このヒリヒリ感が生きている証だろうなあ
12/19
このところ、ますますあれこれ依頼をいただく。
やりたことをやるのが人生だと思っていたのは、若造の頃の私。それはそれで間違ってはいないと思う。やりたいことをやらないで何が人生だとも思う。しかし、お願いされることをやりきるのも人生だと考えるようになっていったのは仕事を進めることになってからである。
一般の会社では、業務命令で行われる。教員の社会はそんな業務命令のような形ではなく、お願いという形でされることが多い。実質的にはやってねということなのだが、お願いである。公務員は働かなくても働いても基本給は変わらないので、できれば仕事は少ない方がいいと考えるのは、珍しくはない。だが、周りを見回して、
(あ、これは俺がやらないとだめかなあ)
なんて思ってしまったら、次から次へと仕事が来るようになる。
そして、本務のほかにも依頼がくる。
実践をして自分がやってきたことが自分でもわかっているところに、そのことに関する依頼がくるのはとてもありがたかった。記録に残せるし、誰かの役に立てるというのはありがたいことである。
だから、お願いされたことについて懸命にやろうと思って仕事をしてきた。断ることは一切してこなかった。
♦
ところが、大学に移ってから、そして特に最近の依頼は
(う~ん、私でいいんだろうか)
と思うような内容にレベルのものが多い。期待されていると言っていいのか、よくわかっていないのじゃないかと言っていいのか、よくわからない。
しかし、先達の仕事ぶりを追ってみると、「依頼された仕事は断らない」とされる先生は多く、そしてその結果実力をつけてきたということを回想されている。依頼から勉強を始めればいいのだ。依頼からなんとかすればいいのだ。
泥縄式と言われるかもしれないがf(^^;。
♦
学生たちに常に言っている言葉がある。(なんか、NHKプロフェッショナルのナレーションのようだなあ)
『授業は十分な準備をしなければならない。しかし、完璧な準備などあり得ない。ということは、私たちは常に不十分のまま授業に挑むことになるのである』
準備が不十分だからできませんでしたという言い訳をしてはいけないのは、1)本当に準備が不十分ではダメ、という意味と2)十分な準備はできないのだから言っても意味がない、という二つの理由があるのである。つまり、今の不十分な自分で全力で挑まないとダメなのである。
この言葉が、自分に返ってくるのである。
不十分の私でしかない。
だけど、この不十分の私で依頼に応えていかなければならない。
急な依頼に不十分なままの私でお応えするしか無いのである。
そこでは何が出るか分からない。
でも、何かが出るようにインプットは欠かさないつもりだ。
このヒリヒリ感が生きている証だろうなあ。
♦
今日もそうして原稿に向かう。
そろそろ関西青年塾に向かう時間だ。




最近のコメント