5/18
全国大学国語教育学会での発表を終えました。
10年ぶり二回目f(^^;。
会場は40人定員のところに、椅子席、立ち見まで出てありがたいことに。
宗我部さんや渡邉さんも見に来てくれて、学芸大学の大熊先生、また、大熊門下生のみなさんも見に来てくれて、
(うりゃあああ、やるぞ!)
となりつつも、結構冷静に進めることが出来ました。
持ち時間20分の時間をギリギリまで使って終わり、質問や意見も10分の時間の中で5人がしてくれて、今後の研究のアドヴァイス等も、前向きなものを頂きました。終わってからの休憩の時間でもあれこれ意見を貰ってありがたかったなあ。
日本の国語教育のトップの学会での発表で、それなりのインパクトを与えることが出来たのではないかと思う。さらにマンガ漢字学習材を子供達にやらせてみて、その学習の成果を分析して、論文に育てようと思う。
日本の学校教育を変えたい。
国語の授業を変えたい。
国語を実技教科にしたい。
漢字の学習を変えたい。
面白く勉強したっていいじゃんとしたい。
発表は終わったけど、新しい始まりだ。
気持ちのいい始まりだ。
いろいろとありがとうございました。
ふうううううう。
10/23
まずは、以下の文章を読んでいただきたい。
◆
こんちには みさなん おんげき ですか? わしたは げんき です。この ぶんょしう は いりぎす の ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっかにんんげ は もじ を にしんき する とき その さしいょ と さいご の もさじえ あいてっれば じばんゅん は めくちちゃゃ でも ちんゃと よめる という けゅきんう に もづいとて わざと もじの じんばゅん を いかれえて あまりす。どでうす? ちんゃと よゃちめう でしょ?ちんゃと よためら はのんう よしろく
◆
ひらがなばかりでちょっと読みにくいと思いますが、読めましたか? 読めましたよね。私たちの世代だと「こなさん みんばんわ」を思い出すのですがf(^^;、それとはちょっと違います。
で、一文字ずつ聲に出して読むと、とんでもないことになっているのが分かりますよね。昨晩寝る前に、つぶやいて寝た所、結構大きな反応がありました。
時々ネットで見かけるこの文章。ここにある「ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか」が気になる訳です。そこで捜してみました。
一つ目は、文士・事物起源探究家 松永英明さんのブログ。細かく調べていて、面白かったです。
http://www.kotono8.com/2009/05/10yometeshimau.html
「ケブンッリジ だがいく の けゅきんう の けっか」は都市伝説のようですね。
二つ目は、学芸大学の岸先生の認知心理学を活用した文章読解・作文指導のヒントです。
http://psycho.u-gakugei.ac.jp/teacher/kishi.html
トップダウンとボトムアップという考え方は、教えると学ぶにも似ているのかなあと思いながら読みました。
◆
ま、私が不思議に思うレベルのことは、大概もう調べられているということの良い証左ですね(^^)。ただ、こうして一つのことを調べていったら、岸先生の文章に出会うという楽しみは、やはり良いものだなと。一時セレンディピティという言葉が流行りましたが、そうなんだと思います。
仮説、または妄言や野望をばらまきながらでも前に進もうとしなければ、出会うことのないものというものはたくさんあるのだろうなと思う訳です。勿論、良いものばかりに出会うとは限りませんが、それでも大事なことなのだろうと思うのです。
◆
と言い訳をして、これを児童生徒にやってみたらどうなるかなと思うのです。
恐らく、日頃から文章が読めている児童生徒は、このひらがなだらけで単語がおかしな順番になっている文章を、読めると思います。しかし、文章を読むことが苦手な児童生徒ほど、間違いに気がつくと思います。
それは、文章を読める児童生徒は、黙読で内言語化しつつ、さらにその単語の音を心の中で声に出さないで、見ているからだと思います。見て、意味を取っている。音にしていないわけです。我が家の娘(4)は、
「いいなあ。大人は。スラスラ読めて」
と三歳の後半の時に、言ったことがあります。
これは何を示しているかというと、娘にとっての言葉は音で、音の固まりとして言葉を認識しているということです。文字を覚え始めた娘は、たとえば「おはよう」と書かれいてる文字を「お、は、よ、う」と人文字ずつ読む訳です。しかし、大人はさらっと「おはよう」と読める。これがうらやましいということを言っていた訳です。娘は文字を一つずつ音に出して、その結果、あとからつなげて意味を拾うということをしているわけです。
私たちは、簡単に「教科書を読みましょう」と言いますが、実は多くのステップを経て読むということができるようになっており、さらに、読むは、見るにつながっていくということもあるのではないかということが、今回のことからわかるのではないかと思うのです。そして、この見るが「速読」と関連しているというのが、速読の考え方だと私は理解しています。
◆
仮説をあれこれ述べるのは、楽しい(^^)。
12/17
初めて卒業させる一期生。彼らの卒業論文提出締め切り3時間前となって、私が何かをするわけでもないのだが何かせねばという気持ちになり、書き表した文章である。論文の胆である問いとは何かについて書いてみた。
本当は事務仕事を進めれば良いのだろうが、そんな気持ちにもなれず、何か卒論に関わりのある文章をと思って書いていた。
論文を書いてみたい、書かねばならない。けどどこから始めて良いのかが分からない人へ、クリスマスプレゼントかな。
◆
学生諸君にとって卒業論文は、初めての論文である。勿論、学術論文としては修士論文以上が論文であるが、折角論文を書くのだからそれなりの指導はしたい。
聞く所によると、東大、早稲田の法学部には卒業論文がないとか。たしか、EUでは卒業論文のない大学は、大学卒業の資格認定をしないという決まりがあったと思う。大丈夫か東大、早稲田?。うち、京都橘大学は大丈夫だ(^^)。
で、学生に論文とは何かを聞くと、よく答えられない。それでも聞いてみると、感想文と報告文であることが多い。簡単に言うと、思いを書くのが感想文。事実を書くのが報告文。考えを書くのが論文であるということが理解されていない。
では、考えを書く論文の柱は何か。簡単に言うと、問いがあって答えがある文章のことを言う。さらにもう一つ加えると、問いがあって論証があって答えがある文章である。この二つ、ないし三つのうちで何が一番大事かと言えば、問いである。
ところが、この問いというものが、さらに理解されていない。クリアな問いが立てられるかどうかが論文の殆どすべてなのだが、ここが理解されていない。だから、立たない。そこで、ここを説明することになる。
◆
論文は問いである。クリアな問いをどう立てるかである。クリアな問いの条件は二つ。a.まだ誰も解明していない問いであること。b.自分に解明できる問いであること。この二つである。
a.世の中の森羅万象に疑問を持つことは可能である。しかし、問いに高めるのは割と難しい。いや、指導を受けていない学生たちを見ていると疑問を抱くことも難しいように見える。例えば、『乳児は大人があやしているときに舌を出すと、乳児も舌を出すね』「はい」『ここに疑問を持てる人?』
殆どの学生が変な顔をしている。何がおかしいのだという顔だ。『あのね、君たち舌を出せる?』当然学生たちは出せる。『じゃあなんで出せるの?』と聞いてみる。すると先ほどの私の質問について、変だということに気がつく学生が出てくる。
『そう。乳児は言語を持っていない。君たちには「舌を出せ」というとその言葉を聞いて理解して、舌を出すように命令が下る。じゃあ、言語を持っていない乳児はどうやってこの情報を手に入れて舌を出す行為につなげているんだ? 分かる人?』というと手は挙がらない。
『誰も分からないか? そう、このように誰も分からないことを問いにするのだ』学生たちは、なるほどという顔をしている。『だが、これは嘘。なにが嘘かというと、この問いはもう既に解明されているのだよ。知らないのは君たちの勉強不足ということなんだな』
となると、この疑問は解明されているのか? またはどこまで解明されていてどこから解明されていないのかを確認する作業が必要になる。これを先行研究という。ちなみに、私のゼミでは先行研究の結果、自分が立てた問いが既に解明されていると判明した場合、「振り出しに戻る」と言っている。
◆
先行研究の結果解明されていない部分が見つかると、これを「盲点」と呼び、そこに隠れている問題を明らかにして問いを立てる。然し、これではb.が満たされていない事がある。先ほどの乳児の件で言えば、もしこの疑問が問いとして成立したとして、果たして私に解明できるのかということだ。
この問いは、脳科学の知見を学び、ニューロンの構造などを十分に理解したものが、やっとたどり着くことのできる答えに繋がっている。『a.宇宙に果てはあるのか? 誰も解明していない。b.ではあなたに解明できますか? 卒論じゃあ無理だね』このように自問自答を繰り返す。
そうして、自分が取り上げたいテーマについて、クリアな問いを一つ見つけ出す。これが手に入ったら、後は仮説を立て、論証のためにすべきことを考え、結論までの論の道筋を立てる。その道筋を目次案にロードマップとして示し、結論を論文のタイトルとする。
ここまでできたら、半分は出来たことになるだろう。定められた書式に則って、パラグラフライティングを活用して、一直線に論を通すように書き進める。完成となる。だから、論文はクリアな問いが必要不可欠なのである。
◆
なお、どうしても疑問が思い浮かばないという学生には、以下のサイトが有効です。全国子ども電話相談室。過去の優れた質問と回答を見ることが出来ます。http://bit.ly/aO4zaT 私はこのサイトを使って、子どもの質問に答えるという課題を学生たちに与えています。
◆
以上、論文の胆の問いについてでした。
11/20
明日の教室は、立命館小学校の英語スタッフ四人による講座であった。実に良かった。本当に。手前味噌になるが、明日の教室に来ていただく講師の先生方はとても良い。
今回の講座で何が一番良かったのかというと、私は講師が藻がいている姿を見せてくださったことだと思う。
講師をすると分かると思うのだが、講座というのは基本的には完成した理論や実践を元に、そこの部分を伝えることが多い。そもそも中途半端なものは出せないし、開発の途中に何があったのかなんてことはあまり語らないことが多い。
ではあるが、私はそこが大事だと思っている。実践は、「子どもと教師」の関係で行われる。どんな子どもがいて、どういう教師のどんな指導があったのかで決まる。だから言ってしまえば、結論だけ聞いてもダメなこともある。
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私はかつて『月刊国語教育』(東京法令 2001年9,10,11月号連載「対義語でポン!」)という原稿で、このことを論じたことがある。出来上がった教材ではなく、その教材が出来上がるまでの教師と子どもとの関わりはどうだったのか。何が問題でそれをどう解決しようとしたのかということが大事だと考え、その過程を書いた。
この日の立命館小学校の英語スタッフのみなさんは、「森の中を彷徨っていた」と話されていた。「出口はどこかと失敗を重ねながら彷徨っていました」と話されていた。
もちろん、この講座ではそこから得られた基本的な考え方を元に、具体的な授業の場面で説明がされていた。例えば、
・チームティーティングでネイティブと日本語の教師の関係は次の三つのうちのどれが正しいか。
・子どもたちが思わず使いたくなってしまう英語のスキットの開発はどうしたらいいのか。
・たくましい耳を鍛えるためにはどうしたらいいのか。
などである。具体的な内容については、発売されるDVDをみていただきたい。とにかく、どうしたらできるようになるのかという格闘の形跡と成果を3時間半で余す所なく語って頂いたのであった。
◆
今回はうちの二回生の学生たちも多く参加していた。私は、学生たちに、英語をどう指導するのかということよりも、どう課題に向き合って行ったのかということを学べるすばらしい機会になったのではないかと思っている。
straggleというかscuffleというか、大の大人が藻がき苦しみながら前に進んだ姿を、間近に見られたことが大きいと思っている。
◆
学生たちは、大学受験や採用試験までは
1)試験範囲のある中で
2)習ったことを前提に
3)できる部分を優先的に解く
という試験の受け方を指導されてきている。私も受験指導を行う際は、そのようにしてきた。
高校入試や大学入試で必要なのは合格点であって、満点ではない。だから、問題の傾向を考えて出る部分を勉強し、試験ではできる部分から問題を解き、合格に必要な点数をかき集める。解けそうな問題から取りかかるのである。
ところが、仕事に就くとこれがまったく逆になる。
a)試験範囲のない所で
b)やり方なんて教わることなく
c)誰もやっていない部分について解く
ようになるのだ。
私は教員の中にも
「そんなものは大学で習っていないからできない」
とパソコンの扱い方やディベート指導でこのように文句を言うのを聞いたことがある。だから、学生が「習っていないからできない」という言い方をするのも分からないではない。
だが、それが正しいことではないことも分かっている。
『習っていない? そうじゃあ、勉強してやりなさい』
『分からない? そうじゃあ、分かりなさい』
『できない? そうじゃあ、できるようになりなさい』
なのである。この指導を通して、自分と自分の仲間でなんとかするということ学生時代に体験しておかないと、愚痴ばかり言って何の仕事もできない人間になってしまうのではないかと思うのだ。
習ったことを元に、未知の世界にある、何やらの正解をパッケージとして取り出す。勉強が足りないなら、自分でする。この考え方を身につけたものは、自分の人生がうまく行かないことを人のせいにすることはない。むしろ、うまく行かないことを自分の人生のチャンスと思うようになって行くことすらあると思う。
◆
人類は、
「そんなもん、お前無理だって」
と言われることに挑戦し続けた人たちの、失敗の積み重ねの向こう側に、やっとたどり着いた結果の上に立っている。
空を飛ぼうとして、どれだけの人が馬鹿にされ、命を失ってきたことか。誰もやったことがないからできない? 違う。
誰もやったことがないことが、イコールできないではない。
誰もやったことがないから、成功するためのフィールドが用意されているということも言えるのだ。日本の小学校英語をどうするのか。立命館小学校の英語スタッフだって、最初から答えがあったわけではない。必要だから、走りながら、そう森を彷徨いながら答えを出してきたのである。
その森の中にいるときは、不安である。
出口が見えない。
見えないまま出口を求めなければならない。
時には、恐怖ですらある。
だが、森を抜け出すにはそこで藻がくしかないはずだ。
すると、ある時森は突然、出口を用意してくれる。
その格闘する姿を間近で見ることができた、実感することのできた今回の明日の教室であった。大きな学びだった。ありがとうございます。
6/9
一限に所用発生。いつもよりも早く大学に行く。
◆
一回生ゼミ。今日は、教職保育職に関する素朴な疑問について考えるというレッスン。個人で書き出し、小グループで討議し、問いの質を高めるという作業をする。
学問とは、要はどれだけクリアな問いを立てられるかに掛かっているとも言える。その問いは、誰もが答えたことの無い問いであり、なおかつその人が答えられる問いである。その問いと答えの関係を論じた文章のことを、論文という。
一回生から、卒業論文のその問いに向けて、少しずつレッスンを始める。
学生たちは、各自が出した問いを手分けして自分で調べて、来週までに答えてくる。楽しみである。
◆
その後、GP委員会の会議、さらに学科のコース会議と会議は続いた。ま、いつもの水曜日よりは会議は少なかったかな?
5/1
じゃあ、どうやったら違和感が得られるのであろうか。
この辺りで昼寝に入ってしまった。
続きは夢の中で考える私であった(^^)。
◆
で、考えた。まじめに素直に勉強する私と、本当にそうなの?と疑う自分の両方が自分の中にいることが大事。
勉強というのは、素直に指導者の指示に従いまじめにやることで伸びる部分が多い。一回一回算数の問題にケチを付けてもダメである。
「リンゴ三つとみかん二つは足すと何個になるでしょう」
という問題に
『そんなものは、足せない』
と言い張る小学校一年生の時の私のような子どもは、アウトである。勉強による成績はなかなか伸びない。先生からも嫌われるf(^^;。
ところが、指導者の指示を疑いも無く受け入れ続ける体を作ってしまうと、今度は先生の説明に、文章の中に疑いを持つことができなくなってしまう。なんでも納得してしまうのだ。だから問いが立たないのである。
◆
ざっくり言うと、高校まではまじめに素直に勉強することを求めているのが日本の学校である。しかし、大学は専門課程に入る頃から、論文を書かせる頃から疑う自分が重要になる。
嘗ての池田少年は、大学生になってやっと日の目を見ることになったのであるf(^^;。ま、同じ世代の仲間からは相変わらず変なやつと思われていたが、上の世代の仲間からはおもろいやつと思われるようにもなって行ったのが、この頃だったなあ。
◆
素直にまじめに勉強しないと、基礎的なものは身に付かない。だからこれは大事。だが、鵜呑みにしないことを意識しないとダメと言うありきたりの答えにたどり着く。
もう少し考えると、勉強においてはなんとか理解のところまでは到達すべきであろう。しかし、納得いかなかったものは、そこに違和感の芽があるはずである。無理矢理納得する必要は無い。そこが大事な部分なはずである。
◆
嘗て、ファイルメーカープロに修士論文のデータを入力しているときに強く感じたことがある。
(を、これは修論の良いデータになるな)
と文献を引用のために入力していると、そのデータは自分の主張を支えるためのデータであるにもかかわらず、そのデータに反論したくなるという経験を多くしたのである。
私は「本当にそうなの?」という部分が強いのだなあと改めて思ったものだ。研究をするためにはこういう私の部分は強みになると思う。が、日常生活を送るには相手から見ると迷惑な存在だろうなあとも思う。
◆
頭のどこかにこの二つを切り替えるスイッチがあって、そこを押すと切り替わる面白いなあとは思う。だが、これは無理。しかし、そういう意識をするだけでもかなり違うんじゃないかなと思う。
少なくとも私は、日常生活をなるべく人様に迷惑を掛けないように生きるために、切り替えて「まじめに素直に」ということを考えて生きている(つもりだ)f(^^;。
4/30
金曜日は体を休める日にしたいなあと思っている。出来ればゆっくりと寝て、だらだらと本を読んでという感じにしたい。
◆
今日は、午前中食事のあとベランダでお茶を飲みながら、本を読む。読んでいたら、睡魔が襲ってきて、さらに娘が襲ってきた。
「お父さん、起きて!」
との攻撃である。しばらく、私の体の上に寝転がって一緒に寝る振りをするが、結局起こされる。私の読みかけの本には何やら怪しい書き込みもたくさんしてある。私が読みながらあれこれ書いているのを真似しているのだろう。
◆
昼前に、娘に連れられて出かける。自転車を押しながら近くの公園に向かう。滑り台とブランコだけの公園だがお気に入りである。
「お父さんも!」
と言われて一緒に滑り台やブランコをする。まあ、公園でひとりおっさんが、ブランコに乗っているのは怪しいので、何となく乗りたい時も我慢していたが、いまは娘のお陰で堂々と乗れるf(^^;。ありがたいことだ。
◆
昼ご飯を外食して、帰ってきたらお昼寝。私も付き合う。付き合いながら、あれこれ考える。卒論指導に関わってのことである。
「全ての意見は反論である」
宇都宮大学教授の香西秀信氏は、このように述べていたはずだ。納得するならわざわざ言わなくても良いわけである。意見は反論だ。
その反論を、主張と根拠を元にして論理的に意見を構築し、反論して行くと科学になる。科学とは反証可能性のことであると、カール・ホパーが言う通りである。
その通りなのであるが、そんなに簡単に反論は見つからないのだ。数学者の藤原正彦氏は、
「論理とは、1足す2足す3足すと繋げて行くものである」
のようなことを述べた後に、
「では、最初の1はどうやって手に入れるかと言うと、論理では手に入れることができない」
と言っている。たしか、『国家の品格』(新潮新書)だったような気がする。じゃあ、どうやって手に入れるかと言うと、藤原氏は直感だと言っていた気がする。
◆
さあ、こうなるとあれこれ考えるのである。
問いがあって、論証があって、答えがある「論文」を書くのに大事なのは、論理性だけではなく、問いを得ることである。そして、その問いを得るには、論理性では得られないということになる。
であるとすれば、その問いはどこから手に入れるのであろうか?
私は、違和感だと思っている。
1)違和感を得る
2)疑問を持つ
3)問いを立てる
4)仮説を立てる
5)論証する
6)答えを出す
という流れである。論理性が必要になるのは、3)から先ではないだろうか。
◆
じゃあ、どうやったら違和感が得られるのであろうか。
この辺りで昼寝に入ってしまった。
続きは夢の中で考える私であった(^^)。
11/8
ベランダにあるハイビスカスにスイートバジル。思ったよりも頑張っている。まだ 花を咲かせているし、食べることも可能である。
今年の秋はゆったりと動いているようだ。
◆
娘は、誰が教えたのでもないのに「がっこ、せんせいになる」
と言っている。急に言い始めている。二歳二カ月になったばかりである。将来学校の先生になるそうだ。先生にはいろいろな種類があるので
『お花の先生とか、お医者さんの先生とかあるけど?』
と聞くと
「がっこ、せんせい」
とやっぱり答える。さらに、
「ぱぱ がっこ せんせい」
とも言う。おいおい、誰が教えたんだ? 私も奥さんも教えていないのに。大学祭等で学生が話したのを覚えているのかなあ。大したもんだ。
だが父は、少し複雑な思いである。どんな仕事に就いても、私は、 半分嬉しく、半分心配なのであろうが、自分がしている仕事と言うのは、あれこれ見えるので一層複雑な思いなのである。
◆
それにしても、娘の文脈把握能力は大したもんだと思う。
しっかりと話を聴けているのだと思う。文章の中の単語を取替えるだけでなく、語尾やイントネーションだけで文意を理解したり、自分に都合の良いときは、ハイと返事をし、都合が悪くなると急に話を変えたりと、まあすごい。単語の量が少ないのと、発音が甘いので子どもだと思うが、時々よく分からなくなる。
単純に凄いと思う。
◆
体調が優れないと気合いが入らない。
文章を書いて調子を整えようとするのだが、書いた段階でエネルギーが放出されてしまう。
リビングに差し込む日差しに体を預けていたら、やっぱり寝てしまった。一体どんだけ寝ているんだ。
◆
さすがに仕事が終わらないので、夕方から大学に向かう。
研究室に籠り、やるべきことを少しずつやる。
今の仕事は、頭の中にある数字をもういちど原典に当たって確認してという作業をしなければならない仕事である。だいたい問題は無いのだが、大きな勘違いをしているものも見つかったりして、
(ああ、原典を調べ直して良かったあ)
というものもある。危ない危ない。
遅々として進まないが、それでも少し形になると嬉しい。
今週も結構忙しい。体調が復活しないと、週末の東京は大変だぞ。
頑張れ、私。
そして、エレベーター問題3である。
しつこい私である。
しつこい男は嫌われるのであるが、(ん? しつこい女はどうなんだ?)こと学問や仕事の世界ついては、このしつこさが重宝されるものである。
◆
まず、考え続けることの効用についてもう少し考えてみたい。考え続けているということは、基本的に脳がアイドリング状態にあるということである。場合によっては走り続けている状態と言っても良い。
つまり、すぐに加速できる状態になっているのである。これは結構重要なことではないかと思う。学校で勉強してきて、家に帰り
(ああ、疲れたお茶)
というのは、実は脳みそから見ると、損な行動なのではないだろうか。
折角暖まっている脳みそを、一度冷ましてから使うわけである。もう一度暖めるのにエネルギーを使う。考え続けるというのは、この暖め直すことをしなくてもすむ、省エネルギーのシステム運用となるのではないだろうか。
エレベーターの問題を考え続けているとき、脳はアイドリング状態にある。そうだとすれば、そのアイドリング状態を活用して、いきなり難しい本の読解に取り組んだとしても、行けると言うことである。これが考え続けることの効用である。
◆
次に、習慣についても考えてみたい。
エレベーター問題1では、行き先の階数ボタンを先に押すのか、閉まるのボタンを先に押すのかということを問題にした。
行き先の階数ボタンを先に押すより、閉まるのボタンを先に押した方が、恐らく1秒弱速く動きだす。だから、行き先ボタンではなく、閉まるのボタンを先に押した方が良いという結論であった。
しかし、今の私を振り返ってみると、これが頭では分かっているが、いまでもやはり階数ボタンを先に押している。これは習慣の問題なのであろうか。どうなのであろうか。
◆
最後に、目的について考える。
実は、行き先の階数ボタンを押すというのは、そのように習慣化されてきてしまったから押しているという側面もあるであろうが、もう一つには目的が支配しているという面もあるのではないかと思っている。
私は5階に行くのだというのが目的である。扉を閉めるのが目的ではない。だから、その目的に応じた行動が第一なのである。そうだとすれば、目的が行動を支配する力というのは相当なものだなあと思うのである。
思っていてばかりで、考えていないではないかとお嘆きの貴兄。
その通りである。まだ論証のレベルには行っていないんだなあ。
でも、こうしてあれこれ考えているのが、楽しいのである。