2010/12/17

小沢征爾さん

小沢征爾さんが退院されて、音楽の現場に戻られたというニュースが昨日流れた。本当に嬉しい。私は3回、本物の小澤さんにお会いしたことがある。そのうち2回は直接で、さらに一回は話もしたことがある。

最初は、日比谷公会堂のコンサートである。小学校の時の音楽専科の先生であった増田先生に友人と二人で、連れて行って頂いた。小澤さんがボストンフィルの音楽監督を勤め始めたころのことだ。始めてのクラッシック音楽のコンサートが、小澤さんであった。魂を鷲掴みにされたのを覚えている

コンサートの後、銀座のレストランに連れて行って頂いた。感動と緊張のあまり声が出ない。喉が張り付いていた。そんなところに増田先生は、当たり前のようにワインを注文して飲ませて下さった。「最高の音楽にワインがないのは変でしょ」と。代金も「良いの、出世払いで」と言われたままだな。

『ボクの音楽武者修行』(新潮文庫、新潮社、 1980年)との出会いだ。青春ものの本を読むことにハマっていた頃に、出会った。衝撃だった。こんなにダイナミックに生きる青春ってのがあるんだ。上手くいえないが、今の若者が昔に人類は月に行ったことがあったと知ったのと同じか。

そして、3回目である。それは、私が大学生時。渋谷から井の頭線に乗った時のことだ。井の頭線の最後尾の車両に乗って明大前で乗り換えるのに備えていた時のことだ。何気なく車内を見回したら、最後尾の辺りが輝いて見えた。いや、本当にそうなんだ。で、何だろうと思ったらあの髪型。

ほぼ満員の車内で、あの髪型は日比谷公会堂で見た時と同じように動いていた。(え、まさか小沢征爾さん?)。誰も気がついていない。小澤さんらしき人は供の人と一緒に何か話している。(え〜、聞きたい。そばに行きたい。つーか、なんで誰も気がつかないんだ。人違いか?)

そんなはずはない。あの髪型である。急行渋谷行きは下北沢に停車した。見ていると小澤さんは下りる気配。私も慌てて下りた。確かに小澤さんだ。そこで思い出した。(あ、齋藤秀雄メモリアルコンサートだ! ということは、やっぱり本物だ!)。ホームで体が震え出した。

あの髪型で白のTシャツ一枚という小澤さんであった。もう何がなんだか分からないまま、近寄って行った。そして、『小沢征爾さんですよね』と前後を考えずに話しかけていた。何か話しかけないで入られない自分になっていた。すると「はい(^^)」とあの満面の笑顔で見ず知らずの大学生に。

『む、昔、日比谷公会堂で演奏を見ました。本も読みました』そんなことを話すのが精一杯だった。「そう。ありがとう」『久しぶりの日本での公演ですよね。頑張って下さい』「ありがとう」と言いながら書いて下さった。『頑張って下さい』なんて、今思うと赤面であるが、気持ちよく受けて下さった。

(ああ、世界を相手に仕事をしている人の懐の深さってこう言うことか。なんて心が開かれているんだろう)と思った。しばらくホームに立ち尽くしていた。

その小沢征爾さんが、復活された。嬉しい。それだけでも嬉しいのに、昨日の深夜にNHK BShi 00:00 BSベスト・オブ・ベスト ハイビジョンスペシャル「小澤征爾 終わりなき道」が放映されていた。届いたばかりの46インチTVにタイムドメインスピーカーで打ちのめされた。

「四谷のイグナチオ協会で初めてパイプオルガンを聞いたんだよね。音は俺たちの想像もつかない上と繋がっているんじゃないかと思ったんだよ」。(あ、私も浪人時代に良く行ったところだ。昔の方ね。ま、私は涼みにだったけど。へー、ここでも繋がっていたんだ)

「一つの音が鳴る前に、その音の予感をどれだけ感じられるかが大事なんだ」(一つのことが始まる前に、その予感をどれだけ感じられるかということだよな。繋がっていないものも、実は繋がっているんだよな。それをどう感じて、次に繋げるかだよな)

小澤さんに対して友人や聴衆から「彼は、理想の音楽に突き進む。ダメでも突き進む。それを諦めずにやり続けた。それが凄いのだよ」「作曲家の僕、音楽の僕になってほしいし、なっている」という声があった。俺は何をしているのだと背筋が伸びた。

 

30年。こうして魂を鷲掴みにする音楽を生み出し続け、生きる姿で脳みそを揺さぶり続けてくれる小沢征爾さん。復活、本当に、嬉しいです。

2009/05/04

「天国はない。ただ空があるだけ」

仲間のブログにも忌野清志郎さんのことが多く書かれている。
私たちの世代は、多かれ少なかれ、彼の影響を受けている。

出会ったのは、高校時代。
「ステップ」「キモチE」「トランジスタラジオ」「雨上がりの夜空に」「スローバラード」。その一方で「僕の好きな先生」だ。

同世代の連中にとって、これらの曲にはそれぞれの思いがあるように、私にもそれぞれの思いがある。

はじめて小劇場の演劇を見たのは、大学時代であった。「宇宙で眠るための方法について」第三舞台が、下北沢のザ・スズナリに進出してきたときのステージである。

この舞台は、
(演劇は、これが最初で最後でも良いかもしれない)
と思ってしまったステージだった。その劇中で最初に使われていたのが「トランジスタラジオ」だった。体震えるというのはこのことかと思った。

劇が終わった後、興奮しきった私が静まらないのを今でも思い出せる。

忌野清志郎さんの出身校は、都立日野高校だ。多摩地区の学校であり、多摩地区で高校時代を過ごした私としては、嘗て都立高校が都立高校だった頃の良き時代の風を感じさせてくれる「僕の好きな先生」を今は本当に懐かしく思う。

自分の車を持ったのは、社会人になってから。カーステレオから流す曲は決めていた「雨上がりの夜空に」「スローバラード」。日本中の同世代がやったことだろう。

さらに、決定的だったのが『COVERS』の「ラブミーテンダー」「イマジン」「サントワマミー」「SUMMER TIME BLUES」

だ。

「なに言ってんだ。ふざけんじゃね、核などいらね」
「天国はない。ただ空があるだけ」
「二人の恋は終わったんだぜ 許してさえくれないお前」
「暑い夏がそこまで来てる みんなが海へくり出していく 人気のない所で泳いだら 原子力発電所が建っていた」

そう、「天国はない。ただ空があるだけ」。
天国ではなく、私たちの中にだ。

2006/02/12

80年代の音楽

オリンピックが始まった。
この大会が終わると、二月も終わる訳だがあっという間なんだろうなと思う。

開会式の選手入場で使われていた音楽は、80年代の音楽が主であった。懐かしくなる曲ばかりであった。あまりにも懐かしかったので、70年代後半から80年代までの曲を聞き返していた。

ユーミンの曲である。
「ひこうき雲」を最初に聴いたのは、中学生の頃だろうか。自我なんて言葉は知って入るが理解なんて出来ていなかった頃だと思う。きちんとした音程が取れている訳ではないが、その危うい音程が思春期の心の揺れと見事に共振していたのだと思う。

私がその心をなくしたのか、ユーミンが変わったのか。最近の彼女の曲を聴いても、あの時のような心の揺れはない。哀しいが、それでも、いまでも心をふるわす曲を手にすることが出来たことに感謝しよう。

サザンである。
いまだに魂をふるわす曲を書いてくれている。
オリンピックでは、なぜかオノヨーコが出てきてメッセージを読んでいた。
(まったく、そのぐらいメモを見ないで言えよ)
と思った人は、世界中で何人ぐらいいるのだろうか。
そして、イマジンが歌われた。

イマジンと言えば、私にとっては桑田さんの唄と、RCサクセションの唄である。
桑田さんのは、とにかくいいなあと思わせる。しかし、ぶっちぎりはRCである。

「天国はない。ただ空があるだけ。みんながそう思えば、簡単なこと」

と忌野清志郎さんはアルバム「カバーズ」で歌う。
世界で大国が関わる戦争が起こるたびに、このイマジンは反戦歌と見なされて放送禁止になる。逆説的に言えば、言葉や歌にまだ力があると信じられる瞬間だ。

リアルタイムのビートルズには間に合わなかったが、その後の黄金期に思春期を過ごせたことは幸せだったなあと改めて思う。

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