2017/03/28

ひょっとすると、人間らしさは、

どれだけ禁欲的になれるか。言い換えればどれだけマシーンになれるか。学習や仕事の効率を上げるためには、結構大事なポイント。

だけど、私にはまあ、3日とか、3週間とか、3ヶ月とかの期間しか続かない。それが限界。

だから、Macに頼ってダラけていても大丈夫なように仕事を組み立てながらやってきた。多分、人工知能ってのは、ここをもっとサポートしてくれるんだろうなあと思う。

しかし、さらに考えると、マシーンのように学習し、仕事をするのは、人間の仕事ではなくなるかもしれないなあと。それは、マシーンに任せればいい。人工知能に任せればいい。

その先だ。
大事なのは。

ひょっとすると、人間らしさは、ダラシなさにあるのかもなあ、と自分に都合のいいことを考える昼休み。

3257_n

2017/02/14

(を、をう。頑張るぞ)

Img_3094

この週末は、エキサイティングだった。

月曜日は、朝から小学校へ。小学校の隣の駅にホテルを取れたので、割と落ち着いて動けた。ま、結果的にiPhoneの充電コードを忘れてしまったことは後からわかったが、まあ、いいでしょう。

で、小学校で何と授業させてもらえることになっていたのだ。いや、変な日本語なのだが、そうなのだ。私は、確か見せてくれる?と言ったとは思うのだが、やってねとなっていた。それが分かったのが、土曜日の夜。そう、k先生に言われるまで、見せてもらえるものだと思い込んでいた。「え? オノマトペの授業してくれるんでしょ?」ま、まずい。全く記憶がない。本当にない。しかし、まあ、小学校2年生に授業をさせてもらえるなんて、しかもk先生のクラスでなんてもうありえないお話なので、やらせてもらうことに。

学級に行ったら、子供達は知らされていなかったようで、
「今日は、君たちのために大学の先生が特別授業をしてくれます」
と言っていた。子供達大喜び。
(を、をう。頑張るぞ)
と気合を入れて笑顔でスタート(^^)。

で、その後はまあもう何とも楽しい時間を過ごさせてもらった。
大学では教科教育法(国語)の授業を担当しているが、まあ、中学校出身の私には小学校で教えた経験はほとんどない。だから、娘の年齢に近い子供達だからというイメージで挑んだわけだが、何とか大丈夫だったと思う。

私が大学でやっているのは、小学校高学年の児童に教えるイメージでやっているが、今回その内容を小学校二年生にやったのだ。やったのは「日本語を楽しもう」というテーマで。あの小学生のパワーと付き合ったこの時間は実に濃密だったなあ。

いい時間をありがとうございました。

新幹線に飛び乗ったのは、14:10だったかな。
その前に、マラソン大会を頑張った娘のために、東京のお菓子をお土産に買おうとしたら、ギリギリの時間になってしまった。新幹線の中からあちこちにメールを書き、また、京都駅で会う予定の人に到着予定時刻を連絡し、忘れてきたiPhoneの充電コードを送って欲しいとホテルに連絡しとしながら、気がついたら富士山が登場。

一目見たので安心したのだろうか、睡魔が。
何とかタイマーをセットして寝る。

京都駅ではグランビアに駆け込んで、小一時間打ち合わせ。
何とかこれもスタートしそう。まあ、良かった。

で、帰宅して慌ててお父さんになって、娘のバレエのお迎えに向かいました。18:45に無事娘に会えました。
車の中で、バレエのこと、東京のこと、マラソンのことなどたくさん話をしながら帰ってきました。
てんこ盛りの週末。
エネルギーを蓄え、放出し、一歩前に踏み出した時間でした。

2016/12/31

こんな風になるとは思わなかったことが二つ。亀と諺です。

Img_5072

ふう、熱も下がって一安心。

口の中がヒリヒリするのは治らないけど、まあ、いいでしょう。

風呂が沸くまでにちょっと。

1年間全体を振り返るのは、面倒なので(^^)、思いつくままに。

今年の最大は、何と言っても再現ですね。

こんな風になるとは思わなかったことが二つ。亀と諺です。

まず、亀です。

亀の甲羅が手に入ると言われて、本当かと思っていたのですが本当に手に入って、それを元に甲骨文字の再現をしたわけです。私にとっては恍惚でした。私が調べた限りにおいては、甲骨文字の再現をしているネット上の記録は、私がするまでにはありませんでした。亀卜の記録は論文にもありますが、甲骨文字の再現はありません。

ここからあれこれ始まったわけです。

授業化を想定していた私は、甲骨文字を甲羅に刻すのに彫刻刀では子供たちは大変だと言うことでミニルーターを手に入れてやって見ます。ところが、これでは歯が立たない。で、まあ、せっかくなのでと思って家にあった一升瓶に文字を刻して見たところ、これが非常に楽しい。結果的に一升瓶に般若心経を刻し、大学の書道展で展示してもらうことになりました。また、そこから、板ガラスに文字を刻すのもやり、蘭亭序の前半を刻し終えました。

さらに、そこから写仏の本に手を出し、ガラス板に仏を刻す「刻仏」なるものを創作してしまいました。渡辺徹さんには、「光の彫刻」とまで言っていただきました。

そして、ここに現役の学生と卒業生が関わって来ます。

現役の学生は、この亀の甲羅に甲骨文字を刻すと言うワークショップを某博物館で計画中です。また、卒業生の教員たちと一緒に、中高生に甲骨文字を刻す書写、書道の授業をすることを始めています。そのうち、高校では刻した甲骨文字の拓を取ると言うこともしました。来年は中学生に実施します。

私の方は、甲骨文字の再現のために京都の美術館を巡り、さらに東京の書道博物館、国立博物館に出向いて実物を見て目を肥やしていました。そして、京都のわが国最古に民間美術館の有鄰館で私が再現した甲骨文字が収蔵展示されることになりました。

亀からスタートした再現。最初に亀の甲羅を手にした時、まさかこんな展開になるとは思ってもいませんでした。しかし、これらは全て今年行ったものです。牛にひかれて善光寺参りではありませんが、亀に導かれて「わらしべ長者」のような気分です。

次に、諺です。

もともと、諺は好きで、中学校の教員の頃から「ことわざでぽん」「ことわざスピーチバトル」「人生名言集」など諺で遊びながら言葉を学ぶと言うことはしていました。

大学でも、この延長であれこれやっていました。今年は、その流れに一つの山がきました。

小学校の3、4年生で諺を学ぶことになっています。小学校の教員を目指す彼らに諺の授業をしておきたいと思っている私は、色々と工夫をして見ました。

その一つが、去年から続けている、カルタの諺を写真で表現すると言うものです。今年は、さらにそれを発展させて5秒の動画で表現する「諺デジタル動画辞典」の作成に乗り出しました。

二回生ゼミで行ったのですが、ハマってしまった学生が今年も結構出て、卒論のテーマにしたいと思っている学生も数名でています。この実践は、日本デジタル教科書学会で発表できまして、さらに朝日新聞の記事にもなりました。http://withnews.jp/article/f0161022000qq000000000000000W03r10101qq000014184A

もう一つは、まさに再現です。「急がば回れ」を再現してみると言うものです。

滋賀に住まいするようになって、滋賀の歴史を勉強して見ました。

すると、「急がば回れ」は滋賀県の「諺」と言うことがわかりました。

しかも、私の住まいの対岸。

これは知らなかった。

実際にやってみたいと思ってあれこれしていたまま、10年が過ぎてしまっていました。

陸路は三回生ゼミのメンバーと一緒にやって見ました。

そして、水路です。

で、今年タイミングがうまくあってお世話になっているオーパルの中岡さんに協力を得て、実際に再現することができました。八月です。

琵琶湖の穏やかな風を受けながら、気持ちよく「急いで」見ました。陸路と水路とを両方とも再現することができました。これも記事になった。

http://withnews.jp/article/f0160816003qq000000000000000W03j10601qq000013857A

さらに、ここから新しいプロジェクトも動き出している。

幸せ。

さて、次は何をしようかと画策中。

言葉って楽しいなあと改めて思う。

そして、その楽しさを学生に、学生が教師になった時に子供達に伝えていく。

そのための研究と授業を今年は一つの形にすることができた。

来年、これがどう言う展開をするのか実に楽しみ。

どちら様も、よいお年を。

小三治の「芝浜」を聞きながら。

2016/12/03

もう少し自分の違和感を大事にしたらいいのになあと思う

Img_8271

もう少し自分の違和感を大事にしたらいいのになあと思う。みんなと違う感覚を持つのは悪いことではない。法律を守らないのとは違う話なのだ。‬

‪他でもないあなた自身が
(コレは何か違う)
とメッセージをあなたに送って、贈っているのにそれを受け取らないのは、検証しないのも実に勿体無い。‬

2016/08/03

Twitterでの炎上の仕組み

Img_9491

最近気がついた、Twitterでの炎上の仕組み。
Twitterとは、つぶやきだ。
つぶやきには根拠も出典もいらない。だって、自分がそう感じたことを漏らすのがつぶやきだからだ。

文章には、表出と表現のグループと、伝達のグループがある。
漏れてしまう思いや漏らした思いが表出と表現だ。伝達には技術と熱意がいる。
伝えられる人が、しっかりと聴かなくても誤解なく伝わるようにするのが伝達だ。

Twitterは伝達のツールである。しかし、それを理解せずに表出、表現に分類される文章を、伝達のツールに乗せてしまうことがある。ここに炎上の原因があると思うのだ。「ああ、お腹すいた」とつぶやく分には特に問題はない。しかし、これが「あの人ちょっと変だなあ」と他者に関するつぶやきとなると、問題になる。

本来、伝わらないはずのつぶやきが、Twitterというつぶやきの仕組みに乗ると、「不特定多数」の人に伝わってしまう。伝達されてしまうのだ。ここが問題の所在。心の中を外に出しただけのつもりなのに、それが伝達のシステムに乗せていることに気がついていないのが、問題だと思っている。

別の観点から言えば、Tweetなのだから、思いつきでTweetしているだけなのに、「根拠は?」とか「ネットに書くのなら正確に書きなさい」などとお叱りを受けることもある。そんなもん、知らんがな。なんとなく、そう思ったからTweetしただけ。それがTwitterなんだと思うのだが、ま、いろいろと混乱する。

根拠なく、その時の思いつきを140字で乗せている。それに信憑性を求めるのは、違うんじゃないかなあと思うのだ。本人は思ったこと、感じたこと、違和感を書くのが基本だと思うのだ。論理とかはあまり気にしていないと思う。これらのすれ違いが、炎上の仕組みだとこの頃気がついた。

2016/06/08

だって、もう大人なんだから

Img_6345

自分が正当な評価を受けていないと思っている人。言葉の端々、文章の端々こぼす人は、良い評価を受けると自分の力以上の評価を相手に求めるようになる気がする。いままで「不当に」評価されなかったことへの怨念がポジションを得ることで、暴走する。これは怖いなあと思う。

だけど、人はよく見ている。本人は「正当な評価を受けていない」と思うかもしれないけれども、それはあなたの正当な評価なのだ。問題はそれにいつ気づくかである。できれば30代半ばには気づいてほしい。そして「自分が評価されない」と思ってることを嘆くより、他の人の良いところを評価するように変わっていってくれればなあと思う。そこも、また人は見ている。

評価は自分から求めるものではない。
結果を出し続けていれば、勝手に相手が評価をしてくれる。
肯定的な評価か、そうではないものかは分からないが、付与される。

言葉の端々、文章の端々でこぼさない人は、
(へー、そうなんだ)
と受け止める。そしてそれを我がごとと捉えて、自分を変える。良い方向に変える。
だけども、言葉の端々、文章の端々こぼす人は文句を言う。

で、また、この文章の振り出しに戻る。
このループを断ち切るのは、自分自身なんだよね。
だって、もう大人なんだから。

2015年6月8日

2016/06/04

ドライトマトで復興支援

Img_5886

昨日は研究日で、基本的には大学に行かずにあちこちに出かけたりしながら過ごす日であったが、三回生ゼミの諸君と活動をするために、1限から出かけた。

先日ふと思いついたのだ。熊本の震災復興についてである。

熊本は、トマトの生産量が日本一である。娘がトマトが好きということもあり、トマト作りをするようになってから知ったことだ。そのトマトでドライトマトをずいぶん作ってきた。思いついたのはこういうことである。

1.私が熊本産のトマトを買う。
2.学生がドライトマトにする。
3.大学で振舞う。
4.美味しかった人は、コンビニかどこかで義援金に寄付する。

という復興支援である。私が資金を出し、学生が労働力を提供し、食べた人が志を出すという流れである。志であるから、強制ではない。どこでやるのかもわからない。それでいいのだ。熊本産のトマトを買った段階で、もう支援はしている。あとは、志でいいのだ。

1限に調理実習室を借りて、延々とトマトを切った。ミニトマトを1/4に切った。トマトはよく見ると楕円で、白い筋が透けて見える。その白い筋に従って切るとトマトはゼリーの部分が見える。そのゼリーの部分に日を当てるのが大事なので、そのように切るをことを指示して作業をさせた。

大ざる3枚で足りるかと思ったが、足らず、さらにカゴを3つ用意して干しまくった。昨日はいい天気で1日干したらもうかアンペキなセミドライトマトになっていた。1億5000万キロ離れたところにある天然のオーブンで焼き上げたセミドライトマトの完成である。

夕方、学生たちと一緒に
「トマトはいらんかね?」
といいながら学科の学生たちに振る舞った。学生たちは、さらに掃除のおばさんや職員の皆さんにも振る舞っていた。そして、自主的に採用試験の面接練習をしていた四回生にも振る舞ってあげた。

ドライトマトで復興支援。
思いつきにしては結構いい復興支援ではないかなあと思った。
美味しかった。

2016/05/10

どっかおかしい人

Img_4451

どっかおかしい人は、自分に自信がない。自分に自信がないから他の人を許す。他の人のどっかおかしいところを認める。

どっかおかしい人は、どっかおかしいと思われていることに気がついている。いるけど、どこがおかしいのか自分ではよく分からない。よく分からないが、どっかおかしいと思われているのだから、どっかおかしいのだろうと理解している。理解するけど、どこがおかしいのかどっかおかしい人は自分では分からない。分からなけど、それが自分なんだから仕方がないと思って生きていく。

どっかおかしい人が生きていくと、おかしくない人とぶつかる。どっかおかしい人は、すぐに自分が悪いんだと思う。どっかおかしい人はおかしくない人よりも自分の方が悪いと思っているから。だって、自分はどっかおかしい人なんだから。だけど、どっかおかしい人は、どこがおかしいの分からないので、申し訳ないとは思うけど直らない。けど、直らないから、おかしくない人にますます怒られる。

どっかおかしい人はおかしくない人に「申し訳ないと思ったのなら、直せよ」と怒られる。だけど、どっかおかしい人は、たぶん自分が相手を傷つけているんだろうなあと思うので、申し訳ないとは思うのだが、何が悪いのかが分からないので直せない。謝れるけど直せない。

どっかおかしい人は、他の人のどっかおかしなことが、どっかおかしいとは思わない。どっかおかしいのは自分で、他の人は正しいんだろうなあと思う。だから、何でも受け入れる。どっかおかしい人は、他の人のことは何でも受け入れるのに、他の人からは受け入れられない。

どっかおかしい人は、どっかおかしいのか?

2016/04/29

アイデアは、こうやって生まれてくるものだと思っています

Img_3709

J・W・ヤングは、「『アイデアのつくり方』で、アイデアの定義をこのように述べています。

・アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない。

今までに発見されているものの組み合わせです。私は、この既存の要素については、知識と技術を重視しています。本と体験で知識。トレーニングや修行で技術を身につける。この知識と技術の組み合わせがアイデアを生み出すと考えています。

しかし、知識と技術があったところで組み合わせはそう簡単に生まれるものではないでしょう。何がこの二つを組み合わせるのでしょうか。ヤングは、このように言います。

・新しい組み合わせを作り出す才能は事物の関連性を見つけ出す才能に依存する。

一見関係のなさそうなものの中に関連性を見つけ出す。それは、二つのことから可能性が上がると考えています。一つは、言葉遊び。具体的には謎かけ。または連句。一見関係のないところに関係性を見つける言葉遊びです。遊びながらトレーニングができると思っています。

もう一つは、何とかしたいという熱意です。これがないと繰り返し行うことができない。一回でうまくいくなんてことはありませんから。そして、その熱意は時に運を運んできてくれます。これが結構大事。

アイデアは、こうやって生まれてくるものだと思っています。

2016/04/01

年と年度があってよかった。

12901155_101532422477134_3579830441

子供の頃は、なんで年と年度があるのだろうと思っていた。
(んなもの面倒くさい。年に一回でいいじゃん。どっちかに統一したらいいのに)
と思っていた。実に子供だ。

確かに、今でも面倒くさい。西暦と元号でも、『今が2016年だけど、平成は二十何年だったっけ?』とよくわからなくなる。ではあるが、今はこれが豊かさなんだろうなあと思うようになった。

2016年4月1日。平成二十八年四月一日。さらに、旧暦で言えば二月二十四日。桃が満開だ、もうそろそろひな祭りだ。今日を生きる人は、同じ時を生きているはずだが、それぞれの時間を生きている。

「人前で大声を出すな」
と親に躾けられた。もともと顔の骨格の関係か、声が響く上に剣道や歌をやっていたので地声も大きい。だから、普通に話していても大きい。教師にとってはいいことだと思うのだが、街中ではみっともない。

伊集院静さんが
「お前さんが、嬉しい時、その隣にいる人は、友人がなくなった悲しみに耐えているかもしれない。だから、人前では大声を出すんじゃない。それが大人の嗜みだ」
のようなことを書いていたのを思い出す。なるほど、よくわかる。他人に配慮するというのは大人であるための大事な一歩だ。

花見の席に、「その隣にいる人は、友人がなくなった悲しみに耐えている」ということは通常考えられない。だから、酒を酌み交わし燥ぐのもありだ。しかし、公の普通の場所での大声というのは、大人としては如何なものかなのだ。私たちは同じ時を別々に生きている。そして、時々、同じ時を過ごす人に出会い、喜ぶのだ。

一年は正月に始まる。これは、生活者としての新しい一年のスタートを切る時。私ならば、父として、子として、夫としての新一年の始まりだ。そして、年度は仕事人として新しい一年をスタートさせる時だ。大学の教員として新しい学生たちを受け入れ、進級した学生たちを鍛え始め、研究を加速させる時だ。

子供の頃は、正月が終わってたった三ヶ月でもう一回やり直すことの意味がよくわからなかった。生活者としての自分と仕事人としての自分の違うがわからなかったのもあるが、もう一つ、やり直すことの意味、価値もわからなかったのだろう。

人間はしょっちゅう失敗する。三ヶ月前に決心したのに、できていないことだらけだ。だから、ここでリセットするのだ。ドラゴンクエスト2的に言えば、復活の呪文を唱えるのだ。新たな気持ちになれる時間をセットし直して、もう一度、もう少しまともになりたいと願う時間なのだと思うのだ。

年と年度があってよかった。

より以前の記事一覧