子供が自分でやったのではなく、やらされてできたのであって、さて本当にできたのかと言われればそれは怪しい。転ばぬ先の杖は、老人には必要かもしれないが、子供には必要ない。

バブル崩壊までの日本経済では、指示されたことを早く正確にこなして行く仕事が求められてきた。そしてそれができる人たちが優秀な人と評価されてきたことだろう。しかし、その仕事はこれからはAIが行う。指示通りに動くばかりでなく、休憩時間もいらないでどんどん仕事をするだろう。

大事なのは、どうしたらいいのか。どうしたらよかったのかと自分で考える人間を育てることだ。最適解を与えられてそれを早く正確に実行する人間を育てるのではないのだ。

雪を集めながら、遊んでいる娘の様子を見ながら、考えていた。

やはり、遊びと学びは似ているなあと。

これからの教師の仕事は、爺やになることではないかと思った。

学ぼうとする主体の子供、学習者に対して、教師はせっせと「雪」を集めてくる。

彼ら彼女らが学ぼうとしているところに、学びやすい環境、条件、材料を整えて行くのだ。

これを、教師=爺や説、と名付けたい。

もちろん、彼ら彼女らはやがて自らが自らの爺やになって、学びやすい環境、条件、材料を整えて行くことができるように教師が関わって行くことは大事だ。それにしても、まずはしっかりと爺やになることじゃないかなあと思えてくるのだ。

教育でも子供が自分でやりはじめたら、あとは教師はカメラマンになるぐらいしかないだろうなあと思う(^^)。

従来の授業では、「あー」という声が出る授業はいいだと言われている。学習者が授業者の説明を聞いて心から納得したり共感したり驚いたりした時に、「あー」という声は出る。だから、いい授業なのだ。しかし、このいい授業の定義は変わって行くかもしれない。

「あー」が出るのは、教師が最適解を学習者に示した時ということも言えるかもしれない。そうだとすれば、それは学習者が学びをしているのではなく、作業をしていると言えないか。「どうしよう、こうしようか、いや、ダメだった、次はこうしよう」と主体的に学習を始める時、また、自主的に学ぶ時、その引き金になる授業では、学習者の口からは「えー」とか、「うーん」とかが出る授業がいい授業になって行くのではないだろうか。

つまらないことが面白くなるように教える。

分からないことが分かるように教える。

できないことができるように教える。

これは『新版 教師になるということ』(学陽書房)にも書いた、教えることに関しては大事なポイントだと思っている。しかし、主体的に、自主的に学習し、学ぼうとする者を育てる授業を考える時、実はこれではダメかもしれない。

「えー、ちょっと違うんじゃないかなあ」

「うーん、それは本当なのかなあ」

というところが学習者にあることが、主体的に、自主的に学習し、学ぼうとする者のスタート地点になる可能性はないか。

最適解を知りながら、最適解を示さない。

雪遊びは、娘が興味を持っていることだから、勝手にやっていた。

学びも、楽しいから学ぶのであって、最適解を目指して勝手にやるだろう。

問題は、勉強の部分だ。

私は、学びをするために勉強が必要になるから、勉強するという道筋を作って行くことが大事だと考えている。

それが「恐怖を刺激する勉強から、興味を刺激する学びへ」という私の研究のテーマにもつながっていると考えている。

娘が無心に遊んでいる姿を見ながら、そんなことを考えていた。

明日は本学の入試。

雪が予想されます。

お気をつけて、お越しください。

大学もみなさんを待ちしております。

2016/12/25

学びの支援とは

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授業中の学習者のつぶやきで、いい授業の時に出るつぶやきは

「あ〜」

だと言うのは、実は一部ではよく知られている事実。

「あ〜」と言うのは、茂木健一郎さんのアハ体験と同じであって、説明されたことが理解の次の納得の次元で承認された時に出てくる言葉だと言える。つまり、深いところで分かった時に快感とともに出てくる言葉なのだ。

この言葉がどのぐらいの頻度で出てくるかで、その教師の学習の指導力が見て取れると考えることもできる。その一方で、「え〜」とか「う〜ん」とか言う言葉が出てくるときは、教師の説明に対して、理解ができないとか、納得がいかないのサインとして考えられ、いい授業ではなかったと言うこともできる。

ところが、これを学習ではなく、学びを基軸に考えると違った様相を呈することになるのではないだろうか。学びを支える支援の場合、教師が説明をして「あ〜」と言う場合は、実は良くないのではないかと思われる。「あ〜」が深いところで分かった言葉だとしたら、その学習者は、その部分についてもう先に進もうとは思わないだろう。

私が大学に行って一番最初に修正した授業のデザインはここだった。中学校の教師だった私は、懸命に中学生に理解させようとしてきた。分からないと言うことが無いようにしてきた。それを大学でもやった。すると、学生たちは理解するし、納得もする。しかし、その先に進んで行って学ぼうと言うことにはなっていなかった。

そこで、デザインを変更した。分からないことが分かったの授業から、分かっていない自分が分かったの授業への変更である。勉強しなければならないことが山盛りあることに気がつかせる。自分では当然だと思っていたことが、それは実は単なる思い込みであったことを気がつかせる。「え〜」「う〜ん」と言う言葉は、その先にある自分の学びのための問いを得るきっかけがここにあると言うサインの音と考えることもできるのではないだろうか。

自分が理解している世界を一度否定されることで、「え〜」「う〜ん」と言う言葉が出てくる。しかし、それはその先に進むために必要なことで、少なくとも学びを手にしようとする者たちは、ここの部分を通過せざるを得ない。そして、学びの支援とは、実はこの「え〜」「う〜ん」と言う言葉が出やすくすることではないかと思うのだ。

2016/12/04

恐怖を刺激する勉強から、興味を刺激する学びへ

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勉強しない子供達に出会ったのは、三校目の中学校でのこと。それまでは、勉強ができなくてもまあ、試験前になれば勉強するという子供達がほとんどであった。試験があれば勉強する。しかし、試験があっても勉強しないという子供達を目の前にすることになったのだ。

高校に行く気がないから勉強しない。

まあ、違うんだけどこれはわかる。

その一方で、高校には行く気だけど勉強はしないという生徒がいるのだ。

これは何を意味しているのか、最初の頃はよく分からなかった。

私の理解では、高校に行くなら勉強しないと合格しないし、行くのであれば少しでも自分の希望にあった学校に行けるようにするのが普通ではないかと思っていたのだ。

しかし、高校に行く気はあっても勉強はしない、のだ。

調べて、考えてみての結果は、これであった。

つまり、勉強しなくても高校には行けるから、勉強しないである。少子化で高校の入学枠の方が広くなってしまったから、選ばなければ高校に行けるのだ。

衝撃であった。

それまで、定期考査や高校入試があるから、ギリギリ勉強をすることを仕向けることができていたのではないかという疑いが私の中に生まれた。もちろん、学習内容の面白さ、身につけることのできる技術を前面に出して授業を作って来たと思っている。しかし、こういう生徒を見るとそれはどこまで本当だったのかと考えるようになった。

言い換えれば、テスト、入試という恐怖、脅しで勉強をさせていただけではないのかということだ。恐怖では人は動かない。動いたとしても一時的なものだ。その場しのぎ、緊急避難である。そうだとしたら、恐怖で勉強をさせても子供達は、勉強にはならないはずだ。

人が勉強するのは、どういう時か。

多分、二つだ。

1)必要な場合

2)興味がある場合

いい学校に入りたいというのは、この二つが色々と混ざっていると思われる。だから勉強した。ところが、高校には入れさえすればいいというのであれば、勉強は必要でない。高校に興味はあるが勉強には興味はないのだから、やっぱり勉強はしないとなる。

そもそも、学校で「これは君の将来に必要なことだからしっかりやりなさい」というのは、難しい。いや、それでも身につけるべき知識が技能がはっきりしている場合は、この「必要だから」というのは学習者に届いた。または、先生が言うのだからと言う先生の権威があった場合は、これも有効だった。しかし、今はその知識や技能はコンピュータやAIが担おうとしているし、先生に権威のある人は少なくなっている。

さらに、いい高校に入っていい大学に入って、いい会社に入ればいい人生待っている、約束されていると言うのも、信じている若者はもうすでに少数派ではないだろうか。必要性で勉強させるのは難しい。

しかし、勉強は大事だ。

勉強しなければ、社会にエントリーすることはできない。

勉強し続けなければ、社会から投げ出されてしまうだろう。

そうだとすれば、もう一つの手掛かりに期待して行くしかないかもしれない。「興味がある場合」だ。

自分が興味のあることは、やる。

さらに面白ければもっとやる。

子供は、人間はそうだと思う。

一人一人の興味に合わせた授業づくり、または教材開発。

いや、この場合教える側の都合で作られた教材ではなく、学ぶ側の癖や好みに合わせて作るから学習材と読んだ方がいいだろう。私はそんなことを考えながら現場で勉強をしたくないけど高校には行きたいと言う子供達、勉強なんてそもそもしたくないと言う子供達に授業を作っていた。

ハンドメイドの授業、オーダーメイドの授業は、面倒だ。

しかし、これをすることに教師の、授業の醍醐味はあると感じていた。

全部が全部このスタイルの授業でやることはできない。時間の限界がある。能力の限界もある。だから、クラスのしんどい子供にはこのことをしていた。本当は全員にしてあげたいなあと思いながらも、限界を感じながらやっていた。

しかし、だ。

この一人一人に合わせた学習材に基づく、そう、興味に基づく勉強が可能になる時代がそこまでやってきているのではないかと思うのだ。AIによってその子供の特技、才能、特性、趣味、興味などに合った学習プログラムが提供できる時代がすぐそこに来ているのではないかと思われる。今までは、この組み合わせがとても大変で、やれたとしたらそれは職人芸の能力を持つ教師か、人件費無視して人を使ってやることでしかできなかった。そして、それはそれだからできなかった。

ところが、AIはこれをいとも簡単にやってしまうだろう。

私がやっている、子供の興味を基にした授業づくり、学びの支援はやがてAIのプログラムの一部に組み込まれて行き、これに興味があると感じることのできる子供の学習に活用されて行くんではないかなあと思っている。

時代は、「恐怖を刺激する勉強から、興味を刺激する学びへ」と変わって来ているだろう。親や教師が「これができないと困るよ」言う。それは確かにそうなのだが、子供たちは恐怖では動かない。そんなことより、「面白くて仕方がないからもっとやらせてほしい!」と言う学びの環境をいち早く実現するべきだと思うのだ。

AIが来る前でも、子供たちの興味のある学びを、今の学習指導要領にリンクしてその子供学びを支えるカリキュラムを一部でも組み込むことはできるんじゃあないかなあ。アクティブラーニングってのは、アクティブに勉強するではない。アクティブに学ぶだってことを抑える必要があると思うなあ。

「恐怖を刺激する勉強から、興味を刺激する学びへ」

実は、大学の教員は、興味を刺激する学びのために、必要な場合に勉強していると思われます。それは外側から見ると遊んでいるように見えると思います。

私は、その「遊び」を義務教育の子供達から実感できるような授業ができないかなあと思ってあれこれしています。

2016/11/15

ところが、計画通りにしてもなかなかいかないものが私の周りに出現した

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ことわざを写真にする授業を大学でしたところ、朝日新聞の
HPで取り上げてもらって、紙版の記事にもしてもらった。http://withnews.jp/article/f0161022000qq000000000000000W03r10101qq000014184A

ここに関して、ピンアクションが起きている。つまり、この記事を元に次の展開が始まっているのだ。

私は、子供の頃から学習計画表とかを作るのが苦手だ。まあ、作ってもその通りにはやらない。やれないといったほうがいいのかもしれないが、まあ、その通りにはならない。どうも、自分には、考えた通りにするってのに、快感を得ないものがるようだ。

世の中には、計画を立てその通りに動くと快感を得るという人たちはいる。特に、事務系の人たちは計画通りに行くことで、何事もなかったように物事が進んで行くことが大切。予想外にこうなりましたなんてのは、だめ。

だが、私は予想通りになるのがツマラナイ。

(え、そう来ましたか)

となって展開して行くのが好き。セレンディピティーという言葉があるが、私の場合これがよく合う。

よくに合うのだが、世の中は当たり前だが計画通りに仕事を進める人が重宝される。世の中に出るのは大変だなあと思っていた。

ところが、計画通りにしてもなかなかいかないものが私の周りに出現した。それが良くあるものが出現した。

それは、授業である。

計画はする。しかし、相手が人間、相手が子供だ。

計画通りになんてなかなかならない。

(そこですか、問題は)

(そっちに、展開しますか)

ということの繰り返し。そして、それを整えながらゴールに向かう。

新しいことを開発しながら、問題を解決して行く。

これが実に私には楽しい。だから、教師になってよかったなあと思うのだ。

で、私はことわざを写真にすることで、学生がことわざの理解を深める学習ができ、さらに彼らが教員になった時に、ことわざの指導の一つの方法としてこういうのがあると引き出しを一つ持っているようになればと思って、やった。ICT活用の授業の一つができるようになればと思ってやった。それを論文にまとめて、友人に意見をもらったりしていた。

そこいら辺りから少しずつ動き出した。

いろいろな意見をいってくれる人たちがいて、繋げてくれる人たちがいて、この実践はまた別の価値を持つようになっていった。で、今、新たに二つの新しいものに繋がろう、生み出されようとしている。嬉しいものだ。

今の三回生ゼミ生で去年から私のゼミ生だった学生は、この一連の流れをリアルタイムで見ている。私は、学生たちと一緒にやったものということもあり、何か発展があるといちいち学生たちに報告していたから、リアルタイムで見ているのだ。彼らもなかなか感慨深いようだ。

そして、思うのだ。

やること。小さくてもいいので、自分が面白いと思ったことはやってしまうこと。

そして、書くこと。雑誌などに載せることができれば、それはそれでいいと思うのだが、雑誌でなくてもいい、ブログでもいい。兎に角、まとめてしまうこと。そして、それを発表してしまうこと。

『(こんなこと誰も興味ないだろうなあ)と思ったとしても、それはそれでいいから兎に角公表してしまうこと。ブログでいい。そうすると、それを必要としている人や、興味を持っている人たちに発見されて行く。これが今の時代なのだ。自分の思った面白いことが、あなたの周りの誰かの面白さと繋がることもあるけど、繋がらないこともある。しかし、ブログに載せてしまえば、日本語の読める人たちに検索される可能性が生まれる。これがいいのだ。そうして、次の新しい価値が生まれて行くのだよ』

例えば、「たほいや」だって、最初はフジテレビの深夜放送でやっていただけで、それを見た私が友人とやっていたのだが

(あれ、これ国語の授業になるんじゃない?)

と思って中学校でやって見たのだけど、その時は

「なんで遊んでいるの?」

と言われてもそれを説明する用語がなかった。なかったけど、これは国語の授業になるという信念はあった。それでそれを説明する勉強をしていると、社員研修の本に「船長の決断」なんてのを見つけるようになり、「学習ゲーム」という概念を作り出すようになり、今はゲーミフィケーションとなっているわけだ。

『面白いことがあったら、誰かに相手にされなくてもいいから、それをA4一枚レベルの指導案にざっとまとめて書いておくといいよ。実現不可能なものだと思ったものでもいい。私だって、「たほいや」がこんな展開になるとは思っても見なかった。

A4一枚レベルの指導案を書いてコンピュータに寝かせておく。やがて発酵していい授業になる時が来ることもあると思うなあ。今の若い感性で書いておいて、寝かせて経験と技術が身について、授業技術が向上した時にそれを実際に授業にかけるってのは、いいと思うよ』

そんなことを昨日の三回生ゼミで話した。

2016/11/12

京都橘高校での甲骨文字の再現授業  〜拓まで取りました〜

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一晩経っても、まだ興奮している。
甲骨文字を再現する授業の実施だ。

世界初の授業だと思う。

現代のスマートフォンで簡単に文字が作れる環境の中にいる生徒が、3400年前に人類がやっていたものすごい苦労をして文字を残すという営みを、体験させることができた。

文字に関しての認識が何か変われば嬉しい。
古代の王は、自分の営みを文字にして残させた。
しかし、今は、ユネスコの学習権宣言にあるように、「自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利」としてある。
http://kohoken.chobi.net/cgi-bin/folio.cgi?index=lb2&query=/lib2/19850329.txt

文字、漢字、作文という指導をする上でイッチバン最初の部分を生徒たちに体験させることができた。

今回は、京都橘高校で行った。
私の教え子が京都橘高校で芸術科の書道の教師をしている。

その卒業生とたまたま今年の3月に甲骨文字の再現実験の時に、キャンパスで会って、
『一緒にやるか?』
と巻き込んだことから、ここまで繋がった。

なんというか、わらしべ長者のような感覚。亀を手に入れることができたことから、ここまできた。

亀に刻す。一升瓶に刻す。コップに刻す。ガラスに刻す。私がこういうことをしていたら、私が刻した甲羅は、有鄰館に収蔵展示されたし、一升瓶は大学祭の書道展で展示してもらったし、結婚祝いにあげることもできたし、コップに刻したのは研究室に遊びに来た卒業生にあげることもできた。ガラスの作品も作り続けている。

まあ、昔からそうなんだけどね。
リコーダーやフルートにハマった時も、とにかく吹き続けた。
リコーダーで、オペレッタ「こうもり」のアデーレのアリア
https://www.youtube.com/watch?v=2j6pAnivUho
や、ソプラニーノでウイリアムテル序曲
https://www.youtube.com/watch?v=e1l59fXt8fQ
を吹けるまで練習したりしていた。

そうそう、ケンブリッジバスカーズに憧れてやっていたんだよなあ。
https://www.youtube.com/watch?v=1jEsK-uy64o

ま、それが突然、興味が消えてやらなくなるのも私。
だから、今、この私が亀に刻すから始まった一連の流れが、どこまで行くのかは私自身もとても興味がある。

多分、文字に興味があったのは、もう小学校に入る前からのことだと思う。
そして、小学校一年生の時に、近所のお習字教室に通ったことからずっと文字と関わって来たのだと思う。それが、今、こうして文字に関わる仕事に就き、漢字の最古の甲骨文字の再現をし、それを授業にした。

で、何より嬉しいのは、授業をしたのが私ではないということ。
私の教え子が、高校生にこの授業をしたということ。
私が思いついたことを、私が授業にするのは今までもよくあった。
というか、それが全てであった。

今回は、昨日の授業を含め、合計三箇所でこの授業をやる。
(あ、昨日の授業を見た付属中学校で教えている先生も、「私もやりたい!」と言ったので合計四箇所になるか)

私は思いついたアイディアを、授業というアウトプットにすることをし続けて来たが、こうして、私ではないところからアウトプットされるということに、非常に喜びを得た。

しかも、私が想定していた以上のことをやってくれた。
刻しただけでなく、それを拓に取るというのだ。
これが実に良かった。

授業の最中に、綺麗に拓を取ることのできた高校生にもうベタ誉めした。
『いやあ、これは京都の古美術商に売りにいったらいいよ。または、フリーマーケットで販売してもいいなあ』
と。
「いやー、先生、もう誉めすぎや(^^)」
と言うけど、とても嬉しそう。
いやあ、嬉しいのは私も同じ。

正直に言えば今回の授業は、授業の構成、展開、発展課題などにおいてまだまだ改良する余地はある。しかし、四月から教師になったばかりのことを考えれば、十分に合格点を与えることのできる授業だったと言える。

そう、この授業は研究授業としても行われたので、私はそのあとの研究協議会の講師としても参加。改善のポイントを10箇所指摘。

また、私が事前に用意した「文字の意識に関するアンケート」も実施してもらった。ざっと見た感じでは、大方予想通り。予備調査として行った部分もあるので、これを微調整して、中学校で本格実施。

中学校は、結果的に、中学校の1、2、3年の全てで実施できる」ことになったので、実に楽しみ。

それぞれの授業の指導案、実践記録、アンケートの集計を元に冊子にまとめるか、論文にするかなどをしていきましょう。

まだまだ、亀との出会いから始まったこの授業づくりは、新しい展開も含めて、続いていきそうだ。楽しみ楽しみ。

2016/10/21

授業実践が、明日の朝日新聞の夕刊に載るとの連絡がありました

みなさま。

以前の「急がば回れ」の記事に関連して、http://withnews.jp/…/f0160816003qq000000000000000W03j10601q…
私の授業実践が、明日の朝日新聞の夕刊に載るとの連絡がありました。京カルタの取り札を写真で作る、ことわざ学習の実践です。

また、紙版より長い記事は、ネット版に載るとのことでした。
ネットの場所は、
http://withnews.jp/
です。

良かったらご覧ください。

2016/09/18

現存する日本最古の美術館有隣館に私たちが再現した甲骨文字が展示されています

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学生達のバレーの応援を終えて、京都市内に出掛けた。
「有隣館」という我が国最古の現存する民間の美術館である。第一、第三日曜日しか開館していない美術館である。東洋美術、中国美術、文字などに詳しい。
http://www.yurinkan-museum.jp/

実は、甲骨文字を再現する時に実物を探していたとき、本学の王先生から紹介されて最初にいったのが、ここ。王先生は中国古代文化の研究をされている。
収蔵品を見せていただいたが、残念ながらそこには牛の骨の甲骨文字はあっても、亀の甲羅のものは目録にはあったが、実際には見ることが出来なかった。

しかし、そこで学芸員をしている大学院生に話をすることが出来て、繋がりを作ることは出来た。そして、東京の台東区の書道美術館や国立博物館の東洋館にある亀の甲骨文字を実際に見たりしながら、再現の可能性を探っていた。

で、実に奇跡的に再現することが出来た。それは3月の話。
それから私の方にいろいろとあって、美術館も月に二回しか開いていないことがあって、再現をした報告が出来ないでいた。

今日、大学から電話をしてみたところ、
「何時でも結構ですから、どうぞお越し下さい」
と館長の藤井善三郎先生からの有り難いお言葉。そこで、亀の甲骨文字などを抱えて、美術館に向かったのだ。

とても驚き、とても喜んでくれた。
そして、今後、私が考えていることを話したところ、それもとても喜んでくれた。

で、お礼にと持参した亀の甲羅を貢いだところ、
「これは、飾らなければ」
と言われる。いやまあ、それはありがたいのですが、甲羅だけ飾ってもと思ったので、思い切って
『この私たちが再現したもの、暫く飾っていただけませんか?』
と伺ったところ、
「喜んで!」
ということになり、まさかの陳列となったのだ。

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「先生、釈文を書いて下さい」
と館長先生に依頼されたので、これから書くことになります。まさか、まさか、あの由緒正しい美術館に陳列していただけることになるとは。もう、驚き以外の何者でもなく。

本学の三上先生から亀の甲羅を手に入れたことから、こんなことになるなんて。大学時代の恩師の佐野先生にまたご指導した抱けるなんて、学生達と一緒に大源で切るなんて、本当にありがたいことです。なんとなく、藁稭長者を思い出します。
前に一歩、いや、半歩でも進み出てみることが大事なんだと、改めて思います。



京都にお越しで、しかも、第一、第三日曜日に岡崎公演辺りに行かれる方は、是非、ご覧下さい(^^)。 現存する日本最古の美術館有隣館に私たちが再現した甲骨文字が展示されています。