昨日は、実に歴史的な日であった。
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『「絵に描いた餅」「二階から目薬」「猫に小判」こういうの、写真で撮ったら面白いんじゃない?』
と大学の授業で何回か言っていた。関西の行動基準は「おもろいか、おもろくないか」であるというのを聞いたことがある。
そうだとしたら、この「ことわざを写真で表す」というのは、かなりおもろいのではないかと思うのだ。
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ことわざの学習は、学習指導要領では、小学校の3、4年生行うことになっている。ことわざを知り、意味を知るにはこの頃に行うのは、適切だと私も思う。
しかし、ことわざはここで習っておしまいにするほどのものではない。奥が深い。中学や高校でも扱うべきだと思う。小学校ではことわざの意味の理解はあるだろう。しかし、いかにも人生経験が少ない。その後経験を重ねて、理解から納得へと行くあたりで、またことわざを学ぶといいと思っている。
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去年の二回生ゼミでは、京加留多48枚の全てについて、取り札作成をおこなった。全て写真にしてそれをパワーポイントのひな形に流し込んで、作った。その様子を日本デジタル教科書学会で発表し、2015年度の本学の紀要論文にまとめた。「連続型テキストの読解を、非連続型テキストの表現から導く指導に関する一考察 〜京歌留多の取り札作成を通して〜」
取り札を作るためには、ことわざの意味を十分に理解しなければできない。一枚の写真に切り出すには、そのことわざの理解と解釈が必要だ。写真作りを通して、ことわざの理解を促すという実践であった。
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本年度は、去年のものをベースにして、写真で取り札作りをし、また、5秒程度の動画も作った。この様子は今年の日本デジタル教科書学会で発表する予定だ。「連続型テキストの読解から、非連続型テキストの表現に導く指導に関する一考察 その2 ~電子ブック「京歌留多 ことわざ動画辞典」作成を通して~」ということで、電子ブックでことわざ動画辞典を作ることを視野にいれての実践を発表する予定だ。
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で、この流れと並走する形で、もう一つ「ことわざ」実証関連をやっていた。繰り返し言うが、ことわざは、誰が言ったかわからないけど、いい箴言として残っているのが「ことわざ」。事件や出来事あってそれに基づいて作られた言葉が「故事成語」。だから、「急がば回れ」は、ことわざではなく、故事成語である。
で、「急がば回れ」実証プロジェクトである。すでに、三回生ゼミのメンバーと、今年の7月18日に、陸路編を終えている。この時は、旧東海道の琵琶湖に向かう分岐点の瓢泉堂から歩き始めて、石場の常夜灯まで13キロ4時間であった。
その時の感想は、一言で言えば、
『何があっても、船がいいだろう。船が出なければ、船を待ちます』
というのが偽らざる想いであった。
そして、昨日、「急がば回れ」水路編なのであった。
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これを思いついた時、すぐに相談したのが本学の谷口先生だ。観光学の先生。優しくて頼りになる先生。そして、いつも新入生キャンプでお世話に成っているウォータースポーツ施設の「オーパル」。担当の中岡さんである。両者から快諾を得た段階で、もうすでに半分はうまくいったようなものであった。
ただ、気象条件、手続き、琵琶湖のかつての船の様子など分からないこともたくさんあったのでその確認などもして歩いた。琵琶湖博物館、大津歴史博物館、丸子船資料館などに訪れ、その疑問を確認して歩いてきた。
そして、下見をしたところ、スタート地点では「滋賀マリン」の岸さんに出会えて、駐車場のサポートや、急がば回れの歴史的な資料も拝見することができた。
そして、迎えたのが昨日であったのだ。
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4キロと少しの航路である。ゆっくり行っても2時間でと言われていたのだが、実際のところスイスイと移動できてしまって、90分程度で到着してしまった。
(え、もう到着?)
という感じで、往復できるじゃんと思えるぐらいであった。
これには理由がある。
とにかく、琵琶湖の状態がこの上なく良かった。心地よい風が吹いており、湖上は涼やかであった。それでいて、波はなく、思うようにパドルを扱うことができ、なんともいい感じであった。流されているなあと感じたのは、近江大橋のあたり。そう、そこからは瀬田川に向かって水が動いている。そこだけ少しだけ流されそうになった。あとは、何もなし。
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当時の丸子船は、昭和の半ばまで使われており、今では丸子船記念館に一艘だけ現存している。その船の構造を見たとき、逆風では前に進まないだろうことが推察された。また、オールを常備していることから、漕ぐことは大前提になったかと思われる。
歌川広重の絵を見ると、何層もの丸子船が描かれている。
絵の様子からは、いかにも快適な船旅のような気持ちがしてくる。
私たちは今回パドルで漕いで渡って行ったが、当時の旅人は船に乗っているだけ。漕がなくていい。これはさらに快適であったろうと思われる。
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たどり着いて、思ったことは
(このことわざは、季節も特定できるんじゃないかなあ)
ということ。急がば回れは、「風待ちで船が出るのを待っているよりも、急ぐなら瀬田の唐橋を回ったほうがいい」というところからきているのだが、私は、「風が吹いていないので風を待っているのだが、それなら風が吹くのを待つよりも、歩いたほうがいい」と解釈していたが、これは違うなと思ったのだ。
「風が強くて船を出せないから、風が収まるのを待っている。その収まりには時間がかかるから、遠回りでも歩いたほうがいい」というのが、急がば回れなのだろうと。で、その突風は比叡おろしと言われ、冬に吹く。または、春の嵐として吹く。
だから、この急がば回れという言葉が主に使われるのは、冬から春にかけてであろうと思われるのだ。夏と秋のシーズンなら、間違いなく船の方がいい。のんびりゆったり、琵琶湖の向こう側に雄大に聳え立つ比叡山を眺めながら、ゴールの京都への想いを馳せる方がいい。
このことを実感を持って説明できるようになった。
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ゴール後は、琵琶湖ホテルでシャワーを浴びて、ランチとなった。
琵琶湖ホテルに交渉してシャワーを有料で借りることができたのだ。そして、イタリアンレストランでランチであった。
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この結果を踏まえて考えている。
この先、どう展開するかだ。
始めた時は、殆どおもろいで始めているのだが、やりながら、これがなんの価値を持っていて、どう展開されたがっているのか、この出来事が、物事が、物語始めるのだ。
こうしてほしい、ああしてほしいとリクエストをし始めるのだ。こらがまた面白い。私は
『あー、そうですか。そうしたいのね』
などと聞き取りをしながら、整理していく。文字にすると変だが、実にそんな気持ちなのだ。
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「お父さんのお仕事、なんか遊んでばっかり」
と娘(8)は言う。
うーん、否定しきれないが、でも、これはお仕事なのよ。
日本中の子供達が、大人が
「いやあ、言葉って面白いなあ、すごいなあ」
と感じてくれるような、わくわくする学習をデザインするためのお仕事をしているよ(^^)。
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関わってくださった皆様、いろいろとありがとうございました。
次の一歩への一歩を確実に踏み出せました。
次も、よろしくお願いします。
「1+11は12!」
エレベーターを待っていた娘(6)が突然言い出した。
(なんだ?)
と思ったら
「1+10は11!」
と言う。
????
分かった。
二機あるエレベータに提示される階の階数を足しているのだ。
そして、次は
「9-2は7!」
とかやっている。
面白いなあ。
さらに、エレベーターの中にある階を表すボタン。
「3、6、9、12、15、18!」
と読んでいる。いわゆる3飛ばしだ。
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まだまだなあと思う。
娘自身は生活の中で、算数を遊んでいる。
私はそれを楽しんでいる。
算数の先生ではないが、小学校教員養成過程の先生である。
こういう遊び方をもっともっと私の身近なものにしたいなあと思う。
娘に教えられる休日である。
源実朝の歌を出すまでもなく、親は子を思う。色々な事情でそれが厳しい親もいなくはないが、多くの親はそれを思う。内田樹先生がおっしゃった「子どものためになら死ねる」「子どものためには死ねない」という不条理の中にいながら、親はこのことを思う。
教師も子どものことを理解しようと思う。中には、親以上に子どものことを理解していると思う若い教師もいるだろう。しかし、それは違うと思ったほうがいい。子どものことを思う気持ちを親と競ってもしょうがないのだ。役割が違うのだから。
親は、生まれる前から子どものことを知っている。母親の胎内に抱かれている時間から、いやその前の授かりたいと願っている時から知っている。教師が知れるのは今とその前後数年だろう。だから、そこで競っても仕方がない。
ただ、教師が親よりも子どものこと知ることがある。それは、集団の中にいる子どもの姿。特に、学校の集団の中にいるときの姿だ。これは、親にはわからない。または、とてもわかりにくい。教師はこの情報を集め、親に提供したい。
子どもは、親の前と教師の前と仲間の前では見せる顔が違う。それが当たり前。状況に応じて振る舞い方が違うのは当たり前だし、そのように育てるものだ。「お家と外では違うの」と。だから、学校の顔ができる。その顔を、親に知らせてあげるのだ。
もちろん、学校と言ったって、好みの教科かどうかで例えば、体育と算数の時の顔は違うし、活動の掃除と給食の時の顔も違う。好きであろうクラブ活動と休み時間の顔も違うだろう。
そんな色々な顔が、通信簿の所見欄に書かれてると親は嬉しいものだ。一年の締めくくりの通信簿作成の時期の先生方へのお願いだ。
娘(8)の漢字テストは150点満点。131点以上が合格。クラス全員が合格したとのこと。これは目出度い。
「あんな、で、100点満点で合格なんやで!」
と。
さて、分からない。
私もお母さんも、娘が何を言っているのかが分からない。頭を抱える。
しばらくあれこれ説明させるのだが
「だって、先生が『100点満点で合格』って言ったんだもん!」
と言って泣き出す。
『あのね。満点っていうのは、100のときもあれば、150のときもあるのは分かる?』
「分かる!」
『で、漢字テストは131点以上が合格なんだよね?』
「せやで!」
『漢字テストは150点満点で、131点以上で合格だよね?』
「だから、そうだって!」
『なら100点満点で合格っておかしいでしょ?』
「だって、先生が『100点満点で合格』って言ったんだもん!」
とループ。
「もういい!」
と泣き出すので、
『良い訳ないだろ。スッキリしない。紙に書いてやり直すぞ』
と泣いている娘に紙に書きながら確認。
娘は、先生の話は良く聞いている方だ。だから、先生が言い間違えたか、何か勘違いしているかだと思われた。また、算数はあまり得意ではないので、満点という単位当たりの数のところで躓いているのかもしれないと思って、紙に書いて確認した。
◆
問題はあっさり解決した。
以下に、答えがある。
答えを見たくない方は、ここでストップして考えて下され。
◆
考え中考え中考え中考え中考え中考え中考え中考え中
◆
何があったかと言えば、先生が「100点満点で合格」と言ったのは、漢字テストのことではなく、クラス全員が合格できたので、100点満点といういうことであった。
はああああああああああ。
先生、気持ちは分かりますが、我が家はかなり混乱しましたf(^^;。
9/24
今日の一回生ゼミで、なかなかいい仮説が学生たちから出た。
仮説を出すことが、教育実践のスタートだと考えている私はとても嬉しい。
娘(7)が解いている問題を元に子どもの発想を考えてみようと言う課題にてである。
Q
太郎君は5匹カブトムシを捕まえました。そのうちオスは3匹でした。メスは何匹でしょうか。式をたてて答えましょう。
この問題に対して、娘は
5+3=2
と答えた。
ちなみに、娘は5−3=2というのを知っており、5+3=8というのも知っている。しかし、この場合は、5+3=2だと主張するのだ。
さて、これはどうしてだろうか?
というのが私の発問である。
◆
学生たちは、
・ーというのを書こうとして、ついうっかりもう一本書いてしまい、+にしてしまった。
・オスが三匹くっついて、三組のカップルが出来て、2匹残ったからこう書いた。
などの仮説を出していた。
これもなかなか面白かったが、私が面白いなあと思ったのは、
・「たてて」とあるので、棒をもう一本立ててしまって、ーが+になってしまった。
・「たてて」というのは、足し算のイメージのする言葉なので、+と書いてしまった。
というものである。
特に、足し算のイメージのする言葉なのでと言うのはあると思う。
◆
言葉の意味より、言葉が持っているイメージに引っ張られてしまうという言い方でいいだろうか、そんな感じである。そして、その引っ張られ方はその一人一人の子どもによって違うだろうなあとも思う。
(バカだな、この子は。こんなことも分からないの?)
と思ってしまうだろう。通常の先生であれば。
だけど、
(え、なんでこう思ったんだろう?!)
と興味を持ってその子どものことを見ると、不思議な世界と思っていた子どもの世界は、実は非常に論理的であることがわかることがある。子どもの論理ではそうなっているということがある。それが分かると、子どもが愛おしくなる。
『それが分かる先生になるには、先生の側に相当の実力が無いとダメだと言うことは、分かりますか?』
学生たちは深く首肯く。
『その力を身につけて行くのが大学の授業で、このゼミはその大学の授業の受け方を身につける為のゼミです』
と話す。
これから半年間、あれこれやる。
◆
ちなみに、うちの娘は
「そのうち」が、「晩秋の夜の冷たい雨は、そのうち、雪にかわるでしょう」の「そのうち」の意味と理解しており、ここで求められる「その中で」とは理解していない。時間の経過の「そのうち」と理解していたので、+を書いたというのが後から分かった。
私は
「天才!」
と娘を褒めた。
親バカである。
畑正憲さんが書いた文章に
「夏のボーナスは、全て夏に家族で遊ぶ為に使いきっていた。貯蓄なんて考えなかった」
とあったのを覚えている。
仕事を得て、ボーナスを貰えるようになってからこれをやろうと思った。
全部使い切るのだ。
しかし、そんなことは中々できることではない。
できることではないが、その哲学は大事にしたい。
◆
今年もいつものホテルに行って来た。
娘(6)の誕生日を御祝いすると言うことでかれこれ5年ぐらい通っているホテルだ。
フロントに到着した途端
「池田様、お久しぶりです!」
「ああ、大きくなりましたね!」
と娘のことをあれこれホテルの方から言われた。
故郷が無ければ、故郷を自分で作ってしまえば良い。
これも畑正憲さんの言葉だ。
関西に来て、関東とは違う土地の中で
娘にプレゼントできるのはこういう第二の故郷だと思う。
◆
「夏の終わりに、娘さんにお会いしないと、夏が終わらない気がします」
なんて凄いリップサービスを頂く。
で、毎年思う。
(ここから夏の始まりだったらなあ)
(一週間、ここにいられたらなあ)
と。
で、今年はこうも思った。
(ここで明日の教室やりたいなあ)
と。
考えてみたら、そろそろ明日の教室は8年目かな?
10年目には豪華にこういうところでやってもいいのかなあ(^^)。
◆
今日のプールは娘と二人の貸し切りだった。
「お父さん、ずっとここにいたいね」
私もそう思うよ(^^)。
でも、一瞬でもこの時間があることが嬉しいんだよね。
生まれて来てくれてありがとう。
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