2019/03/29

奇跡のレッスン 書道編

奇跡のレッスン 2019年3月27日 190327
「書道編 書は身体がつくる/書くことは 人生と向き合うこと」

 

とてもいい番組だった。書道をやる人、文字を書くことに興味のある人にはたまらなくいい番組だったと思う。

レッスンをするのは、中国人書道家の熊峰さん。中国人ですが、日本に三年留学しかなも書ける書道家。この方が、広島は熊野筆で有名な熊野の中学生にレッスンをします。

基本的なレッスンの思想は、私と同じだった。嬉しい。

まずは、美しい文字とは何かを認識することから始めていた。技術に走るのではなく、美しい文字とは何なのかを観察させるのだ。そして、何がどのように美しいのかを言語化していく。番組ではそれをコーチがする場面もあれば、自分でさせる場面もあった。自分で書いた文字に、自分で朱を入れさせていた。これはとても大事なこと。自分がどこがどう違うのかと認知しないことには始まらないのだ。先生にいくら言われても、学習者に入らないことはたくさんある。だから、自分なのだ。

そして、その次に技術の指導となる。

 

「好きな字や得意な字には癖が出やすいものです」

「美の基準に基づいて子供の書いた文字のクセをそぎ落とす。そうすることで美しい漢字が浮かび上がってきます」

「まずは技術よりも、”美の観察力”を養うことが大事なのです」

「クセと個性は違います。だから、今日は字の法律を教えました」

 

と言う字の法律のことを、黒板には「字法」と書いてあり、そのあと「結構」と言う言葉を書いていました。

(ああああ、そうそう。そうなんだよ!)

と番組を見ながら、心の中で叫んでました。

昨今の美文字ブームを見ていると、この結構(その漢字が持っている適切なバランス。明の李淳が八十四通りに分類したものが有名)を勉強せずに感覚だけで書いている美文字の先生がいます。書道家にもいます。結構を勉強しないで、美文字家だったり書道家だったりするのは、それはそれで逆にすごいとは思いますが、それは、その人の感覚で書いているだけでしょう。

だから、読みやすい文字を書けるように指導する基礎的なレッスンは厳しいんじゃないかなあと思うのです。なぜ、この字は美しいのかを言語化しなければレッスンはできませんし、言語化したものが本人の感覚ではなく、歴史の時間を経て残っている古典によって証明されている言葉で説明できることが必要になるからです。

美文字家のレッスンを見ると、ホワイトボードに美しく書くにはどうしたらいいのかなどのアドバイスは、正しいと思うものもあります。例えば、小指をホワイトボードに立てて滑りにくくして書くとか、一面で書かずに、ノートの見開きのように書くとかそう言うアドバイスは正しいと思います。しかし、文字そのものについては、結構を理解していないため、厳しいものがある場合が多くあります。

 

私が、結構に関してが常に言っているのは、

・文字の中心線はどこにあるのか

・偏と旁のバランスは考えているか

・その文字の全体的な外形は何なのか

この三つです。このことを指導しないと、結構は整いません。

 

当たり前ですが、今回のレッスンではそれを最初にしていました。そして、その先に、字体の違いによる表現の違い、さらに運筆という筆の動かし方の技術、点画という点の書き方(書道では点が一番難しいと言われています)などの技術を習得して、自分が表したい文字を書いていくことになります。

ここまでが番組の前半。

そして、後半は西日本で起きた大水害のことに焦点を当てつつ、文字を書くとは何かという深いところに入って行きました。ここは本当にすごかった。

書く。

何かを伝えたくて書く。

話し言葉でも伝えられるかもしれないけど、ワープロでも伝えられるかもしれないけど、ペンでも伝えられるかもしれないけれども、筆を使って紙に、書く。

それは何なのかを中学校の書道部の子供達へのレッスンを通して、表していました。

 

いい番組でした。

 

2019/03/21

読了 『上手な教え方の教科書 入門インストラクショナルデザイン』

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『上手な教え方の教科書 入門インストラクショナルデザイン』(向後千春 技術評論社)を読み終えた。

3月はインストラクショナルデザイン(ID)を勉強し直そうと思って、三冊の本を読むつもりである。その1冊目に読んだ。

もちろん、今までにも向後先生の『いちばんやさしい教える技術』も『教師のための読んでいたし、『先生のための「教える技術」』も読んでいる。向後先生には「明日の教室」に来て頂いたし、本学のFDの講師でもお招きして勉強してきたが、学問的な背景を表にはあまり出していない本であるがため、そこを求めて本書を読みたいと思った。

結論から言えば、やはり正解であった。

導入の漫画の絵柄は好みが分かれるところではあるが、実に良かった。最後まで読み終わる前から、いい言葉を書き抜いては書いていた。だから、本当は1週間で読み終える予定であったが、これがま全然読み終わらなかった(^^)。

しかし、こういう計画倒れは良いものだと思う。まあ、来年度からの授業に生かすためには、3月中に読み終えておくことが理想だが、特に締め切りのあるものでも無いし、自分のスピードでじっくりと読めたのが良かった。

で、恐れ多くも言ってしまえば、

(ん、俺、薄々感じていたけどIDを習ったわけでも無いけど、IDの授業をしているなあ)

というものである。

特に、「体験作文の書き方」「読みやすい文字の書き方」「ディベート指導の導入のあり方」「学習材づくりの指導」などなど、自分で言うのもなんだけどまさにIDだなあと思った次第である。

私の場合は、これらの指導方法を実践を通して磨いてきた。学習者からフィードバックを得て、授業中に観察して、授業づくりの書籍を読んで、考えてヴァージョンアップしてきた。だから、指導の事実はあるのだが、それが何に裏付けされているのかの知識については、正直断片的なものとなっていて、体系化されていなかった。

しかし、この本を読み終えて体系がわかり、私も説明するための学術用語を手に入れることができた。これは、非常に嬉しかった。

今思っているのは、今まで指導をしてきたものに、この本から得た理論を付け加えながら授業を作ることである。行動心理学、認知心理学、状況的学習論。これらの知見から得られるものを元にして、国語の授業の作り方をもう一度整えて、来年度の授業でやることである。

それをすることで、学生たちが授業を作るときに、

(今教えているのは、これだから、注意するのは、ここだな)

となれるようにしたい。

全ての教えることを生業としている人にオススメである。

「万年筆で手書きの教育漢字、ひらがな、カタカナのルーツ本」完成

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万年筆で手書き文字シリーズ、完成
(漢字の練習、手書きの文字を見て書いた方がいいよなあ。活字ではなくて)
(そういうお手本あるかなあ。無いなあ)
(学生たちの字も綺麗に書けるようにするには、練習用のお手本が欲しいよなあ)
(卒業生も、指導するときに手書きの漢字のテキストがあった方がいいよなあ)
のようなことを思い始めたのが二月の末ぐらいだったと思います。
(無いんなら、作るか)
と思って書き始めて、万年筆シリーズはひとまずの完成を見ました。これで小学校で学ぶ文字は全て網羅したことになります。教育漢字1006字、ひらがな、カタカナ。全て手書きで書きました。充実感はありますねえ。来年度からの学生たちの教材にも使いましょう。
この後、常用漢字、人名漢字も書いてみようと思います。そして、紺紙金泥でも、最低教育漢字はやってみようと思っています。
今年、私が筆を持ってからちょうど50年になります。自分のアニバーサリーを自分でこうして祝っているのは、なかなかいいかもしれない。アドラーのいう「自己満足」です(^^)。
万年筆で手書きの学年別配当漢字
カタカナの元の漢字は何?どの部分?
ひらがなの元の漢字
学年別配当漢字 バラ
1年生
2年生
3年生
4年生
5年生
6年生

2018/05/25

【新著】 『野口芳宏の教育名言で学ぶ手書き文字』

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私が中学校の教師をしていた頃、野口芳宏先生といえば、もう歴史上の人物という感じがあった。遠くから拝見し、ご著書を拝読し勉強する。そう、私淑する先生であって、一緒に過ごす先生だという感覚はなかった。

ところが、NHK教育テレビの「わくわく授業」で私が放映される時、私の前の回は野口先生で、恐れ多かったのを覚えている。大学に移ることになり、大阪の小学校の校内研修会で野口先生の前に飛び込み授業をさせていただいたり、明日の教室にもお招きすることができてご縁ができ、また今では「教育と笑いの会」でご一緒させていただいている。なんだか夢のようである。

そして、今回また夢の夢のようなことが実現した。

野口先生の言葉を私が手書きしながら勉強していたものを、電子ブックにまとめて出版することができたのだ。

『野口芳宏の教育名言で学ぶ手書き文字』(池田修著)

である。

夢の夢の話である。

が、現実の話である。

ICTの普及で文字はキーボードで打ち込むから、フリック入力でキーボードを触るになり、さらに今では音声入力で文字を表すことができるようになっている。これはとても便利だ。しかし、だからこそ、手書きの文字なのだと思う。

価値は少数派に宿る。手書きで書けることは特に教師にとってかなりいいことである。板書にしてもノートへの一言にしても、これは間違いがない。

私が書いていた手書きの言葉をそのままにしておくのもなんだかなと思ってTwitterに挙げてみたところ、なかなか好評であった。そして「その手書きの言葉を本にしてほしい」という話も出てきた。需要はあるのかと思ったが、あるというのでまとめようとした。

ところが、手書きであっても文章に著作権があるだろうということで一回頓挫した。許諾を得るのに相当の労力が必要になり、それは私の能力をはるかに超えていたからだ。しかし、仲間からのアドバイスで直接本人に許可を得ればいいのではないかということが言われた。

(これは、もう野口先生にお願いするしかない)

と思って、電子書籍の見本を印刷したものを添えてお手紙でお願いしてみた。

すると

「いかようにもお使いください」

ともう、飛び上がるぐらいのお返事をいただいた。電話で手紙で。

そこからは一気呵成に仕上げた。

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字は、何歳からでも上手くなります。正しい練習方法で練習を続ければ、必ず上手くなります。

本書は、電子ブックの利点を活用して、なぞり書きで上手くなるように作ってあります。

自分の好きな言葉であれば、何回書いてもいいものです。

そうして、なぞり書きをしながら上手くなってしまってください。

お役に立てればうれしく思います。

* 私ごとで恐縮ですが、今年で筆を持ち始めて50年になります。その私の記念すべき年に、自分の手書きの本を出せたというのは、とても嬉しいことだなあと思っております。感謝。

2018/04/20

間違い探しを活用した書写指導法

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昨日の国語科教育法1の授業の後に、学生が相談に来た。
「先生、私どうしても自分の名前がうまく書けません。どうしたらいいでしょうか」
とのこと。
『だから授業中に言ったでしょ。書けない人がいたら手を上げて、書き方を教えてくださいと言えばいいと言ったのに』
たかだか25人ぐらいの授業なので、手はあげればあげられると思うのだが、まぁ自分の字が汚いの衆目に晒すことが耐えられなかったのであろう。許す。

『では、あなたの名前を黒板に書いてみなさい』
と言って書かせた。
その後、私はその字を見た後、その横にその名前を書いた。
『さて、私が書いたあなたの名前と、あなたが書いた自分名前では、どこが、どのように違いますか?』
このように発問した。

授業が終わったにもかかわらず、まだ10数名の学生がその様子を見ている。だったら授業で聞いても変わらなかったなぁ(^^)と思いながらも、話を進める。

学生は
「ここは何か、こう、シュッとしていて、それでまとまっていて、かっこいいです」
のように説明する。
『いや、全然説明なっていません。どの字のどこがどのように違うかを教えてください』
「えー」
『じゃあ、この川と言う字だとどこが違う?』
「えー、、、僕が書いたのは、最初の先が右に曲がってますけども先生の書いたのは左曲がっています」
『そうだね。その通り。他には』
このようなことを繰り返しながら4つの漢字について1カ所ずつどこが違うかを指摘させて、私の字との違いを確認させた。

その後、そこに残っていたのが書道コースの学生たちに
『あなた方は、私が書いた字と彼が書いた字ではどこが違うかわかるよね?』
その後、その学生たちは、
「川と言う字で言えば、彼が書いたものは三画とも書き始めが揃っていますけど、先生が書いたものは真ん中が凹んでいるように書かれています」
ということを指摘した。

『そうだね、そこは違うね他には?』
このようにして書道コースの学生さんたちに質問を重ねていく。そして私の解説を加えていく。
『川と言う事は、3本の線でできているが、長さが違う。1番短いのが真ん中の線。1番長いのは? そうです右側です。2番目は一画目です。 そして曲がっているのは一画目だけです。それも左側に曲がっています。いいですか?』

この後、その学生には私が書いたものを写真に収めさせた。
そして、私の書いた字の上をチョークで擦らせた。
さらにその後、
『擦った字を見ながら、その横に自分で黒板に書きなさい』
と言う指示を出した。

本人は書いてる途中に
「難しい。うまく書けない」
と言いながらも書いていた。
川の中を書き終えたところで、
『なかなかいい感じだよ、右側にあるあなたの最初の名前を見てごらん』
と言ったところ、その学生は自分が最初に書いた字を見て
「えー」
と叫んでいた。まるで違う。見ている書道コースの学生たちも、驚きの声を上げながら見ている。書き終えた彼の字は、最初のものと全く別物になっている。

「こうやって指導するんだよ」
と学生たちに話をする。ここまで10分ぐらい。
かつて学生たちは
「池田マジックだ!」
と言ってくれたので、今回は自分で
『これが、池田マジックだ(^^)』
と言ってみた。

でも、これ、マジックでもなんでもない。

私は、これを、「間違い探しを活用した書写指導法」と呼んでいる。
私も中学校の教師の最初の頃は、子供に名前を書かせて、その子供が書いた作品の上に手を加えたり、手を加えなくても子供の書いた作品の横に、私が名前を書いて
「こう書くんだよ」
と指導していた。

しかしこのやり方では、うまくならない、なりにくい子供が何人かいることに気がついていった。

自分で書いた作品の上に先生が書き込みをする事は、子供からしてみると自分の作品に勝手に手が加えられるようなもので嫌な思いをする場合がある。何の事は無い私がそうだった。赤を入れられるのが私は、好きではなかった。赤で直してもらうのに抵抗のない生徒、または親しみを感じる生徒もいるが、これで嫌になる生徒もいるのは事実。だから
『赤で書いていい?』
と確認しながら書いていた。
実に面倒くさい(^^)。

次に、子供の書いた作品の横に書いて、子供の作品との違いを説明する方法。これは、一見良いようであるが、どうも彼らに説明が入って行く実感が乏しかった。上滑りになるのだ。原因は何かと考えていたのだが、私が出した仮説は、学習者の理解の容量を超えた説明を私がしていたのではないかと言うものであった。

指導者の私は知識や技術を多く持っている。それを学習者に与えるため、あれこれ説明するのだが、学習者の器以上のことを説明して、学習者が混乱しているのではないかと考えるようになったのだ。そうだとすれば、学習者が学習できるサイズの指示が必要になる。では、その学習者が学習できるサイズの学習量とはなんであろうか?と考えたわけである。

私の結論は、
『先生の書いた字と、あなたが書いた字では、どこが、どのように違う?』
と言う発問を出すことであった。
上記の例のように、字の苦手な学生はどこが違うのかが見えない。見えても説明ができない。書道コースの諸君は、同じ字を見ていても、違いが見えている。これは能力の差である。訓練されて身につけた能力の差である。この能力の差が見えかたを変えているのだ。そして、その見え方の差が、書き方の差に関係していると思われる。

私は高校二年生の一年間で音痴を直した。
自分ではうまいと思っていたのだが、録音して聞いてみるとずれているところが多い。
自分でうまく聞こえていたと言うのが、ポイントである。自分では、音があっているところだけを聞いて、
(うむ。私はうまい)
と思い込んでいた。だけど、録音してみるとずれている。事実を突きつけられるわけである。つまり、聞いていなかったのだ。
聞いていないから、ずれているところがわからなかったのだ。
録音して、どこがずれているのかを聞いて、直していった。
自分で聞いて、おかしなところを探して、直していった。
一年かかった。
かかったが、治った。

字も同じだと思っている。
どこがどのように違うのかを、自分で発見することから学習は始まる。
先生に指摘されて、ここが違うと言われても本人にはどうして違うのか、なぜ違うのかが理解できないことがある。だから、自分の分かる範囲で違いを発見し、それを治すように努力させる。この方法が効果を出すと考えているのだ。

分かると言うのは、分かったものと、分かっていないものに分けることができるとき、分かったとなる。
AとBとで、どこが違うのか、どこが間違っているのかを発見することろから、学びは始まると思っている。

「間違い探しを活用した書写指導法」
と言うのは、なかなかいい方法だと思っている。

*写真では、一番最初に書いたのが、右側。私が書いたのが左側。そこに学生がなぞり書きをしています。そして、最後に、真ん中に黄色で学生が書いています。右側と真ん中を比べてもらえれば、随分と違うのが分かると思います。

2018/04/01

"Quickclick"という、早押し対戦型学習ゲームを開発している

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"Quickclick"という、早押し対戦型学習ゲームを開発している。
http://www.quickclick.jp/

これは、TBSテレビのオールスター感謝祭の四択早押し問題にヒントを得ている。
今から20年以上も前のことだ。この番組を見た私は、これを学校でやりたいと思った。
パソコン室の親機から問題を出題し、生徒たちは子機に出てくる問題をマウスを早押しボタンにして解凍する。パソコン室があのスタジオになる。これはとても面白いと思って開発を始めようと思った。

だが、当時の私には、開発費、開発スキル、パソコンのスペックの全てがなかった。ただ、ノートにアイディアだけを書き連ねていた。

大学の教員になった13年前。研究開発としてこれに再び挑戦することにした。学習の仕方としてこれはまだ魅力的だったからだ。開発費、開発スキル、パソコンのスペック。このうち、開発費が足りなくてこの2度目の挑戦もうまくいかなかった。

で、今から4年ほど前に、私の授業のことを面白いと言ってくれる方が突然現れた。初対面で意気投合して、あれこれ話しているうちにこの「早押し対戦型学習ゲーム」のことを語った。そうしたら、
「いや先生、これうちで開発できると思いますよ」
という素晴らしい言葉をもらった。開発費、開発スキル、パソコンのスペックの全てが揃ってしまった。私は、アイディアだけをバージョンアップしながら温めていてなんとかしたいなあと20年思い続けていたのだが、叶ってしまった。

パソコンでもスマートフォンでも、iOSでもウインドウズでもアンドロイドでもなんでも動く。html5のブラウザーが動けば問題ない。インターネットさえ繋がれば、世界中のどこにいる子供同士で、いや、大人も交えて対戦できる。

学習履歴も残るので、子供たちがどの問題に弱いのかもわかる。

今これは、文部科学省の一つの事業として活用していて、子供達に使ってもらっている。
その過程で、本物のオールスター感謝祭で四択問題を作っている放送作家さんに子供達を指導してもらう機会も得た。もうね、感無量ですよ。

だが、このQuickclickの凄さは、それだけではない。
一番は何かというと、自分で問題を作れることにある。
作って学べるのである。

勉強が苦手な子供たちは、一日教室で、先生から出題され、発問され、それに耐え続ける。答えられない状況に置かれ続けるというのは、一種の「教育的虐待」ではないかと私は思うのだ。「お前はできない、お前はバカだ」と言われ続けているようなものだ。

しかし、そんな子供であっても、問題を作る側に回ることができる。20年も前の私の実践で、漢字が全くダメな中学生に「漢字ウォーリーを捜せ」という教材を用意したところ、楽しんで解いただけでなく、自分で自宅で勝手にワープロで作ってきたことがあった。

学力の低い生徒であったが、それはそれワープロというICTツールを使って、実に見事な問題を作ってきた。そして、その問題は私が印刷して授業でやったところ、学力の高い生徒たちが解けなかった。教室に逆転現象が起きたのだ。これが起きるとき、授業は俄然面白くなる。

2年前に、小学校2年生の教室で「漢字ウォーリーを捜せ」の授業をしていたら、なんと休み時間に自分で手書きで「漢字ウォーリーを捜せ」を作っている子供がいた。これ、見方を変えると勝手に漢字の書き取り練習をしていることになるわけです。

作って学ぶというのは、出題者のポジションに立てるのだ。
自分だけが答えを知っていて、みんながうんうん考えている姿を見ていることができるのだ。いや、やや下品かもしれないが、一種の快楽でもある(^^)。少なくとも教育的虐待を受け続けている子供には、このポジションに立つのは許されても良い。

「漢字ウォーリーを捜せ」だけでなく、私の実践はこの「作って学ぶ」というスタイルをとっていることが多いことがわかった。いや、本当に。『スペシャリスト直伝! 中学校国語科授業成功の極意』(明治図書)を書いて見て、わかったのだ。それまでそんなに意識はしていなかったのだが、はっきりとわかった。

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実はこの作って学ぶは、教育学者ブルームが提唱している教育目標の分類学(ブルーム・タキソノミー)の、認知過程の次元で、最上位にある⑥創造に該当するものだと考えている。次期学習指導要領は、現状の①から③を重視しているものから、④から⑥を重視するものへと変わっていく。この④から⑥が「深い学び」だと私は考えている。(表は、中教審 教育目標・内容と学習・指導方法、学習評価 の在り方に関する補足資料 ver.5より)

アメリカの医学教育、解剖学では、

"See one, Do one, Teach one"

という考え方がある。「見て覚える。やって覚える。教えて覚える」である。一回生は、見て。二回生は、やって。三回生は後輩に教えて覚えるのである。この中で一番学習効果が出るのが教えて覚えるである。

現在私は、この教えて覚えるの周辺か先に、作って学ぶがあると仮説を立てて学習材開発を行っている。そのうちの一つが、このQuickclickなのだ。

日本中の子供たちが、いや、インターネットに繋がった世界中の子供達がこのQuickclickを使って
遊びながら、学習をして欲しいと思って開発している。

(やって見たいなあ)というお問い合わせは、ブログの一番上にあるメールフォームからお待ちしております。

2018/03/04

作って学ぶ国語の授業  〜ブルームのタキソノミーの創造・思考コードの創造との関連〜

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なんということだ。やっと繋がった。
車を運転していたら閃いた。

私は明治図書の「教育科学国語教育」2018年3月号で、深い学びについて論じてほしいという依頼があって「作って学ぶ国語の授業」というタイトルで原稿を書いた。

ブルームのタキソノミーについて論じて、そして、改訂版タキソノミーの最上位にある「創造」を、「作って学ぶ」国語の授業でやればいいと論じている。

それって、まさに首都圏模試センターの「思考コード」のCゾーンの世界をやりましょうということを提案していることではないか。『スペシャリスト直伝! 中学校国語科授業成功の極意』(明治図書)でもそれは言っている。そして、私は言葉は

覚える
使う
作る

の三段階学習を進める、つまり、学びを深めるということを提唱してきているし、実践してきた。

ずっとやってきたのに、ずっと提唱してきたのに、タキソノミーも勉強しているのに、繋がっていなかった。

だけど、研究室に向かう車の中で、ポンと結びついた。
思わず車の中で笑ってしまった。

私の国語の授業が、国語の授業に思われにくかったのは、また、子供達が力をつけて言ったのは、Cゾーンを、言葉遊びという形でたっぷりさせてきたからだったのではないかと思えたのだ。

多分、この仮説は正しい。
なんだ、時代がやっと追いついたのか(^^)。

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2018/01/20

明日の教室のHPができました。

明日の教室のHPができました。


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https://asunokyousitsu.themedia.jp/
みなさんのお力を借りつつまる10年の活動を経て、明日の教室は、来年度中に「NPO法人 明日の教室」になる予定です。これから先も、若手教員の支援に力を注ぎますが、さらに事業を拡大していこうと考えています。

教育は子供を大人に育てていくためにあるものだということは、多くの人に同意していただけることでしょう。そして、その教育で義務教育に携わるものは、目の前にいる子供の5年後、10年後、さらにはその子供が社会で活躍する時につけておく必要のあるものを、丁寧に指導するものでは無いかと考えています。

不易と流行があれば、その不易の部分を特に若い教師たちは、早くから身につけようとする必要があると思っています。そして、それが若い教師にとって、明日の授業の、さらにその先にやる授業の礎になるのだと考えています。

教育科学は不易をベースにして、流行のものを取り入れながら、進化しています。
社会情勢は変わり、学校状況も変わり、子供達も変わっていきます。

その中で、最先端の学びを手に入れつつ、目の前の子供達の指導に十分な力を注げるような教師が育つ、その支援をこれからもしていきたいと思います。

ご参加を、お待ちしております。

2017/12/11

その子供がそう考える「理論」は何なのかを探し当てて

‪子供が何回も同じ間違いをすると言うことは、その子供はそう考えるのが正しいと思ってやっていると言うことなのだ。

だから、その子供がそう考える「理論」は何なのかを探し当てて、そこを直すことが大事。

答え合わせで答えだけ直しても、全くダメ。‬

2017/05/30

小学校一年生の子どもの書いた詩を読解した

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2013年5月30日 ·

(長文注意。ま、いつものことですがf(^^;)

今日の二回生ゼミは、下記の小学校一年生の子どもの書いた詩を読解した。
発表者は三番手。三人でこの詩を読み込んで、ゼミ生相手に読解の授業に挑戦であった。

ともだちってすごい 
          一馬

1. きょう ともだちから でんわがあった
2. 「しゅくだいしてから いくし まっててや」
3. とゆわはった。
4. 「ふん。」
5. とゆった。
6. ともだちって すごいなあ。
7. ぼくはダメダメ、
8. ぼくはぜったいダメダメです。
9. ぼくは
10. おかあさんがしゅくだいしいやとゆったけど
11. ぼくは しなかった。
12. ともだちはえらいねえ、
13. ぼくも がんばろっと。
14. おかあさんが
15. 「ぜったいダメな人間なんていない。」
16. とゆった。
17. ぼくもがんばる。

目的は、「この詩を通し、一馬くんの変化や成長を意識し考えるように指示する」である。勿論、これは授業の後に指導。「この詩を通し、一馬くんの変化や成長を理解し、説明できるようになる」に変更。そうでなければ、授業が成功したのかどうなのかが判断できない。

発表者たちの最初の発問は、4.行目にある「ふん」である。

「一馬くんの「ふん」と言う言葉の裏について、そのままの位置でまずは自分の意見を考える」その後グループディスカッションへとというものであった。ここでいう「裏」とは、真意のことであろう。ファシリテーションの本を紹介してあげたのだが、自分たちで買って勉強をして挑戦していた。それはよし。

だが、発問の後、ゼミ生の発表を聞き取りながら説明するその言葉が、自分の考えの巧妙な押しつけであり、本文そのものに根拠を求めた言い方ではなかった。私はそこでストップを掛けて、

『で、本文のどこにその根拠があるの? 言ってないでしょ? 敢えて言えば、根拠は私でしょ。それだったら、子どもが、「ぼくはこう思う」と言われたら、どっちも根拠が本文に求められていないと言うことで、同一の次元になってしまう。そう言うとき、多くの先生は「ま、◯◯くんの考えもいいと思うけど、これは先生の考えが良くない?」と他のクラスの子どもたちに同意を求めて、根拠なしのままで先生の意見を押し付けるという授業になってしまいがちなのだよ。本文に根拠を求めよ』

何回もこれを言う。

『私が授業者なら、この「ふん」は次の4つのうちのどれでしょうか? 1)怒り 2)驚き 3)ねたみ 4)尊敬として、選ばせたな。先ほどの君たちの発問は、どうでしょうか?というもので、これはオープンエンドと言う質問の仕方。簡単に言えばどうでも答えられてしまう。私のはクローズドエンド。ま、ハイとイイエで答えられるもの、答えが限定されるものだ。こうすると、議論がしやすくなるでしょ』

と解説を加える。

発表者による二つ目の発問は「13.「がんばろっと」が、17.「がんばる」の気持ちの変化について、自分の意見を考える」であった。これも発問になっていないf(^^;。「なぜ、このように変化したのか?」とすべきであると指摘。また、発表者が考えたこたえは、ややどうなのよ?というものであった。

でもまあ、いい所に目がいき始めている。
ファシリテートを意識しているので、一時一事の原則が守られている。その結果、ゼミでの議論も活発になり、発表者の解釈に対して、異論が唱えられるなど面白くなってきた。

全部が終わって残りの13分で私の解説の時間となる。
私の最初の発問は、
『この詩が連絡帳に書いてありました。あなたは担任の先生です。赤ペンでコメントをします。さて、なんて書きますか?』
である。学生たちに書かせて、私ならこう書くという例を示す。私なら、

『いいところがみっつあるね。いいともだちだね。いいおかあさんだね。がんばるってきめた一馬くんもいいね、だ。さて、ではどうしてそういえるのか。この詩の中に入って行く。私の読みがおかしければ、質問や反論は多いに受け付ける。ただ、10分しかないので、時間切れになったら、掲示板に書くこと。いくぞ』

と言って始める。

『この詩に描かれている一馬君の真意、つまり「裏」に入って行くのに「ふん」というところに着目したのは、いい。では、君たちは1)怒り 2)驚き 3)ねたみ 4)尊敬のうちのどれだと思うか? (全員に手を挙げさせる)。私は4)があると読んだ。なぜか?』
「3.にゆわはったとあります」
『そうだ。これは尊敬の表現では?』
「でも先生、京都では普通にいいませんか?」
『それもある。しかし、saidの意味で使われている言葉をこの詩の中に見ると、5.ゆった 10.ゆった 16.ゆったとあり、ゆわはったは他には無い。だとすれば、ここは尊敬の意味を込めて行っていると考えることが出来るだろう』
「なるほど」

『その作品の中に入って行くには、その作品の中に入って行く扉を見つけ、その扉を開ける鍵を手に入れることが大事だ』
「……」
『この作品はその扉と鍵がはっきりと書かれている作品である。分かるか?』
「……」
『扉は、何回も繰り返される言葉であることが多い。また、鍵はその繰り返される言葉で一部分が違っている言葉であることが多い。今の例でもそうだ。ゆったが繰り返されているが、ゆわはっただけ違っている。ゆったが扉で、ゆわはったが鍵だ』

『さ、そうだとしたら、他にある扉と、鍵はなんだ? 捜せ』
と指示を出す。
もちろん、ぼくが扉で、ぼくは、と、ぼくも の違い鍵として読むのである。
また、7.ダメダメ 8.ダメダメですを扉として、15.の「ダメな人間なんていない」を鍵として読むのである。

12.でともだちはえらいねえ、と思えたから、13.でぼく「も」がんばろっと。となれた。そして、15.でおかあさんから「ダメな人間なんていない」言われたことで、ダメダメのぼくは、17.で「ぼくも がんばる」と決意できたと読める』

と私の分析を紹介した。
『そう読んだので、「いいところがみっつあるね。いいともだちだね。いいおかあさんだね。がんばるってきめた一馬くんもいいね」とコメントするだろうと言ったのだ』

子どものを理解する為の「扉」と「鍵」。
二回生ゼミは、子どもの詩を使ってこの「扉」と「鍵」を発見するレッスンを行っている。
勿論、話し言葉、身振り、癖、服装、表情などさまざまなところに、この「扉」と「鍵」があり、それを見つけ出し、使えるようになることが大事になってくる。

その為にフィールドワークを行い、経験を積むのだし、
こうしてレッスンを行うのである。
身につけなければならないことは、たっっっくさんある。
勉強しましょう。